14世紀頃、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルグの3国を合わせた地域は、
ネーデルランド(低い土地)と呼ばれていた。 1369年、フランドル伯の後嗣
マルグリードが、フランス王の息子のブルゴーニュ(現在のフランス東部)領主と
結婚した。 これにより、フラマン地域は、ブルゴーニュ家の統治下に置かれる
ことになった。 マルグリードの夫も、その後継者となった息子も、フラマンの
政治にはそれほど関わらなかった。

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ところが、3代目のブルゴーニュ公フィリップ善良公は、ネーデルランドの政治に
積極的な役割を演じた。 1419年から1467年まで続いたフィリップの長い統治
期間に、領土は南と東に広がり、ブラバント、エイノー、ナミュール、
リュクサンブール、アントウェルペンの諸州を含むようになった。 これらの
諸州は、単一の国家になった訳ではないが、ブルゴーニュ公の領土として緩やかに
結ばれていた。

フィリップは、自分の権威を集中するために、1465年、各州の代表者を
ブリュッセルに招集した。 この集会は、後のオランダとベルギーの国民議会の
前身である。 フィリップは、自分の臣下からなる大評議会に、ネーデルランド
諸州の司法と財政を委任した。 この変革によって、各州の持っていた権限は、
大幅に奪い取られた。 フィリップの息子のシャルル豪胆公は、1467年に父の跡を
継いで、ブルゴーニュ公となった。

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シャルルは、領土を拡大するために、フランス等周辺諸国と絶えず戦争をした。
戦争費用をまかなうために、重い税金が課された。 シャルルの侵略的行動に
憤慨した周辺諸国との戦いが続き、シャルルは、1477年に戦死した。

シャルルの死後、フランスは、ブルゴーニュ家の領土を次々占領し始めた。
フランスによる占領を避けるために、ネーデルランド各州の代表者達は、
シャルルの娘で20歳になるマリアの継承権を支援した。 その見返りとして
マリアは、フィリップ全良公が、かつて奪った各州の権利の一部を返還した。
マリアはまた、ネーデルランド議会が、議会自身の意志で会議を開くことに
同意した。

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