多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:フィリピン

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    第20位:韓国(58.7%)
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    第19位:ドイツ(64.0%)
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    第18位:カナダ(65.0%)
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    第17位:アメリカ(65.3%)
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    第16位:中国(70.5%)
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    第15位:イギリス(71.0%)
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    第14位:フランス(73.0%)
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    第13位:オーストラリア(76.0%)
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    第12位:ロシア(84.3%)
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    第11位:トルコ(88.0%)
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    第10位:イタリア(89.3%)
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    第9位:インド(90.3%)
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    第8位:インドネシア(92.7%)
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    第7位:シンガポール(93.7%)
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    第6位:香港(95.7%)
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    第5位:フィリピン(96.7%)
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    第4位:マレーシア(96.7%)
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    第3位:ベトナム(98.0%)
    東南アジアのインドシナ半島東部に位置する「ベトナム」では、日本のことを
    「とても好き+好き」と答えた人の割合は98.0%。

    国家レベルでいうと、1993年にヴォー・ヴァン・キエット首相(当時)が訪日して
    以降、関係緊密化が進んでおり、近年は戦略的パートナーシップを中心に関係が
    強化されています。 また、国民・民間レベルでの交流も盛んで、日越外交関係
    樹立45周年を迎えた2018年には「日越友好音楽祭」や「NHK交響楽団ベトナム
    公演」など多数の記念文化事業が行われました。

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    第1位:タイ(98.3%)
    第1位タイは、インドシナ半島中央部とマレー半島北部に位置する「タイ」です。
    日本を好きと答えた人の割合は98.3%。

    文献によれば、日本とタイとは600年以上にも渡る交流の歴史があり、当時のタイの
    首都であったアユタヤには日本人町が築かれていたそうです。 また、タイでは
    日本語教育が熱心に行われており、日本語学習者は増加傾向にあるといいます。
    コロナウイルス流行前の2019年には、訪日タイ人は130万人を超えました。
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    第1位:台湾(98.3%)
    もうひとつの第1位が、日本の南西に位置している台湾です。タイと同じく9
    8.3%の人が日本を好きと答えており、これは2016年よりも6ポイント以上
    増加しているとのこと。

    日本と台湾間では、特に経済やスポーツ・文化活動などでの関係が良好です。
    また、都市間や民間レベルでも交流は盛んになっています。 例えば、
    コロナウイルス流行前である2019年には日台双方向での人的往来が700万人を
    突破。 台湾では海外旅行がブームになっていたそうですが、出国先の約3割は
    日本であり、台湾人が最も海外旅行先に選んだ場所にもなりました。
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    第二次世界大戦が始まった3日後の1941年12月10日、日本軍はフィリピンに
    侵攻した。 フィリピンとアメリカ軍は数ヶ月に渡って日本軍と戦ったが、
    バターン半島、そしてコレヒドール島へと追いつめられた。

    1942年5月、フィリピン共和国は降伏し、日本はフィリピンを占領した。
    ケソン大統領や政府指導者は、亡命政府をつくるため、ワシントンへ避難した。
    フィリピン人の多くは、飢えに苦しんだ。 その中で、フィリピン人の中には
    日本の厳しい支配に、強力を拒み、ゲリラとなって日本に抵抗する者も多かった。

    退却していたマッカーサー将軍とアメリカ軍がフィリピンに戻って来たのは、
    1944年10月だった。 アメリカ軍を助けるために、フィリピン人ゲリラは日本軍を
    捜索した。 そして、主な島々を再び取り戻すためにアメリカ軍に加わった。
    1945年8月15日、日本は降伏し、第二次世界大戦は終わった。

    1942年の日本の勢力図

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    【フィリピンの独立】
    ケソン大統領はアメリカにつくった亡命政府の時代に亡くなり、オスメーニャ
    副大統領が後を継いだ。 1945年、政府はマニラに帰った。 1946年4月に
    行われた大統領選挙で、マヌエル・ロハスが選ばれた。 ロハスは戦争で破壊
    された国家の再建に取り組んだ。

    タイディングス=マグダフィー法に従って、アメリカはフィリピンから手を引いた。
    1946年7月4日、フィリピン共和国は完全独立を達成した。 アメリカは新生
    フィリピンに経済援助を行った。 その代わりに、フィリピン政府はアメリカが
    同国に基地を維持することを認めた。

    戦争の後の国家再建の難しさに加えて、フィリピン政府は共産主義者からの
    挑戦に直面した。 人民解放軍(あるいはフク団。 タガログ語の省略)と
    呼ばれる革命家たちは、ルソン島中心部で活躍した。

    フク団は農民や労働者グループが土地や工場の支配を確立することを望んだ。
    土地支配を分かち合い、収入を平等に分配するという共産主義の原則を適用
    すべきだと考えた。

    1950年代の初期、フク団のゲリラは政府軍を攻撃した。 ゲリラは戦後の苦しい
    経済下に置かれていた地方の多数の人々の支持を得た。 ラモン・マグサイサイ
    国防長官は軍を率いてフク団制圧に当たった。 1953年の選挙で大統領に
    選ばれると、マグサイサイはフク団を押さえ込むのに成功した。

    【お勧めの一冊】


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    20世紀の初め、ウィリアム・マッキンレー大統領は、アメリカはフィリピン諸島を
    永遠に領有するつもりはないと語っている。 自治に向けて一定期間の準備の後、
    フィリピンが独立するという考えをアメリカは受け入れていた。 このため、
    アメリカのフィリピン統治にとって、教育は最も重要な柱となった。

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    600人を超す教師が、学校を作るためにアメリカからやって来た。 1908年、
    マニアにフィリピン大学が創設されると、何百というアメリカ市民が大学を支持した。
    独立を待ち望んだ者にとっては十分なものではなかったが、アメリカによる支配の
    最初の時期から、フィリピン人は統治に参加した。 マヌエル・ケソン、セルジオ・
    オスメーニャ、マヌエル・ロハスは、アメリカに対して一層の自治を求めた
    フィリピンの指導者たちである。

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    1934年、アメリカ議会でタイディングス=マクダフィー法が通過した。 同法は
    フィリピン憲法や立法府の選出、そしてフィリピン人による大統領を制定していた。

    フィリピンは共和国となったが、国内的には、フィリピン人が支配するものの、
    向こう10年間は、外交と防衛に関しては、アメリカが支配を維持するという
    ものであった。

    1935年5月、フィリピンの人々は憲法を承認し、11月にはマヌエル・ケソンが
    初代大統領に選ばれた。

    【お勧めの一冊】


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    1892年、アンドレス・ボニファシオが『カティプナン』(タガログ語で団結の
    意味)を結成した。 カティプナンは秘密結社で、武力によってスペインの
    植民地支配を転覆させようというものだった。

    1896年、3万人のカティプナンのメンバーがスペイン攻撃に立ち上がった。
    しかし、エミリオ・アギナルドを指導者とする軍だけが、反スペインの戦いに
    成功し、1897年ボニファシオに代わってカティプナンの指導者となった。
    スペイン側は領土の大半を奪い返したが、アギナルド軍の鎮圧には失敗した。

    1897年末、アギナルドはスペインと和平条約を結んだ。 アギナルドの亡命と
    引き換えに、3年以内に自治を約束していた。 同年12月、アギナルドは香港へ
    亡命した。

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    一方、スペインの他の植民地でも反乱が起きていた。 カリブ海の島国キューバが
    スペインから独立を宣言すると、アメリカはこれを支持した。 この結果、
    アメリカとスペインは1898年初め、米西戦争を戦った。

    戦争の報償はフィリピンだった。 1898年4月、ジョージ・デューイ准将は
    アメリカ海軍を率いて香港からマニラ湾に入り、スペイン海軍を破った。
    アギナルドは香港から戻り、カティプナンを率いてスペインと戦った。

    カディプナンの支持のお返しに、アメリカ政府はフィリピンの独立を約束した。
    アメリカとカティプナンの連合軍は、1898年8月、スペインを敗北させた。
    その年の後半、アメリカとスペインは戦争を終結、パリ条約を結んだ。 条約の
    下でアメリカはフィリピン、グアム、プエルト・リコを獲得、スペインには
    2000万ドルを与えた。

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    多くのフィリピン人にとって、アメリカの占領はスペインの植民地支配と
    比べても、状況は改善されなかった。 アギナルドや多くのフィリピン人は
    アメリカに抵抗した。

    いかなる形の植民地支配も拒否し、アギナルドは1899年に独立を宣言した。
    1901年に逮捕されるまで、彼はアメリカに対する武力闘争を指導した。 その後も
    アギナルドの軍隊はしばらく戦い続けた。

    【お勧めの一冊】


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    植民地の経済は成長を続けたが、大半のフィリピン人は恩恵を受けなかった。
    宣教師やスペイン当局者、それと少数の金持ちフィリピン人が土地の大半を
    所有し、商業を支配した。 フィリピン人の大半は小作農で、高い地代を
    払わされた。

    フィリピン人の不満は深まり、いくつかの反乱が起きた。 ルソン島の
    イロカノ族は、1807年、政府がワイン製造工場の支配を手にすると、反乱を
    起こした。 1841年には多くのフィリピン人が、スペインの圧政に抗して
    ルソン島で武装蜂起した。 アポロナリオ・デ・ラ・クルツの戦いに加わった。

    19世紀を通じて、多数のフィリピン人グループが、経済改革や政治的自由を
    求めて、スペインの指導者に圧力を掛けた。 だが、教育もなく、植民地行政に
    直接その声を反映出来る手立てがなかったため、その努力は、ほとんど実らな
    かった。

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    【ホセ・リサール】
    マニラおよびヨーロッパの大学で勉強したフィリピン人の小さなグループに、
    ホセ・リサールがいた。 1800年代の終わりまでに、フィリピン独立のための
    最も有名な指導者になった。 1891年、医者であり作家でもあったリサールは、
    フィリピン連盟をつくった。 組織は、大農園での強制労働のようなスペインの
    権力乱用を止めさせようとした。 連盟の目標は、自治国家をつくることに
    あった。

    リサールが組織の活動を始めると間もなく、スペイン当局はリサールを
    ミンダナオ島に追放した。 リサールはフィリピン人の抵抗の象徴になると、
    スペインは彼を処刑した。 リサールの指導を欠いて、フィリピン連盟も解散
    した。

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    1500年代の初め、ヨーロッパの探検家たちははアジアの豊かな香料マーケットへの
    近道を探していた。 ポルトガルで生まれで、スペインの旗の下に航海を
    続けていた探検家、フェルディナンド・マゼランが東南アジアの水域に達した。
    一行は現在のマレーシアとインドネシアまで来た。

    【マゼラン上陸記念碑】
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    1521年、第2回の遠征でマゼラン隊は、レイテ島の南の小さな島、ホモンホンに
    達した。 近くのリマサワやセブに旅をし、マゼランは島民たちと友好的に
    交流した。 地元民はヨーロッパ人を歓迎し、キリスト教を受け入れることに
    同意した。

    しかし、マゼランの会った人々が全て友好的だった訳ではない。 マクタン島の
    支配者のラプラプはヨーロッパの様式を受け入れたり、ヨーロッパ人に支配される
    ことを拒んだ。 マゼランはラプラプたちを征服しようとしたが、ラプラプの兵は
    ヨーロッパ簡単に破ってしまった。 1521年4月27日、マゼランは戦闘で殺され、
    生存者はフィリピンを離れ、西へ向かって世界周航の旅を続けた。

    【ラプラプの像】
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    この敗北にも関わらず、スペイン人は太平洋の探検を続けた。 1545年2月には、
    ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがミンダナオ島に上陸し、後援者フィリップ王子
    (後の国王フィリップ2世)の名前をとって、島々をフィリピナスと名付けた。
    ビリャロボスは島々に永久的な居留地をつくることでスペインの権利強化を望んだ
    のである。

    食糧不足や地元民の敵意などから、彼の計画は失敗した。 それにも関わらず、
    スペイン人は最初の居留地をセブ島のサン・ミゲル(後のセブ市)に設立した。
    1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが更に発展させ、兵士400人と数人の
    宣教師が住み着いた。

    【マゼランクロス】
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    【初期のスペイン支配】
    住民たちは、ヨーロッパ人の支配に強い怒りを抱いたが、レガスピと軍隊は、
    次第に島民たちをスペインの勢力下に置いて行った。 その後もスペインからは
    兵士や宣教師たちが、相次いでやって来た。

    宣教師の勧めで、島民たちの多くがキリスト教徒となった。 その中でイスラム
    教徒は、兵士たちには最も征服するのが難しく、宣教師たちには改宗させるのが
    難しいグループだった。 中でもミンダナオ島のイスラム教徒たちは、最後まで
    スペインに屈しなかった。

    1571年、レガスピと軍隊はマニラを占領した。 ルソン島のイスラム勢力は
    少人数ながらスペインと戦ったが、結局敗れた。 ルソン島の山岳民族である
    イゴロット族もスペインの勢力拡大に抵抗し、ヨーロッパ人を悩ませ続けた。

    抵抗する島民の大半を抑えると、植民者たちは地域一帯を自分たちの主権拡大に
    役立てた。 マニラを南アフリカから太平洋を通って銀を運ぶ船舶のための
    重要な港にした。 中国の商人は、そこで磁器や絹、織物をスペイン人の
    持っている金と交換した。 これら初期の植民者は、とうもろこしを紹介し、
    米作地帯で灌漑システムを改善した以外には、フィリピン経済の発展に大した
    ことをしなかった。

    【セントニーニョ教会】

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    【スペインによる占領】
    スペインはフィリピンの支配にあたって、住民たちが用いていた機構を拡大する
    ことにした。 政府の基本の単位は村、もしくは、バランガイで、村には住民たちの
    非公式の集まりで選ばれたダトゥー(支配者)が居た。

    ローマ・カトリックの僧侶たちは、宣教師として、また、植民地の行政の代表として
    バランガイに住んだ。 住み着くことで、彼らはダトゥーの選出に強い影響力を
    与えることが出来た。

    このようなスペイン人宣教師によるフィリピンの間接支配が、成功しなかった地域も
    ある。 ルソン島北部の支配者、ディエゴ・シランは1762年、スペインに反逆し、
    ビガンに自らの政府をつくった。 南の島々のイスラム教徒たちは、スペインの
    軍の前進基地を襲い、独立を達成した。

    18世紀後半、スペインは多くの反乱グループに対し、再び武力を使った。
    ヨーロッパ人はまた農業改革を進めた。 行政官は農民たちに、マニアアサ
    (ロープを作る)や、茶、タバコなど輸出作物の栽培を進めた。 植民地政府は、
    タバコの専売権を確立し、それは当局者たちに巨額の富をもたらした。

    1800年代の初め、スペインはイギリスやアメリカ合衆国、フランス、その他の
    国々の商人たちとの貿易のため、フィリピンを開いた。 サトウキビ、マニラアサ、
    タバコが主な輸出品となって、フィリピンの経済発展に役立った。

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    インド洋と太平洋の間にあるためフィリピンは、海上交易を行う人々にとって
    便利な寄港地だった。

    フィリピンの南西、スマトラ島にあったスリ・ビジャヤ王国からも沢山の商人が
    やって来て、紀元前600年代までには、スリ・ビジャヤは太平洋の主要な交易勢力と
    なった。

    スリ・ビジャヤはフィリピンを含め、東南アジア全域に渡る海上ルートを支配した。
    スリ・ビジャヤによるフィリピンおよび東南アジア一帯の交易支配は、およそ
    500年に渡って続いた。 ビサヤ諸島というのは、彼らの名前から取ったものだ。
    彼らは、フィリピン諸島の宗教にも影響を与えた。

    スリ・ビジャヤ人は、紀元前6世紀にインドでゴータマ・ブッダにより始められた
    仏教をフィリピンに紹介した。 ヒンズー教を奉じるマジャパヒト王国は、
    1200年代の後半にジャワ島に出現した。 間もなく、フィリピンにおける海上
    ルートの支配者として、スリ・ビジャヤ人にとって代わった。 マジャパヒトの
    指導者たちは、支配地域にヒンズー教を取り入れようとはしなかったが、ヒンズー
    文化の多くの要素がフィリピンにも入った。

    例えば、フィリピン人の正装であるバロン(独自のシャツ)は南インド出身の
    ヒンズー人が身に着けている上着を改めたものだ。 フィリピン人はまた、
    ヒンズー教の言語であるサンスクリットから多くの言語を取り入れている。

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    【アラブと中国商人たち】
    スリ・ビジャヤとマジャパヒトの影響が強かった時代、アラブ人と中国商人たちも
    フィリピンにやって来た。 14世紀までには、アラブ人学者たちがフィリピン諸島の
    南部に上陸し、イスラム教を広めた。

    イスラム教は7世紀にアラビアで生まれた。 15世紀の中頃までには南の島々、
    特にミンダナオ島で多くの人々がイスラム教徒となった。 インド、マラッカ、
    ボルネオなどからもイスラム教徒の商人がやって来て、イスラム教を広めるのを
    手伝った。

    一方、中国人商人たちは、北からフィリピンにやって来た。 その多くはルソン島に
    上陸すると、絹や磁器をフィリピンの木材や金と交換した。 明の時代(1368年~
    1644年)、商人たちはルソン島に居住地をつくった。 例えば、リンガエン港は、
    その名を当時の有力な商人、リン・ガイエンから取ったものだ。

    15世紀の始めには、中国人指導者た北の島々のいくつかを治める程、中国の影響は
    強大となった。 中国人は南から来たイスラム教徒と衝突し、結果的には、多くの
    居住地を失うことにもなった。 1500年代の初めまでには、イスラム教徒たちは、
    勢力をルソン島のほぼ全域に広めた。

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    セブ島滞在3日目は、たまたま、ネットで発見した、地元では何でも願いが叶う
    教会として非常に有名な、シマラ教会へと行きました。 セブ・シティーの
    南バスターミナルからバスに揺られること丸2時間、 セブ島南部にある、
    シボンガという街の郊外にこの巨大で豪華絢爛な教会はあります。

    【シマラ教会】
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    セブ島には、バス停というものが存在しないため、降りたい場所をあらかじめ
    車掌に伝え、希望の場所で降ろしてもらいます。 シマラ教会への行き方は、
    南バスターミナルからオスロブ行きかシボンガ(シマラ)行きのバスに乗ります。
    今回は、たまたま朝5時40分南ターミナル発のシボンガ(シマラ)行きのバスに
    乗りました。 このバスは冷房なしのため、窓は全開、ドアも閉まりません。

    バスの種類は、大きく分けて冷房付きと冷房なしに分かれるのですが、バスの
    種類が全く異なるのに、料金は同じ80ペソ(160円)です。 シマラ教会は、
    現地のツアーでも行けるのですが、セブのオプショナルツアーは、大体が1万~
    2万円が相場であるため、このバスがいかに安いのかが分かると思います。
    シボンガの中心部から更に15分程度行った何もない場所がシマラです。

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    セブ・シティーは渋滞だらけで、シマラ教会までは、2時間半程度掛かると聞いて
    いたたため、かなり早めに宿を出たのが功を奏し、午前7時20分には、シマラ教会の
    前に到着しました。 教会が開くのは午前8時からであるため、ここでソーセージ
    (10ペソ)と卵(15ペソ)を朝食として取りました。 朝食を歩きながら食べて
    いる間に、急に雨が降り出しましたが、15分程度であっという間に止んだため、
    教会が開いた頃には、すっかりと晴れ渡っていました。 神聖な教会内は、ドレス
    コードが厳しく、短パンやサンダル等は禁止されているため、シマラ教会を訪れる
    際には、服装に気を付けましょう。

    シマラ教会は、フィリピン人の憧れの地で、一生に一度は行きたい場所だとか。
    日本で言うところのディズニーランドのような場所で、豪華絢爛なその見た目も
    ディズニーランドそのもの。 何でも願いが叶う教会では、お布施やお賽銭のような
    ものは必要なく、実際に願いが叶った際に、お礼参りを行い、色々な物を寄進する
    そうです。 早い話が、願いが叶わなかった場合は、一切何も供える必要性なし。

    教会内に限らず、セブは野良犬が非常に多く、普通に道を歩いていました。
    教会内にも多数の野良犬がおり、フィリピン人のおおらかな国民性を見た気が
    しました。 午前8時の開門と共に、中に入り、早速教会内探検の始まりです。

    シマラ教会は、非常に巨大な教会であるため、教会の中まで入るまでが大変。
    未だ未完だそうで、あちこちで工事が進められていました。 尚、シマラ教会へは、
    南バスターミナルからシマラまでが1時間半弱で80ペソ(160円)、その後、シマラ
    からのバイクタクシーが5分で20ペソ(40円)で、合計でも2時間掛からずに
    到着する事が出来ました。

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    教会の内部は、カトリックの教会と言うよりも、聖母マリア様の教会という感じが
    しました。 よって、幼い頃のキリストの像が多く、内部の博物館では、色々な
    国のマリア様の像が並んでいます。 カトリックとプロテスタントとの代表的な
    違いのひとつに、聖母マリア様を敬うかどうかというものがありますが、
    カトリックは、マリア様を非常に敬うため、このような豪華絢爛な教会となって
    います。

    教会内には、様々なマリア様とキリストの像が並んでいますが、観光客はさほど
    おらず、地元の巡礼者の方ばかりで、敬謙なクリスチャンでなくとも、心が洗われる
    想いがしました。 教会内の売店では、数々のキリストグッズが大量に販売されて
    いますが、結構高い。 信心深い人であれば、この値段でも購入すると思うのだが、
    とりあえず、お手ごろな十字架を1つ購入しました。

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    シマラ教会で最も奥の間にあるこの教会のご本尊的な存在のマリア像。 この像は、
    非常に人気があるため、ものの10秒程度しか願い事が出来ないという、とても
    ありがたい像です。 その手前にあるマリア様の像は、1名に付き1分以上もお祈りを
    するため、朝早く行かないと、30分以上も待たされる事となるため、早めに
    この教会に到着する事をお勧めします。

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    シマラ教会の内部は、無数のマリア像とキリスト像がありますが、それぞれの像に
    願いを掛ける人たちが多数居るため、木像の足の一部が若干削れています。 日本で
    言うところのお遍路のような感じにあたるため、カトリックが国教のフィリピンの
    中にあっても、かなり特別な教会のようです。 教会内の博物館中には、世界中の
    マリア像、並びに、キリスト像を展示しているフロアーがあります。 ここでは、
    中国風のマリア様やインド風のマリア様が多数展示されています。

    約1時間半程で、シマラ教会ともお別れ。 カトリックとプロテスタントの違い
    として、教会が豪華か質素かの違いがありますが、カトリックの教会は非常に
    豪華絢爛なので、その分をどこかに寄付として渡してあげた方が、人助けになると
    考えてしまうのは、プロテスタントに毒されているからなのか。

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    シマラ教会付近は、教会内部の豪華絢爛な雰囲気とは似ても似つかぬ貧困地域
    なので、教会を一歩外に出ると、現実を突きつけられます。 最寄のシマラの
    バス降り場(セブにはバス停と言う概念がない)は、こんな感じになっており、
    車掌に前もってシマラ教会の最寄でバスを降ろしてくれるように頼んでおかない
    限り、この教会には到達出来ません。

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    この場所から坂道を登ること5分程度にあるのが、豪華絢爛なシマラ教会です。
    バイクタクシーの値段は交渉性で、行きは30ペソ(60円)、帰りは20ペソ(40円)
    でした。 ここから頑張れば40分程度で歩いてシマラ教会まで歩いて行く事も出来
    ますが、60円程度であれば、バイクタクシーを利用した方が断然便利です。 尚、
    シマラ手前のシボンガ市中心部でバスを降りてしまうと、シマラ教会までは、20~
    200ペソ(40円~400円)程度請求されるとか。 最後は、セブ・シティー行きの
    バスが通り掛った際に、手を上げてバスを止めてからバスに乗りこみます。

    シボンガからセブ・シティーまでの帰りのバスは冷房付きで、座席もそこそこバネが
    利いていたため、行きのバス程は揺れが激しく、早朝に起きて寝不足もあって、
    途中で1時間程度寝込んでしまいました。 冷房なしのバスの場合は、揺れが
    凄まじく、お尻が席から何度も浮く感じの揺れ方をするため、居眠りは絶対に
    無理です。

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    セブ島南部にある諸都市へのバスは、南バスターミナルから出ています。
    ここから北ターミナルへは2キロ以上も離れているため、タクシーで移動するしか
    ありません。 南ターミナルの方がセブ中心街へは近いため、ここから1キロ程度
    歩いて、中心部へと向かいました。

    セブ島では、基本的にバスが一切走っていないため、バスは都市間を結んでいる
    高速バスしかありません。 空港とセブ・シティーを結ぶバスもありません。
    全体的にバスが不足しているのだと思います。 バスターミナル付近は、路上に
    商品を広げた人たちが多く、活気がありますが、特に欲しい物はないため、素通り
    しました。 フィリピンでは、手にビニール袋をして手づかみでご飯を食べるのが
    普通らしい。

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    午前5時40分に南ターミナルを出発したため、午前11時20分にはセブ・シティーへと
    戻って来てしまい、予定よりも2時間程度余裕が出来たため、最後はセブ・シティー
    中心部を散策しました。 最後に食べた昼食は、地元で大人気のハンバーガー
    ショップのジョリービー♪ ハロハロは、フィリピンが発祥らしい。 全て残金を
    逆算して不要なペソを使ってスーパーで買い物をしたため、最終的に残ったペソは
    5ペソのみ。 これだけ食べて164ペソ(328円)でした。 但し、最後に空港で
    750ペソを現地通貨で支払わなければならなかったため、この努力は無駄でした。
    クレジットカードでの支払いは出来なかったため、空港で再度ペソに両替をする
    こととなりました。

    セブ・シティーの全体的な雰囲気としては、70年ぐらい前の終戦直後程度の生活
    レベル。 ちょっと裏通りに入ると、非常に汚い。 果物は大体10~25ペソ前後
    でした。 果物は、日本でも見たことがないようなものばかりで、物価も非常に
    安いため、街角で色々な果物を試して見るのも良いかも知れません。

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    マクタン・セブ国際空港は、セブ島にあるセブ・シティーからは、タクシーで
    丸1時間程度掛かります。 空港内はかなりリゾート地らしいのですが、空港から
    一歩外へ出ると、雰囲気が全然違うため、ホテル周辺のリゾート地とこの空港だけ
    しか見ていない場合は、セブ島は単なるリゾート地としてのイメージしか残らない
    かも知れません。

    マクタン・セブ国際空港では、出国時に750ペソを現金で支払う必要性がたるため、
    手持ちのペソが足りず、一旦空港で全ての手続きを済ませてから、再度両替のために
    空港の外に出ることに。 現金でしか支払いが出来ないのであれば、窓口の直ぐ
    隣りに両替所を置いておいてくれれば良いものを、そんな気の利いた施設はセブには
    ないため、いっそのこと、通常通り、支払い時に出入国税と空港利用税を全て
    あらかじめ徴収して欲しいです。 帰りの飛行機は、セブ空港からは4時間40分
    でした。

    【お勧めの一冊】


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    セブ島滞在2日目は、朝の4時半に起きて、4時50分滞在先を出発(まだ真っ暗)
    の後、6時30分セブ・シティー発の高速船『オーシャンジェット』に乗りお隣の島、
    ボホール島のタグビラランを目指します♪

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    セブ・シティーからタグビラランは約75キロ程度離れており、高速船でも2時間程
    掛かります。 船に乗りこむ際に、丁度朝日が昇って来たため、港付近が一気に
    明るくなりました。 今回は時間がないため、珍しくツアーに申し込みましたが、
    参加者は、自分を含めて3名のみというコンパクトなツアーでした。 最低催行
    人数は2名以上で、一旦2名分の料金を支払った後、2名以上の参加者が確保出来た
    場合のみ、後で半額返金されるという仕組みであったため、前もって2名以上が
    確定しているツアーを選びました。

    本当は、最後のセブ・シティーの部分の観光は、ディナーでなく、夜の街歩きを
    希望したものの、参加者が2名揃わなかったため、泣く泣く夜景&ディナーに切り
    替えましたが、最終的に、こちらで正解だったと思います。 尚、この高速船は、
    非常に冷房が効き過ぎており、この中での丸2時間は拷問に近いため、必ず長袖を
    持参しないと凍えます。

    【ボホール島】
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    1時間50分程度でボホール島最大の街、ボホール州州都のタグビラランへと到着。
    高速船は、かなりスピードを出していたため、時速50キロ前後で走行していた
    のではなないかと思われます。 朝日に見送られてのボホール島への旅は、単に
    冷房の効き過ぎで寒いだけでした(笑) しかも、朝方は気温が低いため、
    船内の気温は推定20度前後。 ここは冷蔵庫の中ですか?レベルの船内となって
    おります。

    ボホール島は、セブ島と同じビサヤ諸島内にあるとは言え、セブとボホールの
    言葉は、微妙に違うそうです。 同じセブ島内のビサヤ語でも、方言がかなり
    あるため、共通語としての英語は必須とのこと。 子供でも結構英語を喋れて
    いるのは、学校で習っているためか?

    タグビララン港には、日本語が喋れる現地ガイドが迎えに来ており、船を下りた
    早々、3名共トイレへと直行(笑) 船内は凍える程寒いのに、座席指定されて
    いるため、気軽に船内を歩くことすらままならず、港への到着をただひたすら
    待つばかりといった構図となっているため、現地の人間でも防寒具は必須と
    なっている。 20度前後の温度までは我慢出来るが、強風が船内を吹き荒れて
    いるため、どういう温度設定なのか、非常に疑問な船内となっている。 しかも、
    船を降りると、一気に35度ぐらいになるため、体調管理が難しい。

    【ターシャ保護区】
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    ダグビララン港から車で約40分。 今回の旅の最大の目的は、フィリピンにしか
    居ない固有の小型めがね猿『ターシャ』に会うこと♪ これを見るためだけに、
    遠路遥々やって参りました。 『ターシャ』はボホール島、ミンダナオ島付近
    にしか生息しておらず、セブ島には居ないという非常に希少なめがね猿です。
    全長は大人でも10センチ程度しかなく、尻尾は20センチ程度もあるという変り種。
    非常に繊細で、ストレスが加わると、硬い物に頭をぶつけて自殺するのだとか。

    原生林をずんずんと奥へ入って行くと、ところどころに看板が立っており、その
    付近にターシャがおります♪ 夜行性のため、日中はほとんど動かず、木にずっと
    しがみついており、たまに目を開けるその時が絶好のシャッターチャンス☆
    逆に、夜は非常にアクティブなようで、木から木へと飛び回るらしい。

    愛くるしさと、グレムリンのような一部キモさを併せ持つターシャは、
    ツアーパンフレットの写真のイメージ図通りに手で触れられるのかと思いきや、
    これ以上近づくことが出来ない。 フラッシュも禁止されているため、暗過ぎて
    なかなか良い写真が撮れず。 よくよく見ると、ヨーダにも似ているため、
    キモカワイイという表現が最も適切か? 若干グロいという感じもしないでもない
    ターシャは、ボホール島のシンボル的な存在で、島のどこに行っても、ターシャの
    お土産だらけ。

    フィリピンの製品は、全体的に低品質なので、買いたい物は特にないないものの、
    ここまで来たからには、何らかの『みしるし』が欲しいため、とりあえず、何かを
    買おうと物色をしたものの、やはり欲しい物がないので、船にターシャが付いた
    物を自分へのお土産としました♪ ターシャのぬいぐるみも、もう少しぐらい可愛く
    作ってくれないと、買いたくない(笑)

    【ターシャ保護区とチョコレートヒルズ】
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    【チョコレートヒルズ】
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    ボホール島を代表する観光地のチョコレートヒルズ。 山頂までは歩いて登るが、
    その途中は、アスレチック公園となっており、様々なアスレチックを楽しむことが
    出来ます。 周囲はジャングルのようなうっそうとした森なので、マイナスイオンが
    沢山出ています♪

    高さ30mほどの円錐形の丘が1,000個以上も連なるチョコレートヒルズ。 この丘の
    ほとんどは、珊瑚礁からなる石灰岩で出来ているため、木は育たず草に覆われて
    います。 乾季になると草が枯れ茶色の丘へと変化し、それがまるでチョコレート
    のように見えることから『チョコレートヒルズ』という名前が付いた。 大地から
    ほぼ同じ大きさの丘がポコポコと出ている不思議な地形が出来た理由として、現地
    では様々な伝説が伝えられて来ました。 一番有名なものが、昔2人の巨人がこの
    場所でケンカをした時、投げ合った石を片付けなかったからという伝説。 大昔に
    マグマの動きによって海底が隆起したために出来たとも言われていますが、いまだ
    真相は謎のまま。

    【ランチクルーズ】
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    ボホール島でのランチは、ロボック川を下りながらのフィリピン料理のランチ
    クルーズ。 ジャングルの中での川下りであるため、景色は余り変わらないものの、
    ここまで見事なジャングルは日本にはまずないため、非常に新鮮。 但し、
    ここでのビュッフェは、得体の知れないフィリピン料理であったため、同じツアー
    参加者の2名と戦々恐々しながらのお食事となりました(笑) 材料が何なのか
    一切分からないため、食欲が全く沸かないという、ダイエットにも最適な
    フィリピン料理。 真っ黒いトカゲの肉ような食べ物は、焼き鳥で、焼き鳥の
    缶詰と全く同じ味がしました。 その他、食べても結局何なのか分からず、疑問
    ばかりが残るお食事となりました。

    フィリピン料理を食べている間に、韓国人と台湾人それぞれ50名程度のツアー客が
    押し寄せて来たため、日本人ツアー3人組は、あっという間に少数派へ転落。
    アジアの観光客の中心は、韓国人と中国人ばかりで、日本人はかなり少ないとか。
    正に超貧乏大国日本のアジアでの凋落振りを実感した旅となった。

    日本はブラック企業の影響により、呑気に旅行を楽しむ時間もお金も一切持て
    ないため、生活レベルにおいて、日本は完全に中国と韓国にも追い抜かれて
    しまいました。 中国様に至っては、貧乏な日本など相手にする価値すらもう
    ないでしょう。

    ロボック川での川下りでは、終点地点に原住民達の村があり、そこで10分間の
    休憩中を取りました。 上半身裸の裸族であるため、首狩り族にしか見えない
    ものの、口から火を噴いたりと、サービス精神旺盛な原住民達でした。 男も女も
    上半身裸で生活をしており、この観光業が命綱となっている。 ボホール島を
    訪れる観光客は、ほぼ100%この川でランチをするらしく、かなりの人気となって
    いるため、帰りは迎えのバンが駐車場から出られず、非常に時間が掛かりました。

    この川下りは、約1時間ほどで、薄汚いセブ・シティーなどより、ボホール島の
    方が断然面白いため、時間があれば、絶対にボホール島を訪れることをお勧め
    します。 雰囲気的には、ワニやピラニアが出て来ても全くおかしくないレベルの
    ジャングルでした。

    【ロボック川ランチクルーズ】
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    【バクラヨン教会】
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    フィリピンでも最古の教会、バクラヨン教会。 4年前の地震によって破壊された
    ため、現在は改修工事中となっており、中には入れなくなっています。 その際の
    最大被災地は、このボホール島であったそうです。 バクラヨン教会の壁は全て
    珊瑚と卵で造られており、よくよく壁を見ると、珊瑚であることが分かります。
    スペイン統治時代の面影を強く残しているため、フィリピンに居ることをすっかりと
    忘れそうな建造物でした。

    ボホール島は、約30万人の住民が暮らしており、現在、ボホール島の直ぐ隣の
    島では、新しいタグビララン空港の建設が進んでおり、アメリカや日本からも
    ボホール行きの直行便が出来るそうです。 セブ島とボホール島は、結構違う
    ため、それぞれの楽しみ方も異なるため、日帰りツアーを活用して、ボホールを
    訪れて見るのもお勧めです。

    【血盟記念碑】
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    1565年、スペイン提督のレガスピとボホール島の領主シカトゥナとの間に血盟
    (ワインに互いの血を入れて飲み交わすことで結ぶ同盟)を結んだことを記念
    した碑。 当時の世界は正に大航海時代の真っ只中で、レガスピは金や香辛料
    などを求めてボホール島を訪れました。 しかし、その前にかの有名なマゼランが
    マクタン島にてラプラプ王との決闘を行なったこともあり、現地民からは敵対
    されてしまいました。 そこでレガスピは自分達は(マゼランのような)
    ポルトガル人ではないと必死に説得し、シカトゥナとの血盟に至った。

    【バクラヨン教会&タグビララン
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    【タグビララン】
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    ボホール島観光は、予定よりも2時間近くも早く終了してしまったため、ボホール州
    州都のタグビラランのスーパーマーケットでウィンドウショッピング♪ 食料が
    日本とはまるっきり異なっているため、何を売っているのか良く分からず。 物価は
    安いものの、特に欲しいものはないため、何も購入せず、フィリピンの庶民生活を
    観察してしまいました。

    フィリピンはカトリックが国教なだけあり、キリストグッズが至る所で販売されて
    いるものの、結構お高い。 安ければ購入しようかと思ったものの、日本円に換算
    しても安いもので2,000円以上。 朝6時半にセブ・シティーを出発したボホール島の
    滞在は、午後4時20分発のオーシャン・ジェットに乗り込み、これでおしまい。
    これから、冷房の効き過ぎた高速艇に再び乗り込み、セブ・シティーへと帰ります。

    【ピークス&フエンテ・オスメーニョ】
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    【ピークス】
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    セブ港から約40分掛けて、そのままピークスへと直行し、セブ・シティーの夜景を
    堪能。 この写真を撮影した直後に雨雲が急に出て来て、何も見えなくなりました。
    フィリピンは現在雨季であるため、突如として豪雨となり、ものの20分程度で
    カラっと雨が上がります。

    セブ・シティーは街中がかなり薄暗いため、夜景は余り期待していなかったものの、
    そこそこの夜景が楽しめたため、満足しました。 人口約80万人のセブ・
    シティーは、物価が安いという理由で、英語の留学先として脚光を浴びていますが、
    日本と比較して70年程度遅れているのと、英会話学校自体もそこまで安い訳
    ではなく、しかも、フィリピン人の英語は相当訛っているため、物価の安い
    カナダへ留学をした方が無難。

    セブ港からトップスへ向かう途中、トップス付近でがけ崩れが発生したため、予定
    していたフィリピン・レストランへは行けなくなったとの連絡が入り、急遽、その
    付近にある夜景の見えるイタリアン・レストランへ行くことに。 恐らく、
    フィリピン・レストランでは民族舞踊が見れた筈なのだが、フィリピン料理自体が
    得たいが知れないため、むしろ、無難なイタリアンの方がまし(笑) 基本的に、
    訳が分からない物は一切口にしない主義なので、グロい料理は無理です。

    【フエンテ・オスメーニャ】
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    最後は、滞在先であるセブ・シティー中心部のフエンテ・オスメーニャへと送って
    もらい、本日のツアーは終了。 この付近は24時間の店が多く、夜中でも屋台で
    バナナなどの果物が売られている。 朝の4時50分に宿を出発し、帰って来たのは、
    午後9時。 2日目もこのまま、宿の2件隣にあるマッサージ屋で3時間の
    フルコースを受けて、12時半に就寝しました。 因みに、翌日の出発も
    午前5時丁度(笑)

    【お勧めの一冊】


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    【セブ島へ】
    フィリピン中部の海に浮かぶ南国の島、セブ島へは成田空港から空路で4時間
    40分ほど。 マクタン・セブ国際空港は、セブ島のお隣のマクタン島にあるため、
    セブ・シティーまでは、タクシーで約1時間ほど掛かる。

    セブ空港からの公共交通機関は一切なく、タクシーを利用する以外の選択肢はない。
    空港を出て暫く歩くと、若干割高の黄色いホテルタクシーとかなり割高の白い
    タクシーの2種類しか選ぶことが出来ない。 セブ島内ではバスは殆んど走って
    おらず、庶民の足として利用されている、ジプニーやトライシクルも空港には
    乗り入れていない。

    現地のツアーガイドに聞いた話では、空港からセブ・シティーまでの平均的な
    タクシー料金は300ペソ程度だそうで、空港からの白のタクシーでは、大概500
    ペソを要求されるため、帰りのセブ・シティーから空港までのタクシーでは、
    行きは350ペソしか支払っていない旨を伝えたところ、400ペソになった。
    セブでは、何事でも一々値段交渉をしなければならないという、なかなか
    アジアチックなカオスな場所。

    【マクタン島】
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    空港を降り立ち、タクシーでまずは、最寄の観光地であるマゼラン記念碑へと
    向かったのだが、空港からこの場所までは300ペソであった。 バイクに荷台の
    ようなものを付けたトライシクルの方が安いため、トライシクルを探したところ、
    空港には乗り入れられないようだったため、仕方なく値段の高いタクシーに
    乗ることとなったのだが、通常のタクシーはどうせかなりボラれるため、
    最終的には、例え多少割高でも、黄色いホテルタクシーの方が安いと思う。

    この地には、マゼラン上陸記念碑とスペインからやって来たマゼラン一向に
    戦いを挑んでマザランを殺したこの地の領主であったラプラプの像があるため、
    それに因んで、マクタン島最大の都市の名前はラプラプ・シティーとなっている。
    マゼラン上陸記念碑周辺にあるお土産屋の値段は、日本人の感覚としては非常に
    安いものの、セブの平均的な月給は、1万2千円程度しかないため、それを考えると
    ここまでのタクシーの値段300ペソは、べら棒に高い。

    勇者ラプラプの像とその周辺は島であるため、綺麗な海が見えるのかと思いきや、
    セブ島も含めて、海は殆んど見えない。 南国リゾート地をイメージしてセブに
    来ると、完全に期待を裏切られるため、東南アジアの超ド貧乏な地域をイメージ
    して来る事をお勧めする。 リゾートホテルが乱立している極々一部の地域のみが
    リゾート地なのであり、マクタン島では、一歩外に出ると、観光客目当ての
    たかりが沢山集まって来る場所と心得えておいた方が良い。

    【マクタン島で何故か勝手に船に乗せられることに】
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    東南アジア名物、頼みもしないのに、あちこち連れ回されました。 ラプラプの像
    からは、海が全く見えなかったため、15分ぐらい歩けば、海が見えるだろうと思い、
    道路を歩いていたところ、現地の人たちから次々に声を掛けられたため、
    とりあえず、空港のそばにあるマリーナモールからセブ・シティー行きの格安の
    ワゴンタクシーが出ていることを思い出し、マリーナモールまで行きたいと伝えた
    ところ、100ペソ(約200円)と言われたため、とりあえずこのトライシクルに
    乗ることにした。 因みに、現地のトライシクルの初乗り運賃は8ペソ(約16円)。

    ここで、ついでに海が見たいと言ったのが運の尽き。 勝手に自分の船まで連れて
    行かれ、しかも、そのまま沖に出てしまった。。 その後、海上で料金を尋ねた
    ところ、5,000ペソ(約1万円=現地の月給並み)と言い出したため、とっとと岸に
    戻せと言うと、どんどん言い値が切り下がって来たものの、そもそも、空港では
    3,000円しか両替をしておらず、1,250ペソ程度しか持ち合わせていないにも
    関わらず、この船に乗っている間中、3人のお土産売りのおばさんらに囲まれて、
    お土産を買え!攻撃を延々とされた。。

    最後は、近所の別のショッピングモールまで乗せて貰う約束の筈が、何故か道端の
    タクシーが居るところで勝手に降ろされ、チップとして1,000ペソ(約2,000を)を
    要求されたが、日本円で1,000円しか支払わなかった。 当初は100ペソのみと
    言っていたくせに、5,000ペソまで勝手に切り上げるのは、東南アジア独特の風習と
    言って間違いない。 日本のおもてなしも、全く頼んでもいないのに、勝手に
    過剰サービスを強要されて多額のお金をふんだくられるため、システム的にかなり
    これに近く、アジアの国は基本的に嫌いだ。

    空港からの出だし早々、ボッタクリに遭遇してしまったため、気を取り直して、
    セブ・シティーへと向かった。 セブの人たちは、人間的には良い人たちが多い
    とは思うものの、要求して来る値段が日本円に換算しても高過ぎる。。 最後は、
    土産物売りのおばさんとさっきまで1個1,000ペソ(約2,000円)だと言われていた
    サメの歯の細工と、先日香港で35香港ドル(約500円)で買ったバッタ物の時計とを
    交換し、完全に元を取った(笑)

    【セント・ニーニョ教会とマゼランクロス】
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    タクシーでセブ・シティーに到着後は、セント・ニーニョ教会の前で降ろして
    貰ったため、そのまま目の前にあるセント・ニーニョ教会に入ったところ、
    フィリピン最古のカトリック教会だけあって、5,000名程度でミサを行っていた。
    フィリピンは敬虔なカトリックの国であるため、毎日午後3時と午後6時には、
    神のありがたいお言葉と共に、全ての業務が1分程度ストップする。 以前、
    オーストリアにも住んでいたが、同じカトリックの国でも、こうも違うものなのか
    と思ってしまった。 オーストリアには断食はあるのだが、こういうものは
    なかった。

    セント・ニーニョ教会では、皆ろうそくに火をともしていたので、周囲の真似を
    して5つぐらいのろうそくに火をともし、その場を立ち去った。 ミサは全て
    英語で行われており、フィリピン人の約75%が英語を喋れるという事を実感した
    ものの、フィリピンよりもハッキリ言って、香港の方が断然英語が通じる。
    フィリピン人の英語は、相当訛っているため、非常に聞き取り辛い。

    セント・ニーニョ教会の直ぐ隣には、マゼランが作ったとされているマゼラン・
    クロスがある。 マゼランがフィリピンを発見したのが1521年であるため、
    約500年前にマゼランによって作られた十字架がそのまま展示されていること
    になる。 マゼラン自体は、ラプラプ王によってマクタン島で殺された。
    マゼランはスペインからやって来たため、スペイン人なのかと思いきや、実は
    ポルトガル人。

    セント・ニーニョ教会、マゼランクロスのすぐそばにあるサン・ペドロ要塞は、
    スペイン統治時代に建設されたもので、現在その周辺はセブ港湾地区、独立広場
    となっている。 フィリピンは、スペイン統治時代が長かったため、そこかしこに
    スペイン時代の名残が残っている。 サン・ペドロ要塞は、フィリピン最古の
    要塞であり、初期のスペイン人入植者にとっての中心的な拠点であったもの。
    セブはフィリピンの歴史の始まりの地であるため、フィリピン最古のものが
    多数ある。 この影響で、セブ州で話されているビサヤ語の中には、時々
    スペイン語の単語が残っており、ビサヤ語は何となくスペイン語に響きが似ている。
    フィリピンは、日本支配時代とアメリカ統治時代を経て独立を果たしているため、
    英語に似た単語も多数含まれている。

    【サン・ペドロ要塞とカルボン・マーケット】
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    セブ港のそばにあるフィリピン最古の要塞、サン・ペドロ要塞。 夜は
    ライトアップされており、午後7時半まで中に入ることが出来る。 直ぐ隣には
    独立広場があり、共にセブ・シティーの中心部にある。 セブ・シティーは実は
    余り観光化されていないため、主な見るものとしては、サン・ペドロ要塞、
    セント・ニーニョ教会とマゼランクロスぐらいしかない。 この後は、
    ナイトマーケットへと繰り出したが、台湾や中国のような華やかなマーケットだと
    思っていたところ、大きな勘違いであったことに気付いた(笑)

    セブ・シティー市民の台所、カルボン・マーケットには、実は観光客は殆んど
    おらず、現地の人たちばかりなので非常に雑多。 アジア的なカオスな場所が
    好きな人以外は余りお勧め出来きない場所となっている。 カルボン・
    マーケットは、 人ごみが凄いため、スリに気をつけるようにとガイドブック
    には記されていたが、そこまでの危険性は感じなかったものの、基本的に非常に
    暗いため、何を売っているのか、良く分からない。 カルボン・マーケットは、
    実際のところ、道に物を広げただけの戦後の闇市と言った方が分かりやすい。
    雰囲気的に、正に70年ぐらい前といった感じ。

    カルボン・マーケットから滞在地であるフエンテ・オスメーニャまでは、約2キロ
    程度離れており、セブ・シティーではバスが一切走っていないため、フィリピン
    独自の乗り物、ジプニーで移動しようかとも考えたものの、さほど遠くないため、
    街をぶらぶらしながら、歩くことにした。

    【フエンテ・オスメーニャ】
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    セブ・シティーは、全体的に街が暗くて汚いため、夜の一人歩きは余りお勧め
    出来ないが、途中で何ヶ所かナイトマーケットを見つけたり、格安のマッサージ屋を
    見つけたりと、それなりの収穫があった。 滞在地としては、カルボン・マーケット
    周辺、あるいは、フエンテ・オスメーニャが最もお勧め。 どちらも24時間営業の
    店が多いため、夜遅く到着しても大丈夫。

    カルボン・マーケットから約2キロ離れたフエンテ・オスメーニャまでの途中では、
    かなりの数のジプニーとすれ違ったが、この乗り物にはバス停と言うものが存在
    せず、自分で降りる場所を運転手に伝えて降りる仕組みであるため、現地の人間
    以外は非常に使い辛い。 セブ島にはバス停が一切ないため、バスの乗り降りは
    全てこの仕組み。 しかも、定員オーバーで車体から人間がはみ出していることも
    日常茶飯事。 普通に車の荷台に人間が山盛り乗っているため、ある意味危険だが、
    ある意味見ていて面白い(笑)

    最後は、滞在地のフエンテ・オスメーニャにあるショッピングセンター内の
    Joliebee(フィリピンで人気のハンバーガーショップ)で遅い夕食を食べた。
    この後、午後9時からは、寝る間を惜しんで、3時間のオイルマッサージに行った。
    ここでは、3時間で600ペソ(約1,200円)のマッサージのフルコースを選択し、
    色々なマッサージの中から自分で選択出来るため、1時間フットマッサージ、
    1時間背中のマッサージ、1時間スウェーデン式マッサージをして貰った。
    日本では逆にオイル式のリンパマッサージがなかなかない(あったとしても女性
    限定が殆んど)のと、3時間もマッサージをやって貰うと最低でも2万円は取られる
    ため、かなりの破格値☆ 翌日の集合時間は午前4時50分だったのだが、午前0時
    30分、セブ島の滞在初日がようやく終わった。

    【お勧めの一冊】


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    考古学者たちは、大昔の人々の野営の跡や石器類をルソン島のカガヤン渓谷で
    発見した。 これらの品々は25万年前に遡り、当時この地域は、まだアジアと
    陸続きだった。

    アジア大陸の色々な方面から、様々な民族が陸路、フィリピンにやって来た。
    約25万年前には、弓矢を使う狩猟民族のアエタと呼ばれる人々がやって来た。
    これら新しい人々は、狩猟の他に、食料を確保するために植物を植え、耕作も
    行った。 およそ1万2000年前、地球の広大な地域の表面を覆っていた氷が
    溶け出した。

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    溶け出した大量の水により、フィリピンと他のアジアを繋げていた陸路は水没し、
    この時からフィリピンは島々になった。

    1500年から紀元前500年の間に掛けて、マレー人や現在の中国人、ベトナムから
    人々が太平洋をカヌーでやって来た。 彼らは沿岸に住み着き、先住民たちは、
    島の内陸部へと移動した。 新しい人々は洗練された石の武器や道具を用い、
    村に集団で住んだ。

    マレーからの新しい移住者たちは、労働用にカラバオ(水牛)を取り入れた。
    マレー人とその子孫たちは、ルソン島北部の山々を切り開いて段々畑を作り上げ、
    米作を行った、 こうして何世紀にも渡って、沢山のマレー人がフィリピン諸島に
    やって来た。

    【お勧めの一冊】


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    フィリピンの人口のおよそ41%は都市部に住んでいる。 マニラは首都であり、
    フィリピン最大の都市でもある。 更に、商業、金融の中心、国内一の港でもある。

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    【マニラ】
    マニラはルソン島の南西に位置し、マニラ湾に沿って集まる多数の小さな市と町
    から成っている。 マニラ市は160万人の人口を抱える一方、マニラ首都圏一帯で
    は800万人を超す人々が暮らしている。

    マニラはパシグ川によって2つに分けられている。 川の南にはスペイン植民地
    時代に建てられた古い城壁都市、イントラムロスがある。 更に南には、リサール
    公園(ルネタ公園としても知られている)があり、広大なオープン・スペースは
    市民の憩いの場や集会の場に使われている。 パシグ川の北はトンドで、人口が
    密集し、バラックの立ち並ぶスラムがある。 マニラにはまた、大統領官邸である
    マラカニアン宮殿がある。

    【ケソン】

    マニラの北東で接しているのはケソン市で、1948年から1976年までは首都で
    あった。 現在はマニラが首都だが、政府の多くの省庁は今もケソン市にある。
    フィリピン国立大学の中央キャンパスもケソン市にある。

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    【セブ】
    セブ島の東海岸にあるセブ市では、港が活気がある。 ビサヤ諸島の輸出品の
    大半はセブ市の港を経由している。 人口は50万人以上あり、フィリピンの
    大都市のひとつとなっている。

    フィリピン諸島最初のスペイン植民地の名残として、セブ市には沢山のスペイン
    様式の教会と共に、16世紀に建てられたサンペドロ要塞を残している。 また、
    1950年創立のサウスウェスタン大学を含めていくつかの大学が市内にある。

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    【イロイロ】
    もうひとつの主な港町は、パナイ島の南東部にあるイロイロ市で、1700年と
    1800年代に海賊たちがしばしば植民地を襲ったため、住民は石の望楼や、防衛の
    ための要塞を設けた。 イロイロ市は25万人越す人口を抱えた農産物交易センター
    であり、急成長する島の織物工業の商業センターでもある。

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    【ダバオ】
    ダバオ市はミンダナオ島の南東岸にある最も急成長中の市のひとつである。
    人口は80万人を超え、他の島からの住民も多い。 彼らは農業労働を求めて
    やって来る。 ココナツはダバオ港から世界に輸出されている。

    【お勧めの一冊】


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