東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:フランス

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    南フランスの地中海に面した都市ニースの東側にモナコがある。 面積は約2k㎡で
    世界で2番目に小さい国である。 ここには3万2,000人が住んでいる。 気候は
    温暖な地中海性気候で海岸沿いにはぶどう、オリーブ、いちじく等が育っている。
    国土は全体的に山がちで、三方をフランスに囲まれている。 住民の半数近くは
    フランス人で、モナコ人は2割に満たない。 公用語はフランス語となっている。

    モナコはかつてジェノバ出身の貴族によって統治され、中世にはジェノバの
    支配下に置かれていた。 その後、スペインやフランス等によって守られて
    いたが、1861年に独立しフランスの保護下に入った。 この頃からモナコは
    避暑地として注目され、公営カジノが開かれ、観光地として発展を始めた。
    1911年には立憲君主制に改め、憲法を制定した。 1918年にフランスとの間で
    外交・軍事に関する条約を結び、2005年までは外交や大公の即位にはフランスの
    同意が必要だった。

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    【世界中から集まる観光客】
     『地中海の宝石』とも言われるモナコは、古くから貴族や裕福な人々の保養地
    であり、今日も世界でも有数の高級リゾート地として人気が高い。 豪華な
    ヨットや地中海を巡るクルーズ船等が停泊する港湾地区は、ブランド店や販売等の
    商業地区となっていて、買い物客で賑わっている。 モナコの国家財政は観光
    収益や美しい切手の販売等でまかなわれているため、住民の所得に税金が掛から
    ない。 そのため、近隣のフランスやイタリアだけでなく、世界中の富豪も集まる。

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    モナコを代表するものと言えば、カジノとモナコグランプリである。 モナコに
    いくつかあるカジノのうち最も大きなグラン・カジノは、ステンドグラスや彫刻等の
    美しい装飾が施された豪華な建物で、夕方になるとドレスやタキシードを着た人々が
    集まり、夜遅くまでスロットやルーレット等のゲームが繰り広げられる。 毎年
    5月頃に開催される自動車のF1レースであるモナコグランプリは、カジノやホテルが
    建ち並ぶ狭くてカーブの多い市街地を走り抜け、すぐそばでレースを観戦出来るため
    観光客の人気を集めている。 この時期のホテルは満室になり、コース沿いにある
    高級リゾートホテルの部屋からの観戦も人気が高い。

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    1914年になると、協商と同盟の2つの国家グループが、ついに衝突した。
    フランス、イギリス、ロシアは、ドイツ、オーストリアと直ちに戦争に入った
    (イタリアは三国協商側についた)。 ドイツ軍はベルギーを横切ってフランスに
    侵入したが、戦闘は行き詰った。

    4年にも及んだ戦争で、双方共決定的な勝利をあげられなかった。 1918年に
    なって、イギリス、アメリカ、および、フランスの連合軍が、やっとドイツ軍を
    撃退することが出来た。 1918年11月11日、ドイツは降伏した。 フランス
    北部一帯は戦争の損害を受け、フランス国民の死者は150万人近くにのぼった。

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    【両大戦の間】
    ドイツは、1919年に調印されたヴェルサイユ条約によって、アルザス、ロレーヌの
    両地方をフランスに返した。 条約はまた、戦争の被害について、ドイツが巨額の
    賠償を支払うことを要求した。

    再びヨーロッパで戦争が起きるのを避けるために、フランスは1928年に多くの国と
    ケロッグ=ブリアン条約(ケロッグ不戦条約)を結んだ。 フランス政府は軍隊を
    再建し、東方からの侵略を防ぐために、ドイツ国境沿いにマジノ・ラインと
    呼ばれる要塞線を築いた。

    世界大恐慌が1932年にフランス経済を襲うと、失業が増え、工場は閉鎖され、労働
    組合員によるストライキと暴動が起きた。 不満を抱えた多くのフランス国民は、
    急進社会党、社民党、共産党による人民戦線に参加した。 人民戦線派は1936年の
    総選挙で勝ち、下院の多数派を占めた。

    レオン・ブルムを首班とした人民戦線内閣は、週40時間への労働時間短縮等労働者の
    要求の多くを認めた。 ブルムはまた、ドイツの軍事脅威の高まりに直面していた。
    1933年以来、ドイツはアドルフ・ヒトラーを指導者として、工業を再建し、新しい
    戦車、航空機、軍艦を生産していた。

    フランスは第一次世界大戦の後20年間、イギリスと密接な関係を保って来た。
    だが、両国の力だけでは、1938年のヒトラーによるオーストリアのドイツ併合や、
    1939年のチェコスロバキア侵略を阻止出来なかった。 フランス、イギリス両国
    政府は、ヒトラーに侵略した土地の保有を許して、戦争を防ごうと試みたが、この
    戦略は失敗した。 1939年夏、ドイツ軍の戦車、航空機、および、歩兵軍は、
    イギリスとフランスの同盟国ポーランドを電撃的に征服してしまった。 同年9月、
    第二次世界大戦が勃発した。

    【第二次世界大戦】
    1940年5月、ドイツ軍戦車がフランス北部に侵攻した。 数週間でパリは陥落し、
    フランス政府は6月17日、和平を求めてドイツと休戦協定に調印した。 フランスが
    降伏した時、フランス本土は分断され、3分の2がドイツ占領地域になり、残り
    (南部と南東部)がヴィシーに本部を置くアンリ・ペタン首相のフランス政権に
    管理が委ねられた。 ヴィシー政権は、ドイツ占領軍に何の抵抗もしなかった。

    他方、フランスのシャルル・ドゴール将軍はイギリスに亡命して自由フランス運動を
    はじめ、ドイツ占領軍と戦おうと全フランス将兵に訴えた。 フランスの国内では、
    海から連合軍が侵入するのを防ぐため、北西部海岸に陣地を築いたドイツ軍に
    対して、地下抵抗運動家達が秘密闘争を繰り広げた。 連合軍の主力はイギリス、
    アメリカ、カナダだった。 1944年、カナダ、アメリカ、イギリスの連合軍は、
    イギリスに集結して、フランス海岸からヨーロッパ大陸に反撃する準備を整えた。

    1944年6月6日、連合軍はノルマンディー海岸から上陸し、8月26日にパリを
    開放した。 ドゴール将軍はパリに戻り、政府を組織した。 1945年5月、ドイツが
    降伏すると、ドゴールは第4共和制を敷き、初代大統領になった。

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    カナダの国民は2つの多数民族と数グループの少数民族から成る。 全人口の45%は
    イギリス系で、29%はフランス系である。 イギリス系カナダ人は、移民と出生率の
    増加により、ケベック州を除く州で最大の人口を占めている。

    1950年代以来、他の多くの国籍の人々がカナダに移住して来た。 ウクライナ系、
    ドイツ系、西インド諸島系、スカンジナビア系を含む少数民族が全人口の23%を
    占めるに至った。 これらの住民は、それぞれの民族独自の文化を持ち続け、
    休日や祭日も伝統に従っている。

    総人口の残りの3%を占めるのは、インディアンとイヌイットのグループである。
    インディアンの大半は、カナダ政府指定の2000ヶ所以上の居留地に住んでいる。
    アルゴンキン族、イロコイ族、スー族をはじめとする多くのグループは、
    インディアンを強制的に居留地へ移住させる政府の差別政策に耐え、生活集団を
    維持して来た。 近年、インディアンの間から、より良い土地を要求し、独自の
    文化をもっと保護せよという声も上がっている。

    イヌイットの居留地はオンタリオ、ニューファンドランド、ケベックの3州と2準州の
    寒冷地帯である。 集団意識の高いイヌイットをカナダの西欧的社会に統合しよう
    とする様々な努力の結果、多くのイヌイットは伝統的文化を維持しつつ、同時に
    新しい文化に適応している。

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    フランス系とイギリス系のカナダ人は、相変わらず緊張関係にある。 フランス系の
    国民は、イギリス系とは言語と文化が異なるため、経済的、社会的に差別されて
    いると感じている。 フランス系の多いケベックでさえ、企業の経営者の大半は
    イギリス系である。

    カナダの統一が困難なのは、フランス系とイギリス系が敵対しているためでもある。
    例えば、ブリティッシュコロンビア州の住民は以前から、その地域の天然資源が
    オタワの連邦政府によって不当に開発されていると考えている。

    更に、アメリカ合衆国との関係が複雑で、時々緊張をはらむため、こういう様々な
    国内の対立が一層酷くなる。 カナダの市場にはアメリカの映画、書籍、
    テレビ番組、雑誌等がどっと入って来る。 アメリカ資本の企業がカナダ中に
    進出している。

    カナダ人の中には、強力な隣国であるアメリカがカナダ独自の生活様式を脅かして
    いると感じている者もいて、それが時には強い反米感情となって現れることも
    あった。 アメリカ・カナダ自由貿易協定(FTA)の批准をめぐって激しい論争が
    行われたが、そこにもカナダの経済がアメリカに支配されるのではないかという
    カナダ人の不安が伺える。

    近年は、これらカナダ最古の住民の子孫達も古来の習慣に現代の伝統を融合させ
    ている。 現在では、古代の信仰をあくまでも守ろうとする人は少なく、ほとんどが
    キリスト教徒である。

    ローマ・カトリックの信者数は、総人口の約48%を占めている。 その他は大半が
    新教徒で、特にカナダ合同教会とイギリス国教会の信者が多い。 ギリシャ正教、
    ユダヤ教、ウクライナカトリックを中心とするキリスト教少数派の社会もカナダ
    全土に点々と存在する。

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    平和になっても、フランスは国王支持の王党派と下院(国民議会)を支える共和派に
    分裂していたが、ナポレオン戦争の荒廃から、次第に立ち直った。 ルイ18世の後、
    1824年に国王になったシャルル10世は、中央集権制度を強化し、参政権など多くの
    個人の自由を制限した。 下院を解散して選挙法を改正しようとしたため、1830年
    7月に3日間、パリで革命が起き、シャルル10世は王位を追われた。 下院は
    ブルボン家のルイ・フィリップを新国王にした。

    ルイ・フィリップ国王の治世下で、フランスは工業化が急激に進んだ。 経済は、
    新しい工場や製造技術によって変化した。 労働者は、村や農場から大都市に移って
    来た。 政府は、鉄道や学校を建設した。 だが、王政は労働者に参政権を与える
    ことを拒否した。

    1846年に経済不況になると、都市では人民の代表を選出しようとする気運が
    高まった。 1848年に、パリで街頭デモ行進が行われると、暴動が広まった。
    反乱者は憲法も国王も葬り、共和派の指導者は第2共和制を打ち立てた。

    1848年2月の革命の後、社会改革を一層推し進める要求が続き、都会の暴動は
    日常的になった。 共和派は政権を保ち、新憲法を採択した。 これによって
    全ての男性市民参政権、選挙による大統領選出と1院政議会が保障された。
    ナポレオン・ボナパルトの甥のルイ・ナポレオンが最初の大統領選挙で勝ったが、
    議会が大統領の権限を制限するのではないかと恐れて、憲法を廃棄して自ら
    皇帝ナポレオン3世を宣言し、第2帝政の時代となった。

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    【第3共和制】
    ナポレオン3世は経済開発を進めた。 諸外国との貿易を奨励し、田舎や都市での
    公共事業計画を認可した。 フランスに限らず、ヨーロッパではこのようにして
    工業化が進んだ。 他方、プロイセン(現在のドイツ)は近代陸軍を創設、幾つかの
    ドイツ民族国家を統一して強力な帝国を築こうとしていた。 この脅威を防ぐため、
    フランスは1870年にプロイセンに宣戦を布告した。 フランス陸軍は初めから
    敗戦が続き、ナポレオン3世は捕虜となり、フランス軍はプロイセンに降伏した。
    この結果、フランス北東部の重要なアルザスとロレーヌの2地方をプロイセンに
    取られてしまった。

    プロイセン戦争に敗れると、フランスの官僚は第2帝政を覆し、第3共和制を
    宣言した。 だが、新政府は内輪もめして、力がなかった。 共和派と王政派の
    争いは1880年代を通じて続いたが、社会の改良は進んだ。 19世紀末になると、
    工業が拡大した。 労働者は労働組合を結成した。 政府は全ての小学校児童の
    教育を無料とし、義務化した。

    この期間に、フランスは、2つの重要な同盟を結んだ。 ロシアとの同盟
    (1894年)とイギリスとの協商(1907年)である。 ロシアとイギリスも1907年に
    同盟を結んだので、この3カ国の関係は三国協商と呼ばれた。 これは、ドイツの
    ビスマルク首相がイタリア、オーストリアとの間に三国同盟(1882年)を
    結んだ上、ドイツの軍事力が高まっていたので、ドイツと力の均衡を保とうと
    したものだった。

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    共和制が成立し、新しい議会(国民公会)の選挙が行われても、広がる不安と
    外国の侵略は阻止出来なかった。 秩序を確立し、まだ王政を支持する者を
    排除するために、国民公会の一部議員が公安委員会を設けた。 公安委員会は、
    1974年まで続いた恐怖政治の間、沢山の平民、貴族、僧侶を処刑した。 一方で、
    新政府の軍隊は外国軍を追い払った。

    1795年に国民公会は新しい憲法を制定した。 この憲法で、5人の総裁から成る
    総裁府と、2院制の立法府が置かれた。 この変革で、フランスは政治の安定を
    多少取り戻したが、更に不安と暴力は4年間続いた。 王政復古を願うフランス
    国民は、新政治体制に反対した。 総政府に不満だった王党派は、1799年に
    共和制を覆すと宣言した、若く精力的なナポレオンを支持した。

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    【ナポレオンの治世】
     優れた軍事・政治の戦略家であるナポレオンは、軍と政府を掌握した。
    ナポレオンの指令で、法律家達は国家の新たな法律として、ナポレオン法典を
    編纂した。 この法典は、言論の自由、宗教の自由、および、職業選択の自由を
    確立した。 新政府は、経済を完全に組み替えて、フィリップ4世以来続いて来た
    王宮の会計検査院を廃止し、国立中央銀行としてフランス銀行を創設した。

    再びフランスの軍事力をヨーロッパ最大のものにするために、ナポレオンは
    イタリアやヨーロッパ中部のハプスブルグ家支配の各地に攻め入って勝ちまくった。
    これらの国の支配者は、ただちに講和を申し入れて来た。 ナポレオンはまた、
    イギリスとの貿易、軍事上の紛争を解決し、ローマ・カトリック教会と宗教協約を
    結んだ。 こうしてナポレオンは、ヨーロッパ大陸を支配するフランス大帝国の
    創設を着々と計画して行った。

    ナポレオンは1804年に、自ら皇帝を宣言し、再びヨーロッパ中央部の侵略を
    始めた。 ナポレオンの敵は速やかに、フランスに対抗する同盟を結んだ。
    イギリスは制海権を握ってフランスの港を封鎖し、フランスとって重大な海外
    植民地との貿易を阻んだ。 ナポレオンのロシア攻撃は失敗し、ナポレオン自慢の
    大陸軍は崩壊した。 反仏同盟軍は1813年、ナポレオンをドイツから追い払い、
    皇帝は1814年に遂に退位した。 戦勝国はブルボン朝の王位を復活させ、ルイ
    16世の弟、ルイ18世を王位に就けた。

    ナポレオンに反抗した同盟軍は、ナポレオンをイタリア領エルバ島に流した。
    しかし、ナポレオンは1815年3月、強力なフランス陸軍を率いてフランスに
    上陸した。 同年6月18日、同盟軍はベルギーの街ワーテルロー付近に集結して
    ナポレオン軍を迎え撃って破った。 皇帝はイギリスに降伏した。 イギリスは
    今度は遠いセント・ヘレナ島にナポレオンを流した。 1821年、この島で
    ナポレオンは死んだ。 同盟諸国は平和のための最善の道として、再びルイ18世を
    王位に戻した。 また同盟軍は、民衆を抑えるために、フランスに駐留した。

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    1840年代のフランスの商人たちは、ベトナムの経済資源の開発に熱心だった。
    彼らはフランス皇帝ナポレオン3世に対して、ベトナムを侵攻するよう圧力を
    掛けた。 フランス艦隊は1858年に、ダナン港の攻撃を繰り返したが、制圧
    することが出来なかった。 翌年、フランス軍はサイゴンを占領すると、
    グエン王朝にメコンデルタを放棄させ、1867年には、この地域をフランス直轄
    殖民地にコーチシナにした。

    フランス軍は1880年代初めに更に北に進軍し、フエと紅河デルタを攻撃した。
    80年代末には、アンナン(ベトナム中部)とトンキン(ベトナム北部)が
    フランスの手に落ちた。 フランスはこの2地域とコートシナに加えて、やはり
    フランスが支配していたカンボジアとラオスを合わせて、フランス領インドシナ
    連邦を形成した。 フエのグエン王朝は内政だけは行う名ばかりの支配者に
    過ぎず、フランス政府が任命する総督が連邦全体を統治した。

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    植民地の統治者たちは、ベトナムの天然資源を開発して行った。 フランス人は
    メコンデルタの米を増産するために、湿地を干拓し、灌漑設も整えた。 植民地
    政府は、カンボジア国境沿いの土地をフランス人入植者に与え、大規模な農場や
    ゴム園を造らせた。 人口の希薄な中部高原地帯の土地所有者たちは、茶等、
    輸出でお金になる作物を栽培した。 北部では、フランス人は石炭と鉱物を
    採掘した。

    フランス人は、生産物を市場に出荷するために、ベトナム人労働者を使って港湾、
    道路、橋、鉄道を建設した。 だが、ベトナムの経済開発は現地の人々を潤さ
    なかった。 大抵の農民は、所有地の農場に住んでいない不在地主のために
    働いた。 不在地主は、収穫した穀物を現地で売らないで輸出した。 土地を
    失った大勢のベトナム人は、賃金も安く厳しい労働条件の下で、炭鉱やゴム園で
    働かなくてはならなかった。

    【抵抗運動と第二次世界大戦】
    フランスの厳しい植民地支配のため、インドシナ連邦に対するベトナム人の反対が
    強くなった。 貧しい農民たちは、高い税金、官吏の腐敗や、不在地主の権力の
    増大に抗議した。 20世紀初めには、ベトナム人の知識人グループが民族主義運動を
    起こし、フランスの支配を覆して立憲政治を打ち立てようとした。

    1920年代になると、ソ連の指導者レーニンの共産主義が、ベトナムの新しい世代の
    民族主義者に影響を与えた。 その中に、ホー・チ・ミンという若い活動家が居た。
    共産主義者たちは、農場、工場、鉱山等、全ての生産手段の国有化を唱えた。
    フランス滞在中に、ホー・チ・ミンはフランス共産党で活動するようになり、故国に
    戻って共産主義運動を始め、1930年にはインドシナ共産党を組織した。

    1930年代には、ベトナム人は、世界大恐慌を乗り切るのに必死で、政治不安も
    起きなかった。 インドシナ共産党は、不況で反仏感情を一層高めていたアンナンと
    トンキンで、特に運動を成功させた。 1930年代の終わりには、民族主義、
    非共産主義政党も沢山組織された。 これらの政党とインドシナ共産党は、フランス
    植民地政府によって強く反抗した。

    やがて、強力な日本帝国が東南アジアを脅かして来た。 第二次世界大戦で
    日本はアメリカとイギリスと戦い、1942年までにインドシナ半島全体を占領して
    しまった。 日本はベトナムに日本軍を進駐し、ベトナムの軍事施設を使用する
    権利と引き換えに、フランスのインドシナ連邦における主権を認めた。
    インドシナ共産党をはじめ、民族主義諸政党の指導者たちは、中国南部に亡命
    していた。 日本に反抗してベトナムの独立を勝ち取るために、亡命先で統一
    戦線を結成した。 この組織はベトミン(ベトナム独立同盟)と言われ、戦争が
    終わった後、フランスに対して反乱を起こす準備をした。

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    【ナポレオン戦争】
    1790年初め、市民革命によりフランス国王が処刑されると、ヨーロッパ諸国は
    自国でも暴動が起こるのを恐れ、フランス革命軍に攻撃を仕掛けた。 これに対し、
    フランス軍はライン川を越え、ドイツの諸国を占領、反君主制感情を煽ろうとした。
    1799年になると、フランスではナポレオン・ボナパルトが政権を取り、ドイツに
    侵入し、プロイセンとオーストリアの軍隊を破った。 また1806年には
    ナポレオンがドイツの征服地をライン同盟んび編成し、これを切っ掛けに
    神聖ローマ帝国は崩壊した。

    しかし、プロイセン、オーストリア、ロシアの軍隊は1813年、ライプツィヒで
    フランスを破り、2年後、プロイセンとイギリスがワーテルローの戦いで
    ナポレオンに勝利した。 勝者は新たに国境を引き直すためウィーン会議に
    集まり、プロイセンは北ヨーロッパに領地を拡大、一方、ハプスブルグ家は
    南ドイツの支配地を失った。 またこの会議では、ドイツ内35の君主国と4つの
    自治都市から成る新しいドイツ連邦に編成し直すことが決められた。

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    【ドイツ連邦】
    ドイツ連邦には連邦議会があったが、これにはほとんど権威がなかった。
    それぞれの君主国は独自の法律を施行し、独自の貨幣を鋳造、独自の軍備を備え、
    独自の税金を徴収していたからである。 しかし、1834年には、多くの君主国で
    関税同盟が発足した。 プロイセンの指導の下、この自由市場はドイツの産業を
    刺激し、統一ドイツのあるべき姿を示した。

    1840年代の凶作は、食糧不足や経済問題を引き起こし、多くのドイツ人は真に
    民主的な政府を求め始めた。 1848年には、フランスで起きた革命が
    オーストリアとドイツに波及、プロイセン、バイエルンなどの君主制の指導者達は、
    フランクフルトに集まり、国民会議を設立することで合意した。

    この会議では、世襲の皇帝の下にドイツが統一されることが決められ、プロイセン王
    フリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇帝に指名された。 しかし、会議に強く
    反対するフリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇位を拒否したので、国民会議は
    次第に支持を失って行き、1849年に解散した。

    【統一】
    1862年、フリードリヒ・ヴェルヘルム4世の後継者ヴェルヘルム1世は、オットー・
    フォン・ビスマルクを首相に任命した。 そこで、プロイセンの指導の下にドイツを
    統一しようと考えていたビスマルクはその後、デンマーク、オーストリアとの戦争で
    プロイセンを勝利に導き、ドイツ連邦に代る北ドイツ連邦を組織した。

    同じころ、ホーエンツェルン家の1人がスペイン国王に内定した。
    ホーエンツェルン家によるヨーロッパ支配のみならず、プロイセンの軍事力
    増大を恐れたフランスは、これに猛反対、この対立を上手く利用したビスマルクは
    1870年、普仏戦争(プロイセン・フランス)を引き起こした。 1871年、
    フランスの首都パリの開城によって戦争が終わると、プロイセンはフランス
    政府に多額の賠償金を要求し、ライン川西岸のアルザス・ロレーヌを割譲させた。

    その間に、ビスマルクは南ドイツの諸邦をプロイセンの支配下に置き、ヴィルヘルム
    1世はカイザー(皇帝)として、統一ドイツの指導権を欲しいままにした。 また、
    新しい憲法では、2院制が規定され、連邦参議員と帝国議会が創設された。

    19世紀後半、ドイツは急速に発展した。 人口が増加し、活気ある鉱山や工場が
    経済を一変、アフリカかアジアに植民地を建設し、イギリスやフランスに拮抗する
    国となっていた。 ビスマルクは25の邦国と帝国直轄の代表から成る連邦参議院に
    厳しい監視を続け、プロイセン専制の反対勢力排斥に務めた。 また、労働者の
    権利を守るSPD(社会民主党)の活動も制限されたが、急速な工業化は労働運動を
    促進し、社会党への支持は高まった。

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    1497年にレタイントンが死ぬと、後の皇帝は力が弱くて治世も皆短く、良く組織
    されていた政治制度を無視したので無政府状態を招いた。 16世紀になると、
    政府高官たちが互いに争い、1527年にそのひとり、マツクダンズン将軍が9代
    100年続いたレ王朝を倒し、遂に長年に渡る内乱が始まる。

    16世紀も後半になると、2大氏族が権力を分割して統治した。 北部ではティン氏が
    実権を握ったが、名目的な君主としてレ王朝を再興した。 南部で支配権を確立した
    グエン氏も、表向きはレ王朝を唯一の正統な君主とみなした。

    グエン氏は同時に、クメール帝国(カンボジア)に軍隊を進め、勢力を広めて
    行った。 クメール族は肥沃なメコンデルタをはじめ、広くインドシナ半島を
    支配していた。 グエン氏は、農民をクメール領に送り込んだ。 1690年までに
    ベトナム人は、メコンデルタのクメール族入植地、サイゴンに入り込んでいた。

    グエン氏はまた、絹や貴金属を中国、日本、および、ヨーロッパの商人たちに
    売って、対外貿易を伸ばした。 グエン氏の農園では、農民は国際市場を対象に
    して砂糖等を栽培した。 一方、ローマカトリック教会の宣教師に同行して来た
    ヨーロッパの商人たちは、懸命になって貿易を軌道に乗せ、またベトナム人を
    キリスト教徒に改宗させて行った。

    グエン氏の勢力は拡大して行ったが、メコンデルタに入植したベトナム人たちは、
    圧制に悩んだ。 1771年、ベトナム中部の山村、西山に反乱が起き、同村の
    グエン3兄弟が民衆を率いた。 1780年代に数年間の戦いの後、西山軍が
    メコンデルタからグエン氏の勢力を追い払い、次いで北部のティン氏の軍隊も
    破った。

    3兄弟はベトナムの北部、中部、南部を陥れると、統一政府の西山朝を設立した。
    だが、西山朝は、戦争のために農地が荒れ、収穫が衰えて飢餓になるという
    問題を解決出来なかった。

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    隣国のタイに亡命していたグエン氏一族の若い後継者、グエン・ツアクアインは、
    ベトナムを再び征服しようとした。 アジアに通商の拠点を作り始めていた
    フランス等外国の援助を得て、軍隊をメコンデルタから北へと進め、1802年に
    西山軍を破り、今日のベトナム領の殆んど全部を征服した。 そこでグエン・
    フツクアインはグエン王朝を建てて、自らゼーロン皇帝と称した。

    ゼーロン皇帝はベトナム中部のフエを首都とし、中国風の官僚制を強め、反政府
    勢力を全て潰した。 フランス人のカトリック宣教師が、多くのベトナム人を
    キリスト教徒に変えただけではなく、宮廷政治に干渉したために、ゼーロン皇帝は
    宣教師を弾圧し、フランス人の活動を制限し、国民のキリスト教信仰を禁じた。

    1830年代には、ゼーロン皇帝を継いだ息子のミンマン帝も父帝と同じように
    フランス人の影響に反発した。 皇帝はフランス人宣教師を大勢処刑したが、
    なお布教を続けながら、ベトナムをフランスが取得してしまうことを呼び掛ける
    宣教師も居た。

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    キング首相の後継者ルイ・サン・ローラン首相の下で、カナダは国際社会に
    積極的に進出するようになった。 国際連合(UN)の創設にも加わり、尽力した。


    1949年には、アメリカ合衆国および西ヨーロッパ諸国と共に、北大西洋条約機構
    (NATO)に加盟した。 国際問題に新しい役割を果たすようになったカナダは、
    朝鮮戦争(1950年~1953年)や、1950年代の中東戦争にも関わった。 国家間に
    紛争が起こると、停戦を監視する国連軍に兵を派遣し、しばしば停戦役を演じも
    した。

    しかし、国内では昔からの問題が再燃した。 フランス系カナダの小数民族である
    彼らの不満の声が再び上がった。 ケベックをカナダから分離独立させようという
    考え方が定着した。 分離主義者のグループが結成されたが、その中でも最も
    過激なのは、『ケベック開放戦線』というテロリストの集団だった。 新政党
    『ケベック党』は、ケベック州の行政における分離主義者を支持した。

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    1968年の選挙では、ケベック出身のフランス系カナダ人ピエール・トルドーの
    率いる自由党が勝利をおさめた。 新たに首相となったトルドーは、ケベックの
    分離主義者の問題を解決しようとした。 トルドー政権は、フランス語を英語と
    同等のものとする公用語法の制定に成功した。 彼は、カナダにおけるフランス系の
    伝統を公式に認めさせて、カナダの統一を図ろうとしたが、余り効果的では
    なかった。

    1976年、ケベック州議会で(ケベック党)が政権を得て、同党の党首ルネ・
    レベックが州首相の座に就いた。 レベック政権は、州政府がケベック独立に
    関する交渉権を握ることを提案し、州民投票でその賛否を問うた。 しかし、
    その提案は、反対約60%で否決された。 これにより、分離主義者の運動は
    後退した。

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    1970年代になると、反米感情が再燃した。 カナダの経済・軍事にアメリカ
    合衆国の及ぼす影響が強くなって来たことを、カナダ人は心配したのである。
    カナダの企業の多くは、アメリカ資本に支配されていた。 カナダの貿易と
    財政の安定は、アメリカに頼るところが大きく、経済の好・不況は、必ず
    カナダにも反映した。

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    19世紀の前半を通じて、アッパーカナダとローワーカナダは発展を続けた。
    道路と運河が建設されて交通が便利になり、農耕地も増えた。 1809年に
    カナダで建造された蒸気船がモントリオールとケベック間を運航するようになり、
    7年後には五大湖でも航行が始まった。

    人口が増加し、通商が発展するに連れて、植民地の統治方法への不満も高まった。
    統治権は少数のイギリス人が握っていた。 通商の上で殆んど力のないフランス系
    カナダ人は、19世紀の初期に移住して来た何千人というイギリス人によって、
    自分たちの文化と生活様式が脅かされるという不安と抱いていた。

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    イギリス系の支配に対抗して、政治改革を要求する気運が高まり、1837年に
    2つの反乱が起こった。 1つは、ローワーカナダの政治家ルイ・ジョゼフ・
    パピノーを指導者とするもので、もう1つはウィリアム・ライアン・
    マッケンジーが率いるアッパーカナダの抵抗運動だった。 反乱は共に、
    イギリス軍と民兵により、あっけなく鎮められ、2人の指導者と支援者たちは
    アメリカ合衆国へ逃れた。

    この2つの反乱が切っ掛けとなって、イギリス議会はカナダの状況を調べるために
    ダラム伯ジョン・ラムトンを派遣した。 ダラム卿は、イギリス領北アメリカ
    植民地に大幅な自治権を与えてはどうかと進言した。 イギリス内閣は、
    この改革は拒んだものの、アッパー、ローワー両植民地のを統合すべきだという、
    ダラム卿のもうひとつの勧告には賛成した。 1841年に統合された領土は、
    『連合カナダ』と命名された。

    1840年代になると、イギリス領北アメリカ植民地の諸州(その頃には連合カナダ、
    プリンスエドワードアイランド、ノバスコシア、ニューブラウンズウィックが
    含まれていた)は、責任政府である地方自治を目指した。 1850年頃までには、
    その殆んどの州が責任政府を建てて、ある程度の自治を行うことをイギリス本国から
    許されるようになった。

    イギリス領北アメリカは、隣国アメリカと足並みを揃えて発展した。 通商が
    始まり、互いを結ぶ鉄道も敷かれた。 イギリス領北アメリカはこの機会を
    利用して、織物業、漁業、木材の伐採搬出業、製粉業などをはじめとする
    経済活動を盛んにした。

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    イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
    基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
    例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

    しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
    ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
    (現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

    ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
    統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
    フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

    1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
    フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
    立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
    1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
    攻め取ることは失敗に終わった。

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    【アッパーカナダとローワーカナダ】

    アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
    誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
    北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
    独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
    ニューブラウンズウィックが設立された。

    イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
    イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
    アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

    アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
    カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
    それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
    イギリスだった。

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    【植民地の拡張】
    独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
    よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
    領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

    その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
    求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
    ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

    通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
    探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
    沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

    1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
    トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
    入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
    ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
    統治し、通商の権限を握った。

    19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
    ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
    居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
    野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
    よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

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    17世紀の末、ヌーベルフランスの商人たちは、領土の南側にあるイギリス
    植民地の商人たちと、毛皮交易の主導権をめぐって争っていた。 ハドソン湾
    周辺の土地の領有権についても、イギリスとフランスの両勢力が対立していた。

    1670年、イングランド王チャールズ2世により、ハドソン湾会社が設立された。
    同社は、当時の情勢に不満を持つフランスの毛皮商人の助けを得て、ハドソン湾
    沿岸の数地点に出先機関を設け、要塞を築いた。 ここで銃、ナイフ、調理道具と
    毛皮が交換された。

    多くの販路を持つハドソン湾会社は、インディアンや植民地の取引先に気に入られて
    勢力を広げ、フランスにとっては交易の重要な収入源を断たれる脅威となった。
    そのため、フランスが同社の出先機関を攻撃すると、イギリスも仕返しをした。
    この争いは、数十年続き、この地域でのイギリス・フランス間の緊張は高まった。

    1702年から1713年に掛けて、ヨーロッパでも両国間の運命を左右することに
    なった。 この間、新世界では、イギリス・フランス両軍が戦った。
    アン女王戦争と呼ばれるこの戦いは、1713年にユトレヒト条約が結ばれて
    終結した。 同条約により、フランスは、ハドソン湾岸とアカディア
    (後にノバスコシアと改名)、ニューファウンドランドを正式にイギリス領で
    あると認めた。

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    【フランスの最後の敗北】

    こうしてイギリスがフランスの領土を獲得すると、そこへイギリスの交易商人や
    開拓者たちが移住し始めた。 そのため、イギリス・フランス間の緊張は更に
    高まり、1753年に北アメリカ大陸で両国の武力衝突が起きて、1756年には、
    ヨーロッパにまで戦いが広がった。

    この戦争でイギリス側では、植民地の民兵、および、イギリスと同盟を結んでいた
    インディアン部族が戦い、フランス側にもインディアンの部族が付いた。 数の
    上で優勢なイギリスは、北アメリカ大陸からフランス人を追い出すことを狙った。


    イギリス軍は1759年にケベックを、1760年には、モントリオールを攻め取った。
    1763年のパリ条約で、現在のカナダにおけるフランス領は全てイギリスに譲渡
    された。

    既にアカディアを統治していたイギリスは戦争の間、アカディア人を北アメリカの
    各地へ強制的に移住された。 フランス人の子孫であるアカディア人が反イギリス
    活動に出るのを防ぐためである。 その結果、多くのアカディア人は、アメリカ
    合衆国に定住した。 戦争が終わるのを待って故郷に帰ったアカディア人も居たが、
    自分たちの住居や農場や既に他の人々に奪われていた。

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