横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:ハプスブルグ

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    1740年にハプスブルグ帝国の女帝として戴冠したマリア・テレジアは、帝国内に
    画期的な変化をもたらした。 彼女は、ハンガリー領内の支配を強化し、
    ハンガリー人地主と議会の力を弱め、ハプスブルグ領内でのドイツ語の使用を
    広めた。

    この『ドイツ化』政策による弾圧は、ハンガリー人とスロバキア人指導者の間に
    強い民族主義を呼び起こした。 スロバキアとハンガリーで初めての新聞が、
    ブラチスラヴァで発行された。 1787年、カトリック神父アントン・ベルノラクは、
    古くから教会で使われていたラテン語に代って、初めてスロバキア語の文法書を
    出版した。

    19世紀初めに、ハプスブルグの領土は、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトの
    攻撃にさらされた。 1805年、ナポレオンはハプスブルグ軍をモラビアの
    アウステルリッツの戦いで破った。 しかし、ナポレオンは1815年、ヨーロッパ
    から追放された。

    後の条約で、オーストリアはハンガリー、スロバキア、ルテニア、ボヘミアの
    支配権を強めた。 ハプスブルグは同時に、ハンガリー議会も含めて地方議会の
    支配を強化し、議会で決議された法でも拒否権を行使した。

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    【民族の反乱】
    19世紀半ば頃には、ハプスブルグ支配下のスロバキア人たちは、自由を求める
    ようになった。 スラブ人の指導者でも、オーストリア帝国に留まることを希望
    した者もあったが、多くはハプスブルグからの完全な独立を望んだ。 学校や
    教会でハンガリー語の使用を強要されたために、スロバキア人の怒りは増していた。

    1848年に民族革命がヨーロッパ各都市に起こり、スラブ民族議会がボヘミアの
    首都であるプラハで開かれた。 スロバキア代表は、オーストリア帝国の支配下で、
    チェコとスロバキアの連邦を形成しようとした。 しかし、ハプスブルグは会議を
    非難し、要求を無視した。

    同年、ハンガリー議会のスロバキア代議員ルドヴィト・ステュルは、他の
    スロバキア地方議会をつくり、学校でスロバキア語を使う権利を国会に請願した。

    しかし、スロバキアをハンガリーの領土とみなすハンガリー議会は、これに強く
    反対した。 議会がスロバキアの請願を拒否すると、スロバキアでは反乱が起こり、
    ハンガリー軍はすぐに蜂起を鎮圧し、反乱首謀者を処刑した。

    同じ時、ハンガリー人はハプスブルグに、民族の自治を求める反乱を起こしていた。
    反乱軍は、オーストリア・ハプスブルグ家と同盟を結んだ、スラブの強国ロシア軍を
    敵に回して戦った。 しかし、その後も20年間、ハプスブルグは帝国をしっかと
    支配し、スロバキアとハンガリーの独立要求を無視した。

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    オーストリアの義務教育は日本と同じく9年間。 大学まで教育費は無料と
    なっており、これは、外国人でも同じ。 オーストリアに義務教育を導入した
    のは、ハプスブルグ家唯一の女帝で『オーストリアの母』と呼ばれている
    マリア・テレジア。 フランス革命により、断頭台の露と消えた、マリー・
    アントワネットの実母。

    1773年、イエズス会禁止により職が無くなった下位聖職者たちを中心に教員
    として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立
    させた。 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が
    行われた。 その結果、国民の知的水準が大きく上昇した。

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    オーストリアの大学は、基本的が学費はない。 年間登録料と施設維持費
    として、年間約7万円程度掛かるだけ。 これは、外国人も同じ条件。

    ドイツ語圏最古の大学、ウィーン大学をはじめ、教育水準も非常に高く、
    ウィーン市内のバスは、地下鉄が終了しても、24時間運行している。 市内の
    全ての鉄道に乗れる定期代は月5,000円程度。 改札口は一切ないので、キセルも
    出来るのだが、車内で抜き打ちで行われる、検札で見つかると定期代とほぼ同額の
    5,000円程罰金として徴収される。 切符は、持っているだけではダメで、
    車内、あるいは、地下鉄の入り口にある機械で、しっかりとパンチを入れないと
    有効にはならない。

    ドイツ語圏の治安は、日本とさほど違わないので、かなり安全。 尚、ウィーンの
    IKEAは、ギリギリウィーン市外にあるため、ちゃんと切符を購入し、パンチして
    置かないと、コントローラーに見つかった場合、罰金を取られる場所にあるため、
    要注意。

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    オーストリアの税率は、日本に比べると高いという印象を受けるが、教育費や
    医療費の無償化に成功しているため、税制度として成功している国のひとつだと
    言える。 主な税率としては、消費税(20%・食品などの軽減税率対象物は10%)、
    所得税(50%〜55%)、法人税(25%)となっているが、外国人の場合は、帰国時に
    ある程度の税金の還付を受けることが出来る。

    医療費、大学までの学費が無料!? オーストリア充実の社会保障制度

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    ヤン・フス の出現以来、プロテスタント信仰はスロバキア貴族の間に広まった。
    17世紀始めに、ハンガリーやスロバキアのプロテスタントは、強固なカトリックで
    あるハプスブルグの支配に対抗した。

    1618年、ボヘミアの首都プラハでハプスブルグに対する反乱が起こり、
    ヨーロッパのカトリック諸国とプロテスタント諸国の争いである三十年戦争
    (1618~1640年)が始まった。

    戦争中、トランシルバニアの支配者で、プロテスタントのガボール・ベトレンは、
    スロバキアのハプスブルグ家に反抗した。 1620年、ベトレンは、ハンガリー
    議会によって王国に選ばれたが、翌年、その称号を捨て、ハプスブルグと
    和解した。 ハプスブルグ支配下で、大勢のハンガリー貴族は改宗して、
    カトリックに戻った。

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    三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で、ハンガリー議会は
    権力を排除され、ハプスブルグはスロバキア支配を回復した。 17世紀の
    終わり、ハプスブルグ軍は、ハプスブルグ帝国の首都ウィーンでトルコ軍を
    破った。 この勝利は、ハンガリーをトルコの支配から解放したが、同時に
    スロバキアでのハプスブルグ支配を強めた。 オーストリアの言語である
    ドイツ語スロバキアの教育、行政の公用語となり、スロバキア語は死語も
    同然となった。

    同時に、ハプスブルグは、領地内の全てのプロテスタント宗派を禁止した。
    1703年に、ハンガリー人とスロバキア人は、ハプスブルグ支配に激しく抵抗し、
    反乱を起こした。 反乱は鎮圧されたが、ハプスブルグはブラチスラバで、
    ハンガリー議会を開くことを許可した。 1711年にハプスブルグは、トルコに
    征服されて失っていたハンガリー王国の国境線を回復した。

    だが、相変わらず、スロバキア人の大部分は貧困にあえぎ、ハプスブルグからの
    宗教的迫害を受けていた。 政治的権利は何もないのに、スロバキア人は
    税金を徴収され、兵役に就き、地主のために働くことを要求された。 こうした
    抑圧はやがて、スロバキア人がハプスブルグ領内で、自治を要求する動きに
    繋がった。

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    20世紀のはじめのチェコ人は、ハプスブルグ統治からの独立を要求していた
    多くの民族のひとつに過ぎなかった。 数世紀に渡ってバルカン半島を支配
    していたオスマン・トルコ帝国は衰退し、答辞の南東ヨーロッパは不穏な情勢
    だった。 オーストリアとトルコの勢力に挑戦して、ロシア帝国などの列強が、
    中央ヨーロッパに領土拡大と支配の手を伸ばして来た。

    オーストリア対ロシアの不穏な情勢が、第一次世界大戦(1914年~1918年)の
    引き金となった。 オーストリアはバルカン半島で、ハプスブルグからの独立を
    求めるセルビア人と戦うこととなった。

    ドイツとオーストリアは同盟を結び、東でロシアと、南でイタリアと戦った。
    しかし、チェコ人は同じスラブ民族であるセルビア人はロシア人を相手に戦い
    たくなかった。 多数のチェコ人がロシアへ脱出して、チェコとスロバキア
    共同の軍隊を組織した。

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    対戦中、チェコの指導者トマシュ・マサリクとベネシュ、スロバキアの指導者
    ミラン・シュテファニックは、チェコとスロバキアにそれぞれ独立国を建て
    ようと計画していた。 しかし、情勢の成り行きを見たマサリクは、両者を合体
    したチェコスロバキア連邦共和国の建国を決心した。 アメリカ合衆国の州政府の
    ように、連邦政府の下にチェコとスロバキアそれぞれに、共和国政府をつくる
    ことを約束した。

    ドイツとオーストリアの敗北が目前となった1918年10月、マサリクは、チェコ
    スロバキアの独立を宣言した。 10日後、マサリクは、初代大統領に就任した。

    1918年11月のドイツとオーストリアの降伏の後、ハプスブルグ王朝は崩壊し、
    オーストリアとハンバリーも独立国となった。 旧オーストリア領内の国々も
    独立を勝ち取った。 同じ頃、ロシア革命が起こり、やがて、東ヨーロッパの
    国々を支配する共産主義国であるソビエト連邦共和国設立の切っ掛けとなった。

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    フランス革命のヨーロッパの人々に、社会変革に参加する勇気を与えた。
    1840年になると、チェコ人の作家や指導者たちは、政治改革とボヘミア、
    モラビア内部にあるドイツ権力に終止符を打つことを求めた。 パラツキーは、
    ボヘミア王国の歴史と文化を呼び覚ます『チェコ民族の歴史』を書いた。
    公立学校では、チェコ語を教え、詩人、作家、ジャーナリストはチェコ語で
    文章を書くようになった。

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    パラツキーは、有力な政治的指導者となり、1848年末、プラハ、ウィーンを
    はじめ、ヨーロッパ諸都市で革命が起こった。 しかし、ハプスブルグ皇帝、
    フランツ・ヨーゼフはスラブ民族会議の提案を拒否。 ハプスブルグ軍は、
    プラハの革命を鎮圧し、ボヘミアとモラビアに戒厳令を敷いた。 180年代に
    入ると、ボヘミア王国領であるボヘミアとモラビアは、オーストリア帝国に
    取って代わったオーストリア・ハンガリー二重帝国に編入された。

    1800年代終わり、ボヘミアとモラビアに住むドイツ人と、チェコ人との間の
    長年の対立が深まっていたが、政府は、帝国内の諸民族の平等の権利を打ち出す
    政策を採り、チェコ人のためにチェコ語で法律を書くようになった。

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    1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンのフリードリヒ
    大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。 ハプスブルグ
    政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が進み、チェコ人も
    オーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。

    マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の文化は
    息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、鉱業などの
    新しい企業に進出するようになった。

    ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで経済力を
    高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も進んだ工業地域と
    なった。

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    1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。 ボヘミアの
    プロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、チェコ人がチェコ語の
    新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。 15世紀末以来、はじめて
    チェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、チェコの農民は農地と故郷を
    離れる自由を認められた。

    ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での仕事が、
    土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、フランス王朝を
    崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を握る、共和政府
    樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。ハプスブルグ家を
    はじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に及ぶことを恐れた。

    革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに侵攻した。
    彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)の戦いでハプスブルグ軍を
    破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は1806年に崩壊し、オーストリア
    帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、モラビア、ハンガリー、ポーランドと
    イタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。

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    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア国王
    として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。 ボヘミアの
    チェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実なフェルディナンドは
    宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を鎮圧した。
    ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】

    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックとプロテスタントの
    対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守るフェルディナンド2世が、
    1617年にハプスブルグ王家を継いだ。 フェルディナンドは、プロテスタントを領地から
    一掃しようと決心した。

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    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、チェコ人の
    反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、ハプスブルグに
    対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦でチェコ軍を
    破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから追放された。 ビラー・
    ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックとプロテスタントの国々の間で三十年戦争が
    始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、ドイツ、デンマーク、スウェーデンから
    プロテスタント軍がボヘミアに侵入した。 相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、
    街、農村は根こそぎ破壊された。 フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ
    追放し、ボヘミア議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア王国領
    ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放されたチェコ人貴族の
    領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人カトリック教徒の手に渡った。
    ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、ドイツ語が政治、教育の公用語と
    なった。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、ウィーンの
    東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、ハプスブルグ家の
    皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、
    ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、まさに
    血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの王位にすえ
    ようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。 スペイン継承戦争と
    呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド
    などを勝ち取った。

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    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく支配出来ず、
    各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーとベーメンの自治を求める
    動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。
    その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、ベーメンの富裕な属州
    シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め込んだ。 フランス、スペイン
    などの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアはやむなく
    フリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、シュレージエンの
    回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年にフリードリヒの勝利に
    終わった。

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    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を向けた。
    発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の政策だった。
    マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の資産を摂取した。 1774年
    彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられる
    ようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の近代化に努め、
    諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、農民達を領主への
    義務の多くから解放した。

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    1300年代にオーストリアを征服し、そこを新しい根拠地にしていた
    ハプスブルグ家の狙いは、ウーリ地方南部のサンゴッタルド峠を通るアルプス
    越えの重要ルートを管理する事だった。 1315年に、ハプスブルグ軍は、
    シュウィーツ地方で、同盟軍と衝突し(モルガンテンの戦い)、敗北した。

    14世紀の後半には、ベルン、ルツェルン、ツーク、チューリヒ、グラールスの
    各州が、スイス同盟に加わり、同盟の領域は広がった(いわゆる『8州
    (カントン)同盟』)。 軍事力を増強した同盟軍は、1386年、88年と続いて
    ハプスブルグ軍を打ち破る。同盟軍はまた、ヨーロッパの他の軍勢を相手に
    領土をめぐって何度か戦いを交わし、そのつど勝利をおさめた。

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    同盟体が拡大するに連れて、州の代表達の間で、勢力範囲についてほぼ同意が
    取り交わされていた。 ところが、1400年代の中頃、チューリヒ州は、境界の
    東方と南方の領地を吸収するため、ハプスブルグ家と再び同盟を結ぶ。 同盟軍は、
    それに対抗し、チューリヒとの間で何度か激しい戦いが交わされた。

    1450年についにチューリヒは敗北を認め、スイス同盟に復帰した。 その後、
    同盟軍は、1470年代に、フランス北東部のバーガンディー公国と戦った。
    オーストリアとフランスの援軍を得て、同盟軍は、勝利をおさめる。 戦いで、
    スイス側に付いたフリブールとゾーロツェルンの2地域が、1481年、スイス同盟に
    加入する。

    1490年代に、オーストリア皇帝マキシミリアン1世は、再び神聖ローマ帝国の
    支配権を握ろうとする。 当時スイス同盟は、少なくとも、名目上は、まだ
    神聖ローマ帝国に属していた。

    オーストリア軍がスイス同盟の東方の地域、グラウビュンデンを攻撃すると、
    同盟軍は、反撃に出る。 同盟軍は、勝利をおさめ、事実上、神聖ローマ帝国
    からの独立を獲得した。

    1500年代に入り、スイス同盟は、オーストリア、フランス、イタリアを相手に、
    イタリア北部の広大で肥沃な平野を獲得する争いに関わる。 1515年、同盟軍は、
    フランス軍に敗北し、8000以上の兵を失った。

    その語の和平条約で、スイスは、領土の南方の広大な土地ティチーノを手に入れる。
    この条約によって、スイスとフランスの間の自由貿易が広がった。

    やがて農村から都市へ移住する人が増え、織物やガラス、木、金属製品の生産に
    従事したため、スイスの産業は発展した。 また、スイス兵は戦いに熟練して
    いたので、他の国の兵士として働きに出るようになる。 特に、当時戦力を拡大
    する必要性があったフランス軍には、大勢のスイス兵士が加わって戦った。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、
    領主から強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ
    帝国を構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。
    各地に分散したハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の
    多くは、この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する
    絶好の機会と考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。
    この和議で、ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが
    認められた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年
    退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土は
    これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックの対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、カトリック教会に好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、
    宗教改革運動を自分達の権威の脅威と考えて、カトリック系の指導者達との
    連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を
    率いてオーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ベーメン王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ベーメンの
    プロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。
    ハプスブルグ家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を引くことになった。
    1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の宗教を
    選択する権利を再確認した。

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    11世紀になると、強力な諸侯が皇帝の権力に抵抗し始めた。 帝国は次第に
    スイス地域の支配力を失い、封建制度の下に勢力を増した諸侯が、広大な
    領地を統治するようになる。 諸侯によって至るところに街が造られ、
    ヨーロッパの多くの地域との間に重要な交易が始まった。 村人達は、街の
    市場に家畜を連れて行き、スイスとイタリアの農村から運ばれて来た穀物と
    交換した。

    13世紀になる頃には、諸侯の中でも、特に強力なサボイア家、ツェーリンゲン家、
    キイーブルグ家、ハプスブルグ家の4家がスイスの大部分を支配していた。
    なかでも、ハプスブルグ家が最も勢力を伸ばし、領地を広げて行く。

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    1237年に、ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になる。
    その頃、小作人の中で、領地から逃亡するか、農作物を売って得た金で、
    自由の身になる者が大勢出た。 これらの小作人達は、スイス中部の
    シュウィーツ、ウーリ、ウンターワルデンの3州に移住した。

    神聖ローマ帝国の権力を握っていたハプスブルグ家は、自由と自治を得ていた
    この3州を侵略し始める。 1291年に、3州の指導者達は、同盟を結んだ。
    3州は、ハプスブルグ家に対抗して、独立国の建国を目指していたため、互いの
    対立を解決し、防衛し合うことを誓約したのである。

    3州は民主的な連合体を形成し、立法制度を打ち立てた。 各地域の住民は、
    1年に一度集会を開き、選挙によって代表を選び、和平や戦いに関する事柄を
    決めたのである。

    大きい街は、依然としてハプスブルグ家が統治していたので、同盟に加わった
    のは、主に農村部の村の住民だった。 他の地域の人々は、ハプスブルグ家に
    対抗する3州同盟の成り行きをじっと見守っていた。

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