横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:フランス

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1840年代のフランスの商人たちは、ベトナムの経済資源の開発に熱心だった。
    彼らはフランス皇帝ナポレオン3世に対して、ベトナムを侵攻するよう圧力を
    掛けた。 フランス艦隊は1858年に、ダナン港の攻撃を繰り返したが、制圧
    することが出来なかった。 翌年、フランス軍はサイゴンを占領すると、
    グエン王朝にメコンデルタを放棄させ、1867年には、この地域をフランス直轄
    殖民地にコーチシナにした。

    フランス軍は1880年代初めに更に北に進軍し、フエと紅河デルタを攻撃した。
    80年代末には、アンナン(ベトナム中部)とトンキン(ベトナム北部)が
    フランスの手に落ちた。 フランスはこの2地域とコートシナに加えて、やはり
    フランスが支配していたカンボジアとラオスを合わせて、フランス領インドシナ
    連邦を形成した。 フエのグエン王朝は内政だけは行う名ばかりの支配者に
    過ぎず、フランス政府が任命する総督が連邦全体を統治した。

    36543411

    植民地の統治者たちは、ベトナムの天然資源を開発して行った。 フランス人は
    メコンデルタの米を増産するために、湿地を干拓し、灌漑設も整えた。 植民地
    政府は、カンボジア国境沿いの土地をフランス人入植者に与え、大規模な農場や
    ゴム園を造らせた。 人口の希薄な中部高原地帯の土地所有者たちは、茶等、
    輸出でお金になる作物を栽培した。 北部では、フランス人は石炭と鉱物を
    採掘した。

    フランス人は、生産物を市場に出荷するために、ベトナム人労働者を使って港湾、
    道路、橋、鉄道を建設した。 だが、ベトナムの経済開発は現地の人々を潤さ
    なかった。 大抵の農民は、所有地の農場に住んでいない不在地主のために
    働いた。 不在地主は、収穫した穀物を現地で売らないで輸出した。 土地を
    失った大勢のベトナム人は、賃金も安く厳しい労働条件の下で、炭鉱やゴム園で
    働かなくてはならなかった。

    【抵抗運動と第二次世界大戦】
    フランスの厳しい植民地支配のため、インドシナ連邦に対するベトナム人の反対が
    強くなった。 貧しい農民たちは、高い税金、官吏の腐敗や、不在地主の権力の
    増大に抗議した。 20世紀初めには、ベトナム人の知識人グループが民族主義運動を
    起こし、フランスの支配を覆して立憲政治を打ち立てようとした。

    1920年代になると、ソ連の指導者レーニンの共産主義が、ベトナムの新しい世代の
    民族主義者に影響を与えた。 その中に、ホー・チ・ミンという若い活動家が居た。
    共産主義者たちは、農場、工場、鉱山等、全ての生産手段の国有化を唱えた。
    フランス滞在中に、ホー・チ・ミンはフランス共産党で活動するようになり、故国に
    戻って共産主義運動を始め、1930年にはインドシナ共産党を組織した。

    1930年代には、ベトナム人は、世界大恐慌を乗り切るのに必死で、政治不安も
    起きなかった。 インドシナ共産党は、不況で反仏感情を一層高めていたアンナンと
    トンキンで、特に運動を成功させた。 1930年代の終わりには、民族主義、
    非共産主義政党も沢山組織された。 これらの政党とインドシナ共産党は、フランス
    植民地政府によって強く反抗した。

    やがて、強力な日本帝国が東南アジアを脅かして来た。 第二次世界大戦で
    日本はアメリカとイギリスと戦い、1942年までにインドシナ半島全体を占領して
    しまった。 日本はベトナムに日本軍を進駐し、ベトナムの軍事施設を使用する
    権利と引き換えに、フランスのインドシナ連邦における主権を認めた。
    インドシナ共産党をはじめ、民族主義諸政党の指導者たちは、中国南部に亡命
    していた。 日本に反抗してベトナムの独立を勝ち取るために、亡命先で統一
    戦線を結成した。 この組織はベトミン(ベトナム独立同盟)と言われ、戦争が
    終わった後、フランスに対して反乱を起こす準備をした。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    【ナポレオン戦争】
    1790年初め、市民革命によりフランス国王が処刑されると、ヨーロッパ諸国は
    自国でも暴動が起こるのを恐れ、フランス革命軍に攻撃を仕掛けた。 これに対し、
    フランス軍はライン川を越え、ドイツの諸国を占領、反君主制感情を煽ろうとした。
    1799年になると、フランスではナポレオン・ボナパルトが政権を取り、ドイツに
    侵入し、プロイセンとオーストリアの軍隊を破った。 また1806年には
    ナポレオンがドイツの征服地をライン同盟んび編成し、これを切っ掛けに
    神聖ローマ帝国は崩壊した。

    しかし、プロイセン、オーストリア、ロシアの軍隊は1813年、ライプツィヒで
    フランスを破り、2年後、プロイセンとイギリスがワーテルローの戦いで
    ナポレオンに勝利した。 勝者は新たに国境を引き直すためウィーン会議に
    集まり、プロイセンは北ヨーロッパに領地を拡大、一方、ハプスブルグ家は
    南ドイツの支配地を失った。 またこの会議では、ドイツ内35の君主国と4つの
    自治都市から成る新しいドイツ連邦に編成し直すことが決められた。

    nothderm

    【ドイツ連邦】
    ドイツ連邦には連邦議会があったが、これにはほとんど権威がなかった。
    それぞれの君主国は独自の法律を施行し、独自の貨幣を鋳造、独自の軍備を備え、
    独自の税金を徴収していたからである。 しかし、1834年には、多くの君主国で
    関税同盟が発足した。 プロイセンの指導の下、この自由市場はドイツの産業を
    刺激し、統一ドイツのあるべき姿を示した。

    1840年代の凶作は、食糧不足や経済問題を引き起こし、多くのドイツ人は真に
    民主的な政府を求め始めた。 1848年には、フランスで起きた革命が
    オーストリアとドイツに波及、プロイセン、バイエルンなどの君主制の指導者達は、
    フランクフルトに集まり、国民会議を設立することで合意した。

    この会議では、世襲の皇帝の下にドイツが統一されることが決められ、プロイセン王
    フリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇帝に指名された。 しかし、会議に強く
    反対するフリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇位を拒否したので、国民会議は
    次第に支持を失って行き、1849年に解散した。

    【統一】
    1862年、フリードリヒ・ヴェルヘルム4世の後継者ヴェルヘルム1世は、オットー・
    フォン・ビスマルクを首相に任命した。 そこで、プロイセンの指導の下にドイツを
    統一しようと考えていたビスマルクはその後、デンマーク、オーストリアとの戦争で
    プロイセンを勝利に導き、ドイツ連邦に代る北ドイツ連邦を組織した。

    同じころ、ホーエンツェルン家の1人がスペイン国王に内定した。
    ホーエンツェルン家によるヨーロッパ支配のみならず、プロイセンの軍事力
    増大を恐れたフランスは、これに猛反対、この対立を上手く利用したビスマルクは
    1870年、普仏戦争(プロイセン・フランス)を引き起こした。 1871年、
    フランスの首都パリの開城によって戦争が終わると、プロイセンはフランス
    政府に多額の賠償金を要求し、ライン川西岸のアルザス・ロレーヌを割譲させた。

    その間に、ビスマルクは南ドイツの諸邦をプロイセンの支配下に置き、ヴィルヘルム
    1世はカイザー(皇帝)として、統一ドイツの指導権を欲しいままにした。 また、
    新しい憲法では、2院制が規定され、連邦参議員と帝国議会が創設された。

    19世紀後半、ドイツは急速に発展した。 人口が増加し、活気ある鉱山や工場が
    経済を一変、アフリカかアジアに植民地を建設し、イギリスやフランスに拮抗する
    国となっていた。 ビスマルクは25の邦国と帝国直轄の代表から成る連邦参議院に
    厳しい監視を続け、プロイセン専制の反対勢力排斥に務めた。 また、労働者の
    権利を守るSPD(社会民主党)の活動も制限されたが、急速な工業化は労働運動を
    促進し、社会党への支持は高まった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1497年にレタイントンが死ぬと、後の皇帝は力が弱くて治世も皆短く、良く組織
    されていた政治制度を無視したので無政府状態を招いた。 16世紀になると、
    政府高官たちが互いに争い、1527年にそのひとり、マツクダンズン将軍が9代
    100年続いたレ王朝を倒し、遂に長年に渡る内乱が始まる。

    16世紀も後半になると、2大氏族が権力を分割して統治した。 北部ではティン氏が
    実権を握ったが、名目的な君主としてレ王朝を再興した。 南部で支配権を確立した
    グエン氏も、表向きはレ王朝を唯一の正統な君主とみなした。

    グエン氏は同時に、クメール帝国(カンボジア)に軍隊を進め、勢力を広めて
    行った。 クメール族は肥沃なメコンデルタをはじめ、広くインドシナ半島を
    支配していた。 グエン氏は、農民をクメール領に送り込んだ。 1690年までに
    ベトナム人は、メコンデルタのクメール族入植地、サイゴンに入り込んでいた。

    グエン氏はまた、絹や貴金属を中国、日本、および、ヨーロッパの商人たちに
    売って、対外貿易を伸ばした。 グエン氏の農園では、農民は国際市場を対象に
    して砂糖等を栽培した。 一方、ローマカトリック教会の宣教師に同行して来た
    ヨーロッパの商人たちは、懸命になって貿易を軌道に乗せ、またベトナム人を
    キリスト教徒に改宗させて行った。

    グエン氏の勢力は拡大して行ったが、メコンデルタに入植したベトナム人たちは、
    圧制に悩んだ。 1771年、ベトナム中部の山村、西山に反乱が起き、同村の
    グエン3兄弟が民衆を率いた。 1780年代に数年間の戦いの後、西山軍が
    メコンデルタからグエン氏の勢力を追い払い、次いで北部のティン氏の軍隊も
    破った。

    3兄弟はベトナムの北部、中部、南部を陥れると、統一政府の西山朝を設立した。
    だが、西山朝は、戦争のために農地が荒れ、収穫が衰えて飢餓になるという
    問題を解決出来なかった。

    map-1r

    隣国のタイに亡命していたグエン氏一族の若い後継者、グエン・ツアクアインは、
    ベトナムを再び征服しようとした。 アジアに通商の拠点を作り始めていた
    フランス等外国の援助を得て、軍隊をメコンデルタから北へと進め、1802年に
    西山軍を破り、今日のベトナム領の殆んど全部を征服した。 そこでグエン・
    フツクアインはグエン王朝を建てて、自らゼーロン皇帝と称した。

    ゼーロン皇帝はベトナム中部のフエを首都とし、中国風の官僚制を強め、反政府
    勢力を全て潰した。 フランス人のカトリック宣教師が、多くのベトナム人を
    キリスト教徒に変えただけではなく、宮廷政治に干渉したために、ゼーロン皇帝は
    宣教師を弾圧し、フランス人の活動を制限し、国民のキリスト教信仰を禁じた。

    1830年代には、ゼーロン皇帝を継いだ息子のミンマン帝も父帝と同じように
    フランス人の影響に反発した。 皇帝はフランス人宣教師を大勢処刑したが、
    なお布教を続けながら、ベトナムをフランスが取得してしまうことを呼び掛ける
    宣教師も居た。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    キング首相の後継者ルイ・サン・ローラン首相の下で、カナダは国際社会に
    積極的に進出するようになった。 国際連合(UN)の創設にも加わり、尽力した。


    1949年には、アメリカ合衆国および西ヨーロッパ諸国と共に、北大西洋条約機構
    (NATO)に加盟した。 国際問題に新しい役割を果たすようになったカナダは、
    朝鮮戦争(1950年~1953年)や、1950年代の中東戦争にも関わった。 国家間に
    紛争が起こると、停戦を監視する国連軍に兵を派遣し、しばしば停戦役を演じも
    した。

    しかし、国内では昔からの問題が再燃した。 フランス系カナダの小数民族である
    彼らの不満の声が再び上がった。 ケベックをカナダから分離独立させようという
    考え方が定着した。 分離主義者のグループが結成されたが、その中でも最も
    過激なのは、『ケベック開放戦線』というテロリストの集団だった。 新政党
    『ケベック党』は、ケベック州の行政における分離主義者を支持した。

    72dab1fab

    1968年の選挙では、ケベック出身のフランス系カナダ人ピエール・トルドーの
    率いる自由党が勝利をおさめた。 新たに首相となったトルドーは、ケベックの
    分離主義者の問題を解決しようとした。 トルドー政権は、フランス語を英語と
    同等のものとする公用語法の制定に成功した。 彼は、カナダにおけるフランス系の
    伝統を公式に認めさせて、カナダの統一を図ろうとしたが、余り効果的では
    なかった。

    1976年、ケベック州議会で(ケベック党)が政権を得て、同党の党首ルネ・
    レベックが州首相の座に就いた。 レベック政権は、州政府がケベック独立に
    関する交渉権を握ることを提案し、州民投票でその賛否を問うた。 しかし、
    その提案は、反対約60%で否決された。 これにより、分離主義者の運動は
    後退した。

    provincecg094

    1970年代になると、反米感情が再燃した。 カナダの経済・軍事にアメリカ
    合衆国の及ぼす影響が強くなって来たことを、カナダ人は心配したのである。
    カナダの企業の多くは、アメリカ資本に支配されていた。 カナダの貿易と
    財政の安定は、アメリカに頼るところが大きく、経済の好・不況は、必ず
    カナダにも反映した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    19世紀の前半を通じて、アッパーカナダとローワーカナダは発展を続けた。
    道路と運河が建設されて交通が便利になり、農耕地も増えた。 1809年に
    カナダで建造された蒸気船がモントリオールとケベック間を運航するようになり、
    7年後には五大湖でも航行が始まった。

    人口が増加し、通商が発展するに連れて、植民地の統治方法への不満も高まった。
    統治権は少数のイギリス人が握っていた。 通商の上で殆んど力のないフランス系
    カナダ人は、19世紀の初期に移住して来た何千人というイギリス人によって、
    自分たちの文化と生活様式が脅かされるという不安と抱いていた。

    010546

    イギリス系の支配に対抗して、政治改革を要求する気運が高まり、1837年に
    2つの反乱が起こった。 1つは、ローワーカナダの政治家ルイ・ジョゼフ・
    パピノーを指導者とするもので、もう1つはウィリアム・ライアン・
    マッケンジーが率いるアッパーカナダの抵抗運動だった。 反乱は共に、
    イギリス軍と民兵により、あっけなく鎮められ、2人の指導者と支援者たちは
    アメリカ合衆国へ逃れた。

    この2つの反乱が切っ掛けとなって、イギリス議会はカナダの状況を調べるために
    ダラム伯ジョン・ラムトンを派遣した。 ダラム卿は、イギリス領北アメリカ
    植民地に大幅な自治権を与えてはどうかと進言した。 イギリス内閣は、
    この改革は拒んだものの、アッパー、ローワー両植民地のを統合すべきだという、
    ダラム卿のもうひとつの勧告には賛成した。 1841年に統合された領土は、
    『連合カナダ』と命名された。

    1840年代になると、イギリス領北アメリカ植民地の諸州(その頃には連合カナダ、
    プリンスエドワードアイランド、ノバスコシア、ニューブラウンズウィックが
    含まれていた)は、責任政府である地方自治を目指した。 1850年頃までには、
    その殆んどの州が責任政府を建てて、ある程度の自治を行うことをイギリス本国から
    許されるようになった。

    イギリス領北アメリカは、隣国アメリカと足並みを揃えて発展した。 通商が
    始まり、互いを結ぶ鉄道も敷かれた。 イギリス領北アメリカはこの機会を
    利用して、織物業、漁業、木材の伐採搬出業、製粉業などをはじめとする
    経済活動を盛んにした。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
    基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
    例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

    しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
    ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
    (現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

    ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
    統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
    フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

    1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
    フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
    立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
    1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
    攻め取ることは失敗に終わった。

    3972724859

    【アッパーカナダとローワーカナダ】

    アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
    誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
    北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
    独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
    ニューブラウンズウィックが設立された。

    イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
    イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
    アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

    アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
    カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
    それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
    イギリスだった。

    024010546

    【植民地の拡張】
    独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
    よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
    領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

    その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
    求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
    ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

    通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
    探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
    沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

    1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
    トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
    入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
    ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
    統治し、通商の権限を握った。

    19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
    ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
    居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
    野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
    よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    17世紀の末、ヌーベルフランスの商人たちは、領土の南側にあるイギリス
    植民地の商人たちと、毛皮交易の主導権をめぐって争っていた。 ハドソン湾
    周辺の土地の領有権についても、イギリスとフランスの両勢力が対立していた。

    1670年、イングランド王チャールズ2世により、ハドソン湾会社が設立された。
    同社は、当時の情勢に不満を持つフランスの毛皮商人の助けを得て、ハドソン湾
    沿岸の数地点に出先機関を設け、要塞を築いた。 ここで銃、ナイフ、調理道具と
    毛皮が交換された。

    多くの販路を持つハドソン湾会社は、インディアンや植民地の取引先に気に入られて
    勢力を広げ、フランスにとっては交易の重要な収入源を断たれる脅威となった。
    そのため、フランスが同社の出先機関を攻撃すると、イギリスも仕返しをした。
    この争いは、数十年続き、この地域でのイギリス・フランス間の緊張は高まった。

    1702年から1713年に掛けて、ヨーロッパでも両国間の運命を左右することに
    なった。 この間、新世界では、イギリス・フランス両軍が戦った。
    アン女王戦争と呼ばれるこの戦いは、1713年にユトレヒト条約が結ばれて
    終結した。 同条約により、フランスは、ハドソン湾岸とアカディア
    (後にノバスコシアと改名)、ニューファウンドランドを正式にイギリス領で
    あると認めた。

    FrenchandIndianWar

    【フランスの最後の敗北】

    こうしてイギリスがフランスの領土を獲得すると、そこへイギリスの交易商人や
    開拓者たちが移住し始めた。 そのため、イギリス・フランス間の緊張は更に
    高まり、1753年に北アメリカ大陸で両国の武力衝突が起きて、1756年には、
    ヨーロッパにまで戦いが広がった。

    この戦争でイギリス側では、植民地の民兵、および、イギリスと同盟を結んでいた
    インディアン部族が戦い、フランス側にもインディアンの部族が付いた。 数の
    上で優勢なイギリスは、北アメリカ大陸からフランス人を追い出すことを狙った。


    イギリス軍は1759年にケベックを、1760年には、モントリオールを攻め取った。
    1763年のパリ条約で、現在のカナダにおけるフランス領は全てイギリスに譲渡
    された。

    既にアカディアを統治していたイギリスは戦争の間、アカディア人を北アメリカの
    各地へ強制的に移住された。 フランス人の子孫であるアカディア人が反イギリス
    活動に出るのを防ぐためである。 その結果、多くのアカディア人は、アメリカ
    合衆国に定住した。 戦争が終わるのを待って故郷に帰ったアカディア人も居たが、
    自分たちの住居や農場や既に他の人々に奪われていた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    エマニュエル・マクロン大統領は2017年7月27日、密航業者の粗悪なボートで
    地中海を渡ってヨーロッパへ向かうアフリカ人の主要な出航地となっている
    リビアに難民申請手続きを行う施設を今夏中にも設置する考えを明らかにした。

    【リビア「統一政府」のシラージュ首相、マクロン仏大統領、民兵組織「リビア国民軍」指導者のハフタル将軍】
    0024586812

    マクロン大統領は、「難民資格がない人びとが常軌を逸した危険を冒すのを
    回避するための拠点づくり」としているが、これは、今週リビアの二大対立勢力が
    パリで停戦と選挙実施に向けた合意を受けたもので、5年に及ぶリビアの内戦に
    終止符を打ち、今後の大量の移民の流出を食い止める目的があるものと思われる。

    国連傘下の国際移住機関によると、今年に入ってから10万人以上がリビアから
    粗悪な船で地中海を渡ろうとし、2,300人以上が水死したという。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    17世紀のヌーベルフランスの大問題は、入植者が集まらないことだった。 その地は
    何度もイギリス軍やイロコイ族に襲撃されていたため、ヨーロッパ人が移民する
    意欲を失っていたのである。 例えば、ケベック市の住民は、建設後20年経っても
    100人足らずだった。

    1627年にフランス政府は、『ヌーベルフランス会社』(百人会)をつくり、
    新世界との交易を続けさせた。 設立許可書によると、同社はヌーベルフランスの
    人口を毎年300人づつ増やすことが義務付けられていた。 ヌーベルフランスの南に
    当たる領土(現在はアメリカ合衆国の一部)を占領していたイギリスとオランダの
    入植者の数に比べれば、フランスが目標とする数はわずかなものだった。

    1627年に、ヨーロッパでイギリス・フランス間の争いが始まると、イギリス軍は
    北アメリカのフランス領を攻撃し、29年にはケベックを占領した。 32年に
    結ばれた条約により、ケベックはフランスに返されたが、ヌーベルフランスの
    情勢は相変わらず不安定だった。

    svg

    カナダ東部のフランス領は、元々ヘンリー・ハドソンが探検した土地だったため、
    イギリスはその地域の領有権を主張した。 その上、フランス軍とイロコイ族の
    間には衝突が繰り返されていた。 イロコイ族は毛皮交易を南部に移し、
    オランダ人を相手に毛皮を火器などと交換することを望んだ。 イロコイ族は、
    1651年には毛皮交易のインディアン側の主導権を握った。

    1663年、フランス国王ルイ14世は、ヌーベルフランスに軍隊を派遣し、
    イロコイ族の制圧と植民地経営の強化を図った。 イロコイ族の中には、争いに
    嫌気が差し、やむなく平和条約を結ぶ者もあった。 ヌーベルフランスの人口は、
    1679年にはほぼ1万人に達した。

    フランスの毛皮交易の中心になっていたのは、『森を走る人』と呼ばれる若い
    開拓者たちだった。 彼らは、危険を冒して未開の地に踏み入り、インディアンと
    取引した。 この大胆な交易商人たちは、フランス政府の交易免許証を持って
    いなかったが、インディアンの言葉と習慣に通じていたため、容易く毛皮を手に
    入れることが出来たのである。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    毛皮貿易が段々と盛んになると、フランス人は新世界の領土を拠点とし、フランス
    帝国を築き上げることを目指した。 しかし、フランスはその領土の支配権を
    完全に握っていた訳ではない。 フランス王アンリ4世は、アカディア地方
    (今日のノバスコシアとニューブラウンズウィッグの一部で、北アメリカでの
    最初のフランス領植民地)の所有権を強化するために、新世界の土地を裕福な
    フランス人に譲渡し、本格的な植民地経営に取り組ませた。

    1605年、サミュエル・ド・シャンプランは、ポールロワイヤル(今日の
    ノバスコシア州アナポリスロイヤル)に植民地を築いた。 1608年に
    シャンブランは、ケベック市を建設し、セントローレンスバレーにおける毛皮
    交易の主導権を握るための拠点とした。 また、毛皮交易を盛んにする手段として、
    イロコイ族を支援した。

    1609年にシャンブランの率いるフランス軍が銃で、イロコイ族の酋長を2人殺した
    (銃は当時北アメリカにはじめて持ち込まれた新兵器だった)。 それ以来、
    イロコイ族とフランスは長年敵同士となった。

    シャンブランは、ケベックの毛皮貿易を発展させ、『ヌーベルフランス』と呼ばれ
    ていた地域にフランス人を入植させた。 また、大規模な探検を何度か行い、
    1615年にはヒューロン族の領土まで赴いた。

    1615年、フランスからカトリックの宣教師がやって来て、インディアンの間で
    布教活動をはじめた。 10年後には、イエズス会の宣教師たちがカナダに上陸した。
    1642年には、フランスの他の派の宣教師たちが、モントリオールにカトリック
    教徒の植民地を築いた。

    svg

    ヨーロッパ人の到来は、インディアンの文化に深刻な打撃を与えた。 天然痘など
    海外から持ち込まれた病気によって、多くのインディアンたちは、自由に食料を
    採ったり、これまでの習慣に従った生活をしたりすることが出来なくなった。

    毛皮交易をめぐる競争によって、インディアンの部族間の対立が激しくなった。
    キリスト教の宣教師は、先住民の文化や信仰を認めず、ヨーロッパの社会組織と
    宗教制度を押し付けた。 こういう変化のお陰で、インディアンの部族間の連帯は
    ますます弱まった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    当時、ヨーロッパ人は贅沢な品物や豊かな市場のあるアジアへの近道を
    探していた。 1467年、イングランド王ヘンリー7世に雇われたイタリアの
    探検家ジョバンニ・カボートが北回りの海路でアジアへ向かった。 しかし、
    彼が上陸したのは、カナダの東海岸で、ニューファウンドランドとノバスコシアの
    中間のどこかだった。

    彼はそこをイギリスの領土と宣言した。 カボートが発見した土地は、沿岸の海が
    魚の宝庫だった。 ヨーロッパでは魚の需要が増えつつあったため、イギリス、
    ポルトガル、フランスの猟師たちが大挙してニューファウンドランド沖に出漁して
    来た。

    やがて、ヨーロッパ人はその地が未知の世界であることを知った。 ヨーロッパ
    各国の王室は、貴金属が埋蔵されている可能性のある新世界に注目した。

    24010546

    1534年、フランスの探検家ジャック・カルティエは、フランス王国フランソワ
    1世に資金を出してもらい、大西洋の探検航海に乗り出した。 1534年、
    カルティエはセントローレンス川の河口を発見し、35年には、セントローレンス川
    を遡って、2つのインディアンの村落に相次いでたどり着いた。 これが現在の
    ケベックとモントリオールである。

    カルティエは、この地域一体をフランス領と宣言した。 しかし、フランソワ1世は
    打ち続く戦乱のために、カルティエの探検にもうこれ以上の資金援助をする余裕が
    なかった。 カルティエは太平洋岸まで探検出来ず、フランスは新世界の植民地化を
    ほとんど進めることが出来なかったのである。

    【交易の発展とイギリスの進出】

    カナダにはまだヨーロッパ人の居住地はなかったが、ヨーロッパの漁師たちは、
    引き続き大西洋岸一体の豊かな漁場を利用していた。 捕った魚を日に干すために
    上陸した漁師たちは、付近のインディアンと出会うようになった。
    インディアンは、ヨーロッパ人の漁具に目を付け、毛皮と交換してもらいた
    がった。

    やがて、主にフランスの漁師とインディアンとの間で、毛皮交易が活発に行われる
    ようになった。 フランスの若者たちは、インディアンの村落の近くに住み始め、
    インディアンに集めさせたビーバーなどの毛皮を本国に送った。 インディアンの
    部族、特に、ヒューロン族とイロコイ族が、毛皮交易のインディアン側の主導権を
    めぐって張り合うこともあった。

    一方、イギリスは再び探検に関心を持ち始めた。 1583年にハンフリー・
    ギルバート卿がニューファウンドランドに上陸し、そこをイギリスの領土と
    宣言した。 その後、西へ向かって数々の探検が行われ、1610年にはイギリスの
    探検家ヘンリー・ハドソンが今日ハドソン湾と呼ばれる広大な内湾にたどり着いた。

    【お勧めの一品】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カナダには多くの大都市があるが、そのほとんどが国土の南半分に位置している。
    全人口の約75%が都市に住み、大半が東部各州の都会に居住している。

    カナダの首都はオンタリオ州のオタワだが、最大の都市は、同じオンタリオ州の
    トロントで、過去には、モントリオールが最大の都市であった。 両市の人口は、
    都市の周辺部までを含めるとトロントの方が大きいが、都市部だけの場合では、
    長年モントリオールの方が上回っていた。

    但し、トロントは、1998年1月1日に周辺都市部と広域合併をしたため、現在では、
    名実共にトロントがカナダ最大の都市となっている。 カナダ第3の都市は、
    バンクーバーとなっており、トロントとバンクーバーは、国連調査の世界で最も
    住みやすい都市ランキングでも、常に上位を維持している。

    118260

    【オタワ】
    オタワ川の南側に位置するオタワ(人口約101万人)は1857年以来、カナダの
    首都である。 その名前は、インディアンのオジブウェー族の言葉『アタワ
    (交易する)』に由来する。 1800年代に、イギリスの技師によってリドー
    運河が開通し、オタワ川とオンタリオ湖が結ばれた後、この地にイギリス人の
    居住地が出来た。

    オタワは1900年代の大火でほとんど全部焼けてしまったが、その後、カナダの
    工業、政治、観光の中心地として再建された。 市内の工場では、通信機器、
    紙、家具、加工食品、化学薬品などを製造している。

    市内には公園が多く、公的な儀式が度々行われるので、観光客も多い。 年間
    行事としては、5月の『春祭り』と、夏季に国会の正面入り口の前で行われる
    衛兵交代の儀式などがある。

    3065

    【トロント】
    トロントは、オンタリオ湖の北東岸にあり、船が頻繁に出入りする港である。
    全市の人口は、約560万人で、カナダで最も多い。 1793年にアッパーカナダ・
    イギリス植民地の首都が設けられ、瞬く間に発展した。 トロントという名称は、
    インディアンのヒューロン族の言葉で、『出会いの場所』を意味する。

    トロントは、カナダの製造業と金融業の中心地で あり、出版業と映画制作が
    発達し、工業地区では加工食品、衣類、木製品が生産される。 また、文化都市
    としても重要であり、ロイヤル・オンタリオ博物館やオーキーフ・センターと
    呼ばれる演劇の殿堂をはじめ、カナダで最も有名な文化活動の場が集まっている。

    eb03b271

    【モントリオール】

    モンとリール全体の人口は、332万人で、トロントには及ばないが、都市部だけの
    人口は100万人に達し、パリに次いで、世界第2位のフランス語都市でもある。

    モントリオールは、セントローレンス川の両岸にまたがり、交通の中心地である。
    川を下れば、大西洋に出る事が出来、セントローレンス水路によって、五大湖とも
    結ばれ、鉄道もここから東西に伸びている。

    モントリオールには、はじめインディアンのアルゴンキン族とイロコイ族が住み
    着いていたが、17世紀にフランス人がこの地に来て、カナダにおけるフランス領
    植民地の拠点を設けた。

    その後、1760年にイギリスが占領したため、モントリオールには、フランスと
    イギリスの伝統が両方ともある。 フランス系とイギリス系の住民はお互いに
    許せないところがあり、暴力沙汰を引き起こした事もある。 市民の中には、
    カナダにおけるフランス語圏とイギリス語圏を分離されるべきだという説を
    支持する者もいる。

    a7ae2f8d0

    【バンクーバー】

    カナダ第3の都市、バンクーバー(人口約183万人)は、太平洋に接続するカナダの
    重要な港である。 太平洋の暖流と穏やかな気候の影響で、冬季にも湾内の航路は
    凍る事がない。 ここはモントリオールやトロントは違い、一年中港として使える
    のである。

    北アメリカとアジア諸国との間の貿易が拡大した1960年代と70年代には、太平洋に
    面するという立地条件のお陰で、バンクーバーのカナダ経済に対する重要性が増した。
    また、カナダ東部と結ばれる鉄道も完成したため、国内の地位も向上した。

    70年代と80年代には、金融業と製造業が発展し、今日では、オンタリオ州以西で
    最大の金融、および、工業の中心地となっている。 広大な森林の資源を利用して、
    製紙・製材業が盛んで、木製品も大量に作られている。その他にも、豊かな天然
    資源に恵まれ、石油、石炭産業に原料を提供している。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ