多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

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    タグ:フラマン

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    ベルギーの人口は、1,000万人を超え、ヨーロッパで最も人口密度の高い国の
    ひとつとなっている。 人口は、都市や郊外に集中し、1平方km辺りの人口密度は、
    ブリュセルとアントウェルペンで1158.3人、アルデンヌの田園地域は50.2人以下
    である。

    出生率も地域圏によって、大きな差がある。 フラマン地域圏の人口増加率は
    高く、圏外に移住する者は、極めて少ない。 これに対して、ワロン地域圏では、
    人口増加率はマイナスであり、地元生まれの親から生まれる幼児の数は、減少
    している。 しかし、この地域圏に流入する外国人が多く、相対的な人口は安定
    している。

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    【民族グループと社会構造】

    フラマンとワロンは、この国の人種と言語の区分の核心である。 フラマン
    地域圏は、西部と北部で、西フラマン、東フラマン、アントウェルペン、
    リンブルフの4州と、ブラバンド州の北部である。 ワロン地域圏は、
    ブラバンド州の南部の他、エイノー、ナミュール、リエージュ、
    リュクサンブールの4州を含む。

    両地域圏の人種的背景は、殆ど同じで、どちらも、ケルト民族のベルガエ人と、
    ゲルマン民族のフランク人の子孫である。 フラマン地域圏では、ゲルマンと
    ケルトの両文化が混合し、ゲルマン系の言語であるオランダ語が使われるように
    なった。 ワロン地域圏では、ケルト文化的特徴が比較的強く、フランス語が
    使われて来た。

    人々の約56%は、オランダ語だけを、32%がフランス語だけを話す。 両方を話す
    市民は、11%だけとなっている。 ドイツ語を母国語とする人は1%未満で、ドイツ
    との国境のリエージュ州東部に住んでいる。 どちらの地域圏でも、社会は複数の
    自立的な『柱』に分かれ、この『柱』が生活の殆どの分野の基本となる。 『柱』の
    それぞれに、独自の政党、労働組合、新聞、学校等の社会組織がある。 人々は、
    この『柱』のシステムを通して職業を見つけ、医療を受け、事業を営む。

    宗教や政治上の意見の似ている人々は、普通、同じ『柱』に属する。 ひとつの
    『柱』から別の『柱』に心を移すのは、単に、別の政党に籍を移す以上の大きな
    意味を持つ。

    この『柱』は、3つ存在し、その内訳は、カトリック、リベラル、社会主義と
    なっている。 カトリックの『柱』は、社会を横断していて、上流、中流、
    労働者の3つの階級を結び付けている。 この『柱』の中には、フランス語を
    話す人々の政党と、オランダ語を話す人々の政党が、それぞれひとつづつあって、
    両方の言語グループの利益を擁護する。

    リベラルの『柱』は、主として、中流階級の職業人が所属し、社会主義の『柱』は、
    労働者が権力を握っている。 リベラルと社会主義のどちらの『柱』にも、
    それぞれの政党内にオランダ語ブループとフランス語グループが存在する。 

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    【教育】
    言語の違いは、教育制度にも及んでいる。 教育に使われる言語は、フラマン
    地域圏では、オランダ語、ワロン地域圏では、フランス語である。 殆どの
    国民は、2つの民族言語のどちらかひとつを読み書き出来る。

    児童は、満16歳まで学校に通う。 政府は、公立、私立どちらの学校にも資金を
    支出し、教育は無料で行われる。 児童の57%は、私立学校に通い、私立学校の
    大部分は、宗教ブループが経営している。 初頭高等学校教育のための学校は、
    一般、技術、芸術、職業の各科目について教育を行う。

    大学は6つあり、職業教育の高等専門学校がいくつもある。 大学で最も古いのは、
    ルーヴァンのカトリックの大学で、1425年に創立された。 ここの図書館は、
    世界的に有名で、6世紀から16世紀におよぶ中世の資料を保管している。 元は、
    2つの民族語を併用していたが、1970年にオランダ語とフランス語に分割された。

    ブリュッセル自由大学は、1834年に創立され、宗教的な制約は全くないが、
    フランス語で教育が行われている。 その他の大学は何れも、19世紀以降に開設
    されたもので、ゲントにある国立大学は、1917年創立で、オランダ語で講座が
    開かれている。 リエージュとモンスにある大学では、フランス語で講座が
    行われている。

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    フラマンとワロンの両地域圏の対立は、地域的な小規模政党の発達を促した。
    現在の中央政府は、いくつかの政党で連立して国会内で多数を占めること
    によって成り立っている。 フラマン・キリスト教人民党は、フラマン地域圏
    では最大の政党で、これがワロン地域圏にある同じ考え方の比較的小規模な
    政党と提携して、カトリック投票ブロックを形作っている。

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    キリスト教人民党は、何人もの首相を出しており、その中には、レオ・
    ティンディマスとウィリフリード・マルテンスがいる。 マルテンスは、
    1979年に最初に首相になって以来、数回に渡り首相に選ばれた。 社会党は、
    ワロン地域圏で勢力が強く、オランダ語とフランス語をそれぞれ母国語と
    する人々の集団が、内部に作られている。 この点は、自由党の場合も同じで、
    自由党の強い支持基盤は、ブリュッセル地域圏である。

    1980年代には、失業率は増大し、物価は高騰していた。 この時期にも
    マルテンスは、首相となり、政府から緊急権限を与えられて、国の財政
    状態の改善にあたった。

    彼は、強力な経済政策を採用した。 公共投資と福祉予算を大幅に削って国家の
    負債を圧縮した。 労働者は、賃金の切り下げを強いられ、デモやストライキが
    多発した。 マルテンスは、企業への課税を減らして、生産の増大と職場の
    創設をはかり、世界市場での競争力を付けされた。

    その目的を達成するため、マルテンスは、数度に渡り、短期間、野党の地位に
    甘んじたが、いすれの場合も、新しい連立内閣を作るのに成功した。 1990年代
    初期までに、 この強力な政策は功を奏し始めたようで、ベルギーの経済情勢は、
    久しぶりに改善された。

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    この間、ECを統一した貿易ブロックに作り変えようとする計画が策定された。
    その結果、1993年には司法等の面での結び付きを強めて欧州連合(EU)へと
    移行した。 EUの本部をブリュッセルに置くベルギーは、ヨーロッパ市場の
    大変革の中心に位置している。 1993年、国王ボードワン1世の死去に伴い、
    弟のアルベール2世が即位した。 その後、アルベール2世の長子である
    フィリップが国王に即位し、現在に至っている。

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    ベルギーの戦後は、大体において繁栄した。 外国の援助を受けてベルギーは、
    製造部門を現代的なものにした。 この改良は、フラマン地域圏でめざましく
    進み、国際的な投資によって、産業は近代化され膨張した。 しかし、ワロン
    地域圏では、産業活動の改善は余り行なわれなかった。

    1948年、女性が投票券を獲得した。 これは男性が1919年以来持っている権利
    である。 ベルギー政府は、この国の社会福祉政策を推進して、一般市民を
    経済的な困窮から保護するために、年金、健康保険制度、失業手当等を創設した。
    ボードワン国王と政治的指導者達は、国際強力と世界平和への努力を強め、
    ベルギーは、国連創設のメンバーとなった。 ベルギーは、オランダと
    ルクセンブルグの両国と通商協定を結んだ。

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    ベネルクス連合と呼ばれるようになったこれら3国の小国は、合体した事で
    経済力を強めた。 3国はまた、NATO、つまり、北大西洋条約機構に加盟した。
    これは、他の大部分の西ヨーロッパ諸国も加盟している軍事防衛組織である。
    NATOは、その人事管理部門の本部をブリュッセルに置いており、NATOの軍事
    本部もベルギーのモンス市近くにある。

    ベネルクス連合の成功によって、ヨーロッパの他の国々でも経済的強力を強め
    ようとの考え方が台頭した。 後に、ECと呼ばれるようになった共同市場が、
    1957年に発足し、ブリュッセルがその人事管理上の本部となった。 ECは、
    全ての加盟国の経済政策の強調をはかり、財政投資を行って、EC加盟国の間の
    経済発展を促進することを使命としていた。

    1960年代、国連の決議によって、ヨーロッパ各国は、それぞれの植民地に独立を
    認める方針を取ることになった。 ベルギー領コンゴ(現ザイール)で騒乱が
    勃発した後、ベルギーは、この地域の独立にいち早く同意し、1962年には、
    ルアンダとブルンディに独立を与えた。

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    植民地を放棄した後も、ベルギーの経済は順調な発展を続けた。 しかし、1970年
    までに経済的な格差(特にフラマンとワロン)は、一層深刻なものとなった。
    オランダ語を話すフラマン人達は、1970年代に多国籍企業が多くの地域に近代的な
    製造工場や新しい通信網をこの地域に建設したため、めざましい発展を遂げた。

    これに対して、フランス語を言語とするワロン地域圏では、重工業が老朽化し、
    石炭の埋蔵量が底をついたため、衰退し始めた。 ワロン地域圏には戦後、外国の
    援助も資本の投資も余り行われなかったのである。

    自分達の要求が無視されていると感じたワロン地域圏の人々は、ベルギーを2つの
    独立した地域に分割する案を提起した。 ワロン地域圏に対して、財政的な責任を
    負うのを望まないフラマン地域圏の人々も、この分割案を支持した。

    ベルギー人は1970年代と80年代に、数回の国民投票を行って、憲法を改定した。
    この憲法の改定によって、地域議会が創設され、行政委員会が任命されて、財政
    資金を主要な言語地域の間で分割することが定められた。 1989年の憲法改正に
    よって、ベルギーは、フラマン、ワロン、ブリュッセルの3つの地域圏から成る
    連邦国家となり、この3つの地域圏は、これまで中央政府の有していた権限の
    多くを獲得した。

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    18世紀末、フランスの革命家達は、自分達の王を退位させて、国の支配権を
    握った。 彼等は、他のヨーロッパ諸国の人民を応援して、それぞれの国の
    君主制を倒させそうとした。 1792年、フランス軍は、ベルギー領域に侵入し、
    スヘルデ川をオランダの手から開放した。 将軍ナポレオン・ボナパルトの
    率いるフランス軍は、1796年、ベルギー領域を占領して併合した。

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    貿易ルートの再開によって、ワロン地域圏は繁栄した。 ことにリエージュは、
    付近に鉄鉱石が発見され、武器の製造と輸出が盛んになった。 ゲントの繊維
    産業も膨張した。 フランス政府は、ベルギー領域を再編成して、カトリック教会
    から取り上げた土地を農民に与えた。 その一方では、フランス政府は、戦費を
    賄うためにベルギー領域に重税を課し、オランダ語の使用を制限した。

    ナポレオンの強力な中央政府は、人々の反感を招いた。 また、フランス人の
    反宗教的な姿勢は、この領域の人々のカトリック的伝統に反するものだった。
    そして、一般市民が強制的にフランスの軍隊に編入されることは、人々の怒りを
    買った。

    1804年にフランス皇帝になったナポレオンは、1810年までにヨーロッパ大陸の
    大半を征服し終えた。 ナポレオンの野心に対抗して、オーストリア、イギリス、
    プロイセン(現在のドイツ)、スペイン、ロシアが同盟した。 同盟軍は、
    ナポレオンの軍隊をヨーロッパの南部と中央部から追い払った。 1815年に
    ブリュッセルの5キロほどにあるワーテルローで、ナポレオンは、最終的な
    敗北を喫した。

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    ナポレオンを打ち破った各国は、1815年にウィーン会議を開いた。 各国は、
    ヨーロッパに新しい境界線を引いて、フランスが再び大きな力を持つのを阻止
    しようと考えた。 オーストリアは、イタリアでの領土獲得と交換に、ベルギー
    領域に対する権利を放棄した。 こうして、ベルギーとルクセンブルグは、
    オランダの領土となった。 だが、カトリック教徒の多いオランダの統合には、
    無理があった。 ベルギー領域の人々は、差別されていると感じた。 完全な
    平等を認める協定が調印されたにも関わらず、ベルギー領域の人々は、高い
    地位の公務員になることが出来ず、また、国会での議員数もオランダ人より
    少なかった。

    オランダ王ウィレム1世は、カトリック系の学校をオランダ政府の支配下に置こう
    とした。 また、1828年、オランダ政府は、ウィレムの政策を批判した新聞を
    発行禁止にしようとした。 このような政策に対し、人々は、皆憤慨した。
    オランダ語を話すフラマンの人々とフランス語を話すワロンの人々は、長年の
    争いを乗り越えて協力し、ウィレムに抵抗した。 こうして、オランダに対抗する
    『反抗同盟』が出来、人々は、民族的な独自性と誇りの感覚を発展させて行った。

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    ベルギーは、フランスとドイツに挟まれており、国として成立したのは、
    1830年である。 国名は、古代にここに定住したケルト人の一派
    『ベルガエ人』に因んでいる。 この地域は、西暦前50年頃以降、ローマ、
    フランク、スペイン、オーストリア、フランス、オランダ等の勢力に次々と
    制服された。 2度に渡る大戦の際には、ドイツの攻撃を受け、占領された。

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    この国には、フラマンとワロンという2つの大きな地域圏がある。 2つの
    地域の大きな違いは、言語である。 フラマン地域圏は、北部と西部にあり、
    ここに住んでいるのは、オランダ語(フラマン語)を使用している。
    そのうちの多くは、フランス語も知っている。 ワロン地域圏は南部にあり、
    ここの人々は、日常生活にフランス語を使用しているが、オランダ語も
    話せる人もいる。 また、ワロン地域圏の中には、ドイツ語を使用している
    グループもある。 外国に支配されていた時期が長かったにも関わらず、
    それぞれの地域圏に住む人々は、自らの歴史と文化に強い誇りを持ち
    続けている。

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    人々は、信仰と生活の上でカトリック教会と固く結びつき、教会は、
    いくつもの政党に強い影響力を持っている。 カトリック教徒ではない
    人々は、非宗教的な政党に所属している場合が多い。 これらの内部事情
    にも関わらず、近代と現代のベルギーは、ヨーロッパの経済的統合を目指す
    上で指導的な役割を果たして来た。 EU(欧州連合)の政策決定の本部は、
    ベルギーの首都に置かれている。 ベルギーは、EU加盟国として大きな
    市場に販路を持ち、また、EUに投下される財源から一定の助成を受けて
    いる。 これらの利点によって、ベルギー国民は高い水準に達することが
    出来た。

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