キエフがロシア全土の首都だった頃、この街の人口がどれほどのものだったのか、
歴史家によって、その見解は大きく異なるが、内輪に見積もって、3万人、4万人、
ないし、5万人とする者が多く、中には、大きく10万人とする学者もいる。
最盛期は11世紀から12世紀に掛けてだったと見られる。

当時からキエフは丘の上の街と、ドニエプル川沿いにある麓の街の2つに画然と
分かれていた。 上の街には、支配者である公とその従者達、それに、高僧や
富裕な商人達が居を構え、下の街には、商人や職人達のように身分の低い人達が
住んでいた。 12世紀のキエフの総人口を3万人とする推定では、上の街の人口が、
2万5,000人であるのに対して、下の街の人口は、5,000人であったという。
麓の街の方が、遅く開けたのである。

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アジアのモンゴル族のヨーロッパへの進出は、1220年代から始まっていたが、
1240年にバトゥ・ハンの率いる大軍が到着して、キエフを包囲した。 4週間と
4日に及ぶ籠城の末、キエフはついに陥落した。 最後の砦となったのは、
デシャチンナヤ教会で、そこには女や子供や老人達が立てこもっていたが、破石槌と
呼ばれる武器で石の壁が破壊され、1人残らず殺戮された。 この時、上の街は
もちろん、下の街も全滅した。

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キエフの街の人口が、12世紀の水準に達するのは、19世紀になってからである。
特に上の街の衰退は著しく、一旦、政治的な権威を失ったとなると、わざわざ
居住性の悪い不便な丘の上に人々は住もうとしなくなったのである。 キエフの
1900年の人口は、26万人、現在の人口が、約250万人である。 最近の1世紀で
人口が10倍に増えたことになる。

モンゴル・タタールの略奪と破壊によって、キエフは廃墟と化したが、アジア
からやって来た新しい遊牧民に征服された都市の徹底した荒廃ぶりを描いて、
ロシアの年代記は、こう書いている。 『子の子をなげく親もなく、親を慕う
子も居なかった』。タタールの襲撃は、キエフで止まった訳ではない。 その
翌年の1241年~42年には、ポーランド、ハンガリー、ダルマチアにまで進出した。
本国の大ハンが亡くなったため、バトゥ・ハンは、一旦モンゴルに戻るが、その後、
ボルガ川下流のサライ・バトゥを都として、自分が征服した国々を領域とする
キプチャク・ハン国を創設した。

13世紀後半には、キプチャク・ハン国に服従する公がこの辺りを支配したが、
14世紀に入ると、バルト海に面した地を本拠地とし、ビリニュスに都を置く
リトアニアが勢力を伸ばし始め、1360年代には、アルギルダス大公がキエフを
併合し、余勢をかって、黒海に達するような大国家を築いた。 リトアニアによる
キエフ支配は、約2世紀続いたが、この当時のキエフの人口は、3,000人~4,000人
程度で、それほど大きなものではなかった。

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