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    タグ:ハプスブルグ

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    1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンの
    フリードリヒ大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。
    ハプスブルグ政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が
    進み、チェコ人もオーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。

    マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の
    文化は息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、
    鉱業などの新しい企業に進出するようになった。

    ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで
    経済力を高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も
    進んだ工業地域となった。

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    1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。
    ボヘミアのプロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、
    チェコ人がチェコ語の新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。
    15世紀末以来、はじめてチェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、
    チェコの農民は農地と故郷を離れる自由を認められた。

    ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での
    仕事が、土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、
    フランス王朝を崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を
    握る、共和政府樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。
    ハプスブルグ家をはじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に
    及ぶことを恐れた。

    革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに
    侵攻した。  彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)
    の戦いでハプスブルグ軍を破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は
    1806年に崩壊し、オーストリア帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、
    モラビア、ハンガリー、ポーランドとイタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。

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    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア
    国王として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。
    ボヘミアのチェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実な
    フェルディナンドは宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を
    鎮圧した。 ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】
    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックと
    プロテスタントの対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守る
    フェルディナンド2世が、1617年にハプスブルグ王家を継いだ。
    フェルディナンドは、プロテスタントを領地から一掃しようと決心した。

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    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、
    チェコ人の反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、
    ハプスブルグに対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦で
    チェコ軍を破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから
    追放された。 ビラー・ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックと
    プロテスタントの国々の間で三十年戦争が始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、
    ドイツ、デンマーク、スウェーデンからプロテスタント軍がボヘミアに侵入した。
    相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、街、農村は根こそぎ破壊された。
    フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ追放し、ボヘミア
    議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア
    王国領ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放された
    チェコ人貴族の領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人
    カトリック教徒の手に渡った。 ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、
    ドイツ語が政治、教育の公用語となった。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、
    ハプスブルグ家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、
    ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。
    これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南ヨーロッパのトルコ領を
    次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、
    まさに血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの
    王位にすえようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。
    スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、
    オーストリアは、ネーデルランドなどを勝ち取った。

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    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく
    支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーと
    ベーメンの自治を求める動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き
    継いだ。 その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、
    ベーメンの富裕な属州シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め
    込んだ。 フランス、スペインなどの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア
    継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、
    シュレージエンの回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年に
    フリードリヒの勝利に終わった。

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    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の
    資産を摂取した。 1774年彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア
    市民の全てが教育を受けられるようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と
    表現の自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから解放した。

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    1300年代にオーストリアを征服し、そこを新しい根拠地にしていた
    ハプスブルグ家の狙いは、ウーリ地方南部のサンゴッタルド峠を通るアルプス
    越えの重要ルートを管理する事だった。 1315年に、ハプスブルグ軍は、
    シュウィーツ地方で、同盟軍と衝突し(モルガンテンの戦い)、敗北した。

    14世紀の後半には、ベルン、ルツェルン、ツーク、チューリヒ、グラールスの
    各州が、スイス同盟に加わり、同盟の領域は広がった(いわゆる『8州
    (カントン)同盟』)。 軍事力を増強した同盟軍は、1386年、88年と続いて
    ハプスブルグ軍を打ち破る。同盟軍はまた、ヨーロッパの他の軍勢を相手に
    領土をめぐって何度か戦いを交わし、そのつど勝利をおさめた。

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    同盟体が拡大するに連れて、州の代表達の間で、勢力範囲についてほぼ同意が
    取り交わされていた。 ところが、1400年代の中頃、チューリヒ州は、境界の
    東方と南方の領地を吸収するため、ハプスブルグ家と再び同盟を結ぶ。 同盟軍は、
    それに対抗し、チューリヒとの間で何度か激しい戦いが交わされた。

    1450年についにチューリヒは敗北を認め、スイス同盟に復帰した。 その後、
    同盟軍は、1470年代に、フランス北東部のバーガンディー公国と戦った。
    オーストリアとフランスの援軍を得て、同盟軍は、勝利をおさめる。 戦いで、
    スイス側に付いたフリブールとゾーロツェルンの2地域が、1481年、スイス同盟に
    加入する。

    1490年代に、オーストリア皇帝マキシミリアン1世は、再び神聖ローマ帝国の
    支配権を握ろうとする。 当時スイス同盟は、少なくとも、名目上は、まだ
    神聖ローマ帝国に属していた。

    オーストリア軍がスイス同盟の東方の地域、グラウビュンデンを攻撃すると、
    同盟軍は、反撃に出る。 同盟軍は、勝利をおさめ、事実上、神聖ローマ帝国
    からの独立を獲得した。

    1500年代に入り、スイス同盟は、オーストリア、フランス、イタリアを相手に、
    イタリア北部の広大で肥沃な平野を獲得する争いに関わる。 1515年、同盟軍は、
    フランス軍に敗北し、8000以上の兵を失った。

    その語の和平条約で、スイスは、領土の南方の広大な土地ティチーノを手に入れる。
    この条約によって、スイスとフランスの間の自由貿易が広がった。

    やがて農村から都市へ移住する人が増え、織物やガラス、木、金属製品の生産に
    従事したため、スイスの産業は発展した。 また、スイス兵は戦いに熟練して
    いたので、他の国の兵士として働きに出るようになる。 特に、当時戦力を拡大
    する必要性があったフランス軍には、大勢のスイス兵士が加わって戦った。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、
    領主から強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ
    帝国を構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。
    各地に分散したハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の
    多くは、この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する
    絶好の機会と考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。
    この和議で、ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが
    認められた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年
    退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土は
    これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックの対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、カトリック教会に好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、
    宗教改革運動を自分達の権威の脅威と考えて、カトリック系の指導者達との
    連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を
    率いてオーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ベーメン王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ベーメンの
    プロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。
    ハプスブルグ家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を引くことになった。
    1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の宗教を
    選択する権利を再確認した。

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    11世紀になると、強力な諸侯が皇帝の権力に抵抗し始めた。 帝国は次第に
    スイス地域の支配力を失い、封建制度の下に勢力を増した諸侯が、広大な
    領地を統治するようになる。 諸侯によって至るところに街が造られ、
    ヨーロッパの多くの地域との間に重要な交易が始まった。 村人達は、街の
    市場に家畜を連れて行き、スイスとイタリアの農村から運ばれて来た穀物と
    交換した。

    13世紀になる頃には、諸侯の中でも、特に強力なサボイア家、ツェーリンゲン家、
    キイーブルグ家、ハプスブルグ家の4家がスイスの大部分を支配していた。
    なかでも、ハプスブルグ家が最も勢力を伸ばし、領地を広げて行く。

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    1237年に、ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になる。
    その頃、小作人の中で、領地から逃亡するか、農作物を売って得た金で、
    自由の身になる者が大勢出た。 これらの小作人達は、スイス中部の
    シュウィーツ、ウーリ、ウンターワルデンの3州に移住した。

    神聖ローマ帝国の権力を握っていたハプスブルグ家は、自由と自治を得ていた
    この3州を侵略し始める。 1291年に、3州の指導者達は、同盟を結んだ。
    3州は、ハプスブルグ家に対抗して、独立国の建国を目指していたため、互いの
    対立を解決し、防衛し合うことを誓約したのである。

    3州は民主的な連合体を形成し、立法制度を打ち立てた。 各地域の住民は、
    1年に一度集会を開き、選挙によって代表を選び、和平や戦いに関する事柄を
    決めたのである。

    大きい街は、依然としてハプスブルグ家が統治していたので、同盟に加わった
    のは、主に農村部の村の住民だった。 他の地域の人々は、ハプスブルグ家に
    対抗する3州同盟の成り行きをじっと見守っていた。

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    オーストリアの首都ウィーンは、スロヴァキアとの国境から、およそ64.4kmの
    ドナウ川南岸にある。 人口は、約160万人で、国の総人口のおよそ5分の1
    となっている。 市内や郊外に数多くある宮殿や歴史的な建造物は、かつて
    権力の中枢だったこの都市の重要性を良く示している。

    ウィーンは、ヨーロッパ中部の重要な交易ルート沿いに位置する。 およそ
    2000年前、ケルト人達は、ここに最初の定住地を建設した。 紀元前15年に、
    ローマから来た兵士達は、そのケルトの町の跡に、ウィンドボナという名の
    要塞を築いた。 ウィーンは、13世紀以来、政治の中心であり、文化と産業の
    中心でもある。

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    市街の最も古い部分は、リング(輪)と呼べれる大通りに囲まれている。
    リングの1.6km外側には、ギュルテル(帯)という第二の環状道路があって、
    比較的新しいアパートやオフィスビルが、ギュルテル沿いに建っている。

    ウィーンの主な建造物は、第二次世界大戦中の爆撃で損害を被ったが、市民達は、
    せっせとそれを再建した。 15世紀に建てられた聖シュテファン寺院は、今でも
    街の中心にそびえている。 国立オペラ劇場は、1800年代にリング沿いに建て
    られた厳しい建造物の1つである。 かつてオーストリアの君主達が暮らしていた
    ホーフブルグとシェーンブルンの両宮殿は、今では歴史と美術に関係のある、
    様々な文化財を展示するために使われている。

    この国第一の工業都市であるウィーンは、機械、薬品、繊維、電気製品、食品、
    各種手芸品等が生産されている。 ウィーン大学の他、美術、音楽の大学も
    ここにはある。 国家間の協議や平和会議もしばしばここで開かれた。 国連の
    機関のいくつもがウィーンに置かれている。

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    【その他の都市】
    シュタイヤーマルク州の州都であるグラーツは、人口25万人で、かつてここには
    大きな要塞があり、トルコ軍の攻撃から何度か、ウィーンとハプスブルグ帝国を
    防衛した。 現在のグラーツは、工業都市で、薬品、鉄鋼、自動車等の工場がある。
    近くの鉱山からは、鉄鉱と石炭が採掘される。

    ドナウ川沿いの都市リンツは、人口20万人で、古代のローマの時代から河港として
    交易の中心だった。 リンツは、ヨーロッパの北部と西部諸国を、東部と南部諸国に
    結び付ける重要拠点だった時期もある。 1832年、リンツと現在のチェコ領との間に
    オーストリア最初の鉄道が開通した。 現在、この都市には、大型機械、薬品、
    鉄鋼を生産する大工業コンビナートがある。

    人口13万8,000人の都市ザルツブルグは、付近でザルツ(岩塩)が採掘されること
    から付けられた地名となっている。 ドイツとの国境に近いザルツァッハ河畔の
    この都市は、18世紀の大作曲家モーツアルトの生まれ故郷で、毎年夏に開かれる
    モーツアルト音楽祭には、世界中から大勢の音楽愛好家達が集まる。 旧市街には、
    大きな要塞や教会等の歴史的建造物が多い。

    人口11万6,000人のインスブルックは、チロル州の首府で、13世紀に建設され、
    北ヨーロッパとイタリアとを結ぶ交易の重要な拠点として成長した。 ここでは、
    1964年と1976年の2回、冬季オリンピックが開催され、その際に建設された
    スポーツ施設には、今でも冬季スポーツの愛好家達が多数訪れる。

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    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と
    共通する部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されて
    いたが、15世紀になると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)が
    ゆるい同盟を結び、連邦を形成した。

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    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で
    帝国との間に争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを
    統治していたハプスブルグ家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようと
    したが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック
    教会に属していたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決する
    ために、宗教を改革する運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が
    誕生した。 プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、
    幾度も宗教戦争が繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、
    国外から度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・
    ボナパルトの支配下に入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権
    国家を建設させ、スイス憲法を制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により
    承認された。 この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に
    中立を維持するという政策を認められたのである。 しかし、スイスは、
    ヨーロッパの出来事には全く関わらなかった訳ではない。 例えば、第一次、
    第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、医療を提供した。

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    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を
    見ても、多民族国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を
    認めている。 国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を
    与える事により、長年かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が
    発展した。 その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、
    スイスの銀行は世界最大の利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、
    スイス人の生活水準は、世界最高の部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ
    諸国との連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が
    交わされている。 だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄している
    という意味で、恐らく、スイスは世界の最も良いお手本であろう。

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパ中央にある内陸の山岳国家で、人口は
    約800万人。 かつては、多数の民族から成る巨大な帝国の一部だったが、
    現在は、9つの小さな州から成り立ち、国民の大部分がドイツ語を話す。

    オーストリアの歴史は、ヨーロッパの交易の民族移動の十字路として始まった。
    国の北部を流れるドナウ川は、ヨーロッパの西、北、東の3つの部分を繋いでいる。
    ドナウ渓谷に最も早く定着したのは、東から来たケルト民族と、南のイタリア
    半島から来たローマ人であった。

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    1200年代、ルドルフがこの地にハプスブルグ王朝を創設した。 この王朝は、
    その後600年以上に渡り、オーストリアを含むヨーロッパ各地を統治した。
    16世紀から17世紀に掛けての絶頂期には、ヨーロッパの半分近くがハプスブルグ
    帝国の領域であった。

    1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアは、隣国であるドイツに
    味方して、セルビア、ロシア、イタリア、イギリス、日本、アメリカ等と戦った。
    4年間の戦闘の末、オーストリアとドイツは敗北し、ハプスブルグ王朝は崩壊した。
    1918年、帝国内の非ドイツ系民族はそれぞれ独立して別個の国家となり、ドイツ系
    民族は、オーストリア共和国を創った。

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    1929年の世界大恐慌はオーストリアの経済にも深刻な打撃を与えた。 国力の
    衰えていたオーストリアは、1938年に、ドイツのヒトラー政権によって併合を
    食い止めることが出来なかった。 1939年に第二次世界大戦が勃発した時、
    オーストリアは、ドイツの一部として、日本、イタリアと共に、枢軸国側に立ち、
    イギリス、フランス、ソビエト、アメリカ等の連合国側と戦った。 連合国側に
    よる広範な爆撃と地上攻撃の結果、ドイツは1945年に降伏し、オーストリアは
    独立を回復した。

    戦後のオーストリアは、外国の援助を受けて、1955年までに順調な経済成長を
    遂げ、安定した政府を持つに至った。 過去の歴史を反省したオーストリアの
    指導者達は、将来、世界にどのような扮装が生じようとも、一切関与しないと
    宣言した。

    現在のオーストリア国民の生活水準は高く、健康保険と社会保証は、労働者全体に
    行き渡り、失業率は低い。 国内の主要政党は、協力して国家の方針を定めており、
    東西両ヨーロッパとの貿易額は増加を続けている。

    【お勧めの一冊】


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    1477年、マリアはハプスブルグ家のマクシミリアン大公と結婚した。
    ハプスブルグ家はオーストリアを根拠地とする強力な王家で、13世紀後半以降、
    代々神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の皇帝となっている家柄だった。
    ハプスブルグ家の権威は、ローマ教皇を戴くカトリック教会と強く結び付いていた。
    この結婚の後、ネーデルランドに対するマリアの支配権が強められ、議会の
    影響力は衰えた。

    1482年にマリアが死ぬと、マクシミリアンは、自分達の若い息子フィリップの
    代理として、ネーデルランドを支配した。 1480年代後期から、90年代初期に
    掛けて、諸都市の中でもとりわけ力の強いブルッヘ、アントウェルペン、
    ゲントの3都市がマクシミリアンに抵抗し、マクシミリアンは、軍隊を送って
    これを鎮圧した。

    1496年、フィリップは、スペイン王の娘ホワナと結婚した。 スペインは特に
    カトリック教会の影響の強い国だった。 2人の間に生まれたカール5世は、
    1519年までに神聖ローマ帝国、ネーデルランド、スペイン、および、その
    植民地等、広大な領地を継承するに至った。

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    【カール5世とカルヴァン主義】

    カール5世が統治を始めた時、アントウェルペンは、西ヨーロッパで最も繁栄した
    交易中心地のひとつだった。 アントウェルペンの港は、ヨーロッパ産の商品
    ばかりではなく、南アフリカのスペイン植民地や、西アフリカのポルトガル
    植民地の商品も扱った。 ベルギーの繊維産業は、一時衰退していたが、
    この時期に鋳造業、じゅうたん製造業、印刷業等が盛んになった。

    カール5世は、フラマン地域圏を含むネーデルランド全土の支配権を強化した後、
    これを自分の広大な領域の中の半独立的な部分として扱った。 彼は、各州に
    大評議会を設けて徴税と行政の指導に当たらせた。

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    この頃カトリック教会の腐敗を指摘し、教会を改革しようとする人々が現れ
    始めた。 このような人達をプロテスタントと呼ぶ。 この結果として、ドイツと
    スイスの各地に、ローマ教皇から独立したプロテスタントの教会が次々誕生した。
    しかし、べルギーの人民達はずっとカトリック教徒であり続けた。

    16世紀になって、フラマン地域を含むネーデルランドにも、カルヴァン主義と
    呼ばれるポロテスタント思想が入って来た。 カルヴァン主義は、スイスの
    ジュネーヴを根拠地とするジャン・カルヴァンが説いたもので、神の意志への
    厳格な服従と勤勉等を原則としていた。 1540年には、カルヴァン主義は、
    アントウェルペンまで広がり、カルヴァン主義者達は、自身の宗教的な自治体を
    組織しようと計画した。 カール5世やそれ以降のハプスブルグ家の君主達は、
    カルヴァン主義をカトリック教会のみならず、彼等自身の権威への脅威とみなした。

    【お勧めの一冊】


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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には、不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んで、カール
    1世が皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は、経済状態の悪化に
    抗議した。 中央政府の弱体化につれて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人が次々とオーストリアからの独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツと共に、ついに連合国側に
    降伏した。 降伏後、カール1世は退位し、600年以上にも渡るハプスブルク家
    支配は終わった。 社会民主党の指導で臨時国会 が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれ、共和国の現在の
    国境が確定した。 この条約はまた、ハンガリ-、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストラリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて、国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

    オーストリア国内の不安はなおも続き、共和国の経済は、少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人は、元のハプスブルク帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合を支持する声が、
    1930年代初期まで高まった。 世界的な経済不況と、ウィーンのある大銀行の
    倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は、ますます苦しく
    なった。 このために、統合運動は、ますます力を得た。

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    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府には、ドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を
    受けていた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者であるクルト・フォン・
    シュシニックは、何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーは、それでも
    満足せず、1939年、ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によって、
    統一を成し遂げた。 オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者と
    ユダヤ系住民達を逮捕し、ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。
    1939年、ドイツのポーランド侵入によって、第二次世界大戦が始まった。

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