バルカン半島(南東欧)の小国アルバニア共和国は山がちの国であり、その歴史は
長く波乱に富んでいる。 数世紀にも渡り、外国勢力の征服を受けて支配された。
つい最近では、外国との交易や外交関係を一切絶つ鎖国政策を取ったことで知られて
いる。 鎖国政策のお陰で経済は酷い状態になったが、その反面で、アルバニア人は
古くからの独自の文化を守ることが出来たとも言える。
アルバニア人はこの地域の先住民イリリア人の子孫である。 イリリア人は今から
3000年以上も前に、バルカン半島に進出して住み着いた。 その後、ローマ帝国は
イリリクムという州を置いて支配したが、イリリア人の多くは独立の精神を捨て去る
ことはなかった。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、バルカン地域は混乱した。
これ以後の1000年の間、イリリア人の名で呼ばれたアルバニア人は、統一した
政府を持つことは出来なかった。 アルバニアの河川の流域や、岩だらけの
高地にわずかにある小さな土地を支配したのは、対立し合う有力な部族や強い
力を持つ領主たちだった。 一方、イタリアのヴェネツィア共和国がアドリア海
沿岸部の低地に港や貿易のための拠点を築いた。
15世紀になると、オスマン・トルコが小アジアからバルカン半島に進出して来た。
オスマン・トルコはアルバニア人領主を隷属させて支配を確立する。 そのため、
アルバニアの都市や港の交易活動は衰えた。 アルバニアには肥沃な土地が
ほとんどないため、農業生産は限られていた。 主要な輸出品と言えるのは、
武器や外国軍隊への傭兵に過ぎなかった。
アルバニアは1912年に、オスマン・トルコ帝国から独立を宣言した。 しかし、
ヨーロッパ列強が新国家の国境を定めた後、数百万のアルバニア人が隣国に取り
残されてしまった。 第一次世界大戦と第二次世界大戦の時期に、アルバニアは
バルカン半島の支配権を狙う外国勢がぶつかり合う戦場となった。
第二次世界大戦期に抵抗運動を指導したエンヴォル・ホジャの下てで、戦後、
社会主義政権が成立した。 1970年代末になると、ホジャは、真の社会主義国家の
建設を理由に、社会主義国を含む全ての国との関係を絶った。 同時に、ただ
ひとつの合法的な政治組織であった共産党が国内の反対勢力を容赦なく排除した。
アルバニアは、1980年代初めまでに、孤立無援の国となった。 ホジャの鎖国
政策は国内の産業を衰退させ、生産が落ちるにつれて、食料や日用品の不足が
目立ち始めた。 ホジャが死去した1985年までに、アルバニアはヨーロッパで
最も貧しい国になった。
1990年代初めに社会主義体制が崩壊すると、新たな時代が始まった。 1992年には
民主的な政権が成立し、経済再建に取り組んだ。 欧米の国々が再びアルバニアへの
投資を開始し、貿易も再開された。 ここ数十年来初めてのことだが、アルバニア
でも観光客が歓迎されるようになった。 これに伴い、政府は観光産業の進展に力を
入れている。
しかし、依然として貧困と、食料や日用品、職場の不足といった状態が続いている。
隣接するバルカンの国々の民族紛争も、この国を新たな戦争に引き込む危険性を
はらんでいる。
政権が代わり、経済の面で多くの変化が見られたが、アルバニアは国を安定させ、
繁栄を導くための長い戦いに直面している。
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