キエフは、今も昔もウクライナの首都であり、広大な国土の中心にあるが、
ここで活躍をしたのは、ポリャーネ族をはじめとする、土着の東スラブ人ばかり
ではなかった。 ケンブリッジ大学にキエフ書簡と呼ばれる羊皮紙に書かれた
1通の手紙が所蔵されている。 エジプトの古いシナゴーク(ユダヤ教の教会)で
発見されたもので、古代ヘブライ語で書かれている。 手紙を出したのは、
キエフのユダヤ人の団体で、自分の兄弟の保証人になった仲間のヤコブ・ベン・
ハヌッケなる人物の救援を依頼するのが手紙の内容である。



その兄弟なる者がある異邦人から金を借りたが、殺されて金を奪われてしまった。
貸主は保証人のヤコフを捕らえて軟禁した。 ユダヤ人団体は、借金の一部を
返済したが、全部は返し切れないので、篤志家の寄付を募っているという趣旨
である。 手紙の書かれた時期は9世紀から10世紀とされる。 その頃、キエフの
隣国ともいうべきハザール・汗国の支配層はユダヤ教を信じていた。 ユダヤ人
商人団、あるいは、ユダヤ教徒のハザール人達がキエフで大きな勢力を振るって
いた可能性がある。

キリスト教受容と共に、ギリシャから主教や大勢の技術者が招かれたのは、当然で
あるが、ある聖者の伝記によると、公の1人は、シリア人の医師を抱えていた。
ウラジーミル公が東ローマ帝国の皇帝の妹を后としたのをはじめ、ソフィア
大聖堂を建立したヤロスラフ賢公は、スウェーデン王の娘、イリーナと結婚
したが、彼等の間に3人の娘が生まれた。 長女のエリザベータは、ノルウェーの
王子と結婚し、後に、王妃となった。 三女のアンナは、フランスのアンリ1世に
輿入れした。 アンリの没後は、まだ幼いフィリップが王位に就いたので、彼女は、
王母として国政に参加した。

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大体、支配者とその従士達が北ヨーロッパのノルマン人たるバイキングだった。
そして、彼等が緊急に硬軟さまざまな外交関係を結ばなければならなかった相手は、
キエフの東や南に広がる野原の主たる遊牧民である。 10世紀から11世紀前半に
掛けては、ペチェネーグ族がしばしばキエフに押し寄せた。

スビャトスラフ公は、ドニエプル川の下流で彼等の攻撃を受けて殺された。
やっとヤロスラフ賢公の代になって、彼等を決定的に打ち破った。 続いて、
ポーロヴェッツ族が現れた。 彼等は、脚の速い馬に乗り、時期を見計らって
来襲しては、収穫した穀物や家畜を奪い、更には、女子供をさらって行った。
ただ、キエフやその他の町の周辺に住み着くポーロヴェッツ人もいたし、彼等の
支配者であるハンと公の間では、しばしば婚姻関係が結ばれていた。 公同士の
内紛の際に、ポーロヴェッツのハンが婿である公の助太刀に現れることも珍しく
なかった。

kievanrus
 
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