東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:バルカン半島

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    バルカン半島(南東欧)の小国アルバニア共和国は山がちの国であり、その歴史は
    長く波乱に富んでいる。 数世紀にも渡り、外国勢力の征服を受けて支配された。
    つい最近では、外国との交易や外交関係を一切絶つ鎖国政策を取ったことで知られて
    いる。 鎖国政策のお陰で経済は酷い状態になったが、その反面で、アルバニア人は
    古くからの独自の文化を守ることが出来たとも言える。

    アルバニア人はこの地域の先住民イリリア人の子孫である。 イリリア人は今から
    3000年以上も前に、バルカン半島に進出して住み着いた。 その後、ローマ帝国は
    イリリクムという州を置いて支配したが、イリリア人の多くは独立の精神を捨て去る
    ことはなかった。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、バルカン地域は混乱した。

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    これ以後の1000年の間、イリリア人の名で呼ばれたアルバニア人は、統一した
    政府を持つことは出来なかった。 アルバニアの河川の流域や、岩だらけの
    高地にわずかにある小さな土地を支配したのは、対立し合う有力な部族や強い
    力を持つ領主たちだった。 一方、イタリアのヴェネツィア共和国がアドリア海
    沿岸部の低地に港や貿易のための拠点を築いた。

    15世紀になると、オスマン・トルコが小アジアからバルカン半島に進出して来た。
    オスマン・トルコはアルバニア人領主を隷属させて支配を確立する。 そのため、
    アルバニアの都市や港の交易活動は衰えた。 アルバニアには肥沃な土地が
    ほとんどないため、農業生産は限られていた。 主要な輸出品と言えるのは、
    武器や外国軍隊への傭兵に過ぎなかった。

    アルバニアは1912年に、オスマン・トルコ帝国から独立を宣言した。 しかし、
    ヨーロッパ列強が新国家の国境を定めた後、数百万のアルバニア人が隣国に取り
    残されてしまった。 第一次世界大戦と第二次世界大戦の時期に、アルバニアは
    バルカン半島の支配権を狙う外国勢がぶつかり合う戦場となった。

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    第二次世界大戦期に抵抗運動を指導したエンヴォル・ホジャの下てで、戦後、
    社会主義政権が成立した。 1970年代末になると、ホジャは、真の社会主義国家の
    建設を理由に、社会主義国を含む全ての国との関係を絶った。 同時に、ただ
    ひとつの合法的な政治組織であった共産党が国内の反対勢力を容赦なく排除した。

    アルバニアは、1980年代初めまでに、孤立無援の国となった。 ホジャの鎖国
    政策は国内の産業を衰退させ、生産が落ちるにつれて、食料や日用品の不足が
    目立ち始めた。 ホジャが死去した1985年までに、アルバニアはヨーロッパで
    最も貧しい国になった。

    1990年代初めに社会主義体制が崩壊すると、新たな時代が始まった。 1992年には
    民主的な政権が成立し、経済再建に取り組んだ。 欧米の国々が再びアルバニアへの
    投資を開始し、貿易も再開された。 ここ数十年来初めてのことだが、アルバニア
    でも観光客が歓迎されるようになった。 これに伴い、政府は観光産業の進展に力を
    入れている。

    しかし、依然として貧困と、食料や日用品、職場の不足といった状態が続いている。
    隣接するバルカンの国々の民族紛争も、この国を新たな戦争に引き込む危険性を
    はらんでいる。

    政権が代わり、経済の面で多くの変化が見られたが、アルバニアは国を安定させ、
    繁栄を導くための長い戦いに直面している。

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    ブルガリア語は、スラヴ語の1つで、マケドニア語、セルビア語、
    クロアチア語、スロヴェニア語と共に南スラヴ語群を形成している。 
    の中でもマケドニア語とは双子のように非常に良く似ている。

    ブルガリア語の母音は6つで、а ъ и е о у となっており、奥舌の ъ を除き、
    日本語の母音に極めて近い発音となっている。 一方、子音は、21個あり、
    子音で終わったり、また、語中に子音が重なったりする単語が多く、日本人に
    とっては、決して発音し易いものではない。

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    ブルガリア語は、一言で言うと、恐らく、語尾変化が非常に多い言語で、他の
    スラヴ語と共通の特徴のひとつとして、名詞には性があり、活用の際、性の
    タイプによって形が変わるということが挙げられる。 名詞は全て男性、女性、
    中性の何れかに属し、また、名詞が修飾される場合は、修飾する語も名詞の性に
    合わせて形を変えて行く。

    一方、ブルガリア語は、他のスラヴ語に存在しない特徴も沢山持っており、例えば、
    格変化が失われて、その代わりに前置詞が使われている。 また、限定を表す
    接尾辞が名詞に付き、定・不定というカテゴリーを表している。 これらの
    非スラヴ的特徴の背景には、バルカン半島で話される言語同士の接触、いわゆる、
    バルカン言語連合という減少の影響があると言われている。

    また、他のスラヴ語では失われているが、ブルガリア語とマケドニア語では今でも
    現存している不定過去(現在完了)という時制は、機能が強化され、その結果、
    モーダルなカテゴリーとしての『伝聞法』が出来ており、推量や伝聞、または、
    驚異といった意味が表される。 例えば、雨が降ったことを目撃者として伝える
    場合は、普通の完了過去валя を使うが、雨を目撃していない場合は、『雨が降った』
    という事柄の情報源を明確にしなければならず、出来事を推量(воляло e
    『雨が降ったようだ』)として伝えたり、第三者の情報による伝聞(воляло
    『雨が振ったそうだ』)として伝えたりする。

    ブルガリア語(とマケドニア語)のこの現象に関しては、非常に似た体系を持って
    いるトルコ語の影響が指摘されているが、原因はハッキリしていない。



    【ブルガリア語の今昔】
    スラヴ民族がバルカン半島に住み着いたのは、5~6世紀頃だと言われており、
    現在ブルガリア国が位置する地域のスラヴ民族は、当時その地域に住んでいた
    トラキア人と7世紀ごろアルタイ山脈から移動して来たシュルク系の原ブルガリア人
    と一緒になり、ブルガリアという国を築いた。 人数が最も多かったスラヴ人が
    他の民族を支配し、自分達の言語を共通の言語として定めた。

    9世紀には、キリロス・メトディウス兄弟が東方正教会のキリスト教の布教の
    ために文字を創った。 その文字と共に、ブルガリア語の最古の形として知ら
    れている古代教会スラヴ語は、他のスラヴ語圏でも文語として使われていたが、
    12世紀からは、口語的要素を交えた中世ブルガリア語が使われるようになり、
    古代教会スラヴ語と区別された。 その後、15世紀から19世紀の間、ブルガリアは、
    オスマン・トルコ帝国の支配下に置かれ、トルコ語との接触によって、言語にも
    様々な変化が生じた。 現在使われているブルガリア語の成立は、19世紀後半
    から20世紀初頭に掛けての間と見られている。

    ブルガリア語が話されているバルカン半島では、その地域の言語同士が接触し、
    互いに影響し合って来た。 その結果、類型的には、全く異なる言語が同じ特徴を
    持つようになった。 また、言語体系にもその影響が現れ、様々な隣国、および、
    民族の言語と並んで、最も古い時代に接触していたトラキア人の言語からの単語や、
    原ブルガリア人の言語からの単語、更に、隣国のトルコやギリシャなどからの
    借用語まで、多数見られる。 現在は、コンピューターの普及に伴い、英語からの
    外来語も増えている。



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    コソボ一帯に歴史的に古くから住んでいたのは、アルバニア人の先祖と
    いわれるイリリア人で、バルカン半島の他の地域と同様に、長くローマ 帝国→
    東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の支配下にあったが、7世紀に南スラブ系の
    セルビア人が押し寄せ、キリスト教に改宗すると共に、1168年には、コソボの
    プリズレンを首都にして、セルビア王国を建国した。 セルビア王国は、1389年の
    『コソボの戦い』でオスマン・トルコに破れ、以後オスマン帝国の支配下に入り、
    コソボに居たセルビア人の多くは、クロアチア等、西へ移住して、代わって
    イスラム教に改宗したアルバニア人が再びコソボに移住した。

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    こうして現在ではコソボの人口の約9割がアルバニア人となったが、セルビア人に
    とってコソボは、『セルビア王国の発祥の地』であり、コソボの戦いという
    『聖戦の地』であると共に、セルビア正教会の中心地であるペチがあるため、
    民族の歴史、文化にとって、掛け替えのない聖地となっているため、コソボが
    セルビアから独立する事に関して、セルビア人は、拒否感が根強い。 とりわけ、
    セルビアが主導していたユーゴスラビアが解体し、それぞれの共和国が独立して
    行った後に、セルビア共和国内にあるコソボまでがセルビアから離れる事は、
    到底容認出来ない。

    一方で、アルバニア人にとってのコソボも19世紀末から起きた『アルバニア
    独立運動』の発祥の地となっており、オスマントルコに支配されていた
    アルバニア人は、1878年のベルリン条約でセルビア王国が独立すると、
    『イスラム教徒=トル コ人』として扱われ、セルビア領内から追放されることを
    危惧し、プリズレンを中心に独立運動を本格化させ、1912年には、現在の
    アルバニアとコソボ、マケ ドニア、ギリシャの一部をも加えたアルバニア王国を
    建国するが、バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)や
    列強国の介入で、たちまち領土をむしり取られてしまう。 その結果、現在は
    アルバニアの人口340万人に対して、コソボに約150万人、マケドニアにも約50
    万人のアルバニア人が住んでいる。 『アルバニア人が住む土地は、アルバニア
    として統一されるべき』という、大アルバニア主義は、彼らの民族的悲願でもある。

    セルビア人にとっても、アルバニア人にとっても、コソボの地への思い入れは非常に
    強いものとなっているが、コソボ自治州は、セルビア共和国内でも、共和国に
    匹敵するような自治権を与えられていたが、1981年、完全な共和国となる事を
    求める暴動が起きた。 これに対して、セルビア共和国は、警察と軍によって、
    暴動を鎮圧し、その後、アルバニア系住民達は、セルビア共和国の警察と軍に監視
    される生活を余儀なくされた。

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    1990年、セルビア共和国の大統領となった、ミロシェビッチは、セルビア共和国
    内のコソボ自治州に対する自治権を縮小し、コソボの独立要求を弾圧した事に
    反発したアルバニア系住民は、1992年には、自分達で大統領を選出する等して、
    コソボ共和国独立を求めていた。 しかし、UCK(コソボ解放軍)が結成されて
    からは、そのまでの暴力に訴えない独立運動が、武器闘争に変わってしまった。

    UCKは、結成当初には、秘密裏に活動をしていたが、1997年、一般市民に知られる
    ようになり、コソボ自治共和国でセルビア共和国警察や、治安部隊と衝突を
    繰り返し、次第に若者等を取り込んで拡大して行った。

    これに対して、セルビアの治安部隊は、UCKの活動をテロ活動とみなし、
    アルバニア人達の村を焼き払ったり、住民を追い出したりした。 こうして、
    治安部隊の活動によって、住む場所を失った人達は、国内避難民となった。

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    【紛争発生からNATOによる空爆へ】
    1998年、UCKとセルビア治安部隊の武力衝突が起きると、セルビア人が指導する
    (新)ユーゴスラビア連邦軍が介入し、大規模なUCKとの衝突が起こった。 一方、
    国連安全保障理事会では、セルビア人とアルバニア人の両方に話し合いを促す
    内容の決議がなされた。 1998年10月、NATO(北大西洋条約機構)は、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国に対して、セルビアの治安部隊が、コソボ自治州
    から撤退しなければ、空爆を行うと圧力を掛けた。

    ミロシェビッチ大統領は、NATOの圧力に対して、OSCE(欧州安全保障協力機構)
    の停戦監視団を受け入れ、治安部隊要員の数を減らす等の譲歩を行った。 しかし、
    その後もセルビア勢力とUCKとの争いはおさまらなかったため、1999年2月、
    フランス等が介入し、フランス北部のランブイエで和平交渉が行われた。
    ところが、(新)ユーゴスラビアが、コソボにNATO軍が駐留する事を認めず、
    和平案を拒否した結果、交渉は決裂した。

    1999年3月24日、NATO軍は、国連決議なしにセルビアを空爆した。 NATO軍は、
    コソボ内の治安部隊や軍事施設だけではなく、セルビア全土の工場、橋、鉄道、
    発電所等を狙って激しい空爆を6月10日まで続けた。

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    【NATO軍の人道的介入】
    NATO軍は、国際社会に対して、セルビアへの空爆の理由をコソボ自治州で行わ
    れている重大な人権侵害を食い止めるためだとして、『人道的介入』という言葉を
    使って説明した。 しかし、この空爆で、中国大使館が誤爆にあい、沢山の民間人も
    犠牲となったりした。 また、長期間に及んだため、多くのアルバニア人が難民
    となった。

    空爆前にも約10万人の難民が出ていたが、空爆開始後に、アルバニア、マケドニア、
    モンテネグロ等に逃れた人は、およそ、85万人にのぼったと言われている。 だが、
    一連の空爆によって、ミロシェビッチ政権は、停戦に応じざるを得なくなり、
    1999年6月、大統領は、和平案を受け入れ、ユーゴ連邦軍と治安部隊の撤退、避難民
    となっていたアルバニア人の帰還が行われた。 そして、コソボにおいても、民政や
    難民帰還を行うUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)と、NATOが中心となって結成
    した、KFOR(国際治安部隊)を受け入れた。

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