東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:バルト海

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    FIFAワールドカップの旅の最終目的地は、カリーニングラードではなく、実は、
    更に、カリーニングラード南駅のすぐ隣りにあるバスターミナルから、バスに乗り、
    バルチック艦隊の本拠地、バルチースクでした。 カリーニングラードから
    バルチースクまでは、路線バスでおよそ1時間半。 街に中心部には、昔なつかしの
    レーニン像が建っています。

    バルチースクの駅には、1日に2本しか列車がやって来ない。 当初、
    カリーニングラード南駅から、ちょうど良さそうな列車を見つけたため、
    窓口で切符を買おうとしたところ、曜日によって運行する日が異なるため、
    この日は運行していないことが判明。 仕方なく、バスでの移動となった。

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    バルト海の向こうは、スウェーデンとフィンランド。 南側約20キロは、
    もうポーランドという、ロシアの最西端の地です。 運河の向こう側の
    ポーランド側に渡るためには、橋がないため、船で渡るしかない。

    バルチースクにある星型をした海軍基地は、上から見ないと分からないため、
    単なる堀のような感じであった。 施設中に入れるのかと思いきや、軍事施設の
    ため、無理。 この中に軍艦が停泊しているものと思われるのだが、横須賀の
    ような街をイメージしていたところ、思っていたよりも、軍艦の数は少なめ。

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    バルチースクからの帰りは、乗り合いタクシー(ロシア語では「マルシルートカ」)
    で移動。 その後、カリーニングラード市内で、本場のロシア料理を食べた。
    日本のロシアレストランは、戦後の引揚者らが始めた見よう見まねの料理で
    あるため、本物のロシア料理とは違うことが多々ある。 日本におけるロシアの
    情報は、ウソだらけなので、気を付けないと騙されます。

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    1917年、ロシアで共産主義者と呼ばれる革命家達が政権を握った。 この政権は、
    第一次世界大戦の戦線から離脱し、ポーランド人が自らの政権を樹立するのを
    認めた。 ポーランド臨時政府が成立し、やがて共和国の樹立が宣言された。
    ピウスツキは、共和国の国家主席になった。

    ヴェルサイユ講和条約の結果、ドイツは武装解除され、ヨーロッパ北部と中部に
    新しい国境線が引かれた。 ポーランドは、ヴィスワ川からバルト海岸に及ぶ
    細長い地域をドイツから獲得した。 隣接するグダニスク港は、住民の大半が
    ドイツ語を話すため、ダンツィヒ自由市となり、結成された国際連盟の管理下に
    置かれた。

    ピウスツキは、3回に渡るポーランド分割以前に存在した国境を回復しようと考え、
    そのためロシアと紛争を起こした。 当時ロシアでは、共産主義政権が、皇帝の
    支持者たちと戦い続けていた。 1920年から始まった戦争で、ポーランド軍は
    ロシア国内の混乱に乗じて、東部国境外の地域を奪い取った。 1921年、
    ポーランドとロシアは、やっと平和協定を結んだ。

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    ロシアの共産主義者たちは、やがて国内の混乱を鎮圧して、1922年ソビエト連邦を
    創設した。 同じ年、ポーランド国会は新憲法を制定し、ピウスツキは国家主席の
    地位を辞任した。

    1920年代、再建された下院議会は、教育、労働法、地主制度の改革案を成立
    させた。 産業労働者たちは、労働組合を結成し、田園地帯の農民は自分たちの
    私有地を獲得した。 貿易を振興させるために、ポーランド政府は、バルト海岸に、
    新しくグディニア港を建設した。

    ポーランドの指導者たちは、見事にポーランドの再建しつつあったのにも関わらず、
    政党間の激しい争いが政府を弱体化させた。 その上、ウクライナ人、ドイツ人、
    ベラルーシ人などがポーランド人の統治に対して民族的な反感を持ち、また、
    物価が高騰して失業が広まったために、政治的な危機が生じた。 1926年ごろには
    問題が深刻化して、政府の機能は麻痺した。

    国会の失敗に失望したピウスツキは、軍の支持を受けて、1926年、政界に復帰し、
    政府を転覆させた。 ピウスツキは、下院議員の権限を制限し、自分の戦友のを
    総理大臣に任命した。 1920年代後半から30年代前半に掛けて、ピウスツキは
    軍の総司令官になり、1935年に病死するまで独裁者として国を支配した。

    1930年代になると、ドイツでアドルフ・ヒトラーのナチス政権が成立し、急速に
    再軍備を始めた。 1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの大部分を手中に
    収めた。 この国は、第一次世界大戦後、ポーランドの南につくられた国家
    である。 ヒトラーはまた、ダンツィヒをドイツの支配下に戻すように要求した。

    東では、ソビエトの指導者、ヨシフ・スターリンがポーランド東部はソビエトの
    領土であると主張した。 1919年の夏、ヒトラーとスターリンは、ポーランドを
    侵略して分割する秘密協定に調印した。 ヒトラーはダンツィヒとポーランド
    西部の領土を要求し、ポーランドはそれを拒否した。 イギリスとフランスは、
    ドイツが攻撃した場合には、ポーランドを支援すると誓約した。

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    1600年代初期に、スウェーデン国王グスタヴ2世アドルフの軍事拡張策が成功して、
    スウェーデンはバルト海地方の大国になった。 ドイツとの三十年戦争(1618年~
    1648年)の際、国王は、勇猛な戦士だったフィンランド兵の戦闘の上手さに
    頼って、ドイツに出兵した。 スウェーデンは戦費を調達するために、
    フィンランド人をはじめ、領内の国民全てに過酷な税を課した。

    グスタヴ2世アドルフが1632年に死に、ただ1人の後継者、6歳の王女
    クリスティーナが王位に就いた。クリスティーナが成人になるまで、スウェーデン
    貴族アレクセル・オクセンチャールナは、やはり裕福な貴族で、競争相手の政治家
    ペール・ブラーヘ公の追い落としを図り、新設のフィンランド総督に任命して
    トゥルクに左遷した。

    ブラーヘ総統は、フィンランド人のために全力を尽くした。 スウェーデン語より
    フィンランド語を使うことを奨励し、聖書のフィンランド語完訳を開始した。
    1640年にはフィンランド最初の大学をトゥルクに創設した。 同じ頃、ブラーヘ
    総督は、ラーヘ市をオストロボスニア地方の西部地区の中心都市に決めた。

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    【紛争と改革】
    ブラーヘ総統が退任した1658年までに、スウェーデンには重大な変革が起きて
    いた。 摂政オクセンチャールナが死に、クリスティーナ女王が王位を放棄し、
    継承者のカール10世グスタヴは自国の領土拡大とロシアの拡大阻止のため、
    ポーランドと戦争をしていた。 スウェーデン軍がポーランドと交戦中、
    フィンランド人たちは侵攻して来たロシア軍を破った。 スウェーデンと
    ロシアは1660年、フィンランド東部国境を設定し、ポーランドの一部と
    デンマークをスウェーデンの領土にするカルディス条約を結んだ。

    1672年、若いスウェーデン国王カール11世は、国王独裁を宣言し、伝統的に
    官僚と分担して来た権限を取り上げた。 また、フィンランドでスウェーデン語を
    広めて、スウェーデン文化との結び付きを強めた。 1686年にカール国王は、
    スウェーデンのルター派教会をフィンランドのの公式の教会と決め、その監督を
    任命した。

    スウェーデン国王は、トゥルク教会の監督に、全フィンランドの人に読み書きを
    教える責任を課した。 監督と教区の司祭たちはが真剣に教えた結果、
    フィンランドは、ほぼ全住民が読み書き出来る国のひとつになった。

    読み書き能力の普及を除けば、1600年代末期のフィンランドには、大した進歩が
    なかった。 スウェーデンの支配者たちは、スウェーデンに兵士を提供し、税金を
    支払っているフィンランド人を、ますます省みなくなった。 更に、
    フィンランドは、1696年と1697年の大飢饉で、住民の3分の1が病気で死んだ。

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    考古学者によると、人々が初めてフィンランドにやって来たのは、紀元前
    7000年頃だった。 当時はまだこの土地に氷河期の氷が残っており、今の
    バルト海は淡水湖だった。 一番古い居住者達は、歴史学者がラップランド
    先住民サーミ人の先祖とみなす人々で、フィンランド南部の海岸沿いに住んだ。
    ムース(ヘラジカ)を射止め、魚を取って食料とした。 船を作くり、船首の
    飾りにムースの頭を彫ったことが、この時代の出土品に示されている。

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    【新移住者の到来】
    紀元前3500年頃、遊牧民の集団が現在のロシアを横切って、バルト海の沿岸地方へ
    移動を始めた。 フィン・ウゴル語族と呼ばれるこの集団は、フィンランド南西部へ
    移って行き、やがて何世紀もの間に北方へ広がって、フィンランドの先住民達を更に
    北へ追いやった。 フィン・ウゴル語族の中には、20世紀まで、共にフィンランド
    領だったカレリア地方やラドガ湖(現ロシア領)地方など、東方に移動した者も
    居た。 そこに定住した者達の土器は、くしの歯に似た文様を刻んだ櫛文土器
    となっている。

    同じ頃、北ヨーロッパからフィンランドに渡来したゲルマン系の新しい移住者達を、
    歴史家はその磨き上げた石斧の形から、舟形斧人と呼んでいる。  舟形斧人達は、
    フィンランド南西部に広く住み着き、原住民と結婚して行った。

    鉄器時代フィンランドの生活は、19世紀に集められた古い民話に描かれている。
    この民話によると、鉄器時代のフィンランドの人々は、自分達をスオマライセット人
    (フィンランド人の意味)と呼び、国をスオミと名付けた。 この人々は、今の
    フィンランド南西部に住んで狩猟をした。

    ハマライセット人は、(ハメ地方の人の意味)という別のグループは、現在の
    ラハティ市からタンペレ市に至る内陸地方に住み、農業を発展させた。
    フィン語族第3のグループであるカレリア人は、今のフィンランドの東部国境
    沿いに住んだ。 各グループの居住地は、広大な原野で互いに隔てられていた。

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    15世紀のカトリック教会は、権力が強く裕福だった。 教会は所有する地所と
    農地から莫大な利益を得ており、国内で生産される全ての穀物から一定の
    割合で金品を徴収していた。 高位の聖職者の殆どは、貴族の子弟で、
    それがますます裕福になって行くため、一般の人々は、教会に反発を
    抱き始めた。

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    1479年、クリスティアン1世は、教会から提供させた資金でコペンハーゲンに
    大学を創立した。 教会の権威に反抗する宗教改革の思想はこの大学から
    生まれた。 この思想の信奉者は、プロテスタントと呼ばれ、次第に勢力を
    拡大して行った。 この風潮に対応して、次の国王ハンスは、最初の国会を
    召集した。 この国会では、貴族や聖職者と並んで、一般市民が議席を
    与えられた。

    1513年に国王に選ばれたクリスティアン2世は、聖職者と貴族の勢力を
    抑えるのに努めた。 土地制度の改革が実行され、一般市民が王の顧問に
    任命された。 王はまた、スウェーデンに兵を送って、デンマークの権威の
    回復を図った。 1520年、王はスウェーデン貴族82人を処刑させた。

    スウェーデン人は、この虐殺に激怒し、本格的な氾濫が勃発した。 3年後には、
    スウェーデンは、独立を勝ち取り、スコーネなどわずかな地域だけが
    デンマークの支配下に残った。

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    クリスティアン2世の叔父フレゼレグ1世の時代には、プロテスタントの勢力は
    ますます盛んになった。 この国でのプロテスタントの主な支持者は、地位の
    低い聖職者と中流階級出身者だった。 1533年、フレゼレグ1世が死ぬと、
    宗教対立は絶頂に達した。 彼の息子たちのうち、カトリックのハンスと、
    プロテスタントのクリスティアンのどちらが王位に就くかを巡って国論は二分し、
    内乱が勃発した。

    クリスティアンが、1536年に勝利をおさめて国王のクリスティアン3世となり、
    プロテスタントの一派である福音派教会を国教と定めて、国王はその首長となった。
    クリスティアン3世は、カトリック教会の土地を没収して、王家の権力と財力を
    大いに増大させた。

    しかし、デンマークがスウェーデン、ロシア、ポーランドと次々に戦って、
    バルト海での勢力を拡大させようとしたため、財力はたちまち減少した。
    1563年から70年に掛けて、デンマークは、スウェーデンと北方七年戦争を
    戦ったが、一片の領土も確保出来なかった。

    その後デンマークは、16世紀末まで軍事から一切手を引いた。 平和の続いた
    30年の間に、この国から輸出される穀物と家畜の値段が上昇し、一般市民の
    生活が潤った。

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    クヌッド4世の弟ヴァルゼマール2世が1202年に国王になると、ドイツの
    諸侯との間で抗争が生じた。 ヴァイゼマール2世は、バルト海沿いの
    ドイツ騎士団と戦って、エストニア、メクレンブルク等各地を占領した。

    北ドイツの諸侯は、反撃を開始して、1223年、ヴァイゼマール2世を捕らえて
    監視した。 ヴァイゼマールは、自由を回復するため、征服した領土のうち、
    エストニアを除く大部分を放棄した。

    ヴァイゼマール2世が1241年に死ぬと、再び内戦が頻発した。 王族、貴族、
    聖職者達が権力抗争を始めたのである。 1282年、貴族達は、ヴァイゼマール
    2世の孫にあたる国王エーリック5世に強制して、王権を制限する憲章に
    署名させた。

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    1286年にエーリック5世の後を継いだ息子のエーリック6世メンヴェドは、
    北海とバルト海沿岸のドイツ商業都市の連合体であるハンザ同盟の勢力を抑え
    ようとした。 王はそのために、国土の一部を抵当に入れて軍備を調達した。
    スコーネまでがドイツ貴族の所有となった。

    1333年、スウェーデンはドイツのホルスタイン公からスコーネを買い取った。
    これは、デンマークへの重大な脅威と考えられた。 エーリック5世の孫
    ヴァイゼマール4世アッターダーは、1346年、エストニアをドイツ騎士団に
    売却し、その金で抵当に入れられていた国土を買い戻した。

    こうして力を付けた王は、1360年、スコーネをスウェーデンから回復し、翌年、
    ゴットランド島にあるハンザ同盟の有力都市、ヴィスビを占領した。 また、
    娘マルグレーテをノルウェー王ホーコン6世と結婚させた。

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    1025年、ボレスワフ1世が死ぬと、ポーランドには激しい内戦が起こった。
    ボレスワフ1世の曾孫ボレスワフ2世は、貴族達と争い、クラクフのカトリック
    司教は貴族側に味方した。 1079年、ボレスワフ2世が司教の殺害を命じた
    ことで教皇はポーランド全土に制裁を科した。 1100年代初期、ボレスワフ2世の
    甥ボレスワウ3世は、ポーランド北西部のポモルゼの領有を巡って神聖ローマ
    帝国の軍隊と戦った。 彼は王国を何人も居る息子達に平等に分割するよう
    遺言したので、ポーランドの力は弱まった。

    続く2世紀の間、この分割相続制度によって、多数の小さな半独立の公国が出来た。
    ポーランド貴族と小さな公国の貴族達は、互いに争いを繰り返し、ポーランドの
    民衆は無秩序で無力な状態に陥って、この国の長い国境線を防衛することが
    出来なくなった。

    王国内の混乱に乗じて、カトリックの宗教戦士の集団、ドイツ騎士団が北から
    攻撃して来た。 北東のバルト海沿いにあるリトアニア国家もまた、この国の
    領土を侵略した。 1240年、東アジアのモンゴル人の大軍は、ポーランドと
    東ヨーロッパの多くの地域を荒廃させた。 モンゴル人がヨーロッパから撤退
    すると、ポーランドは、次第に国力を回復し始めた。

    ドイツから職人や商人達が招かれて、ポーランドの都市や港湾に定住した。
    ポーランドはまた、ヨーロッパの他の国々での迫害を逃れた大量のユダヤ人を
    喜んで受け入れた。 クラクフやグダニスクは、北ヨーロッパ諸都市の商業
    連合体であるハンザ同盟に加盟し、その結果、この2つの都市や王国内の他の
    都市では、商業貿易が繁栄した。

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    【カジミェシュ大王】
    1295年、ポーランド王プレシュミスワフ2世が暗殺されると、王位の継承を
    巡って争いが起こり、プレシュミスワフの娘婿チェコ王ヴァーツラフ2世が王位を
    要求してポーランドに攻め込んだ。 1305年、ヴァーツラフが死ぬと、ピアスト
    王家の一員が教皇の支持で、1320年に国王ヴワディスワフ1世として、クラクフで
    戴冠式を行った。 ヴワディスワフは戴冠式行ったクラクフをポーランドの
    首都と定めた。

    ヴワディスワフの息子カジミェシュ3世が1333年に国王になった時には、
    ポーランドはまだ弱体な分裂国家だった。 カジミェシュは、国王の権力を強化
    して、国内の紛争を終わらせ、国家を再統一した。 カジミェシュはまた国境の
    安全をはかるため、リトアニアと同盟し、南方の強大国ハンガリーとも同盟を
    結んだ。

    カジミェシュは、多くの国内改革を行った。 農民の権利を保護する法律を作り、
    法体系や行政制度を組織し直した。 また、教育にも力を入れ、1364年、
    クラクフにこの国最初の大学を創設した。 カジュミェシュ3世は、その功績に
    よって、後世の人に大王と呼ばれるようになった。

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    ネヴァ川は、ラドガ湖から発してフィンランド湾に流れ込む。 全長74kmと
    短いが水量の豊富な大河である。 『ネヴァ』という名称は、フィン語の
    Nevajoki から出ているが、これは、 Neva(沼)という言葉が元となっている。

    確かにこの川の河口は、沼沢地帯であった。 この川の周辺に住んでいたのは、
    フィン人であった。 この地に勢力を伸ばしていたのは、スウェーデン国家と
    ノヴゴロドというロシアの都市国家である。

    1300年、スウェーデンはネヴァ川にオフタ川が流れ込むところにランズクローンの
    砦を造った。 1年後にその砦はノヴゴロド人によって破壊された。 1323年の
    講和で、ネヴァの流域は、ノヴゴロドのものとなり、ラドガ湖からネヴァ川が
    始まる辺りにオレーシュクの砦が造られた。 その状態が1609年まで300年近く
    続いた。

    17世紀始め、ロシアは『動乱』の世となり、国が乱れに乱れた。 ポーランド王の
    軍にモスクワが占領されるという事態も生じた。 1611年、スウェーデンも
    ロシアに兵を進めて、ノヴゴロドまでを占領した。 ネヴァ川流域も
    スウェーデンの支配下に入った。

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    破壊されていたランズクローンの砦の後には、ニエンシャンツの砦が造られた。
    オレーシュクの砦は、スウェーデン風にノーテブルグの砦と改称された。
    1613年、動乱を克服したロシアは、ミハイル・ロマノソフを皇帝に選んだ。
    彼は、4年後にスウェーデンのグスタフ・アドルフとストルホヴォの講和を結び、
    ノヴゴロドを取り戻したが、東カレリアとネヴァ川流域一帯に対するスウェーデンの
    領有を認めた。

    スカンジナビア半島から発して、バルト海沿岸に覇権を広げた強国スウェーデンの
    威光は、1世紀続いた。 反抗の時をうかがっていた各国は、1700年に行動を
    起こした。 ロシアの若き英主ピョートルもこの年にスウェーデンに戦いを挑んだ。
    だが、8月にスウェーデンの要塞ナルヴァを包囲したロシア軍は、ピョートルより
    年少のスウェーデン王カール12世の精鋭部隊に壊滅させられてしまう。
    ピョートルは兵を退き、カール12世がポーランドに転戦している間に、ネヴァ川
    流域のスウェーデン領インゲルマンランドを攻めた。

    1702年10月、ノーテブルグの砦がロシア軍の手に落ち、シュリッセリブルグと
    改名された。 1703年4月には、ロシア軍はニエンシャッツの砦を包囲した。
    ピョートルも七個中隊の兵を引き連れて到着した。 スウェーデン軍は降伏を
    否定して、ロシア軍の砲撃を受け、砦は5月1日(12日)に陥落した。 この時、
    スウェーデン軍の軍艦2隻が救援に来たが、ピョートルは、ニエンシャンツの
    砦を我が物とし、これにシュロットブルグ(城の町)という名を与えた。

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    ピョートルは親政開始後、オランダ等に大使団を派遣し、オランダをあがめていた。
    命名はオランダ語によるものであった。 もっとも、彼にはこの砦の位置が不満
    であった。 海から離れていては、海軍基地と結びつかない。 そこで、ネヴァ川が
    3つに分かれているところの中央にある島エニサーリ(ウサギ)島に注目し、ここに
    要塞を造ることを決め、ただちに着工した。 1703年5月16日(27日)のことで
    あった。 ウサギ島は、ニエンシャンツの砦からは、ほぼ6キロ離れており、
    それだけ海に近い場所にある。

    この日ピョートルは、ここに居なかったので、着工は彼の意を受けた腹心の
    メンシコフの仕事であったが、恐らく、場所選びにはピョートルの意思も加わって
    いたのであろう。 数日後、戻って来たピョートルは、ただちに自分用の住居を
    ウサギ島から遠からぬ川岸に建てさせ、3日で完成した。 松の丸太で作られた
    この小屋が後に『ピョートルの小屋』と呼ばれるものであり、ペテルブルグの
    建築物第一号ということになる。 ピョートルは、ここに滞在する時は、この
    小屋に泊まった。

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    要塞は土で盛った保塁で作られ、急ピッチで建設が進んだ。 6月29日(30日)、
    ピョートルは、建設中の要塞にサンクト・ペテルブルグという名を与えた。
    自分の名ではなく、自分の守護聖人であるペトロから取ったものであった。
    それと共に、この日ペテロともう一人の聖人、パウロの名前を合わせて冠した
    聖堂の建設を始めるように命じた。 これがペテロパブロフスク聖堂となる
    のである。

    木造の質素な聖堂は、要塞共々、1703年の秋には完成した。 その頃には、
    要塞もペテロパブロフスク要塞と呼ばれるようになり、サンクト・ペテルブルグ
    という名は、要塞の周りに住み着く人々の集落を指す言葉になっていた。

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    ポラニエ人は最初、およそ20の共同体を作って定住していたが、やがて
    ヴィスワ川とオドラ川流域の盆地に新しい都市を幾つも作った。 そのうち、
    南のクラクフと西のポズナニ近くに、比較的大きなポラニエ人国家が建設された。

    バルト海沿いには、交易の中心地も出現した。 ポラニエ人達は、堅固な城を
    築いて、ドイツのカトリック系十字軍からの攻撃を防いだ。 十字軍は、
    宗教戦士の集団で、スラブ人を力ずくでカトリック教に改宗させようとしていた。

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    この侵略に対抗して、ポラニエ人達は、9世紀半ばにピアストの下に集結した。
    ピアストは、ポーランドの民話や伝説に登場する民族の英雄である。 10世紀
    までにピアストの一族は、平原部や湖沼地域、それにバルト海沿岸に掛けての
    地域の人々を支配下に治めた。 966年、ミエシュコ1世は、初代の
    ポーランド公として、ポズナニに近いグニエズノを国家の首府と定めた。

    ミエシュコは、ドイツ系十字軍からの攻撃を止めさせるため、現在のドイツに
    あった神聖ローマ帝国と同盟を結んだ。 ミエシュコは、また南方のスラブ人
    国家チェコとも同盟して、そこの王女と結婚した。 そして、新妻の宗教である
    キリスト教に改宗して、伝道師をポーランドに招いた。

    1025年、カトリック教会の指導者であるローマ教皇は、ミエシュコの息子で
    後継者のボレスワフ1世に王冠を授け、ポーランドが主権国家であることを
    公式に認めた。 ポーランド人達は、カトリック教会で使われているラテン文字を
    取り入れて、自分達の話しているスラブ系のポーランド語を記録し始めた。

    BorderPoland

    ボレスワフ1世は、勇敢で野心的な支配者で、ドイツに攻め入り、また、王国の
    領域を東のドニエプル川流域まで広めた。 この川は、南のウクライナに流れて
    黒海に注ぐ。 こうして、ドニエプル川を通じてポーランドは、黒海の諸港と
    交易が出来るようになり、王国はますます繁栄した。

    同じ頃、教会の指導者間の争いが基で、ヨーロッパのキリスト教世界は、2つに
    分裂した。 11世紀には、東ヨーロッパにギリシャ正教会が創設され、
    コンスタンティノープルが中心地となった。 ヨーロッパ東部のスラブ人達の
    多くは、ギリシャ正教徒となったが、ポーランドとチェコは、ローマ教皇と
    結んで、カトリック教会内に留まった。

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    考古学者の説では、現在のポーランドとなっている地域に人類が住み着いたのは、
    少なくとも20万年前だという。 だが、この最古の住人については、殆ど何も
    分かっていない。 約1万5000年前に、河川の流域に初めて集落が出来た。
    西暦1世紀、スラブ民族が東から、この国の中部にと北部の低地地域に移住した。

    スラブ民族の一派であるポラニエ人(平原の住人)は、ヴァルタ川流域にグロティと
    呼ばれる小さな村落をいくつも建設した。 低地や平原は外敵の攻撃を防ぎにく
    かったので、ポラニエ人は、居住地の周辺に堅固な木の壁を作った。

    ポラニエ人は、壁の外側の土地で穀物を生産し、家畜を飼育した。 グロティの
    住人は、農産物や手工芸品を、中ヨーロッパに住む他のスラブ人グループと
    交換した。

    img1110

    何世紀もの間、スラブ人達は、西ヨーロッパの出来事と無縁の生活を続けた。
    ヨーロッパ南部を基盤とするローマ帝国の軍隊は、西暦100年頃までに広大な地域を
    征服し終わっていた。 ポーランドのバルト海沿岸地域は、道路によってローマの
    諸都市と結ばれていたが、ローマ帝国が東ヨーロッパのスラブ人達を征服したことは
    一度もなく、キリスト教の信仰をドイツに広めたカトリック教会の伝道師達も、
    ポラニエ人を改宗させることは出来なかった。

    ポーランド地域の人口が増加するにつれて、スラブ人達は、いくつかのグループに
    分かれた。 西暦200年から500年に掛けて、東スラブ人達は、現在のベラルーシ、
    ウクライナ、ロシアとなった地域に移動した。 ポラニエ人を含む西スラブ人達は、
    将来ポーランド、チェコ、スロバキアと言われる地域に定住した。

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    700年代に後半になると、スベア人をはじめとするスウェーデン、ノルウェー、
    デンマークの氏族たちは、ヨーロッパの北部沿岸を襲うようになり、バイキングと
    呼ばれた。 バイキングとは、彼らの使っていた古代スカンジナビア語で『海賊』を
    意味する。 彼らは、バイキング船に乗って、遠くスペインやイタリアまでも
    襲撃した。 後にはヨーロッパ人として最初に大西洋を横断し、北アメリカ大陸に
    到達した。

    彼らの多くは、人を襲い、盗みを働くだけの海賊だったが、なかには、辿り着いた
    場所に定住して農民となる者もいた。 更に、商人になる者もいた。 スウェーデンの
    バイキングは、バルト海を渡ってヨーロッパの川へと船を進め、内陸まで入って
    行った。 そして、奴隷、ハチミツ、毛皮、琥珀などの交易で富を成して行った。

    vikingroute

    【キリスト教の国】

    キリスト教の宣教師達が最初にスウェーデンにやって来たのは、800年代から
    900年代の頃となっている。 1008年、ヴェスティルイェータランドの王、
    オーロフ・シュットコンヌングが洗礼を受けた。 オーロフは、自らを
    スウェーデン国王と名乗った。 オーロフや後継の王達はが多神教徒と戦い、
    1100年代にスウェーデンは、キリスト教の国となった。

    vikinga

    【貿易と同盟】
    1300年代になると、スウェーデンでは、ドイツの商人が勢力を持つようになった。
    彼らは、北ドイツに基盤を置く承認の組合、ハンザ同盟に属する商人だった。
    ハンザ同盟の商人達は、ストックホルムと度とランド島のビスビューに拠点を
    設けていた。 その他にも交易都市が発展して行った。 スウェーデンの貴族は
    裕福になり、権力も強くなった。

    1389年、スウェーデンの貴族達が国王アルブレヒトに対して反乱を起こした。
    貴族達を後押ししたのは、ノルウェーのマルグレーテ女王で、女王はデンマークも
    支配していた。 アルブレヒトは破れ、1397年、マルグレーテの姪の息子である
    エリクが、スウェーデンとノルウェーとデンマークの王となる同盟が結ばれ、
    エリクがカルマルで即位した。

    このカルマル同盟を結んだ3国の間で争いが起きた。 1471年にスウェーデンが
    デンマークの国王クリスチャン1世を倒した。 1520年には、デンマーク国王
    クリスチャン2世がスウェーデンを侵略した。 クリスチャン2世は、スウェーデンの
    貴族達を晩餐会に招き、82人の貴族を打ち首にした。 これは、
    『ストックホルムの大虐殺』として知られている。

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