東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の多言語翻訳『東京通詞』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ビザンチン帝国

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ
    正教派を採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア
    文化の影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。
    この時期のフィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦って
    いたため、スウェーデンの結束した力に対抗する事が出来なかった。

    swedishlands

    【スウェーデンの支配】

    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)
    に伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを
    責任者とした。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア
    地方の東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、
    両国は、スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクが
    フィンランドの中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の
    間で話されるようになった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    830年にモイミールという名のスラブ首長が、現在のチェコである、ボヘミアと
    モラヴィア、更には、スロヴァキア、ポーランドにあたる地域にまたがる
    大モラヴィア帝国を建設した。 東フランクからの絶え間ない威圧に対抗して
    建設されたスラブ人の国だと言われている。

    大モラヴィア帝国は、東のビザンチン帝国と密接な関係を作るためにビザンチン
    教会を取るか、または、西のローマ教会を取るか、東西ふたつのキリスト教が
    ぶつかる舞台となった。 モイミール一派は、ローマ教会を受け入れたが、
    後継者のラチスラフ一派は、大モラヴィア帝国にビザンチン教会の伝道師を招いた。

    863年に到着した伝道師キリルとメトディウスは、スラブ人にスラブ語で、
    キリスト教の祈祷と儀式を伝えた。 彼らは聖書の翻訳に、キリルが作った
    グラゴール文字を使った。



    同じ頃、ドイツ遠征中のラスティスラフは、ドイツ王に捕らえられた。 彼の
    甥であるスヴァトプクは、ドイツ王と和平を結び、臣下のスラブ人をローマ教会の
    カトリックへと改宗させた。 南スラブ人、東スラブ人は、ビザンチン教会に
    留まり、チェコ人は、ローマ・カトリック教徒になった。

    984年にスヴァトプクが死んだ後、中央アジアのマジャール人がヨーロッパに
    侵入して来た。 屈強なマジャール騎馬軍は、大モラヴィア帝国を一気に滅ぼした。
    ヨーロッパ南東にハンガリー王国を打ち立てたマジャール人は、現在の
    スロヴァキアを占領し、その後、約1000年間に渡って支配した。

    great-moravia

    【プシェミスル家とボヘミアの統一】 
    大モラヴィア帝国が滅亡した頃、チェコ人が住むボヘミア、モラヴィア一帯では、
    有力な豪族プシュミスル家が権力を広げ、同家のヴァーツラフ公は、チェコ人を
    まとめて、ボヘミア公国(後に王国となる)を創った。 大モラヴィア帝国を
    滅亡させた東のマジャールの脅威からボヘミアを守るために、929年、
    ヴァーツラフはドイツ国王ハインリッヒ1世に臣従の誓いをたてた。 怒った弟
    ポレスラフは、ヴァーツラフを殺害した。

    しかし、ボヘミア公国の支配を南ポーランドまで広げた弟は、悔い改め、
    ヴァーツラフを聖者に叙し、ボヘミアの守護神として祀った。

    962年にローマ法王が、ドイツ王オットー1世を皇帝としてローマ帝国を復活
    させようとしたのが神聖ローマ帝国である。 ドイツを中心に、中央・
    東ヨーロッパの多数の都市、領主国、公国にまたがる神聖ローマ帝国は、今の
    EUのような国家共同体である。 11世紀に、一時的にプシェミスル家に代わって
    ボヘミア王に迎えられたポーランド王ヴラチスラフは、ボヘミア公国を
    神聖ローマ帝国に編入し、安全保障を条件に貢納の義務を負うことになった。

    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ