アッティラが敗退すると、フランク族はライン川からロワール川にまたがる
ガリア地帯を数十年支配した。 486年、フランク族の国王クローヴィスは、
北フランスのソワッソンでローマ軍を破ってガリア北部を征服し、この地を
フランキアと呼んだ。

冷酷でずる賢いクローヴィス王は、フランク族を終結し、メロヴィング朝の基礎を
築いた。 496年にフランク族の宗教を捨ててキリスト教に改宗し、フランク帝国も
キリスト教国となった。 キリスト教の中心はローマであり、ローマ・カトリック
教会は信徒を支配した。

クローヴィスの死後、帝国は4人の息子に分割された。 遺産の分割はその頃の
慣習だったが、相続者たちは、自分の領土を広げるために戦争し続けた。
フランキアは南部と東部の土地を併合して大きくなったが、分裂状態のメロヴィング
朝の勢力は衰えて行った。

国王の行政権は、メロヴィング朝の王たちの最高顧問であった大宰相に移って
行った。 こうした大宰相の中でも最も力のあったエリスターベルのペピン
(ペパン)は、優れた指揮官だった。 ペピンが714年に死んだ時、既に強力に
なっていた王国を継いだのは、息子のシャルル(カール)だった。

シャルルは、『つち(槌)』を意味するマルテルというあだ名の通り、戦争では
負け知らずだった。 北イタリアのロンバルディア人がローマを攻略するのを
防いだので、フランク王たちとローマ・カトリック教会との関係は密接になって
行った。

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【シャルルマーニュ(カール大帝)】
シャルル・マルテルの息子が、フランキアの新しい王朝のカロリング朝を打ち
立てた。 シャルルと同じ名前の孫シャルルは、ライン川の東側に住んでいた
ザクセン人、バイエルン人、アヴァール人を征服した。 若いシャルルはまた、
北アフリカからスペインとポルトガルに侵攻して来たムーア人を、フランス南部で
食い止めた。 シャルルは武将であり、精力的な統治者だった。 ドイツ、
北イタリア、現在のフランスの殆んど全部を占領地にした。

800年にシャルルは、軍隊を率いてローマに赴いた。 ローマの貴族の教皇の間の
争いを調停するためだった。 シャルルは、教皇に有利になるように争いを解決
した。 感謝した教皇はサン・ピエトロ寺院で、シャルルに金の王冠を載せ、
西ローマ帝国の皇帝にした。 その後、シャルルはシャルルマーニュ(カール大帝)
と言われるようになった。

シャルルマーニュはその政治手腕と権限で、広い帝国を統治した。 814年に
亡くなると、領土は相続者たちに分けられた。 孫のシャルル禿頭王の領地となった
ライン川の西の地域の西フランク王国は、現代フランスの先祖である。

カロリング朝の力は、9世紀から10世紀初めに掛けて衰え、北ヨーロッパからの
侵略者バイキングを阻止出来なかった。 裕福な地主たちは防衛のため城を築き、
私兵を雇った。

やがてこの貴族たちは、城の周りの地域を統治する領主になった。 農民は、
侵略者から守ってもらう代わりに、領主の農地で働いた。 農民はまた、領主に
忠誠を誓い、収穫の一部を年貢として献納した。 領主たちは、その財産と富で、
フランス国王に影響を与え、自分たちで国王を選出する程になった。

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