ネヴァ川は、ラドガ湖から発してフィンランド湾に流れ込む。 全長74kmと
短いが水量の豊富な大河である。 『ネヴァ』という名称は、フィン語の
Nevajoki から出ているが、これは、 Neva(沼)という言葉が元となっている。

確かにこの川の河口は、沼沢地帯であった。 この川の周辺に住んでいたのは、
フィン人であった。 この地に勢力を伸ばしていたのは、スウェーデン国家と
ノヴゴロドというロシアの都市国家である。

1300年、スウェーデンはネヴァ川にオフタ川が流れ込むところにランズクローンの
砦を造った。 1年後にその砦はノヴゴロド人によって破壊された。 1323年の
講和で、ネヴァの流域は、ノヴゴロドのものとなり、ラドガ湖からネヴァ川が
始まる辺りにオレーシュクの砦が造られた。 その状態が1609年まで300年近く
続いた。

17世紀始め、ロシアは『動乱』の世となり、国が乱れに乱れた。 ポーランド王の
軍にモスクワが占領されるという事態も生じた。 1611年、スウェーデンも
ロシアに兵を進めて、ノヴゴロドまでを占領した。 ネヴァ川流域も
スウェーデンの支配下に入った。

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破壊されていたランズクローンの砦の後には、ニエンシャンツの砦が造られた。
オレーシュクの砦は、スウェーデン風にノーテブルグの砦と改称された。
1613年、動乱を克服したロシアは、ミハイル・ロマノソフを皇帝に選んだ。
彼は、4年後にスウェーデンのグスタフ・アドルフとストルホヴォの講和を結び、
ノヴゴロドを取り戻したが、東カレリアとネヴァ川流域一帯に対するスウェーデンの
領有を認めた。

スカンジナビア半島から発して、バルト海沿岸に覇権を広げた強国スウェーデンの
威光は、1世紀続いた。 反抗の時をうかがっていた各国は、1700年に行動を
起こした。 ロシアの若き英主ピョートルもこの年にスウェーデンに戦いを挑んだ。
だが、8月にスウェーデンの要塞ナルヴァを包囲したロシア軍は、ピョートルより
年少のスウェーデン王カール12世の精鋭部隊に壊滅させられてしまう。
ピョートルは兵を退き、カール12世がポーランドに転戦している間に、ネヴァ川
流域のスウェーデン領インゲルマンランドを攻めた。

1702年10月、ノーテブルグの砦がロシア軍の手に落ち、シュリッセリブルグと
改名された。 1703年4月には、ロシア軍はニエンシャッツの砦を包囲した。
ピョートルも七個中隊の兵を引き連れて到着した。 スウェーデン軍は降伏を
否定して、ロシア軍の砲撃を受け、砦は5月1日(12日)に陥落した。 この時、
スウェーデン軍の軍艦2隻が救援に来たが、ピョートルは、ニエンシャンツの
砦を我が物とし、これにシュロットブルグ(城の町)という名を与えた。

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ピョートルは親政開始後、オランダ等に大使団を派遣し、オランダをあがめていた。
命名はオランダ語によるものであった。 もっとも、彼にはこの砦の位置が不満
であった。 海から離れていては、海軍基地と結びつかない。 そこで、ネヴァ川が
3つに分かれているところの中央にある島エニサーリ(ウサギ)島に注目し、ここに
要塞を造ることを決め、ただちに着工した。 1703年5月16日(27日)のことで
あった。 ウサギ島は、ニエンシャンツの砦からは、ほぼ6キロ離れており、
それだけ海に近い場所にある。

この日ピョートルは、ここに居なかったので、着工は彼の意を受けた腹心の
メンシコフの仕事であったが、恐らく、場所選びにはピョートルの意思も加わって
いたのであろう。 数日後、戻って来たピョートルは、ただちに自分用の住居を
ウサギ島から遠からぬ川岸に建てさせ、3日で完成した。 松の丸太で作られた
この小屋が後に『ピョートルの小屋』と呼ばれるものであり、ペテルブルグの
建築物第一号ということになる。 ピョートルは、ここに滞在する時は、この
小屋に泊まった。

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要塞は土で盛った保塁で作られ、急ピッチで建設が進んだ。 6月29日(30日)、
ピョートルは、建設中の要塞にサンクト・ペテルブルグという名を与えた。
自分の名ではなく、自分の守護聖人であるペトロから取ったものであった。
それと共に、この日ペテロともう一人の聖人、パウロの名前を合わせて冠した
聖堂の建設を始めるように命じた。 これがペテロパブロフスク聖堂となる
のである。

木造の質素な聖堂は、要塞共々、1703年の秋には完成した。 その頃には、
要塞もペテロパブロフスク要塞と呼ばれるようになり、サンクト・ペテルブルグ
という名は、要塞の周りに住み着く人々の集落を指す言葉になっていた。

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