多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:フランス

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    フランス大統領選挙決選投票の結果、エマニュエル・マクロン氏が66.1%、
    マリーヌ・ルペン氏が33.9%で39歳のマクロン氏がフランス史上最も若い
    大統領として当選した。

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    マクロン氏はパリのルーブル美術館の中庭に集まった支持者を前に演説し、
    『選挙を通じて怒りや不安を表明したすべての国民の声を尊重して行く』と述べ、
    経済の立て直しや社会の格差の解消に取り組む姿勢を強調した上で、『世界は
    フランスが自由を守ることを期待している。 EUを立て直すために大きな役割を
    果たさなければならない』と述べ、EUとの関係を強化して行く考えを示した。

    しかし、選挙で敗北したルペン氏も極右政党の候補としてはこれまでで最も多い
    票を獲得し、EUや移民政策に対する国民の強い不満を反映した形となった。
    また、労働者や若者の間では、マクロン氏が現在のオランド政権の経済相として
    自由競争を推進して来たことに不信感が根強く、7日から8日にかけてパリなど
    少なくとも8つの都市でマクロン氏に抗議するデモが行われ、一部が警察と衝突
    する事態にも発展した。

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    マクロン氏は今月中旬に新大統領に就任する予定だが、激しい選挙戦を通じて
    分断が広がった国民の融和をいかに進めるかが大きな課題となる。 一方、
    ルペン氏は『フランスが直面する多くの課題を前にマクロン氏が成功することを
    祈っている』と述べ、敗北を認めた。

    EUとの関係を重視するマクロン氏の勝利したことで、市場ではEUがさらに混乱
    する事態は避けられたという受け止めが広がっている。 また、多様な社会の実現や
    国際協調を掲げるマクロン氏がフランスの大統領になることで、アメリカのトランプ
    政権の発足などを受け、世界に広がる自国の利益を優先する動きにも歯止めを掛ける
    ことになるのか注目されている。

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    一方で、ルペン氏も国民戦線の候補としては、これまでで最も多い1千万を超える
    票を獲得して、フランス国内で高まるEU統合や移民の受け入れへの国民の不満を
    反映した形となり、マクロン氏は大統領として、こうした不満を解消して行けるか
    どうかが問われることとなる。

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    一方、マクロン氏が妻に選んだのは、元高校教師の女性ブリジット・マクロンさん。
    しかも、彼女は現在64歳で、マクロン氏とは実に25歳の年齢差がある。 その
    馴れ初めは、マクロン氏が15歳の頃まで遡る。 高校教師をしていたブリジット
    さんに猛烈アタックをし、17歳の時にプロポーズ。 両親から反対され、パリの
    学校に転校までさせられているが、結局、18歳の時に交際をスタート。 ブリジット
    さんが離婚してから、2007年に見事ゴールイン。 マクロン氏は当時29歳だった。

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    カタルーニャ語は、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などと同じく
    ロマンス語の1つで、その地理的位置を反映して、スペイン語とフランス語の
    中間的な特徴を少なからず持っている。 まず、発音は、スペイン語、
    フランス語の母音がそれぞれ5つ、16であるのに対し、カタルーニャ語の
    母音は8つとなっている。 スペイン語と違い、曖昧母音 ə もあるが、
    フランス語のような鼻母音はない。

    語彙では、『食べる』は comer(西)、menjar(カ)、manger(仏)となるが、
    『ビール』は、cerveza(西)、cervesa(カ)、bière(仏)となり、単語によって
    西仏どちらかに似ていることが分かる。 文法に関しても同じで、英語のbe動詞に
    あたるものは、スペイン語ではser と estar の2つがあり、フランス語では être
    1つとなる。 スペイン語には見られない副詞的代名詞の hi、en があるのは、
    フランス語に似ている。

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    もちろん、カタルーニャ語独自の特徴もあり、スペイン語ともフランス語とも
    異なり、カタルーニャ語は anar (行く)+不定詞で過去を表す。 このように
    全体的には、お互いに近い関係にある3言語だが、それぞれの話者が初めて
    出会って、自分達の言葉で話すと、ほとんど理解出来ないが、書けば理解度が
    増す。

    また、カタルーニャ語は隣接する大言語、スペイン語からの言語的干渉に常に
    さらされている。 例えば、スペイン語で義務を表す tener(持つ)+que
    (接続詞)という表現の影響で、本来カタルーニャ語にはない tenir+que+
    不定詞という表現を使う人が少なくない。 このような例は、他にも少なくない。



    【カタルーニャ語の今】
    カタルーニャ語の言語人口は、約600万人で、デンマーク語、フィンランド語などを
    上回っている。 カタルーニャ語の使用能力となると、それぞれの地域の歴史的
    背景、政治・社会的現状により異なる。 バルセロナを中心とするカタルーニャ
    自治州、マリョルカ島などのバレアレス諸島、アンドラでは高く、フランスや
    イタリアに含まれる地域ではかなり低いと言える。

    例えば、カタルーニャ自治州の場合、2003年の時点でカタルーニャ語を聞いて
    理解出来る人は住民の97.4%、話すことが出来る人は84.7%、読むことが出来る
    人は90.5%、書くことが出来る人は62.3%であった。 フランス領北カタルーニャ
    では、2004年の時点でそれぞれ65.3%、37.1%、31.4%、10.6%となっている。

    現存する最古のカタルーニャ語の文章は、11世紀のウルガニャー説教集で、その後、
    中世に哲学者ラモン・リュイなどが出るに至って、文学語として確立された。
    方言としては、大きく東部方言と西武方言に分けられる。 現在の標準
    カタルーニャ語は、東部方言の中の中央方言(バルセロナ周辺の方言)に基づいて
    定められている。

    カタルーニャ語は長い歴史の中で、何度も存亡の危機を経験したが、中でも最大の
    危機はスペイン内戦(1936-39)後に成立したフランコ独裁政権による弾圧だった。
     しかし、それも何とかしのぎ、フランコ体制後に制定された現行の民主的憲法
    (1978年制定)とカタルーニャの自治憲章に基づき、現在カタルーニャ語は、
    スペイン語と共に自治州の公用語とされている。



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    フランス語は、ラテン語から形成された言語で、大部分の常用語は、撥音的に
    2音節だが、音韻変化の過程で、ラテン語の音頭音節とアクセント音節のみが
    残ったため、こうなったと言われている。 しかし、新しい概念を言い表す
    ことが必要となる場合には、そのつど、ラテン語に適当な語を求め。、語尾だけを
    フランス語風に単純化して、多音節語を作る。 こうした、2音節以下の短い
    常用語と数音節からなる長めの専門用語という語彙の多様性が、フランス語に
    豊かな表現力を与えている。

    また、フランス語は美しい響きを持つ言葉としても有名。 その秘密は、単語
    それ自体が固有のアクセントを持たない点に求められる。 フランス語は通常、
    リズム・グループといって、意味的なまとまりを持った数語(通常5~6音節、
    長くても8音節を超えない)を一息に発音するが、アクセントは、その最後の
    音節に落ちる。 適度な単調さとそれを被るアクセントとの組み合わせが、
    フランス語に落ち着きと絶妙のリズムを与えている。

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    更に、独特の響きを持つ母音の働きがある。 例えば、鼻母音は、母音の後に
    鼻子音nが続く場合には、そのnを発音せずに、代わりに母音の呼気の一部を鼻腔に
    送って発音する。 現在フランス語には[ɑ̃][ɔ̃][ɛ̃][œ̃]の4つの鼻母音がありますが、
    それぞれの母音の鼻腔における共鳴音がnという子音に取って代わった訳で、
    これが深くて柔らかい響きをフランス語に与えている。 また、脱落音の
    eといって、アクセントを受けない位置にある母音はeは、多く無強勢音に弱まり、
    かつ、リズム・グループの中では、消失する。 これもまた、フランス語に
    軽やかな響きを与えることに大きく関わっている。



    【フランス語の今】
    グローバリゼーションの進行する現在、フランスにいやおうなく英語が押し寄せて
    いる。 しかし、英語をフランス語に言い換え、自分達の言葉の純粋性を保とうと
    する努力が官民を問わずに払われている。 ある統計によれば、高級紙
    ル・モンドには、165語に1語の割合でしか外来語が混じっていない。 脱落性の
    eが頻繁に省略されて、耳障りな子音の連続が増えたが、4つの鼻母音の区別が
    あいまって、 [ɑ̃]と[ɔ̃]の中間の鼻母音ひとつで済まされる傾向が現れている。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となって
    いたマリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの
    戦争が始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討ち
    破った。 1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。
    この新しい帝国は、現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、
    東南ヨーロッパの諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になって
    いた神聖ローマ帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、
    イギリス、ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年
    オーストリアに侵入して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと
    結婚させた。 だが1812年、ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、
    再度同盟を結んで、ナポレオンと戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利を
    おさめ、ウィーン会議を開いてヨーロッパ各国の国境を定めた。

    この会議でオーストリアはヨーロッパの中心および、東部での支配権を確立した。
    独立の領邦だったザルツブルク大司教管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国も
    オーストリアの領域となった。 神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主
    とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】
    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・
    メツテニッヒは、その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク
    王朝を維持するため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、
    ハプスブルク政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、
    メルテニッヒは辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、
    ハプスブルク家に忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。
    12月、ハプスブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、
    その甥のフランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    経済活動が拡大するにつれて、同盟内の社会的対立が増大し、表面に現れて
    来た。 ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンでは、小作人たちが移住して来て
    人口が増え、社会は極めて不安定な状態となった。

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    富裕な支配層が、新たに増えた自由市民の権利を認めなかったため、市民は
    参政権を与えなければ税金を払わないと抵抗した。 それと同時に、カトリックと
    プロテスタントの間でも、時折、小競り合いが生じていた。 1798年にフランスで
    革命が起こり、その影響は全ヨーロッパに及んだが、特にスイスの受けた影響は
    大きかった。 革命の後、司令官ナポレオンが率いるフランス軍は、スイスを
    侵略する。 ナポレオンは州の自治体制を廃止して、新しい中央政府を樹立させ、
    スイスをヘルベチア共和国と名付けた。

    フランスが制定した新しいスイス憲法によって、諸侯は、権力を失った。 更に、
    それまで都市諸州を支配していた封建商人の権力も弱まった。 スイス人は、
    新憲法を支持したが、フランスによる占領には強く反対した。

    フランスによって樹立された中央政権的な政府は、民族も宗教も文化も州に
    よって大いに異なるスイスの国情に合わず、すぐに混乱をきたした。

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    混乱をおさめるため、1803年にナポレオンは、各州の代表をパリに集めて、
    調停条約を結ばせ、憲法を改正させた。 この条約に基づいて、各州に自治権を
    認める連邦制が出来上がった。 連邦政府は、外交や軍事、通貨を定め、戦いと
    和平を司った。

    この時、新たに6州に自治権が与えられ、合計19州からなる連邦制が成立した。
    また、条約は、市民は法の前で平等に取り扱われなくてはならないと規定した。
    これによって、スイスの封建制度は、永久に終わりを告げたのである。

    このようにな改革を実現してくれたことへのお返しとして、スイスは、自国の
    兵士をフランス軍に提供することに同意した。 だが、1815年に、ナポレオンが
    ヨーロッパ連合軍に敗北して統率力がなくなると、スイス新憲法は、たちまち
    効力を失った。

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    スペイン自治州のひとつであるバスクは、フランスとの国境ピレネー山脈の
    西側に位置し、北は大西洋ビスケー湾に面している州である。 一般にバスクと
    呼ばれる地域は、現存する他の言語と明確な関係性を持たない、いわゆる孤立した
    言語とされるバスク語を話し、かつ固有な文化を持つ民族が住んでいるという
    意味で、スペイン自治州だけではなく、国境を挟んだフランス側を含めて指す。

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    バスク人は、ヨーロッパ言語やインド言語を話す民族がヨーロッパ大陸に進出
    する以前から 、この地方に住んでいた。 ことに民族衣装の一部として使われ、
    第二次世界大戦頃からは、軍部に普及し、今では、世界各国の軍隊において広く
    用いられるようになったベレー帽は、このバスクが発祥の地である。

    19世紀の産業革命以降、この地で産出される鉄鉱石により、バスク地方の
    ビルバオは早い時期から重工業地帯として発展した。 これは、同時に雇用の
    拡大を促したが、バスク人以外の民族が大量に流入することで、バスク固有の
    文化や伝統が破壊されることを恐れるバスク人の民族運動に火を付けること
    にもなった。

    固有の言語、固有の文化を持って来たバスクに自治政府が生まれたのは、1936年に
    起こったスペイン内乱が切っ掛けだった。 だが、ナチス、ドイツ、イタリアに
    支持されたフランコを指導者とする反乱軍に破れ、自治権獲得どころか、地方議会
    第一党だった穏健政党の国民党の解体、更には、バスク語までもが禁止されるなど、
    厳しい弾圧を受けた。

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    斧にとぐろを巻くへびをシンボルにしたバスク分離独立派の組織ETA(バスク
    祖国と自由)は、1959年にこのような弾圧の中から生まれた。 彼らは、バスク
    国民党から分かれた武装過激派組織で、スペインやフランスからの分離独立を
    目的とする。 1973年には、マドリードで、フランコの継承者であり、当時の
    首相だったルイス・カレロ・ブランコの車を爆破し殺害するなど、テロ組織
    として成長を始めた。 以来彼らは、分離独立に反対する政府関係者や軍、
    警察関係者、ジャーナリスト、知識人などへのテロ行為はやむを得ないとした。

    ETAの資金源は、誘拐、強盗、ゆすり、武器取引、それに、強制的な税の徴収
    である。 特に、『革命税』は、有名人や企業、商店から徴収するもので、
    従わない企業には、爆破テロや社員誘拐で対抗するなど、相当荒っぽいものと
    なっている。 1960年代からこれまで標的とされ、殺害された人は、800人を超す。

    独特の文化を背景にバスクの独立を求める動きに対する同情や理解は、フランコ
    独裁が続いた1975年頃まではあった。 しかし、それ以降は、無差別テロを繰り
    返すETAに対して反対デモが全土に広がった。 孤立化したETAは、1998年には、
    一旦無期限停戦を宣言したものの、翌1999年には、一方的にこれを破棄、政治家、
    軍人、ジャーナリストなどを標的にしたテロ活動を再開して、40人以上を殺害した。

    21世紀に入っても、2006年には、マドリードのバラハス国際空港での爆破テロ
    事件、2007年には、フランスで、スペイン治安部隊員を射殺、2009年には、
    マジョルカ島で車を爆発させ、警備隊員2人を死亡させるなどの事件を起こして
    いる。

    2010年9月、ETAはビデオで声明を出し、武装闘争の停止を決めたと発表した。
    声明によると、スペイン政府と和平交渉再開の用意があると述べたとされる。
    スペイン政府の当局者は、事態打開への一歩前進だが、恒久的な武装解除が示されて
    いないとして、慎重な姿勢を崩さないという。 ETAがテロ活動に完全に終止符を
    打つのは難しいだろうという懐疑的な意見がまだ多い。

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    2005年、フランスで起こった移民系の若者を中心とした暴動は、警察に追われた
    若者2人が変電所に入り込んで感電死した事件が切っ掛けだった。 暴動は、
    フランス全土に広がり、死者が出るに及んで政府は、非常事態宣言を出したが、
    暴動が終息する気配はなかった。

    長い間、フランスは、移民や外国人を受け入れて来た国だった。 その理由は、
    ヨーロッパ中央に位置する地理的条件や、産業革命後の経済成長にある。 最初は、
    スペインやイタリアからの移民だったが、20世紀中頃からは、アルジェリア、
    モロッコ、チュニジアなど、かつてフランスが植民地としてきた来たアフリカ
    諸国を始め、中東、アジアからの移住が本格化した。

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    背景には、第二次世界大戦で多数の戦死者を出し、人口が大きく減少したことや、
    戦後は自動車や建設業など、フランスの高度成長を押し上げた業界の労働力不足
    があった。 政府は、経済効率を優先させる政策を採り、移住して来た彼らに
    対しては、ほぼ無制限に滞在と労働の許可を与え、不法侵入者の取り締まりも
    あまいものだった。

    オイルショック後の1974年、当時のジスカール・デスタン政権は突如、就労
    目的の移民受け入れ停止を決定する。 その背景には、低賃金など過酷な労働
    条件や劣悪な環境の地域の形成、それに移民たちの労働争議が新たな社会、経済、
    政治的問題に発展することを恐れたことがあると言われている。

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    1976年には、『帰国奨励政策』が行われたが、これは、帰国を望む移民たちに
    1万フラン(約20万円)を支給することで、本国への帰国を促すものだった。
    1981年、ミッテラン大統領の誕生で、既に入国している移民については一層の
    権利の確立が保障されたが、その後の議会で、右派が過半数を占めると、権利の
    縮小や、1993年には改定移民法、国籍法修正案によって、入国も滞在した場合の
    保護も大幅に制限された。 また、1997年の移民法は、滞在許可証の更新を
    認めないという、更に厳しいものとなった。

    21世紀初頭、世界を襲った経済成長の鈍化や同時不況は、フランスでは、
    移民たちとフランス人との間で新たな摩擦を生むことになった。 移民の多くは、
    3K(きつい、汚い、危険)と呼ばれる職場で、しかも、低賃金の仕事しか
    貰えない。 にも関わらず、移民達が自分達の仕事を奪っていると考える
    フランスの若者達は、彼らの排斥に向かう。 こうした風潮の高まりが、大きな
    社会問題となって来ている。

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    アジアインフラ投資銀行とは、アジア向けの国際開発金融機関であり、中華人民
    共和国が提唱し、主導する形で、2015年12月25日に発足し、2016年1月16日に
    開業式典を行った。 日本は最終的に参加を見送ったが、イギリスは中国の
    投資銀行に真っ先に参加表明し、フランスは中国への技術輸出に熱心に参加
    している。 EU内でも、特に中国に対する中国への肩入れが凄いのがドイツで、
    先日はメルケル首相自らが訪日し、日本もこの投資銀行に参加するよう働きかけた。
    世界57か国が、中国主導のアジアインフラ投資銀行への参加を決めたが、その中
    には、オーストラリア、イスラエル、韓国のような、伝統的親米国家、
    同盟国もいた。

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    一方のアジア開発銀行は、現在67か国が参加しており、アメリカと日本が
    中心となって1966年に発足したもの。  中国主導のアジアインフラ投資銀行の
    登場により、大打撃を受けたが、特に、アメリカにとって予想外だったのは、
    イギリスとドイツをはじめとする、欧州の裏切りである。

    まず、先頭を切ってアメリカを裏切ったのは、アメリカと特別な関係にある
    はずのイギリスであり、そして、フランス、ドイツがこれに続いた。 特に
    ドイツの裏切りは、アメリカにとっては、非常に深刻で、経済力で見ると、EUは、
    世界の約23%のGDP比を占めており、アメリカのGDP比22%を若干上回っている。

    EUは、現在28か国の加盟国がおり、アメリカよりも上で当然だという自負が
    あるため、あえて、中国側に付いたとも言える。 ともあれ、ドイツを中心と
    するEUのアジアインフラ投資銀行への参加は、アメリカにとってはかなり手痛い。
    アメリカにとっては、世界の中心が、アメリカから中国へと移りつつある現実を
    突き付けられた形となった。 

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    ドイツがアメリカを裏切った理由としては、元々が嫌米国家であるため、好んで
    中国側に付いたというよりも、アメリカを避けたと言った方が分かりやすいかも
    知れない。

    ドイツ語圏で『アメリカが好き』と言っている人間は、かなり稀だが、ドイツ人は、
    非常に合理的であるため、中国がダメだと分かったら、今後バッサリ切り捨てる
    ものと思われる。 ドイツ人も元々中国は余り好きではないが、とりあえず、
    アメリカよりはましという程度の判断なのであろう。

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    第三回分割後、ポーランドの軍人や政治家が多数フランスに移住した。
    フランスは、当時革命の最中であり、ポーランドの軍人たちは、フランスで
    戦闘部隊を結成して、祖国を解放しようと考えた。 これらの部隊は、
    フランス軍と協力して、オーストリアやプロイセンと戦った。

    1807年、プロイセンに勝ったフランス皇帝ナポレオンは、プロイセンに併合
    されていた元のポーランドの一部に、ワルシャワ大公国を創設した。 1812年、
    オーストリアに併合されていた領土の一部も、大公国領域に加えられた。

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    1815年、ナポレオンが没落すると、ワルシャワ大公国は解体された。
    その領土は、プロイセンとオーストリアに返還され、代わりに、ロシアの
    支配下に小さなポーランド王国が創設された。 ロシア皇帝がポーランド王を
    兼ね、王国は新憲法を制定して、産業と教育を振興させた。 しかし、
    ポーランド国民は、完全な独立を望んだ。

    1830年、反乱が起こると、ロシア皇帝は、ポーランド東部をロシア帝国に
    併合した。 ポーランドの憲法と国会は廃止され、経済はロシアに支配された。
    1860年代までに、ポーランド地域での行政と教育に使われる言語は、
    ポーランド語ではなく、ロシア語にされてしまった。 

    ポーランド西部での外国支配は、それ以上に厳しかった。 ドイツ人は、
    ポーランド西部に近代的な鉄道網の建設はしたものの、1870年代になると、
    プロイセンの首相になったビスマルクは、領内に存在するポーランド文化を
    抹殺しようとした。 カトリック系の学校は、閉鎖され、教会の活動は、
    制限された。 ポモルゼやシロンスクに住むポーランド人たちは、ドイツ語の
    使用を強制された。

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    ポーランド人たちは、自分たちの民族性を維持しようと懸命に努めた。
    ロシアの統治に対する激しい反乱は、多くのヨーロッパの指導者たちの間で
    同情を掻き立て、また、ポーランド人たちの愛国心を燃え立たせた。
    ポーランド人の作家、画家、音楽家たちは、消滅した祖国の栄光を讃え、
    ポーランドの民族的伝統を保存して、祖国の文化を活性化させた。

    20世紀初頭、ヨーロッパ諸国は、2つの強力な同盟を結んで、大陸の力の均衡を
    図った。 イギリスは、フランスやロシアと同盟して、ドイツ、オーストリア、
    トルコと対抗した。 ポーランド人の多くは、さまざまな新しい政党に入って、
    それぞれの支持の下に独立を達成しようとした。 政治家ロマン・ドゥモフスキの
    率いる民族民主党は、ロシアと連帯関係を結んだ。 ポーランド社会党と
    その指導者ヨゼフ・ピウスツキは、オーストリアと協力関係を結んだ。

    1914年夏、第一次世界大戦が勃発した。 ポーランドは、オーストリア、ドイツ、
    ロシア各国の軍隊の戦場となった。 敗北を重ねたロシアは、1918年3月、
    ドイツと講和条約を結んだ。 しかし、同じ年の9月、ドイツとオーストリアは
    降伏し、第一次世界大戦は終わった。

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    アンジュー朝のヘンリーは、、ヘンリー2世としてアンジュー朝の初代王となる。
    この王朝の紋章は、エニシダの小枝で、フランス語では、プランタジネットと言う。
    アンジュー朝の人々は、 プランタジネットという苗字を良く使い、アンジュー
    朝は、プランタジネット朝とも呼ばれた。

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    この王朝は、イングランドとフランスに領地があったため、イングランドの
    対ヨーロッパ貿易は、飛躍的に伸びた。 イングランド産のウールは、良質で
    輸出に向き、やがてイングランドは毛織物の産地としてヨーロッパ中で有名に
    なった。 イングランド庶民の大部分は、裕福な貴族の農地で働いてた。
    この農奴と呼ばれる人々は、土地を持っていないため、土地所有者である
    貴族への奉仕から逃れることは、奴隷のように不可能に近かった。 農奴に
    比べ、職人や商人は、個人の自由はあったが、職業に関する厳しい規則があり、
    働く場所や方法を規制されることが多かった。

    プランタジネット朝歴代の王の統治で、イングランドの政情はある程度安定
    したが、対立がないとは言えなかった。 ヘンリー2世は、法制改革を行おう
    としてローマ教会と争った。 イングランドのカンタベリー大司祭トマス・
    ベケットは、教会の権利擁護のため、王と戦った。 王に反対し続けたため、
    ベケットは、1170年、カンタベリー寺院内で暗殺された。 ヘンリー2世は、
    大司教殺害の責任を取って公衆の前で懺悔した。

    ヘンリー2世の息子ジョン王は、多くの封建領主と争った。 この領主たちは、
    ジョン王の政治は不公平で非能率的だと考え、両者の抗争の結果、1215年、
    マグナ・カルタ(大憲章)が生まれた。 この憲章は、領主たちがジョン王に
    認めさせた特許状である。

    この憲章は、善政を行うのに大切だと考えられる権利を明確化した。 権利には
    不法課税の阻止、王権からの教会の自由などが含まれ、マグナ・カルタは、
    イギリス憲法の礎ともなった。 ジョン王の息子ヘンリー3世も、シモン・ドゥ・
    モンフォールらを中心とした領主たちの抵抗にあう。 この結果、領主たちが
    勝利し、王権の制限を勝ち取った。 ヘンリー3世は、短期間、続くエドワード
    1世は、定期的に、議会に助言をあおいで王政を行った。

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    【七月革命二月革命から帝政へ】

    ナポレオンが追放されると、ブルボン朝のルイ18世が王位に就き、立憲君主国
    としてスタートした。 しかし、次のシャルル10世が議会を解散すると、1830年に
    七月革命が起こった。 オルレアン家のルイ・フィリップが王位に就くが、やがて
    中小の市民層が支持する共和派や、社会主義派が力を伸ばし、1848年に二月革命を
    起こした。

    ここに再び共和制が成立するが、1852年にナポレオン3世が帝位に就いた。 産業
    革命や鉄道建設を進め、スエズ運河の建設、パリの都市改造等にも着手した。
    外国にも、クリミア戦争への参加、インドネシアへの進出、メキシコ遠征等を
    進めるが、1871年にプロイセンとの戦いに敗れ、帝政は崩壊した。

    19世紀後半、フランスの文化はさまざまなジャンルで花開いた。 モネやセザンヌ、
    ルノアールらの画家が相次いで登場し、パリは芸術と流行の中心として発展した。
    それに合わせて、パリでは、万国博覧会が開かれ、世界の注目を集めた。

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    【2つの世界大戦】
    19世紀末から、ドイツとの緊張が高まった。 フランスは、ロシアやイギリスと
    手を結び、ドイツを中心とした三国同盟に対抗した。 1914年に第一次世界大戦が
    始まると、フランスは戦場となり、1918年までに140万人もの死者を出した。
    1939年に第二次世界対戦が始まると、ナチス・ドイツ軍は1940年にパリを占領
    した。

    これに対抗して、ド・ゴール将軍は、ロンドンに亡命政権を起こし、国内では
    レジスタンスによる抵抗運動が続けられた。 1944年にレジスタンスは反撃に
    転じ、パリを開放した。

    戦後は海外植民地で独立運動が高まった。 1954年にベトナムの独立を認めたが、
    アルジェリアでは1958年に反乱が起こった。 この危機に大統領に選ばれたド・
    ゴールは、アルジェリアの独立を国民投票で決め、フランスの工業化を進めると
    共に、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させる等、独自の路線を展開した。

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    経済成長期に北アフリカから多くの移民を受け入れたフランスでは、1980年代から
    移民を巡る問題が起こっている。 2005年には中東やアフリカ系移民による暴動が
    起こり、政府は非常事態宣言を出した。 移民対して開かれた国でいられるか、
    注目されている。

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    【百年戦争とユグノー戦争】
    1328年にカペー朝が絶えると、バロア朝が起こった。 これに対して、
    カペー朝の血を引くイギリス国王エドワード3世が、王位継承を主張して、
    1339年にフランスに攻め入った。 これが百年戦争の始まりである。 1429年、
    ジャンヌ・ダルクが現れてイギリスの支配下にあったオルレアンを解放。
    これに力を得たフランス軍は、1453年にイギリス軍を破り、百年戦争は終わりを
    告げた。

    15世紀末からフランスは、イタリアに何度か侵入し、領土を広げると共に、
    イタリアのルネッサンス文化を移入した。 一方、16世紀中頃、フランスには
    キリスト教プロテスタントのカルバン派(ユグノー)が広まり、カトリック教徒
    との間で国を二分するユグノー戦争(1562年~1598年)が起こった。 やがて、
    優勢となったアンリ・ド・ナバルが、カトリックに改宗しアンリ4世として
    ブルボン朝を開いた。

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    【絶対主義王政の確立とフランス革命】
    アンリ4世の後、ルイ13世とルイ14世の時代に、中央集権化が進み、絶対王政の
    最盛期を迎えた。 ルイ14世は、外国との貿易を進め(重商主義)、強力な
    常備軍を整え、フランスの国力を高めた。 18世紀後半には、教会や絶対王政を
    批判するボルテールや、法のあり方を論じたモンテスキューら啓蒙思想家が現れ、
    社会体制を批判した。

    ルイ16世の時代に、財政危機や凶作等から民衆の不満が高まり、1789年、王政が
    廃止され、共和制が成立した。 しかし、政局が安定しない中、1799年、
    ナポレオンがクーデターを起こし、1804年に皇帝となった。 ナポレオン1世は、
    強力な軍事力を元に、ヨーロッパ各地に遠征した。 しかし、1812年のモスクワ
    遠征に失敗したのを切っ掛けに、エルバ島に流された。 1815年には、再び軍を
    起こすが、イギリス軍に敗れて、セントヘレナ島へ流された。

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