多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:フィンランド

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    国連と米コロンビア大学は、2017年3月20日、世界155の国や地域を対象にした
    世界幸福度ランキングを発表した。

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    報告書の幸福度ランキングでは、ノルウェーがデンマークを抜いてトップ、
    日本は昨年度からランクを2つ上げて51位だった。 一方、サハラ以南諸国と
    シリア、イエメンが下位となった。

    【トップ10の国】

    ②デンマーク
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    ③アイスランド
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    ④スイス
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    ⑤フィンランド
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    ⑥オランダ
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    ⑦カナダ
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    ⑧ニュージーランド
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    ⑨オーストラリア
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    ⑩スウェーデン
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    この他、ドイツ16位、英国19位、フランス31位、米国14位だった。
    日本は51位、シンガポール26位、タイ32位、台湾33位などとなった。

    【ワースト10の国】
    146位 イエメン
    147位 南スーダン
    148位 リベリア
    149位 ギニア
    150位 トーゴ
    151位 ルワンダ
    152位 シリア
    153位 タンザニア
    154位 ブルンジ
    155位 中央アフリカ共和国

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    日本とアメリカの教育は、完全にビジネスで、学生のことなど一切考えてはおらず、
    金儲けのことばかり。 それは、完全に教育に現れており、社会形成にも多大な
    影響を及ぼしている。 この動画に出て来る、『テストで点を取る訓練は教育ではない』、
    『裕福になっても他人の境遇を尊重できる人に』、『問題意識を持って自分で考える
    ように教える』、『自分も他人も尊重できて幸せに生きる方法を教えている』の部分は
    全くその通りで、例えば、日本で、問題提起のためにマイナスが事柄を述べると、一様に
    嫌な顔をされるのだが、ヨーロッパでは、むしろ、社会を変えるための材料を提起して
    くれたと非常にプラスに受け取られる。



    日本社会がいつまで経っても一切何も変わらないのは、一切問題提起が出来ない監視
    社会であるところで、問題の原因部分には一切触れないため、何もかも、泣き寝入りか
    臭いものにフタで終わる。 ヨーロッパ人と日本人の思考回路の最大の違いは、正に
    この点で、政治や社会問題を取り上げる事すら許されない社会に未来はない。

    日本やアメリカの教育は、単なる詰め込み教育で、記憶力さえあれば、誰でも点数を
    取れる。 特に、日本の場合は、応用は一切要求されないため、丸暗記だけでテストは
    乗り切れる。 最近では、ブラック企業ばかりの社会に成り果てたため、一流大学を
    卒業したところで、ブラック企業以外の就職先はないので、日本の大学は卒業するだけ
    時間とお金の無駄。

    その国の礎は、教育であることは、ヨーロッパでは既に実証済み。 金儲けのために
    他人を平気で蹴落として、自分だけのうのうと暮らせる強欲社会はもう終わらせるべき。
    現状、何でもやった者勝ちとなっているため、お金も集まるところにしか集まらず、経済も
    回らなくなった。

    【日本とフィンランドの教育制度の違い】
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    フィンランドに負けず劣らず、オランダの教育も日本の数段上を行っているので、良い
    ものは素直に受け入れて、前に進むべき。 そのような社会を目指している政治家は
    日本には居ないと思うが、そもそも、国民が選挙によって、自分達の社会を自ら選んで
    いる事も学校でしっかりと教えるべき。

    フィンランドでは、子供が生まれると、国から母親全員にベビー服や布団、哺乳びんや
    絵本などのセットが届き、17歳までの子ども全員に月1万3千円が支給される。

    無意味な競争は、子供達から学力と幸福を奪ってしまう。 教育は親の経済力とは関係
    なしに、皆平等に与えられるべき。 フィンランドの学校では、授業料が無料というだけ
    でなく、子供達には通学手段、給食、教科書や学用品が無償で提供される。

    世界一学校に行くのが苦痛な日本と学校が楽しいフィンランドとでは、教育に対する
    根本的な考え方がまるで異なる。 教育の場である学校までをも金儲けの場にしている
    国では、子供達も金儲けのことしか頭にはなくなるのであろう。 

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    1600年代初期に、スウェーデン国王グスタヴ2世アドルフの軍事拡張策が成功して、
    スウェーデンはバルト海地方の大国になった。 ドイツとの三十年戦争(1618年~
    1648年)の際、国王は、勇猛な戦士だったフィンランド兵の戦闘の上手さに頼って、
    ドイツに出兵した。 スウェーデンは戦費を調達するために、フィンランド人をはじめ、
    領内の国民全てに過酷な税を課した。

    グスタヴ2世アドルフが1632年に死に、ただ1人の後継者、6歳の王女クリスティーナが
    王位に就いた。クリスティーナが成人になるまで、スウェーデン貴族アレクセル・
    オクセンチャールナは、やはり裕福な貴族で、競争相手の政治家ペール・ブラーヘ公の
    追い落としを図り、新設のフィンランド総督に任命してトゥルクに左遷した。

    ブラーヘ総統は、フィンランド人のために全力を尽くした。 スウェーデン語より
    フィンランド語を使うことを奨励し、聖書のフィンランド語完訳を開始した。 1640年には
    フィンランド最初の大学をトゥルクに創設した。 同じ頃、ブラーヘ総督は、ラーヘ市を
    オストロボスニア地方の西部地区の中心都市に決めた。

    Raateroad

    【紛争と改革】

    ブラーヘ総統が退任した1658年までに、スウェーデンには重大な変革が起きていた。
    摂政オクセンチャールナが死に、クリスティーナ女王が王位を放棄し、継承者の
    カール10世グスタヴは自国の領土拡大とロシアの拡大阻止のため、ポーランドと
    戦争をしていた。 スウェーデン軍がポーランドと交戦中、フィンランド人たちは侵攻
    して来たロシア軍を破った。 スウェーデンとロシアは1660年、フィンランド東部国境を
    設定し、ポーランドの一部とデンマークをスウェーデンの領土にするカルディス条約を
    結んだ。

    1672年、若いスウェーデン国王カール11世は、国王独裁を宣言し、伝統的に官僚と
    分担して来た権限を取り上げた。 また、フィンランドでスウェーデン語を広めて、
    スウェーデン文化との結び付きを強めた。 1686年にカール国王は、スウェーデンの
    ルター派教会をフィンランドのの公式の教会と決め、その監督を任命した。

    スウェーデン国王は、トゥルク教会の監督に、全フィンランドの人に読み書きを教える
    責任を課した。 監督と教区の司祭たちはが真剣に教えた結果、フィンランドは、ほぼ
    全住民が読み書き出来る国のひとつになった。

    読み書き能力の普及を除けば、1600年代末期のフィンランドには、大した進歩が
    なかった。 スウェーデンの支配者たちは、スウェーデンに兵士を提供し、税金を
    支払っているフィンランド人を、ますます省みなくなった。 更に、フィンランドは、
    1696年と1697年の大飢饉で、住民の3分の1が病気で死んだ。

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    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化して行った。
    フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の民族と同一だとみなしていた。
    この間に、スウェーデン語を話すフィンランド生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で
    権力を持つようになった。 地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、
    フィンランド領内の城を管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に
    最高官吏として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢のフィンランド人が
    スウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

    agricola

    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を布教し、多神教の
    フィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。 まだ大学がなかった
    16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の教育、宗教の中心地に留学
    させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・アグリコラ(1510年~1557年) は、
    ドイツのウィッテンベルグの大学で学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人にマルティン・ルターの
    革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この運動は、ローマカトリック教会の
    権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ各地で、プロテスタントのルター派が
    広まった。

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    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ正教派を
    採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア文化の
    影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。 この時期の
    フィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦っていたため、スウェーデンの
    結束した力に対抗する事が出来なかった。

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    【スウェーデンの支配】


    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)に
    伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを責任者と
    した。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア地方の
    東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、両国は、
    スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクがフィンランドの
    中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の間で話されるように
    なった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。



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    考古学者によると、人々が初めてフィンランドにやって来たのは、紀元前7000年頃だった。
    当時はまだこの土地に氷河期の氷が残っており、今のバルト海は淡水湖だった。 一番
    古い居住者達は、歴史学者がラップランド先住民サーミ人の先祖とみなす人々で、
    フィンランド南部の海岸沿いに住んだ。 ムース(ヘラジカ)を射止め、魚を取って食料と
    した。 船を作くり、船首の飾りにムースの頭を彫ったことが、この時代の出土品に示され
    ている。

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    【新移住者の到来】

    紀元前3500年頃、遊牧民の集団が現在のロシアを横切って、バルト海の沿岸地方へ
    移動を始めた。 フィン・ウゴル語族と呼ばれるこの集団は、フィンランド南西部へ
    移って行き、やがて何世紀もの間に北方へ広がって、フィンランドの先住民達を更に
    北へ追いやった。 フィン・ウゴル語族の中には、20世紀まで、共にフィンランド領だった
    カレリア地方やラドガ湖(現ロシア領)地方など、東方に移動した者も居た。 そこに
    定住した者達の土器は、くしの歯に似た文様を刻んだ櫛文土器となっている。

    同じ頃、北ヨーロッパからフィンランドに渡来したゲルマン系の新しい移住者達を、歴史家は
    その磨き上げた石斧の形から、舟形斧人と呼んでいる。  舟形斧人達は、フィンランド
    南西部に広く住み着き、原住民と結婚して行った。

    鉄器時代フィンランドの生活は、19世紀に集められた古い民話に描かれている。 この
    民話によると、鉄器時代のフィンランドの人々は、自分達をスオマライセット人
    (フィンランド人の意味)と呼び、国をスオミと名付けた。 この人々は、今のフィンランド
    南西部に住んで狩猟をした。

    ハマライセット人は、(ハメ地方の人の意味)という別のグループは、現在のラハティ市
    からタンペレ市に至る内陸地方に住み、農業を発展させた。 フィン語族第3の
    グループであるカレリア人は、今のフィンランドの東部国境沿いに住んだ。 各グループ
    の居住地は、広大な原野で互いに隔てられていた。

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    フィンランドの人口は510万人で、そのやく64%が南部に集中している都市に
    住んでおり、北部は人口が希薄になっている。 多くの中規模の街は、海岸沿いに
    あるが、その重要性は、首都ヘルシンキには及ばない。

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    【ヘルシンキ】

    ヘルシンキは、ウーシマー州の州会で、フィンランド湾に面したでこぼこな花崗岩の
    半島上にある。 沖合いの多数の島も含め、人口は93万人を超える。 文化活動の
    中心地で、博物館、美術館、各種の教育機関の他、主に造船、機械、陶磁器、繊維など
    大企業の本社がある。

    ヘルシンキの歴史は長く複雑で、隣国のスウェーデンとロシアとの関係が深い。
    両国は異なった時代にそれぞれフィンランドを支配した。 1808年の火災で、初期の
    定住地区が破壊した。 政府は1816年、ドイツ人建築家C.L.エンゲルを雇い市を
    再建した。 エンゲルは広い道路、大きな公園、高く白いビルの建つゆったりとした
    都市を建設した。 後年になって、首都の内部だけではなく、周辺にも住宅地区を
    沢山建設したが、地下鉄が都心部と郊外を結び、市内の交通混雑の緩和に
    役立っている。

    【その他の都市】


    タンペレ(人口17万6千)は、フィンランド第二の都市で、南部のハメ州の中心都市と
    なっている。 北側のナシ湖から南側のピュハ湖に注ぐ急流で、2地区に分断されている。
    1779年に都市の基盤が出来ると、1800年代には重要な工業都市に成長した。
    現在は、履物、皮革製品、繊維、金物類、紙を生産している。 大学と技術カレッジが
    それぞれ1校づつある。

    フィンランド最古の都市トゥルク(人口16万人)は、フィンランド第三の都市で、ボスニア湾の
    アウラ川の河口にあり、南西部の重要な港となっている。 製造業の中心地でもある。
    1800年代までフィンランドの首都であったトゥルクは、スウェーデンに非常に近いため、
    住民の約5%は主としてスウェーデン語を用いている。

    他にボスニア湾に面した重要な都市は、工業の中心地であるオウル(人口10万4千)、
    古い商業の街ポリ(人口7万6千)、ヴァーサ(人口5万5千)がある。 ヴァーサ市民の
    約3分の1は、第一言語がスウェーデン語となっている。

    スポーツ行事で有名なのが、バイヤンネ湖の南端にあるラハティ(人口9万4千)で、3月に
    冬のスポーツ大会が開かれ、国内外の人達が大勢集まる。 バイヤンネ湖の北端にある
    ユヴァスキュラ(人口7万2千)は、フィンランド中央部の森林地帯に近く、林業の中心地
    となっている。

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    フィンランド語でスオミと呼ばれるフィンランド共和国は、スカンジナビア半島とロシア
    連邦に挟まれた北ヨーロッパの国で、このような地理のため、フィンランドは領土を
    拡張しようとする近隣の大国から侵略されて来た。 フィンランドは、長い歴史の中で
    多くの戦争を経験し、国境は何度も変えられた。

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    国境を接するスウェーデンは、フィンランドを自分の国に組み入れて、13世紀半ばから
    1808年まで統治した。 1808年には、ロシア軍がフィンランドを征服したが、ロシア皇帝は、
    スウェーデンが制定した法律や行政制度は、そのままフィンランドに残した。

    フィンランドで文芸が栄えた19世紀に、フィンランド人の民族意識と文化を誇る気持ちが
    高まった。 民族主義運動を支えとしてフィンランド人は、ロシアの祖国完全併合の
    企てに抵抗した。 1917年に革命家達が、ソ連をつくる第一歩としてロシア帝政を倒すと、
    フィンランドは、ロシアの支配からの独立を宣言した。

    独立国となったフィンランドは、国境紛争、特にソ連との紛争に巻き込まれるのを避け
    ようと努力した。 だがフィンランドは、1939年にソ連に侵略されてしまい、中立政策を
    放棄しなければならなくなった。 それから1944年まで、ソ連はフィンランドに莫大な
    金と物資の賠償支払いを求め続けた。

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    それにも関わらず、フィンランド人たちは、第二次世界大戦後に産業を復興し近代化した。
    また、1950年代初めまでに、フィンランドはソ連に対する賠償支払いを完了した。 それ
    以来、フィンランドは近隣諸国と友好関係を維持することを最優先とした。 同時に
    フィンランドは、西ヨーロッパ諸国との通商上の協定も発展させた。 これらの努力に
    よって、1990年代半ばまでに経済は健全化し、フィンランド人の生活水準は非常に良く
    なった。

    政府は、国民所得の多くを教育や福祉にあてている。 1人あたりの所得も高く、
    このような数多くの利点を、フィンランド人はこれらも改善し守って行こうとして働いている。

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    貴族のグスタフ・エリクソン・バーサは、『ストックホルムの大虐殺』を免れ、
    軍隊を組織し、クリスチャン2世をスウェーデンから追い出した。 これにより、
    カルマン同盟は崩壊した。 1523年6月6日、グスタフは、スウェーデン国王に
    選出された。 スウェーデンでは、この日を建国記念日として、今も祝っている。

    グスタフは、君主制を強化し、軍隊も変えた。 それまでの軍隊はたいてい、
    戦争が起きると招集され、戦いが終われば家に帰された。 しかし、グスタフの
    軍隊は、戦争があろうとなかろうと、常に集団をなしていた。 ヨーロッパの
    キリスト教がカトリックとプロテスタントに分裂した時、グスタフはルター派
    というプロテスタントの一派を選んだ。 カトリック教会の財産と土地支配権は、
    国のものとなった。

    Gustav

    それまで、スウェーデン国王は、貴族から選出されていた。 1544年、議会で
    法律が変えられ、国王の子孫が王位を継ぐことになり、グスタフの一族による
    バーサ王朝が1818年まで続いていた。 1600年代には、グスタフ2世アドルフを
    はじめとする王たちが、バルト海周辺の土地を征服し、スウェーデンをヨーロッパ
    屈指の強国にした。 しかし、1709年、スウェーデンは、ロシアに敗れた。
    その10年後、国王の権限の多くが議会に移された。

    1700年代、ヨーロッパの思想家たちは、人間は理性を用いることによって、知識と
    自由を探求するべきだと主張した。 この啓蒙思想と呼ばれる考え方を持つ人達の
    中には、植物学者のリンネウスや物理学者のアンデルス・セルシウス等の
    スウェーデン人もいた。 国王グスタフ3世は、芸術の黄金時代を支えた。 グスタフ
    3世は、議会から権力を奪い返したが、敵も多く、1792年に舞踏会で暗殺された。

    1805年、国王グスタフ4世は、フランスに対抗するヨーロッパ諸国の同盟に
    加わった。 当時、フランスを率いていたのは、ナポレオンと同盟を結んだ
    ロシア軍が、13世紀からスウェーデンの領土になっていたフィンランドの大部分を
    占領した。 この敗北の後、グスタフ4世は、王位を退くことを余儀なくされた。

    新国王カール13世には子供がいなかった。 スウェーデン議会は、フランス軍人
    ジャン=バティスト・ベルナドットを皇太子に選出した。 彼の率いるスウェーデン
    軍とその同盟軍は、1813年にナポレオンを破った。 和平調停の中でノルウェーは、
    スウェーデンの支配下に置かれることになり、スウェーデンとノルウェーの同君
    連合が1905年まで続いた。 ベルナッドは1818年、カール14世として即位した。

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    ロシア帝国の歴史は、絶え間ない膨張の歴史であり、1600年から1900年までの
    間に、ロシアは、毎日130キロ平方メートルの速度で領土を広げた計算となる。
    東西に自然の障害物がないロシアは、いつの時代にも、繰り返しやって来る侵略に
    対して、全くの無防備の状態であった。 力を持つようになってから、ロシアが
    その国境を広げて行ったのは、ひとつには、攻撃を受けやすい自らの中核地帯を
    守るためであった。

    【ロシア拡大の歴史】
    Rus15001900

    イワン雷帝は、ボルガ河畔のカザンに侵攻して、タタール人を打ち破り、シベリア
    への道を開いた。 1581年には、コサックの指導者エルマークが毛皮の豊富な
    シベリア西部まで進んだ。 彼は、840人の兵士を推して先住部族を征服し、
    ロシアの領土を大きく押し広げた。

    ピョートル大帝は、海軍に関心を持ち、オランダとイギリスで造船の勉強をした後、
    ロシア艦隊を創設した。 スウェーデンとの北方戦争(1700~21年)で、彼は
    領土をバルト海にまで広げ、フィンランド南部のスウェーデン領や、現在
    リトアニアとラトビアになっている地域を獲得した。 これによって得た
    フィンランド南部の湿地帯に、大帝は新しい首都である、サンクト・ペテルブルグを
    建設した。 彼はまた、太平洋のカムチャッカ半島と千島列島も獲得した。

    18世紀終わりまでに、ロシアはシベリア、ウクライナ西部、リトアニア、
    ポーランド、タタール、クリミアを自国に組み込んで行った。 1809年には、
    フィンランドが加えられ、19世紀前半には、コーカサスの小国であった、グルジア、
    アゼルバイジャンや、中央アジアの広大な地域がロシア帝国の一部となった。

    1741年頃からは、ロシア人は、豊富な毛皮を求めて、海峡を超え、アラスカにまで
    進出するようになった。 1789年には、ロシアで軍務に就いていたイギリス人の
    ジョーゼフ・ビリングスが秘密の探検隊を率いて、アラスカ先住民とその沿岸部を
    調査した。

    【ナポレオンの時代のヨーロッパの国境線】
    img0

    1812年6月、ナポレオンは50万人の兵力を擁する軍隊を率いて、ロシアへと侵入し、
    9月にはモスクワに近いボロディノへと達した。 激しい戦闘の結果、ロシア軍隊の
    優秀な将軍、グルジア公ピョートル・バグラチオンをはじめ、多くの兵士が重症を
    負った。

    1812年9月にナポレオンは、一旦モスクワの占領に成功したが、自ら火を放つ作戦に
    より、モスクワを守る作戦に出たロシア軍により、冬の補給物資までもを猛火に
    よって焼き尽くされたため、10月には、冬将軍に押されて、撤退を余儀なくされた。
    ナポレオン軍は、寒さと飢えに苦しめられ、90%以上の兵士が逃亡の途中で倒れて
    行った。2年後、アレクサンドル1世率いるロシア軍は、誇らしげにパリに入城し、
    以降、ロシアは、ヨーロッパで大きな役割を果たすこととなる。

    クリミア戦争(1853~56年)では、ロシアは、イギリス、フランス、トルコと
    戦った。 指揮がまずく、補給も十分ではなかったロシア軍は、黒海沿岸の
    セバストーポリまでは1年にも渡る攻防の末に敗れたが、海軍はトルコ軍に勝利を
    収めた。 平和条約によって、クリミアは維持したが、黒海でのロシアの勢力は
    低下した。

    ロシア南部やウクライナでは、逃亡した農奴達がコサックになり、辺境地に入植地を
    作った。 最初のうちは、コサック達は、ロシアの権威に抵抗したが、19世紀には、
    彼らの入植地は、豊かな農村となり、コサック達は、皇帝に忠誠心を示した。

    コサックは、毛皮の長い帽子と羊の皮の外套という独特の制服を着て、刀と長い
    やりを持って戦った。 コサックの男達は皆、騎馬兵部隊で軍務に就くことが
    義務付けられ、忠誠心、勇敢さ、乗馬の巧みさで知られた。

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    誰もが大好きなサンタクロース。 フィンランドの北極圏に住む本物のサンタクロース
    からクリスマスのこの時期に、心温まるメッセージが届く事をご存知だろうか?
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    サンタクロースからの手紙 
    は、フィンランドのロヴァニエミ市に実在する
    サンタクロース村のサンタクロースグリーティングセンターから国際郵便で送られて
    来る。 お手紙の絵柄やデザインはフィンランドでは有名な、絵本作家やイラスト
    レーター、国際郵便切手を手掛けた画家などの作品。
     
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    サンタクロースからの手紙は、毎年新しく制作されており、世界各国の言語で
    作られるため、日本語もある。 封筒にはフィンランドの国際郵便切手が貼られ
    消印はサンタクロース郵便局のものが押される。

    遥か遠く、北極圏のサンタクロース村から届く本物の「サンタクロースからの手紙 」は
    大切な人のクリスマスに、きっと夢と笑顔を届けることでしょう。 



    【サンタクロース事務局】
    東京都千代田区神田錦町2-9 岡田ビル4F
    共信商事株式会社内
    E-mail:kyoshin@s-kyoshin.com
    TEL:03-3293-0980 FAX:03-3293-6469

    更に、サンタクロース村に「村民登録」をすると、「サンタクロース村通信」の更新
    情報や、「ふれあいサンタ」企画の模様、フィンランド・ラップランドの情報や
    サンタクロースからの手紙 」の最新情報などをメールマガジンで受け取る事も可能。

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    フィンランドは、国民全てが、必要最低限の生活をおくるための費用として、国民全員に
    非課税で一律1カ月800ユーロ(約11万円)のベーシックインカムを支給するための
    調査に入った。 この制度の導入の最終的な決定は、2016年11月までに行われる
    見通しとなっており、フィンランドが世界で初めて、ベーシックインカム制度を導入する
    国家となるかも知れない。
    fig012ff1
    ベーシックインカムを導入する際の利点としては、生活保護をはじめとする、政府による
    全ての社会的な福祉給付金の支給を取りやめて、ベーシックインカムとして一本化出来る
    ところにあるのだが、現代の社会福祉制度は、かなり複雑化しており、ベーシックインカム
    のみに統一し、その制度自体を簡素化出来るため、公務員への人件費も削減出来る。
    また、中抜き等の損失も抑えられるとしている。

    最近行われたフィンランドの世論調査では、国民全体の約69%がこの制度の導入に
    賛成の意見表明を行っており、国民の期待は大きい。 
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    現在、オランダでも同様の動きが広まっており、ベーシックインカム制度導入のための
    試験制度が、来年度からユトレヒトで導入される事が既に決定している。

    これまでに、このベーシックインカムを導入した国はないが、フィンランドかオランダで
    正式に導入が決定されれば、その他の国々への波及も期待出来るため、これからも
    この両国からは目が離せない。

    尚、つい先日、『フィンランドが世界ではじめてベーシックインカム導入へ』と報道されたのは、
    誤報で、元々は、海外のニュースサイトが「フィンランドがベーシックインカム導入を計画中」
    と報道したのが発端となり、日本のニュースサイトが「導入することを決定しました」と誤って
    翻訳し、更に、この情報をライブドアニュース等が掲載・拡散した事から大きな話題となった
    もの。 尚、ライブドアニュースでは、一時『フィンランドが世界初のベーシックインカムを導入
    決定 毎月11万円支給』というタイトルで記事を掲載していたが、現在は『導入決定』→
    『導入へ』に修正している。

    日本では、既に年金制度が破綻し、生活保護等の社会的な救済制度が全くと言って良いほど
    機能していないため、日本政府にも早急にこのベーシックインカムの導入を検討して欲しい
    ところ。
     
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