多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    タグ:フランス

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    カロリング朝は、領主たちがユーグ・カペーを国王に選出した987年で終わる。
    カペーは強大な公爵で、その領地は、パリ周辺から南のオルレアンにまで広がって
    いた。 領主たちは、思いのままになる人物を国王に選んだと信じたが、カペは
    996年に、フランスの王位に自分の息子であるロベール2世に継がせ、カペー朝が
    始まる。 カペー朝時代は、領主たちは領地の支配を続けたが、戦時には国王に
    尽くすことを求められた。

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    12世紀までに、カペー朝の領土は、広がり始めていた。 ルイ7世(在位1137~
    1180年)は、1137年にアリエノール・ダキテーヌというアキテーヌの相続者と
    結婚して、王領を増やした。 しかし、国王夫婦の間には娘しか生まれなかった
    ので、アリエノールを離婚し、王位を継ぐ男子を産んでくれそうな女性と再婚した。

    しかし、アリエノールはアキテーヌの広い土地を所有したまま、ノルマンディー
    王アンリと再婚した。 アンリが1154年にイギリス国王となると、アリエノールの
    所有地もイギリスの土地になった。 アキテーヌの領有問題は、イギリスと
    フランスの数世紀に渡る紛争の原因になった。

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    ルイ7世の息子であるフィリップ2世が、1180年にフランス国王になると、政略
    結婚と征服によって王権を強めた。 北フランスのノルマンディーとアンジューも
    手に入れた。

    南部のプロバンスでは、宗教をめぐって異端者たちの反乱が起きた。 怒った
    ローマ教皇は十字軍(宗教戦争)を提唱した。 フィリップ2世と息子のルイ8世は、
    教皇に味方し、プロヴァンスをフランス国王の治下におさめた。

    ルイ8世の息子、ルイ9世は、現実的な統治者であると同時に、信心深かった。
    各地に宗教裁判所を不満を聞き入れ、紛争を解決した。 また、公正な行政制度で
    フランス国民の信頼を得た。 ルイ9世は、教会に対する強い愛着のしるしとして、
    多くの都市に新しい大寺院や宗教上の記念碑を建てることを命じた。 ルイ9世は、
    中東とアフリカへの十字軍を指揮して遠征中の1270年に没した。 死後、ローマ・
    カトリック教会から聖人に列せられた。

    フィリップ4世(在位1285~1314年)は、教会を王権の支配下に置いた。 また、
    地方の行政官、裁判官、税吏に対する王の権限を強めて行った。 フィリップ4世
    は1302年に、全国三都会という討議集会を開いた。 フィリップ4世の改革を
    支持した土地貴族たちによるこの全国三都会が、後のフランス議会の基礎と
    なった。

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    アッティラが敗退すると、フランク族はライン川からロワール川にまたがる
    ガリア地帯を数十年支配した。 486年、フランク族の国王クローヴィスは、
    北フランスのソワッソンでローマ軍を破ってガリア北部を征服し、この地を
    フランキアと呼んだ。

    冷酷でずる賢いクローヴィス王は、フランク族を終結し、メロヴィング朝の基礎を
    築いた。 496年にフランク族の宗教を捨ててキリスト教に改宗し、フランク帝国も
    キリスト教国となった。 キリスト教の中心はローマであり、ローマ・カトリック
    教会は信徒を支配した。

    クローヴィスの死後、帝国は4人の息子に分割された。 遺産の分割はその頃の
    慣習だったが、相続者たちは、自分の領土を広げるために戦争し続けた。
    フランキアは南部と東部の土地を併合して大きくなったが、分裂状態のメロヴィング
    朝の勢力は衰えて行った。

    国王の行政権は、メロヴィング朝の王たちの最高顧問であった大宰相に移って
    行った。 こうした大宰相の中でも最も力のあったエリスターベルのペピン
    (ペパン)は、優れた指揮官だった。 ペピンが714年に死んだ時、既に強力に
    なっていた王国を継いだのは、息子のシャルル(カール)だった。

    シャルルは、『つち(槌)』を意味するマルテルというあだ名の通り、戦争では
    負け知らずだった。 北イタリアのロンバルディア人がローマを攻略するのを
    防いだので、フランク王たちとローマ・カトリック教会との関係は密接になって
    行った。

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    【シャルルマーニュ(カール大帝)】
    シャルル・マルテルの息子が、フランキアの新しい王朝のカロリング朝を打ち
    立てた。 シャルルと同じ名前の孫シャルルは、ライン川の東側に住んでいた
    ザクセン人、バイエルン人、アヴァール人を征服した。 若いシャルルはまた、
    北アフリカからスペインとポルトガルに侵攻して来たムーア人を、フランス南部で
    食い止めた。 シャルルは武将であり、精力的な統治者だった。 ドイツ、
    北イタリア、現在のフランスの殆んど全部を占領地にした。

    800年にシャルルは、軍隊を率いてローマに赴いた。 ローマの貴族の教皇の間の
    争いを調停するためだった。 シャルルは、教皇に有利になるように争いを解決
    した。 感謝した教皇はサン・ピエトロ寺院で、シャルルに金の王冠を載せ、
    西ローマ帝国の皇帝にした。 その後、シャルルはシャルルマーニュ(カール大帝)
    と言われるようになった。

    シャルルマーニュはその政治手腕と権限で、広い帝国を統治した。 814年に
    亡くなると、領土は相続者たちに分けられた。 孫のシャルル禿頭王の領地となった
    ライン川の西の地域の西フランク王国は、現代フランスの先祖である。

    カロリング朝の力は、9世紀から10世紀初めに掛けて衰え、北ヨーロッパからの
    侵略者バイキングを阻止出来なかった。 裕福な地主たちは防衛のため城を築き、
    私兵を雇った。

    やがてこの貴族たちは、城の周りの地域を統治する領主になった。 農民は、
    侵略者から守ってもらう代わりに、領主の農地で働いた。 農民はまた、領主に
    忠誠を誓い、収穫の一部を年貢として献納した。 領主たちは、その財産と富で、
    フランス国王に影響を与え、自分たちで国王を選出する程になった。

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    人はほぼ10万年間も、今のフランスの地域に住んでいた。 ヨーロッパのこの
    地域の最も古い人々の住居は、洞穴だった。 食料を得るために狩をする時の
    武器は、石器だった。 この石器時代の人々は、狩をした動物を生き生きと描いた
    絵を洞穴に残した。

    紀元前3000年頃、フランスの住人たちは、川や海岸沿いに段々と大きな集落を
    つくるようになった。 ドルメンと呼ばれる石の部屋に死者を埋葬し、メンヒル
    として知られている巨大な柱石を立てた。 当時の農民は、メンヒルを季節の
    移り変わりを予知するために用いた。

    並べた石と星の関係を見て、農民は穀物を植え、刈り入れる適切な時期を知る事が
    出来た。 紀元前800年頃、ケルト人と呼ばれる戦闘好きの民族が東方からやって
    来て、たちまちヨーロッパ大陸を支配した。 騎馬軍は鉄の武器を振り回し、
    圧倒的多数を頼みに敵を破った。

    しかし、ケルト人は次第に人口が増え、征服した土地だけでは生きて行けなく
    なって、更に領土を求めて南下した。 そしてケルト人は、ギリシャとローマの
    人々と接触するようになった。 ギリシャとローマは、南ヨーロッパの2つの
    強力な文明国だった。

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    【ローマ帝国とガリア】
    紀元前2世紀のローマは、大軍を抱えて拡張を続ける共和国だった。 ローマ人は、
    紀元前121年に、ギリシャの貿易港だったマルセイユを占領。 マルセイユ地方を
    ガリアと呼んだ。 ガリアの肥沃な平野に住むローマ人の人口は急増した。

    紀元前58年、ローマの将軍ユリウス・カエサルは、ケルト人を破ってガリアを
    ローマ領と宣言するために、大軍を率いてガリアを侵略した。 ケルト人は族長
    ウェルキンゲトリクスの指揮でカエサルに抵抗したが、カエサル軍を追い返す事が
    出来なかった。 紀元前52年、ブルゴーニュ地方のアレジアの戦いでケルト人が
    ローマ人に負けるまで、戦争は続いた。 ローマ人はウェルキンゲトリクスを
    捕虜にして、ケルト人のローマに対する抵抗は終わった。

    ローマ人はすぐ、ガリアの殆んど全域を植民地にした。 ローマ人は、ガリアに
    道路や都市を建設し大きな農園を開拓した。 ケルト人は、商人や農民になって
    成功し、ローマ人の言葉のラテン語を学んで、ローマ人に順応した。 ガリア人は
    やがて、キリスト教も受け入れて行った。 キリスト教は4世紀にはローマ人の
    公式の宗教となった。 数世紀の間、ガリアは平和であり、繁栄を続けた。

    しかし、5世紀の半ばには、ローマ帝国は衰え始める。 非キリスト教徒の
    西ゴート族、フランク族、ブルグンド族の戦士たちが、東ヨーロッパからガリアに
    侵攻し始めた。 この侵略で、ローマのガリア支配は弱まった。

    紀元前450年頃になると、フン族がアジアからガリアに攻めて来た。 アッティラ
    王が率いるフン族は、西へ進軍する時、農園や村落、都市を襲って火を放ち、
    財産を奪った。 フン族の侵略を止めるため、ガリア内に居るフランク族、
    西ゴート族、ブングルド族の軍隊はローマ軍と同盟軍を結成し、450年に、
    シャロンの戦いでアッティラを破った。 だが、戦いの後、ローマのガリア支配は
    ますます弱くなった。

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    フランス北部の平野を流れるセーヌ川沿いにあるパリは、10世紀以来、フランスの
    首都となって来た。 パリとその周辺地域を合わせた首都圏の人口は、国全体の
    約6分の1の870万人となっている。 中央政府の所在地であるパリは、国の金融と
    教育の心臓部でもある。

    市内には世界最大のルーヴル美術館など、美術館が沢山あり、芸術家や観光客を
    引き付けている。 一般のパリ市民は、観光産業、銀行業、コミュニケーションなど
    サービス産業に従事している。

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    パリ市内の多くの建物は、フランス帝国が絶頂期にあった18世紀と19世紀に建て
    られたもの。 19世紀にフランスの芸術家たちは、狭くて混雑の酷いパリの街路を
    幅の広い大通りに設計を変えた。

    これらの魅力ある素晴らしい大通りは、ショッピング、娯楽、住宅などの様々な
    建造物を保護するために、摩天楼のような高層ビルは、市の中心部から離れた
    ところにしか建設が認められていない。

    パリでは人口と商業活動が極狭い地区に集中しているので、ところによっては、
    混雑と騒音が甚だしい。 交通混雑と環境汚染がパリ中心部で深刻な問題となって
    いる。 政府は、企業や新しく建設するビルは、パリを取り巻く郊外に移す努力を
    している。

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    【その他の主な都市】
    フランス第二の都市は、リヨン(人口約120万人)で、2000年以上に渡って
    重要な都市となって来た。 ローヌ川の流域のちょうど真ん中にあるリヨンは、
    フランスの化学産業の中心地となっている。 また、繊維と自動車の生産でも
    重要な街でもある。 1983年には、パリとリヨンを結ぶフランス最初の超特急
    TGVが開業した。

    マルセイユ(人口90万人)は、フランスの最も重要な港であり、フランス第三の
    都市である。 自然の良港なので、約2600年前に古代ギリシャが植民地化した。
    市内には移民が大勢住み付き、世界中の船が港に停泊している。 色とりどりの
    ビル、活気溢れたが街路、ヤシやシュロが縁取る大通りもマルセイユの魅力と
    なっている。

    トゥールーズ(人口35万人)は、南西部のガロンヌ川沿いにある。 フランス
    航空産業の本拠地となっている。 また、ヨーロッパの宇宙計画に参加している
    企業も進出している。 エレクトロニクス、化学、食品加工の会社もある。 市の
    中心部の建物は、珍しい色付きの石材を使って建てられている。

    地中海の港町ニース(人口34万人)は、イタリア国境際、アルプスの麓にある。
    夏には、フランス内外から大勢の観光客が、美しいホテルや広々とした浜辺、
    余り暑くないからりとした気候を求めてやって来る。 ニースには、香水、
    オリーブ油、石鹸、セメントの工場もある。 ニースは、リヴィエラの中心都市
    となっている。

    フランスの各地方の中心都市となっている他の都市は、大きな川の流域で発展して
    来た。 例えば、ボルドーは、アキテーヌを流れるガロンヌ川沿いにあって、
    フランスワインの中心である。 ライン川沿いのストラスブールは、ヨーロッパの
    他の地方との河岸貿易の拠点となっている。 イギリス海峡に面した海岸には、
    カレー、ルアーブル、シェルブールの港がある。 これらの港には、出入りする
    漁船、貨物船、客船によって、イギリスと結び付いている。

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    ヨーロッパでは、日本人とドイツ人は、良く似ていると比較されることが多い
    のだが、日本人とフランス人の場合はどうなのだろうか? 余り共通点がない
    ようの思われる両民族なのだが、真逆とまでは行かないが、ほぼそれに近い。

    仕事に対する情熱に関しては、完全に真逆と言っても過言ではなく、フランス語
    には『頑張る』という表現が存在しないことからも分かる通り、あくまでも無理を
    しないのがおフランス流の働き方。 上司よりも先に帰宅することに関しては、
    誰も罪悪感を持っていないばかりではなく、仕事が暇な時には、日本人のように
    わざわざ仕事をしている振りをしなくても良いため、ストレスという観点から見た
    場合でも、フランスの職場は、かなり楽かも知れない。

    有給休暇の消化率は、常にほぼ100%、職場でも常に次のバカンスの話ばかりして
    いるフランス人から見た日本の職場は、一体どうなっているのだろうか? ろくに
    有給休暇すら取れず、その有給を消化出来ないのであれば、企業側がその休暇を
    買い取るべきなのだが、そのような気の利いたシステムを導入している日本企業は
    非常に少ない。

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    仕事に関する情熱ばかりではなく、特に違うのは、転職に関する意識で、何十年も
    同じ職場に居座り続けるのは、フランスではあり得ない。 少しでも給料や条件が
    良い企業があれば、さっさと乗り換えるのがフランスでは常識なのだが、日本の
    場合は、転職自体が悪とされてしまうため、転職でキャリアアップなどという
    考え方は、そもそも存在しない。 むしろ、転職の回数だけ、社会を裏切って来た
    と拡大解釈をされてしまうため、日本企業での転職ほど命取りなものはない。

    フランスでは、仕事などではなく、愛情や家族に重きが置かれているため、皆定時
    ピッタリで帰宅し、その後は、それぞれの自分の人生を楽しむのが普通なのだが、
    そのため、フランスでは先進国の中でも、最も出生率が高く、先進国では深刻に
    なるつつある人口減少社会に一石を投じている。 総じて、時間的な余裕があれば、
    当然、私生活も幸福になれる訳で、日本のように、会社に人生まで奪われてしまう
    社会の方が異常だと言える。

    特に、40代を過ぎてからの日本社会の扱いは酷く、転職出来ない、恋愛出来ない、
    更には、人生を謳歌出来ないと、3重苦の様相を呈しているのだが、それでも誰も
    文句ひとつすら言わずに大人しくしていられるのは、洗脳教育の賜物としか言い様が
    ない。 政治もダメで企業はブラックばかり、アジアの中でも衰退が激しい日本の
    未来に楽観的な見方をするのは容易ではないが、日本人も少しはフランス人を
    見習って、自分の人生を歩んで見た方が良いと思う。

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    また、フランスでは、黙っていれば、文句も異議も無い、最悪、何も考えていない
    バカと思われることもあるため、非常に自己主張が強い国民性と言える。
    基本的に、フランス人は、非常におしゃべりで、相手の意見を全て否定するのが
    フランス流の話し方であり、単にはいはいと何でも相手を受け入れることしか
    しない日本人の場合は、フランスでは、人の話を聞いていないとしか思われない。
    逆に、日本人の場合は、人前で自己主張どころか、自分の意見を述べただけでも
    平気で村八分にされたりと、自己主張やコミュニケーション方法に関しては、完全に
    真逆な思考回路を持っていると考えて間違いない。

    フランス人は、総じて、余り細かいことには固執せずに、おおらかな性格だと
    言われているのだが、それは、日常の生活で不便を感じることが多く、我慢強い
    ためと思われる。 日本の場合は、今日注文した品物が明日届かなければ、即座に
    クレームとなるため、輸送業界のブラック化が叫ばれて久しい。 余り害にならない
    程度の不便さであれば、むしろ、忍耐力を鍛えるという意味でも、歓迎すべき事柄
    なのではないだろうか。

    フランスでは、しっかりと仕事さえしてれば、政治家が不倫や略奪愛をしたとしても
    誰も特に口出しをしないのだが、日本の場合は、政治家がまともに仕事をしなく
    とも、誰も何も言わないため、悪徳政治家にとって、日本はかなりの天国となって
    いる。 むしろ、そのような場合にこそ、国民が政治家に対して、目を光らせる
    べきなのではないだろうか?

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    つい最近、フランスでは、史上最年少の大統領が誕生したばかりだが、その妻は
    何と!24歳も年上の元中学校の恩師ということでも話題を振りまいた。

    現在のフランス共和国大統領は、フランソワ・オランド氏だが、その妻とは、
    婚姻関係のない属に言う『事実婚』となっている。 それでも外交上、何の支障も
    なく大統領としての仕事を全うしているのだが、元々、オランド氏の前妻も事実婚
    だった政治家のセゴレーヌ・ロワイヤル氏で、前回の大統領選挙でサルコジ氏に
    敗れている野心家。

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    その前妻と現在の妻との確執が取り沙汰される中、オランド氏は、41歳の女優
    ジュリー・ガイエとの関係を暴露された。 どうやら2年も前から関係があったと
    言われているのだが、これには、大統領自身も『プライベートな事情だ』として
    態度を保留している。 一方のフランス国民は、『70%が政治とは関係ない』と
    至って冷静。 フランスでは約50%が離婚を経験しているため、不倫に関しては
    非常に寛容な国。

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    その前の大統領であるニコラ・サルコジ氏は、ヨーロッパで最もスキャンダラスな
    大統領とまで言われたが、42歳の美人環境大臣との不倫騒動がインターネット上を
    飛び交った後、最終的には、3度目の結婚相手として、スーパーモデルで歌手の
    カーラ・ブルーニを選んだ。 そのカーラ自身も年下の歌手との不倫の果てに
    サルコジ氏と夫婦となった。 

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    その前の大統領であるジャン・シラク氏は、金銭的なスキャンダルの他にも、
    日本人の愛人の間に子供がいた。 更にその前のミッテラン大統領は愛人、子供達
    との二重生活を公然と続けていたが、国民からは熱い支持を受けていた。

    総じて、フランスでは、恋愛も政治も一流でなければならないという逸話がある
    のかは分からないが、こと恋愛に関しては、かなり寛容な国民性であることは
    間違いない。 日本では、フダブル不倫や、本妻と愛人との二重生活を送っている
    大臣が許される訳もなく、即座に退陣を要求されるに違いない。 寛容性も必要
    なのだが、不倫に関しては、倫理に反しているため、ある程度の罰則は必要なの
    ではないだろうか?

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    フランス大統領選挙決選投票の結果、エマニュエル・マクロン氏が66.1%、
    マリーヌ・ルペン氏が33.9%で39歳のマクロン氏がフランス史上最も若い
    大統領として当選した。

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    マクロン氏はパリのルーブル美術館の中庭に集まった支持者を前に演説し、
    『選挙を通じて怒りや不安を表明したすべての国民の声を尊重して行く』と述べ、
    経済の立て直しや社会の格差の解消に取り組む姿勢を強調した上で、『世界は
    フランスが自由を守ることを期待している。 EUを立て直すために大きな役割を
    果たさなければならない』と述べ、EUとの関係を強化して行く考えを示した。

    しかし、選挙で敗北したルペン氏も極右政党の候補としてはこれまでで最も多い
    票を獲得し、EUや移民政策に対する国民の強い不満を反映した形となった。
    また、労働者や若者の間では、マクロン氏が現在のオランド政権の経済相として
    自由競争を推進して来たことに不信感が根強く、7日から8日にかけてパリなど
    少なくとも8つの都市でマクロン氏に抗議するデモが行われ、一部が警察と衝突
    する事態にも発展した。

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    マクロン氏は今月中旬に新大統領に就任する予定だが、激しい選挙戦を通じて
    分断が広がった国民の融和をいかに進めるかが大きな課題となる。 一方、
    ルペン氏は『フランスが直面する多くの課題を前にマクロン氏が成功することを
    祈っている』と述べ、敗北を認めた。

    EUとの関係を重視するマクロン氏の勝利したことで、市場ではEUがさらに混乱
    する事態は避けられたという受け止めが広がっている。 また、多様な社会の実現や
    国際協調を掲げるマクロン氏がフランスの大統領になることで、アメリカのトランプ
    政権の発足などを受け、世界に広がる自国の利益を優先する動きにも歯止めを掛ける
    ことになるのか注目されている。

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    一方で、ルペン氏も国民戦線の候補としては、これまでで最も多い1千万を超える
    票を獲得して、フランス国内で高まるEU統合や移民の受け入れへの国民の不満を
    反映した形となり、マクロン氏は大統領として、こうした不満を解消して行けるか
    どうかが問われることとなる。

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    一方、マクロン氏が妻に選んだのは、元高校教師の女性ブリジット・マクロンさん。
    しかも、彼女は現在64歳で、マクロン氏とは実に25歳の年齢差がある。 その
    馴れ初めは、マクロン氏が15歳の頃まで遡る。 高校教師をしていたブリジット
    さんに猛烈アタックをし、17歳の時にプロポーズ。 両親から反対され、パリの
    学校に転校までさせられているが、結局、18歳の時に交際をスタート。 ブリジット
    さんが離婚してから、2007年に見事ゴールイン。 マクロン氏は当時29歳だった。

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    カタルーニャ語は、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などと同じくロマンス語の
    1つで、その地理的位置を反映して、スペイン語とフランス語の中間的な特徴を
    少なからず持っている。 まず、発音は、スペイン語、フランス語の母音がそれぞれ
    5つ、16であるのに対し、カタルーニャ語の母音は8つとなっている。 スペイン語と
    違い、曖昧母音 ə もあるが、フランス語のような鼻母音はない。

    語彙では、『食べる』は comer(西)、menjar(カ)、manger(仏)となるが、『ビール』は、
    cerveza(西)、cervesa(カ)、bière(仏)となり、単語によって西仏どちらかに似ている
    ことが分かる。 文法に関しても同じで、英語のbe動詞にあたるものは、スペイン語では
    ser と estar の2つがあり、フランス語では être 1つとなる。 スペイン語には見られない
    副詞的代名詞の hi、en があるのは、フランス語に似ている。

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    もちろん、カタルーニャ語独自の特徴もあり、スペイン語ともフランス語とも異なり、
    カタルーニャ語は anar (行く)+不定詞で過去を表す。 このように全体的には、
    お互いに近い関係にある3言語だが、それぞれの話者が初めて出会って、自分達の
    言葉で話すと、ほとんど理解出来ないが、書けば理解度が増す。

    また、カタルーニャ語は隣接する大言語、スペイン語からの言語的干渉に常にさらされて
    いる。 例えば、スペイン語で義務を表す tener(持つ)+que (接続詞)という表現の
    影響で、本来カタルーニャ語にはない tenir+que+不定詞という表現を使う人が
    少なくない。 このような例は、他にも少なくない。



    【カタルーニャ語の今】

    カタルーニャ語の言語人口は、約600万人で、デンマーク語、フィンランド語などを
    上回っている。 カタルーニャ語の使用能力となると、それぞれの地域の歴史的背景、
    政治・社会的現状により異なる。 バルセロナを中心とするカタルーニャ自治州、
    マリョルカ島などのバレアレス諸島、アンドラでは高く、フランスやイタリアに含まれる
    地域ではかなり低いと言える。

    例えば、カタルーニャ自治州の場合、2003年の時点でカタルーニャ語を聞いて
    理解出来る人は住民の97.4%、話すことが出来る人は84.7%、読むことが出来る
    人は90.5%、書くことが出来る人は62.3%であった。 フランス領北カタルーニャでは、
    2004年の時点でそれぞれ65.3%、37.1%、31.4%、10.6%となっている。

    現存する最古のカタルーニャ語の文章は、11世紀のウルガニャー説教集で、その後、
    中世に哲学者ラモン・リュイなどが出るに至って、文学語として確立された。 方言
    としては、大きく東部方言と西武方言に分けられる。 現在の標準カタルーニャ語は、
    東部方言の中の中央方言(バルセロナ周辺の方言)に基づいて定められている。

    カタルーニャ語は長い歴史の中で、何度も存亡の危機を経験したが、中でも最大の
    危機はスペイン内戦(1936-39)後に成立したフランコ独裁政権による弾圧だった。
     しかし、それも何とかしのぎ、フランコ体制後に制定された現行の民主的憲法
    (1978年制定)とカタルーニャの自治憲章に基づき、現在カタルーニャ語は、スペイン語と
    共に自治州の公用語とされている。



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    フランス語は、ラテン語から形成された言語で、大部分の常用語は、撥音的に2音節
    だが、音韻変化の過程で、ラテン語の音頭音節とアクセント音節のみが残ったため、
    こうなったと言われている。 しかし、新しい概念を言い表すことが必要となる場合には、
    そのつど、ラテン語に適当な語を求め。、語尾だけをフランス語風に単純化して、
    多音節語を作る。 こうした、2音節以下の短い常用語と数音節からなる長めの
    専門用語という語彙の多様性が、フランス語に豊かな表現力を与えている。

    また、フランス語は美しい響きを持つ言葉としても有名。 その秘密は、単語それ自体が
    固有のアクセントを持たない点に求められる。 フランス語は通常、リズム・グループと
    いって、意味的なまとまりを持った数語(通常5~6音節、長くても8音節を超えない)を
    一息に発音するが、アクセントは、その最後の音節に落ちる。 適度な単調さとそれを
    被るアクセントとの組み合わせが、フランス語に落ち着きと絶妙のリズムを与えている。

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    更に、独特の響きを持つ母音の働きがある。 例えば、鼻母音は、母音の後に
    鼻子音nが続く場合には、そのnを発音せずに、代わりに母音の呼気の一部を鼻腔に
    送って発音する。 現在フランス語には[ɑ̃][ɔ̃][ɛ̃][œ̃]の4つの鼻母音がありますが、
    それぞれの母音の鼻腔における共鳴音がnという子音に取って代わった訳で、
    これが深くて柔らかい響きをフランス語に与えている。 また、脱落音のeといって、
    アクセントを受けない位置にある母音はeは、多く無強勢音に弱まり、かつ、リズム・
    グループの中では、消失する。 これもまた、フランス語に軽やかな響きを与えることに
    大きく関わっている。



    【フランス語の今】

    グローバリゼーションの進行する現在、フランスにいやおうなく英語が押し寄せている。
    しかし、英語をフランス語に言い換え、自分達の言葉の純粋性を保とうとする努力が
    官民を問わずに払われている。 ある統計によれば、高級紙ル・モンドには、
    165語に1語の割合でしか外来語が混じっていない。 脱落性のeが頻繁に省略されて、
    耳障りな子音の連続が増えたが、4つの鼻母音の区別があいまって、 [ɑ̃]と[ɔ̃]の
    中間の鼻母音ひとつで済まされる傾向が現れている。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となっていた
    マリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの戦争が
    始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討つ破った。
    1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。 この新しい帝国は、
    現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、東南ヨーロッパの
    諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ
    帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、イギリス、
    ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年オーストリアに侵入
    して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが1812年、
    ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと
    戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて
    ヨーロッパ各国の国境を定めた。 この会議でオーストリアはヨーロッパの中心
    および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦だったザルツブルク大司教
    管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国もオーストリアの領域となった。
    神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】

    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・メツテニッヒは、
    その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持する
    ため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、ハプスブルク
    政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、メルテニッヒは
    辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、ハプスブルク家に
    忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。 12月、ハプス
    ブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、その甥の
    フランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    経済活動が拡大するにつれて、同盟内の社会的対立が増大し、表面に現れて来た。
    ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンでは、小作人たちが移住して来て人口が増え、社会は
    極めて不安定な状態となった。

    Malmaison

    富裕な支配層が、新たに増えた自由市民の権利を認めなかったため、市民は参政権を
    与えなければ税金を払わないと抵抗した。 それと同時に、カトリックとプロテスタントの
    間でも、時折、小競り合いが生じていた。 1798年にフランスで革命が起こり、その影響は
    全ヨーロッパに及んだが、特にスイスの受けた影響は大きかった。 革命の後、司令官
    ナポレオンが率いるフランス軍は、スイスを侵略する。 ナポレオンは州の自治体制を
    廃止して、新しい中央政府を樹立させ、スイスをヘルベチア共和国と名付けた。

    フランスが制定した新しいスイス憲法によって、諸侯は、権力を失った。 更に、それまで
    都市諸州を支配していた封建商人の権力も弱まった。 スイス人は、新憲法を支持したが、
    フランスによる占領には強く反対した。

    フランスによって樹立された中央政権的な政府は、民族も宗教も文化も州によって大いに
    異なるスイスの国情に合わず、すぐに混乱をきたした。

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    混乱をおさめるため、1803年にナポレオンは、各州の代表をパリに集めて、調停条約を
    結ばせ、憲法を改正させた。 この条約に基づいて、各州に自治権を認める連邦制が
    出来上がった。 連邦政府は、外交や軍事、通貨を定め、戦いと和平を司った。

    この時、新たに6州に自治権が与えられ、合計19州からなる連邦制が成立した。 また、
    条約は、市民は法の前で平等に取り扱われなくてはならないと規定した。 これによって、
    スイスの封建制度は、永久に終わりを告げたのである。

    このようにな改革を実現してくれたことへのお返しとして、スイスは、自国の兵士を
    フランス軍に提供することに同意した。 だが、1815年に、ナポレオンがヨーロッパ
    連合軍に敗北して統率力がなくなると、スイス新憲法は、たちまち効力を失った。

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    スペイン自治州のひとつであるバスクは、フランスとの国境ピレネー山脈の西側に位置し、
    北は大西洋ビスケー湾に面している州である。 一般にバスクと呼ばれる地域は、現存
    する他の言語と明確な関係性を持たない、いわゆる孤立した言語とされるバスク語を
    話し、かつ固有な文化を持つ民族が住んでいるという意味で、スペイン自治州だけでは
    なく、国境を挟んだフランス側を含めて指す。

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    バスク人は、ヨーロッパ言語やインド言語を話す民族がヨーロッパ大陸に進出する以前
    から 、この地方に住んでいた。 ことに民族衣装の一部として使われ、第二次世界大戦頃
    からは、軍部に普及し、今では、世界各国の軍隊において広く用いられるようになった
    ベレー帽は、このバスクが発祥の地である。

    19世紀の産業革命以降、この地で産出される鉄鉱石により、バスク地方のビルバオは
    早い時期から重工業地帯として発展した。 これは、同時に雇用の拡大を促したが、
    バスク人以外の民族が大量に流入することで、バスク固有の文化や伝統が破壊される
    ことを恐れるバスク人の民族運動に火を付けることにもなった。

    固有の言語、固有の文化を持って来たバスクに自治政府が生まれたのは、1936年に
    起こったスペイン内乱が切っ掛けだった。 だが、ナチス、ドイツ、イタリアに支持された
    フランコを指導者とする反乱軍に破れ、自治権獲得どころか、地方議会第一党だった
    穏健政党の国民党の解体、更には、バスク語までもが禁止されるなど、厳しい弾圧を
    受けた。

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    斧にとぐろを巻くへびをシンボルにしたバスク分離独立派の組織ETA(バスク祖国と自由)
    は、1959年にこのような弾圧の中から生まれた。 彼らは、バスク国民党から分かれた
    武装過激派組織で、スペインやフランスからの分離独立を目的とする。 1973年には、
    マドリードで、フランコの継承者であり、当時の首相だったルイス・カレロ・ブランコの
    車を爆破し殺害するなど、テロ組織として成長を始めた。 以来彼らは、分離独立に
    反対する政府関係者や軍、警察関係者、ジャーナリスト、知識人などへのテロ行為は
    やむを得ないとした。

    ETAの資金源は、誘拐、強盗、ゆすり、武器取引、それに、強制的な税の徴収である。
    特に、『革命税』は、有名人や企業、商店から徴収するもので、従わない企業には、
    爆破テロや社員誘拐で対抗するなど、相当荒っぽいものとなっている。 1960年代
    からこれまで標的とされ、殺害された人は、800人を超す。

    独特の文化を背景にバスクの独立を求める動きに対する同情や理解は、フランコ独裁が
    続いた1975年頃まではあった。 しかし、それ以降は、無差別テロを繰り返すETAに
    対して反対デモが全土に広がった。 孤立化したETAは、1998年には、一旦無期限
    停戦を宣言したものの、翌1999年には、一方的にこれを破棄、政治家、軍人、
    ジャーナリストなどを標的にしたテロ活動を再開して、40人以上を殺害した。

    21世紀に入っても、2006年には、マドリードのバラハス国際空港での爆破テロ事件、
    2007年には、フランスで、スペイン治安部隊員を射殺、2009年には、マジョルカ島で
    車を爆発させ、警備隊員2人を死亡させるなどの事件を起こしている。

    2010年9月、ETAはビデオで声明を出し、武装闘争の停止を決めたと発表した。
    声明によると、スペイン政府と和平交渉再開の用意があると述べたとされる。
    スペイン政府の当局者は、事態打開への一歩前進だが、恒久的な武装解除が示されて
    いないとして、慎重な姿勢を崩さないという。 ETAがテロ活動に完全に終止符を
    打つのは難しいだろうという懐疑的な意見がまだ多い。

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