横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ハンガリー

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1740年にハプスブルグ帝国の女帝として戴冠したマリア・テレジアは、帝国内に
    画期的な変化をもたらした。 彼女は、ハンガリー領内の支配を強化し、
    ハンガリー人地主と議会の力を弱め、ハプスブルグ領内でのドイツ語の使用を
    広めた。

    この『ドイツ化』政策による弾圧は、ハンガリー人とスロバキア人指導者の間に
    強い民族主義を呼び起こした。 スロバキアとハンガリーで初めての新聞が、
    ブラチスラヴァで発行された。 1787年、カトリック神父アントン・ベルノラクは、
    古くから教会で使われていたラテン語に代って、初めてスロバキア語の文法書を
    出版した。

    19世紀初めに、ハプスブルグの領土は、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトの
    攻撃にさらされた。 1805年、ナポレオンはハプスブルグ軍をモラビアの
    アウステルリッツの戦いで破った。 しかし、ナポレオンは1815年、ヨーロッパ
    から追放された。

    後の条約で、オーストリアはハンガリー、スロバキア、ルテニア、ボヘミアの
    支配権を強めた。 ハプスブルグは同時に、ハンガリー議会も含めて地方議会の
    支配を強化し、議会で決議された法でも拒否権を行使した。

    mapslovakia

    【民族の反乱】
    19世紀半ば頃には、ハプスブルグ支配下のスロバキア人たちは、自由を求める
    ようになった。 スラブ人の指導者でも、オーストリア帝国に留まることを希望
    した者もあったが、多くはハプスブルグからの完全な独立を望んだ。 学校や
    教会でハンガリー語の使用を強要されたために、スロバキア人の怒りは増していた。

    1848年に民族革命がヨーロッパ各都市に起こり、スラブ民族議会がボヘミアの
    首都であるプラハで開かれた。 スロバキア代表は、オーストリア帝国の支配下で、
    チェコとスロバキアの連邦を形成しようとした。 しかし、ハプスブルグは会議を
    非難し、要求を無視した。

    同年、ハンガリー議会のスロバキア代議員ルドヴィト・ステュルは、他の
    スロバキア地方議会をつくり、学校でスロバキア語を使う権利を国会に請願した。

    しかし、スロバキアをハンガリーの領土とみなすハンガリー議会は、これに強く
    反対した。 議会がスロバキアの請願を拒否すると、スロバキアでは反乱が起こり、
    ハンガリー軍はすぐに蜂起を鎮圧し、反乱首謀者を処刑した。

    同じ時、ハンガリー人はハプスブルグに、民族の自治を求める反乱を起こしていた。
    反乱軍は、オーストリア・ハプスブルグ家と同盟を結んだ、スラブの強国ロシア軍を
    敵に回して戦った。 しかし、その後も20年間、ハプスブルグは帝国をしっかと
    支配し、スロバキアとハンガリーの独立要求を無視した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ヤン・フス の出現以来、プロテスタント信仰はスロバキア貴族の間に広まった。
    17世紀始めに、ハンガリーやスロバキアのプロテスタントは、強固なカトリックで
    あるハプスブルグの支配に対抗した。

    1618年、ボヘミアの首都プラハでハプスブルグに対する反乱が起こり、
    ヨーロッパのカトリック諸国とプロテスタント諸国の争いである三十年戦争
    (1618~1640年)が始まった。

    戦争中、トランシルバニアの支配者で、プロテスタントのガボール・ベトレンは、
    スロバキアのハプスブルグ家に反抗した。 1620年、ベトレンは、ハンガリー
    議会によって王国に選ばれたが、翌年、その称号を捨て、ハプスブルグと
    和解した。 ハプスブルグ支配下で、大勢のハンガリー貴族は改宗して、
    カトリックに戻った。

    044552410

    三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で、ハンガリー議会は
    権力を排除され、ハプスブルグはスロバキア支配を回復した。 17世紀の
    終わり、ハプスブルグ軍は、ハプスブルグ帝国の首都ウィーンでトルコ軍を
    破った。 この勝利は、ハンガリーをトルコの支配から解放したが、同時に
    スロバキアでのハプスブルグ支配を強めた。 オーストリアの言語である
    ドイツ語スロバキアの教育、行政の公用語となり、スロバキア語は死語も
    同然となった。

    同時に、ハプスブルグは、領地内の全てのプロテスタント宗派を禁止した。
    1703年に、ハンガリー人とスロバキア人は、ハプスブルグ支配に激しく抵抗し、
    反乱を起こした。 反乱は鎮圧されたが、ハプスブルグはブラチスラバで、
    ハンガリー議会を開くことを許可した。 1711年にハプスブルグは、トルコに
    征服されて失っていたハンガリー王国の国境線を回復した。

    だが、相変わらず、スロバキア人の大部分は貧困にあえぎ、ハプスブルグからの
    宗教的迫害を受けていた。 政治的権利は何もないのに、スロバキア人は
    税金を徴収され、兵役に就き、地主のために働くことを要求された。 こうした
    抑圧はやがて、スロバキア人がハプスブルグ領内で、自治を要求する動きに
    繋がった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    独立したチェコスロバキアは、ボヘミア王国の領土ボヘミアとモラビアの他、
    スロバキアと更に東に位置するルテニアも領土とした。 新国家は、ドイツ人、
    ハンガリー人などの少数民族が住む多民族国家であった。

    チェコスロバキアは、1920年に二院制議会を設立する憲法を採択した。
    マサリクが努力した、チェコとスロバキアそれぞれの政府を持つ連邦国家は
    実現しなかった。 選挙民に人気が高いマサリクは、1920年、27年、34年の
    大統領選挙で勝利をおさめた。

    同じ頃、議会各政党の議員数はしのぎを削っていた。 農民党は、農民を代表し、
    国営農場、国営企業を主張する共産党は、社会党に属していたが、1921年に
    独立した党となった。

    チェコスロバキア経済は、戦後の景気回復の恩恵を受けていたが、国内の
    民族間の問題はまだ解決していなかった。 スロバキア人は独立を求めていた。
    ハンガリー人は政府に忠誠心を持たなかった。 全人口の4分の1を占める
    ドイツ人は、ドイツとの結び付きを求めた。

    024009327

    ドイツ人の多くは、ポーランドとの国境にあるズデーテン山脈の麓に住んで
    いたことから、ズデーテン・ドイツ人と呼ばれ、住んでいた地域は総称して、
    ズデーテン地方と呼ばれた。

    チェコスロバキアの独立後、ドイツ人は、議会各党に代表を送るようになった。
    マサリク政府は、土地の所有を制限する土地改革を行い、大地主から土地を
    国が買い取り、農民に再分配した。 新しい税制改革も導入した。 多少の
    不満があるにせよ、大部分のドイツ人は、民主的なチェコスロバキア政府を
    支持していた。

    1930年代はじめに、世界規模の経済不況が広がり、深刻な不景気と失業に悩む
    隣国ドイツの不安が、チェコスロバキアにも影響を与えた。 ヒトラーが政権を
    取った1933年頃、民族戦線ズデーテン・ドイツ党が、チェコスロバキア議会に
    議席を持つようになり、ドイツ人が不当に差別されているという口実で、
    ヒトラーと結託しはじめた。

    ヒトラーは、ユダヤ人と共産主義は、ドイツの経済と政治を妨げるので、
    ユダヤ人、スラブ人などを絶滅して、ヨーロッパにドイツ民族国家を建設
    すると主張した。

    Nazi01

    【併合と占領】
    ドイツがオーストリアを併合した1938年春から半年後の9月、イギリス、イタリア、
    フランスは、戦争を避けるために、ヒトラーとミュンヘン会談で合意を結び、
    住民の半数以上がドイツ人であるチェコ領土を、ドイツが併合する許可を与えた。
    ドイツは280万人のドイツ人と75万人のチェコ人が住み、チェコ全国土の38%に
    あたるズデーテン地方を併合し、チェコ人は立ち退かされた。

    ドイツは、エドアルト・ベネシュ大統領に辞任を迫り、エミル・ハーハが後を
    継いだ。 ヒトラーは更に、ドイツ軍の兵器工場として、チェコスロバキアの
    占領を狙った。 ドイツとの衝突を避けるため、ハーハは、スロバキアと
    ルテニアの独立に同意した。 しかし、1939年3月、ヒトラーは、ボヘミアと
    モラビアの占領を宣言した。

    チェコスロバキア軍の抵抗もなく、ドイツ軍は容易にプラハへ侵攻した。
    ドイツはチェコスロバキアの工業を支配し、ボヘミアとモラビアはナチス・
    ドイツに占領された。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    14世紀の終わりに、司祭ヤン・フスに率いられたボヘミアの宗教指導者グループが、
    カトリック教会の権力と富に抗議した。 この活動が広まるのを恐れた教会の
    指導者たちは、フスを捕らえ、1415年に処刑した。

    彼の死は、ボヘミアに宗教的な内戦を引き起こし、フス派と呼ばれたフスの信者が、
    スロバキアにまで入り込んで来た。 15世紀後半に、チェコの貴族ヤン・ジスカは
    西スロバキアに侵入し、フス派の教義を伝えた。

    16世紀はじめのドイツでも、フスの思想はローマ教会のあり方に抗議する考え方を
    目覚めさせ、マルティン・ルターがカトリック教会から離脱して、ルーテル派教会を
    確立した。 プロテスタントとして知られるルーテル派は、スロバキアの貴族や
    都市部の人たちを改宗させた。 彼らの多くは、ハンガリーやドイツ人であった。
    しかし、地方に住むほとんどのスロバキア人は、伝統的な宗教ローマ・カトリックの
    信仰を守った。

    luther500th

    ちょうどその頃、新たな脅威がハンガリーや中央ヨーロッパ全体を襲っていた。
    オスマン・トルコの軍隊が取るこの基地から出発して、ドナウ川流域を進軍し、
    ハンガリーの首府であるブダ目指して侵入して来た。 1526年、ハンガリー国王
    ラヨシュ2世は、ハンガリーの南の町、モハチでトルコ軍と戦った。 トルコ軍は、
    ハンガリー軍を破り、ラヨシュは戦場から脱出の途中に戦死した。

    ラヨシュの死で、トルコ軍はブダを征服し、ドナウ川の北までを占拠した。 東ハンガリー
    地方のトランシルバニアは、ハンガリーから独立した。 トルコの侵略から守るために、
    西ハンガリーの人たちは、オーストリア皇帝フェルディナントを国王に迎えた。 結果、
    強大なハプスブルグ王朝の一員であるフェルディナントは、ハプスブルグの支配を
    スロバキアやボヘミア王国へ広げた。

    1535年にハンガリー議会は、トルコ軍からの侵入に備えて、ブダからブラチスラバへ
    移った。 多数のハンガリー貴族もまた、安全と独利のために、更にトルコのスルタン
    から課せられる重税を逃れるために、ドナウ川の対岸へ移り住んだ。 彼らは、
    トルコの支配から逃れたが、スロバキア人の多くは、奴隷として拘束され、ハンガリー人
    の領地に残った。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    9世紀の終わりに、中央アジアからマジャール人が、大挙してヨーロッパに侵入して来た。
    マジャール人は、906年にブラチスラバでスラブ人を破り、大モラビア帝国を滅亡された。
    戦いの後、現代のハンガリー人の先祖であるマジャール人は、スロバキアの都市や
    街を占領した。 一方、ボヘミアとモラビアは、ドイツの諸侯と同盟を結んだ。

    スロバキアの支配者となったハンガリー人は、村や都市を占領し、南の平原の彼方
    から指令を発して支配した。 スロバキアは今や、ハンガリー王国に属し、スロバキアの
    鉱山収入の権利はハンガリーに奪われた。

    大部分のスロバキア人は、法的に自由のない労働者、すなわち、農奴となった。
    マジャール王は、スロバキア人の奴隷を所有財産とみなし、貿易と鉱業で王や貴族は
    富を蓄えた。

    JT082

    1217年に、ハンガリー人支配者は、ブラチスラバをハンガリー王家から独立した都市と
    して認める勅令を出した。 ドナウ川の通交税でブラチスラバは潤い、最も豊かな商業の
    中心地となった。 しかし、1241年にドナウ川流域は、東アジアから来たモンゴル遊牧
    民族の残忍な侵入に悩まされた。 モンゴル人は、中央ヨーロッパの街を焼き払い、
    略奪の限りをつくし、翌年撤退した。

    モンゴル人侵略の後、ハンガリー人は東から最侵入を防ぐ決心をした。 多くの地主は、
    中央スロバキアの川に沿った平野に要塞を建設した。 東スロバキアの人口のまばらな
    平野の守りを固めるため、ハンガリー王は、北ドイツからサクソン人を招いて、この地方に
    新しく建設した街に定住するよう求めた。 国王は、コシツェに王発令の営業許可を
    与えた。 同時に24の新しい街と鉱山の街にも認可を授けた。 この許可のお陰で、
    鉱業と手工業から利益を上げる商人や、手工業者、貿易商などの豊かな階層の人たちが
    生まれた。

    a677af24

    ドナウ川沿いの交易は、スロバキアにも、中央ヨーロッパ諸国にも大きな利益をもたらした。
    ボヘミア王国オタカール2世は、兵力をスロバキアに進め、領土を地中海の内科医である
    アドリア海まで広げた。 しかし、1278年、オタカールは、隣国オーストリア公国の
    統治者であるハプスブルグ家のルドルフと戦って死んだ。 戦いの後、ハンガリーは、
    ブラチスラバと西スロバキアの支配権を取り戻した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア国王
    として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。 ボヘミアの
    チェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実なフェルディナンドは
    宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を鎮圧した。
    ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

    cd2b5a70

    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】

    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックとプロテスタントの
    対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守るフェルディナンド2世が、
    1617年にハプスブルグ王家を継いだ。 フェルディナンドは、プロテスタントを領地から
    一掃しようと決心した。

    2ac25138c

    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、チェコ人の
    反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、ハプスブルグに
    対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦でチェコ軍を
    破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから追放された。 ビラー・
    ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックとプロテスタントの国々の間で三十年戦争が
    始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、ドイツ、デンマーク、スウェーデンから
    プロテスタント軍がボヘミアに侵入した。 相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、
    街、農村は根こそぎ破壊された。 フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ
    追放し、ボヘミア議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア王国領
    ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放されたチェコ人貴族の
    領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人カトリック教徒の手に渡った。
    ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、ドイツ語が政治、教育の公用語と
    なった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

    imagestart

    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    スロバキアには、大都市がなく、ヨーロッパでも最も、地方を主体とした国である。
    人口537万人の57%が都市に住んでいる。 これは、ほかのヨーロッパ諸国に比べて
    低い割合だが、主に戦後の工業化の結果、都市部の人口は、着実に増え続けている。

    スロバキアの首都であるブラチスラヴァ(人口約45万人)は、ドナウ川に面し、オーストリアと
    ハンガリーと、真近に国境を接している。 市の一部には、先史時代から人間が住み、
    やがて古代ケルト人が定住した。 紀元後5世紀にブラチスラフ(市の名は彼に由来)と
    いう名のリーダーに率いられたスラブ人の一団が、その地に定住した。

    bratislava0

    ハンガリーに支配された時代は、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれていた。 1500年代
    には、ハンガリー議会の所在地になった。 文化、教育、政治全般の中心をなしていた
    ブラチスラヴァは、スロバキア人、ハンガリー人、ロマニ(ジプシー)、ドイツ人が集まった。

    市の最も有名な場所は、城である。 はじめは9世紀初期に、ドナウ川に面した要塞
    として建設されたが、その後、3回火災にあっている。 現在の城は、1953年に再建
    されたものである。 もうひとつの名所は、代々のハンガリー国王が戴冠した聖マーティン
    大聖堂である。

    全スロバキアの10%の工業製品は、ブラチスラヴァで作られる。 重要な産業は、
    化学工業だが、織物、石油精製、食品工業も主産業である。 多数の貨物船や
    貨客船が出入りする港から製品を輸送する。

    コシツェ(人口23万人)は、東スロバキアの主な都市である。 市は13世紀にドイツ人の
    定住者によって建てられ、後に重要な文化の中心となった。 第二次世界大戦後、
    巨大な製鉄所が市の付近に建設され、コシツェは工業の中枢となった。 しかし、工場は
    周辺地域を広く汚染する原因にもなった。

    バンスカ・ビストリッツァ(人口10万人)は、中部スロバキアのホロン川に面し、700年前に
    金や貴金属が発見されてから急速に発展した。 ドイツ人の鉱山労働者がこの町に
    群れをなし、ヨーロッパでも最も豊かな街となった。 しかし、鉱山は既に長いこと堀り
    尽くされ、街は鉱山に代わって、観光業で収入を得ようとしている。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1993年のはじめに、チェコスロバキアが分離して、チェコとスロバキアという
    ふたつの国が生まれた。 スロバキアは、歴史上初めて完全な独立国となり、
    長く続いた経済不況と、共産党の一党支配から抜け出す機会に恵まれた。
    しかし、国の将来については、意見がいくつも分かれ、スロバキアの政治は
    まだ安定していない。

    1918年以前のスロバキアは、中央ヨーロッパの王国、ハンガリーの一部であった。
    ハンガリー人は、スロバキアの独立要求を許さなかった。 そこでは、様々な
    権利や特権(例えば、投票権)を持った大地主が農場を経営して、その農場で
    働くスロバキア人農民は、投票権さえ持っていなかった。

    06151733

    第一次世界大戦(1914~1918年)の結果、中央ヨーロッパには劇的な変化が
    起こった。 ハンガリーが世界大戦で負けたのを機に、民族的に近いチェコ人と
    スロバキア人が一緒になったチェコスロバキアが建国され、独立した。
    スロバキアは国の東半分近くを占めていた。

    第二次世界大戦(1939~1945年)後、チェコスロバキアは、東ヨーロッパの強大な
    共産主義国であるソビエト連邦と親密な関係を築き、その政治勢力の下に入った。
    チェコスロバキアの共産党指導者は、民営の企業を禁止し、工業、農業、貿易の
    分野で厳しく管理した。 政府は、国家の情報や報道を規制し、全ての野党を
    禁止した。

    1950年に、スロバキアは、急速に工業化された。 共産党政府は、地方に巨大な
    工場を建設し、多数のスロバキア農民は、都市へ移動した。 雇用が増えて、
    政府は国民に医療福祉の恩恵を与え、生活水準は改善に向かった。 それでも、
    スロバキア人は、スロバキア自治を望んだ。 1968年に新しく連邦制となり、
    チェコとスロバキアは、それぞれの地方政府を持つことになった。

    チェコスロバキアでは、1989年まで、厳しい一等支配が続いた。 その都市に
    起こった市民革命は、共産党政権を辞任させた。 チェコでは、国家が決める計画
    経済に代わって、需要と供給が賃金と価格を決める自由市場経済の原理を取り入れた。
    しかし、それまで共産党員であったスロバキアの指導者達は、未だに国家管理の
    計画経済を支持している。 その結果、国営企業の民営化は、チェコの方が
    スロバキアよりも遥かに早く進んだ。

    1990年代の半ばに、スロバキアの企業は、外国からの投資に門戸を開いた。
    スロバキア工業製品の多くは、依然として時代遅れであるため、輸出が難しい。
    結果として、高失業率や物資不足、生活水準の低下に悩まされた。

    その上、共産主義の崩壊の後生まれた諸政党は、まだ混沌といしている。
    スロバキアの指導者達は、急速な経済改革を強く批判している。 そのため、
    政府は、重要な政策決定を下すことが出来ない。 スロバキア人は、ついに手に
    入れた自由と独立を喜ぶ一方で、国の将来に横たわる問題に不安を抱いている。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、ウィーンの
    東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、ハプスブルグ家の
    皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、
    ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、まさに
    血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの王位にすえ
    ようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。 スペイン継承戦争と
    呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド
    などを勝ち取った。

    img7m

    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく支配出来ず、
    各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーとベーメンの自治を求める
    動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。
    その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、ベーメンの富裕な属州
    シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め込んだ。 フランス、スペイン
    などの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアはやむなく
    フリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、シュレージエンの
    回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年にフリードリヒの勝利に
    終わった。

    img0m

    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を向けた。
    発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の政策だった。
    マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の資産を摂取した。 1774年
    彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられる
    ようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の近代化に努め、
    諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、農民達を領主への
    義務の多くから解放した。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には、不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んで、カール
    1世が皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は、経済状態の悪化に
    抗議した。 中央政府の弱体化につれて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人が次々とオーストリアからの独立を
    宣言した。

    75f0b26fabb

    1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツと共に、ついに連合国側に
    降伏した。 降伏後、カール1世は退位し、600年以上にも渡るハプスブルク家
    支配は終わった。 社会民主党の指導で臨時国会 が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれ、共和国の現在の
    国境が確定した。 この条約はまた、ハンガリ-、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストラリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて、国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

    オーストリア国内の不安はなおも続き、共和国の経済は、少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人は、元のハプスブルク帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合を支持する声が、
    1930年代初期まで高まった。 世界的な経済不況と、ウィーンのある大銀行の
    倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は、ますます苦しく
    なった。 このために、統合運動は、ますます力を得た。

    635639

    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府には、ドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を
    受けていた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者であるクルト・フォン・
    シュシニックは、何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーは、それでも
    満足せず、1939年、ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によって、
    統一を成し遂げた。 オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者と
    ユダヤ系住民達を逮捕し、ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。
    1939年、ドイツのポーランド侵入によって、第二次世界大戦が始まった。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1956年10月23日、ハンガリーの首都ブダペストで学生と労働者による
    大規模なデモが起きて、暴動へと発展した。 彼らは、多くの政府関係施設や
    区域を占拠し、自分達で決めた政策や方針を実施し始めた。 夜になり、
    デモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、ハンガリー勤労者党指導部は急遽、
    大衆に人気のあった前首相のナジ・イムレを復職させる決定をした。 翌24日、
    ナジは正式に首相に任命されたが、その頃ブダペストの町はすでに民衆と
    ソ連軍の戦闘状態にあった。 他の地域はソ連軍と革命派との間の停戦が
    行われたり、ソ連軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が
    保たれていた。

    2c3w5vtkw

    民衆は、ワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫ったが、この事は、
    再びソ連軍の介入を招く事となった。 10月25日、ナジは戒厳令を取り下げた。
    街の人々の中には、ソ連軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。 説得に
    応じたソビエト兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し、
    約700人が集まった。 しかし、突然発砲が始まった。 国会前広場は血の海と
    化し約100人が死亡、約300人が負傷した。

    1956年10月23日と停戦を挟んだ11月1日の2回、ソ連軍は反乱に対して介入した。
    1957年の1月にはソ連は、新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人に
    よる改革を止めようとした。 蜂起は、直ちにソ連軍によって鎮圧されたが、
    その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ
    逃亡した。

    4779562

    一方、ナジはユーゴスラビア大使館に避難したが、安全確保を保障されて
    大使館を出たところをソ連軍に捕まり、ルーマニアに連行され、2年後に処刑
    された他、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政府に
    よって処刑された。 1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ
    1,200人が処刑。 この時逮捕された政治囚は、1963年までにカーダール政府に
    よって、ほとんどが釈放された。 この一連の戦闘の結果として、ハンガリー側
    では死者が17,000人に上り、20万人が難民となって亡命した。 ソ連側も
    1,900人の犠牲者を出した。

    ing_countries

    ハンガリーでは、この事件について公に議論する事は、その後30年間禁止
    されたが、1980 年代のペレストロイカ政策の頃から再評価が行われた。
    1989 年に現在のハンガリー第三共和国が樹立された際に、10月23日が
    祝日に制定された。

    ペレストロイカの影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が
    強まり、1989年に動乱の評価を修正し、復権させた。 ハンガリー社会主義
    労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。

    尚、このハンガリー動乱の直前の1946年に、現在のウクライナ領である、
    カルパチアがハンガリー領(スロバキア領)からウクライナへと併合され、
    現在に至っている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ