バーベンベルク家の領土が拡大するにつれて、マジャール人の攻撃がまた
盛んになった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人
との戦いで戦死し、バーベンベルク家は絶えた。 北隣のベーメン
(今のチェコ)の国王オットカル2世は、フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、
オーストリアとシュタイヤーマルクを自分の領土に併合した。
1273年、選挙候達は、スイスの裕福な一族の家長であるハプスブルク家の
ルドルフを神聖ローマ帝国皇帝に選出した。 1278年、ハプスブルク家の
軍隊は、マルヒフェルトの戦いでオットカルを打ち破った。 オットカルの
領土は次々とルドルフの支配化に入った。 こうして、ルドルフを初代とする
ハプスブルク王朝が始まり、以後、600年以上にも渡ってオーストリアに
君臨することになる。 ハプスブルク家のオーストリアの君主のほとんどは、
同時に神聖ローマ帝国皇帝でもあった。 ハプスブルク家は結婚によって
14世紀中に、ケルンテン、チロル、フォアアールベルクをオーストリアに
併合した。
だが、ハプスブルク家は、これらの新領地の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は人民に課税し、軍隊を
徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な労働を強いられ、領主の認可が
なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者達は、ローマ教皇以外の権威を
認めなかった。
ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序ある
継承順序を定めてはいなかった。 相続同士の争いは、しばしば公国を混乱に陥れ、
貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。 ハプスブルク家と貴族達
との対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの経済を衰退させた。
【帝国の膨張】
1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、
チロル以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの
息子マキシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、ネーデルランド
(現在のオランダとベルギー)の土地は、残らずハプスブルク家の領域に編入
された。
1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマキシミリアンは、結婚によって
ハプスブルク家の領域を拡大する政策を続け、自分の息子をスペイン王
フェルディナントの娘と結婚させた。 この結婚から生まれたカール5世は、
1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。
その結果、カールは、ドイツとスペインを含む、広大な領域をハプスブルク家
当主として支配することになった。
カールの弟フェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンと
ハンガリー両国の王ラヨシュ2世の妹と結婚して、1526年、ラヨシュの戦士後、
両国の王を兼ねた。ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、
マジャール人が創設した国である。 ハンガリー貴族の一部は、トルコの支配を
得て、フェルディナントに反抗した。 当時のトルコは軍事大国で、バルカン
半島の大部分を支配化に治めていた。 トルコ軍は、1529年にウィーンに
迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。
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