東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:ヒトラー

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    1914年になると、協商と同盟の2つの国家グループが、ついに衝突した。
    フランス、イギリス、ロシアは、ドイツ、オーストリアと直ちに戦争に入った
    (イタリアは三国協商側についた)。 ドイツ軍はベルギーを横切ってフランスに
    侵入したが、戦闘は行き詰った。

    4年にも及んだ戦争で、双方共決定的な勝利をあげられなかった。 1918年に
    なって、イギリス、アメリカ、および、フランスの連合軍が、やっとドイツ軍を
    撃退することが出来た。 1918年11月11日、ドイツは降伏した。 フランス
    北部一帯は戦争の損害を受け、フランス国民の死者は150万人近くにのぼった。

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    【両大戦の間】
    ドイツは、1919年に調印されたヴェルサイユ条約によって、アルザス、ロレーヌの
    両地方をフランスに返した。 条約はまた、戦争の被害について、ドイツが巨額の
    賠償を支払うことを要求した。

    再びヨーロッパで戦争が起きるのを避けるために、フランスは1928年に多くの国と
    ケロッグ=ブリアン条約(ケロッグ不戦条約)を結んだ。 フランス政府は軍隊を
    再建し、東方からの侵略を防ぐために、ドイツ国境沿いにマジノ・ラインと
    呼ばれる要塞線を築いた。

    世界大恐慌が1932年にフランス経済を襲うと、失業が増え、工場は閉鎖され、労働
    組合員によるストライキと暴動が起きた。 不満を抱えた多くのフランス国民は、
    急進社会党、社民党、共産党による人民戦線に参加した。 人民戦線派は1936年の
    総選挙で勝ち、下院の多数派を占めた。

    レオン・ブルムを首班とした人民戦線内閣は、週40時間への労働時間短縮等労働者の
    要求の多くを認めた。 ブルムはまた、ドイツの軍事脅威の高まりに直面していた。
    1933年以来、ドイツはアドルフ・ヒトラーを指導者として、工業を再建し、新しい
    戦車、航空機、軍艦を生産していた。

    フランスは第一次世界大戦の後20年間、イギリスと密接な関係を保って来た。
    だが、両国の力だけでは、1938年のヒトラーによるオーストリアのドイツ併合や、
    1939年のチェコスロバキア侵略を阻止出来なかった。 フランス、イギリス両国
    政府は、ヒトラーに侵略した土地の保有を許して、戦争を防ごうと試みたが、この
    戦略は失敗した。 1939年夏、ドイツ軍の戦車、航空機、および、歩兵軍は、
    イギリスとフランスの同盟国ポーランドを電撃的に征服してしまった。 同年9月、
    第二次世界大戦が勃発した。

    【第二次世界大戦】
    1940年5月、ドイツ軍戦車がフランス北部に侵攻した。 数週間でパリは陥落し、
    フランス政府は6月17日、和平を求めてドイツと休戦協定に調印した。 フランスが
    降伏した時、フランス本土は分断され、3分の2がドイツ占領地域になり、残り
    (南部と南東部)がヴィシーに本部を置くアンリ・ペタン首相のフランス政権に
    管理が委ねられた。 ヴィシー政権は、ドイツ占領軍に何の抵抗もしなかった。

    他方、フランスのシャルル・ドゴール将軍はイギリスに亡命して自由フランス運動を
    はじめ、ドイツ占領軍と戦おうと全フランス将兵に訴えた。 フランスの国内では、
    海から連合軍が侵入するのを防ぐため、北西部海岸に陣地を築いたドイツ軍に
    対して、地下抵抗運動家達が秘密闘争を繰り広げた。 連合軍の主力はイギリス、
    アメリカ、カナダだった。 1944年、カナダ、アメリカ、イギリスの連合軍は、
    イギリスに集結して、フランス海岸からヨーロッパ大陸に反撃する準備を整えた。

    1944年6月6日、連合軍はノルマンディー海岸から上陸し、8月26日にパリを
    開放した。 ドゴール将軍はパリに戻り、政府を組織した。 1945年5月、ドイツが
    降伏すると、ドゴールは第4共和制を敷き、初代大統領になった。

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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んでカール1世が
    皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は経済状態の悪化に抗議した。
    中央政府の弱体化に連れて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人等が次々とオーストリアから独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツと共に遂に連合国側に降伏した。
    降伏後、カール1世は退位し、600年以上に渡ったハプスブルグ家の支配は
    終わった。 社会民主党の指導で、臨時国会が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれて、共和国の現在の
    国境が画定した。 この条約はまた、ハンガリー、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

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    オーストリアの国内の不安はなおも続き、共和国の経済は少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人達は、元のハプスブルグ帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合、ドイツ語で
    アンシュルスを支持する声が、1930年代初期に高まった。 世界的な経済不況と、
    ウィーンにある大銀行の倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は
    ますます苦しくなった。 このためにアンシュルス運動はますます力を得た。

    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党、ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府にはドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を受けて
    いた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者クルト・フォン・シュシニックは
    何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーはそれでも満足せず、1938年、
    ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によってアンシュルスを成し遂げた。
    オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者とユダヤ系住民を逮捕し、
    ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。 1939年、ドイツの
    ポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まった。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

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    1930年のドイツ軍事力増強は、ヨーロッパの脅威だった。 1936年、
    ベルギーは再び中立を宣言した。 イギリス、フランス、そして、ドイツが
    ベルギーの中立の立場を承認した。 しかし、ドイツが周辺諸国を次々に併合
    したため、摩擦は避けられないものとなり、1939年に第二次世界大戦が勃発した。
    1940年5月10日、ベルギーの中立を尊重すると誓約していたにも関わらず、
    ドイツは、再度ベルギーを侵略して、フランスに攻め入った。

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    激しい戦闘が18日間続いた後、レオポルド3世は、ベルギー軍を降伏させる手順を
    取った。 ナチの軍隊が国土を占領してから後、ドイツは、ベルギーから金銭と
    商品と労働力を奪い取った。 ベルギー人達は、地下の抵抗運動を組織し、
    ベルギーの武装兵力の一部は、イギリスに逃れ、ドイツ軍に対抗する連合軍と
    合流した。

    ドイツの占領は継続されたが、1944年の夏、連合軍がフランス北部に大挙して
    上陸し、やがてベルギーは開放された。 1944年12月、退却を続けていた
    ドイツ軍は、アンデンヌで最後の大攻撃を敢行した。 これは、バルジの戦いと
    呼ばれている。 1945年5月、ドイツは降伏した。

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    レオポルド3世が戦争初期にドイツに降伏したため、ベルギーは、ヨーロッパの
    他の一部の国々が被った程の破壊を受けずに済んだ。 しかし、多くの
    ベルギー人達は、国王がヒトラーに対して、協力的であり過ぎたと感じた。
    その問題は、フラマン人とワロン人の間の分裂を深め、フラマン人は、一般に
    君主制を擁護するのに対して、ワロン人は、国王は王位を捨てるべきだと要求した。
    レオポルドは、戦後の混乱期をベルギー国外で過ごし、1951年に王位を放棄した。
    息子のボードワン1世が後を継承した。

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