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    タグ:フランス軍

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    19世紀前半にはイングランドは、経済の重点を農業から商工業へ移していた。
    ロンドンのイングランド銀行は、金融の国際的中心となり、イングランドの
    投資家達は、6大陸の事業に資金を提供した。 こうした変化と共に、
    イングランドの社会は階層化し、上流、中流、下層と厳密に分かれるように
    なった。

    この間にイギリスは、自国の市場や海上の通商航路支配権を守るため、
    ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍と戦った。 1805年、スペインに
    近いトラファルガー岬沖で、またベルギーのウォータールーでフランス軍を破り、
    世界最強国としての地位を確立した。

    イングランドの繁栄は上、中流階級には利益をもたらしたが、大多数の下層の
    人々の生活は貧しかった。 工業の労働条件や都市の生活条件は劣悪で、
    賃金も低く、労働者は教育を受けることはまずなく、選挙権もなく、生活は
    苦しく、不潔であった。 健康管理も不十分で、幼い子供が危険な労働環境の
    下で長時間、働かされることも良くあった。

    1830年代に議会がこれらの問題に関心を寄せ、工場の労働条件を規制し、
    児童の労働問題を制限する法律を制定した。 労働組合が法的に認められ、
    選挙権が中流階級の男子まで広げられた。 不公平な刑罰を廃止するため、
    議会は古い法制度を改革し、また、全てのイギリス植民地での奴隷制度を
    不法とした。

    議会そのものも改革された。 以前は広大な土地を所有する家柄の者だけが
    議会を占めていた。 それが、1832年に選挙法改正法案が議会を通過すると、
    人口が増加しているにも関わらず、代表者を送ることが出来なかった、リーズ、
    バーミンガム、マンチェスター等の大都市が、議席を確保出来るようになった。
    過疎化した地域は、代表を送る権利をなくした。

    gokhiterad


    【ビクトリア朝時代】
    産業革命は、ビクトリア女王(1837年即位)の時代に最高潮になった。
    議会は、産業を奨励した。 当時のイギリス帝国の植民地は、インド、
    オーストラリア、ニュージーランド、カナダとアメリカ、アジア、カリブ
    諸島のある地域だった。 しかし、この頃のイングランドの発達は偏っていた。
    鉱山は世界全体の鉄の2分の1を産出したが、食糧不足は深刻だった。
    イングランドの貿易額は、他の国々全てを合わせた貿易量をしのいでいたが、
    労働者は選挙権もなかった。 このような状況が、更に新しい改革の波を
    呼び起こした。

    公衆衛生法が成立して労働者の悲惨な生活はある程度改善した。 政治の
    変革で、旧ホイッグ党とトーリー党が、それぞれ自由党と保守党に生まれ
    変わった。 ウィリアム・グラッドストンが自由党、ベンジャミン・
    ディズレイリが保守党の党首となった。

    london43

    二人は1868年~1885年の間内閣総理大臣の地位を交代し合い、選挙権を
    労働者に広げる法や、国民教育制度を確立する法の成立につくした。
    続く党首達も改革に努力し、退職者、病人や失業者に財産的援助を与える
    法律を制定した。

    やがて、これらの改革を通して、労働者の利益を代表する労働党が結成された。
    これでイギリス社会の全ての階級が、何らかの政治力を持つことになった。
    国際舞台では、イギリスは、自国の通商、軍事両面の支配権を利用して、
    ヨーロッパの重要事態の方向を決定した。 また、複雑な軍事同盟を結んで、
    19世紀後半の主な戦争に巻き込まれるのを避けた。

    【お勧めの一冊】




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    1812年にナポレオン軍がロシアに侵入した。 フランス軍を中核とした
    欧州諸国の兵士を合わせて約60万人の大軍団が目指したのは、ペテルブルグ
    ではなく、モスクワだった。 モスクワこそがロシアの心臓であるという
    ナポレオンの考えだったに違いない。 迎え撃つロシア軍は、数の上では、
    その半分にも満たなかった。

    モスクワ郊外のボロジノの野で両軍は激戦を展開したが、決着は付かず、
    ロシア軍の総司令官クトゥーゾフ将軍は、フィリ村(現在のモスクワの市域内)
    の農家での作戦会議で戦略的退却の道を選んだ。

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    9月1日に全ロシア軍が撤退し、ナポレオンはがモスクワに入ったのは、翌日の
    2日であった。 彼は、モスクワの西にあるポクロンナヤ・ガラーと呼ばれる
    場所で、開城の使節団が来るのを2時間ほど待ったが、慈悲を乞いに現れる者は
    居なかった。 27万5,000人居たと言われる当時のモスクワの住民のうち、
    残ったのは、1万人を超えなかった。 占領軍による略奪がすぐに始まった。

    その夜のうちにボヤが起きたが、大火になったのは、4日の未明の事である。
    6日に雨が降ったが、それでも火の勢いは衰えず、8日になってやっと鎮火した。
    モスクワの建物の3分の2が灰になった。 フランス軍は、血眼になって放火犯人を
    探したが、見つけることは出来なかった。

    火事のため、満足な住まいや食料が得られなくなったフランス軍は、たちまち
    困窮に陥った。 彼等がモスクワから退却を始めるのは、10月6日のことであった。
    その年は、格別に寒い冬が早く到来したのである。 フランス軍は、モスクワに
    放棄する直前に、腹いせにクレムリンの中の建物や、クレムリンから南東に
    4キロ程離れたシーモノフ修道院等を爆破して行った。

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    文豪トルストイの『戦争と平和』は、対ナポレオン戦争を描いた大河小説が
    あるが、その主人公の1人のナターシャは、貴族のロストフ伯爵家の娘である。
    若くて美しいナターシャは、アンドレ・ボルコンスキーに愛されるが、彼は
    戦死した後に、もう1人の主人公ピエール・ベズーホフと結ばれる。 ロストフ家
    の邸のモデルとなった建物は、クレムリンの西のポバルスカヤ通りに実在している。
    イワン雷帝の時代には、クレムリンでツァーリのコックとして働く人々がこの
    辺りに土地を与えられ、1つの村をなしていたのであるが、宮廷がペテルブルグに
    移ってからは、貴族達の広壮な屋敷が立ち並んでいたのである。

    ナポレオンを撃退したこの戦争は、特別に祖国戦争(ナチスドイツとの戦争は、
    大祖国戦争)と呼ばれ、ロシア人の国民意識を形成する上で大きな意味を持った。
    ナポレオン軍を撃退してヨーロッパの国々に赴き、その地の社会制度や人々の
    暮らしをその目で見た将校達は、ロシア社会の遅れに衝撃を受けたのである。
    やがて、それが民主化を目指すデカブリストの運動へと繋がって行くこととなる。

    【お勧めの一冊】


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