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    タグ:ノボシビルスク

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    ノボシビルスク郊外には、世界最大規模の学術研究都市アカデムゴロドクが
    ある。 ノボシビルスク市中心部からアカデムゴロドクへの行き方は、大きく
    2通りあるのだが、どちらの行き方も、「行き先」なる便利なものは記載されて
    いないため、運転手か周りの人達にロシア語で行き先を尋ねるしかない。

    第1の方法は、ノボシビルスク中央駅から8番の路線バスに乗って、終点まで
    行く方法。 第2の方法は、地下鉄のレチノイ・ヴォグザール駅から35番の
    乗り合いタクシー『マルシルートカ』に乗って終点まで行く方法。 どちらも
    終点の停留所は同じで、このバス停がノボシビルスク国立大学への最寄のバス停。
    今回は、35番の乗り合いタクシーで行った(この方法が最も一般的)ため、
    地下鉄レチノイ・ヴォグザール駅で乗り換えをした。 料金は、地下鉄が
    どこまで乗っても20ルーブル(約40円)と乗り合いタクシーが途中の
    セーヤチェリまでが40ルーブル(約80円)、終点のツヴェトノイ・リャート
    までが45ルーブル(約90)であった。

    【アカデムゴロドクへの行き方
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    ロシアの地下鉄は、ソ連時代までは、25コカペイカコインをそのまま自動改札口に
    入れるタイプだったのだが、その後のハイパーインフレの時代を経て、トークン
    (ロシア語ではジェトンと言う)を使用するようになった。 これは、中国も
    同じで、モスクワの地下鉄では、カード式になったが、以前は、モスクワでも
    このトークンを使用してハイパーインフレに対応していた。

    レチノイ・ヴォグザール駅での乗り換えは意外と複雑で、反対方向の出口に出て
    しまったため、バス乗り場まで3回ほど通りを歩いている人達にバス乗り場を尋ねた
    のだが、皆嫌な顔ひとつせずに、親切に道を教えてくれた。 25年前は、
    このルートを毎週通っていたものの、何せ25年ぶりなので、懐かしいを通し越して、
    何も思い出せない状態であったw

    地下鉄レチノイ・ヴォグザール駅から、乗り合いタクシーで約1時間ほどで、
    アカデムゴロドクのツヴェトノイ・リャートに到着。 そこから、白樺林を
    10分ほど歩くと、ロシア国立ノボシビルスク大学の校舎が見えて来ます。
    私が学んでいた時代は、新校舎はまだなく、旧校舎のみでしたが、すぐ隣りに
    大規模な新校舎が建設されており、度肝を抜かれました。 尚、ノボシビルスク
    大学のレベルは、ロシア国内では、モスクワ大学に次いで第2位、サンクト・
    ペテルブルグ大学よりもレベルが上とされているため、私の学歴は、あの
    プーチン氏を上回っていることになりますw 尚、ノボシビルスク大学には
    人文学部があり、ここに日本語専門コースもあるため、極々稀に日本語で話し
    掛けられる事もあります。

    【国立ノボシビルスク大学
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    ノボシビルスク大学は、理工系が強い理系の大学であるため、現在は、日本の
    東北大学の姉妹校となっている。 世界で初めての学術研究都市となっており、
    日本の筑波の見本となったアカデムゴロドクは、その名の通り、ロシアの頭脳と
    呼ばれており、様々な研究機関が集まった、世界最高峰の研究都市となっている。

    アカデムゴロドクで唯一のメインストリートにあるショッピングセンター
    (ロシア語ではテー・ツェーと言う)。 25年前は、本当に何も物が売って
    いなかったのだが、今では、商品であふれかえっていた。 ノボシビルスクは、
    ロシアの中でも、最も外国から遠い場所にあるため、国内で物を生産せずに、
    ほぼ全てを中国からの輸入に頼っているロシアでは、外国から遠い事は、
    当然ながら、物不足を意味していた。

    2000年過ぎ頃までは、ロシア・ルーブルは、完全に国外には持ち出し禁止の
    時代で、ルーブルが国外に自由に持ち出せるようになったのは、2000年以降
    となっている。 それ以前は、ロシア出国時に税関で財布を開けさせられて、
    残ったルーブルは全て没収、その後、コインだけは見逃されるようになった。

    【アカデムゴロドク
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    ノボシビルスクでは、よくミルクカクテルなる飲み物を飲むのだが、道端に
    あった美人のおねえさん(後姿だけで残念w)が働いているお店で、
    ミルクカクテル(しかもカップが巨大)を作ってもらった。 その後、
    そのおねえさんに食堂がある場所を教えてもらい、午前9時(日本時間午後12時)
    にちょっと遅めの朝食を取る事にした。

    ロシアで主に食べられているのは、じゃがいものピュレー、ソーセージ、
    ブリヌィ等で、この日は、ボルシチが品切れだっため、キャベツスープを
    頂いた。 アカデムゴロドクは、その昔、ノボシビルスクとは別都市とされて
    いたのだが、今では、ノボシビルスク市内のソヴィエツキー地区に分類されて
    いる模様。

    学術研究都市のアカデムゴロドクにあるのは、大学と研究機関のみであるため、
    ここを訪れる外国人はまずいない。 ノボシビルスク大学は、学生以外は一切
    中には入れないのだが、係員と交渉して、強引にトイレだけ借りて、校内へと
    入ってやったw

    アカデムゴロドクの始発停留所であるツヴェトノイ・リャートから1時間掛けて、
    ノボシビルスクへと戻らなければならないのだが、「行き先」は書いておらず、
    「35」としか書いていないため、ロシア語を喋れないと、ほぼ確実にアカデムには
    行けない事となるw

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    時代は移り変わり、様々な品物でごった返すノボシビルスク。 25年が経過しても、
    街の要所部分は変わってはおらず。 当時から地下鉄はありましたが、3駅ぐらい
    しか延伸していなかった。ロシアの地下鉄は、『M』のマークが入り口の印。
    『メトロポリテン』の省略形である『メトロ』がロシア語では地下鉄という意味。
    よって、語尾が『o』で終わっていても、男性名詞。 地下鉄の入り口のドアは、
    どこも非常に重いのが特徴。 手を離すと、凄まじい勢いで後ろの人に
    ぶつかるので、次の人が来るまでドアを持っていてあげるのがロシアでの慣わし。

    基本的に、ロシア人の趣味は散歩なので、皆1日で数キロ程度であれば、平気で
    歩きます。 ノボシビルスクの数少ない観光名所は、全てこの通り沿いにあるため、
    この日は頑張って、かなり歩いた。

    ノボシビルスク
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    ノボシビルスク大学留学中は、学業が忙し過ぎて全く時間がなかったため、
    一度も観光というものをしたことがなかったのだが、今回は余裕があるので、
    ノボシビルスクで見るべきスポットを全て周って見た・・・と言っても、
    ノボシビルスクで見るべき物は、全て赤の大通りにあるため、全て歩いて見て回る
    ことが出来る。

    まず、1つ目は、ロシア国立ノボシビルスク・オペラ・バレエ劇場。 今回は時間の
    都合でバレエを見ることが出来なかったが、その昔、バレエのプロデューサーを
    していた時に、遥々ロシアから呼び寄せたのが、このノボシビルスクバレエ団。
    劇場の規模は北半球一で、南半球のどこかに更に大きな劇場がある模様。

    2つ目は聖ニコラス礼拝堂、3つ目は建築家クラチコフの記念碑、4つ目は、
    アレクサンドル・ネフスキー大聖堂、5つ目は、革命英雄記念碑。 革命英雄
    記念碑は、大昔に習ったロシア語の教科書に載っていたため、どうしても行きたい
    場所であった。

    ノボシビルスク
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    ノボシビルスクに到着した日は、たまたま、ノボシビルスク生誕125周年際の日で
    あったが、白夜により、夜11時まで日が全く沈まなかったため、夜の11時から
    花火が打ち上げられた。 いつまで経っても日が沈まないため、お子ちゃまも
    夜中なのに、普通に通りを歩いていました。 この晩は、近所のカフェでロシア
    料理を堪能したのだが、何故かデジカメで撮影するのを忘れたため、ロシア料理を
    見たいお方は、Google Photoをご覧くだされ。

    【お勧めの一冊


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    無事成田空港を飛び立ち、6時間30分程度で「シベリアの首都」ノボシビルスクに
    到着しました。 シベリア鉄道だとハバロフスクから丸4日も掛かる行程も
    飛行機を使えばあっという間。 眼下に流れているのは、世界第5位の流域面積を
    誇るオビ川。 ノボシビルスクは、このオビ川に橋を建設するために建設された
    街で、125年前の建設当時の名前はノボニコラエフスク。 

    【ノボシビルスク】
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    ノボシビルスクは、シベリア最大の都市であるばかりではなく、ロシア科学
    アカデミー他の研究機関が集積する学術研究都市としても有名で、日本の筑波は
    このノボシビルスクを手本として造られた街です。 世界で最も最初期に建設
    された学術研究都市は、このノボシビルスクと筑波とボストンらしいのだが、
    その3つ共行ったことがある人間は、なかなかいないかも知れない。

    25年前にノボシビルスク大学に留学をしていた際にも、ノボシビルスクに
    国際空港が建設されるという話があったものの、このトルマチョーヴォ空港
    ではなく、街の北部にある飛行場を拡張計画であった。 トルマチョーヴォ空港は
    大昔からあり、設備は古かったものの、新しくターミナルビルを建設して、新しく
    なっていた。 空港のあるトルマチョーヴォ村からノボシビルスク中央駅
    (スラブ語では何故か「重要駅」と言う)までは、乗り合いタクシーの
    「マルシルートカ」で約60分掛かる。

    ノボシビルスク
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    ロシア第3の都市であるノボシビルスクは、日本の札幌と姉妹都市となっており、
    1990年から交流が始まった。 最終的にノボシビルスク大学に入学する
    切っ掛けとなったのは、1992年に札幌で開催された「コミュニケーション
    ワールド'92北海道2000」という博覧会にノボシビルスクにあるロシア科学
    アカデミー考古学研究所の学術研究員が参加し、トロゴンテリー像の展示を
    行った際に、学生通訳としてアルバイトをしたため、ロシア科学アカデミーの
    副所長にノボシビルスク大学に入りたいと直接交渉したためであった。

    ノボシビルスクに到着した2018年6月25日(日)は、ノボシビルスク建設
    125周年の記念日だった。 この街に住んでいたのは、ちょうど25年前なので、
    その時にもノボシビルスク100周年と言っていたのを思い出した。 この日は、
    街の中心部はお祭り一色で、メインストリートである「赤の大通り」は車両を
    全て封鎖して歩行者天国になっていた。 その歩行者天国では、あちらこちらで
    ライブが開催されており、街全体がお祭り騒ぎだった。

    尚、ロシアでは、ストリートミュージシャンと言えども、音楽学校、あるいは、
    音楽大学(コンセルヴァトワール)を卒業しない限りなれないため、歌の下手な
    歌手、顔の酷い歌手は存在しないw 因みに、ロシアでは、大学の専門以外で
    就職することはまずなく、職種を変えたい場合は、大学に再度入学し直さなければ
    ならない。

    ノボシビルスク
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    ノボシビルスクの中心部には、中央市場があるのだが、その真向かいに、巨大な
    ショッピングモールが出来ていた(;^_^A 25年前のノボシビルスクは、ソ連崩壊
    直後のハイパーインフレの真っ最中であったため、この中央市場ですら、まともな
    レベルでは物が売っていない時代であった。 ハイパーインフレとは、どのような
    ものかと言うと、物価の上昇に対して、貨幣の供給が追いつかないため、朝見た
    値段と夕方の値段とが異り、欲しい物が目の前にあった場合、全て買い漁らなければ
    ならないというレベル。

    当時は、2カ月おきに物価が2倍になっており、ソ連崩壊から見て、最終的に物の
    値段が2万倍(2万円が1円の価値になったのと同じ)になった1997年にゼロを4つ
    切り捨てるデノミ政策を行ったのであった。 尚、2ヶ月ごとに物価が2倍に
    なるとは、1年間で物価が32倍になるという意味で、ロシアルーブルはこの時代、
    1日で20ルーブルづつ米ドルに対して下落していた。 1989年当時のソ連
    ルーブルは、1ルーブル約350円だったのだが、今では、1円が約1.7ルーブル
    となっている。 1993年当時のロシアの平均給与は約3,000~6,000円程度
    しかなく、CD1枚が3,500円もした時代であったが、今では、そのCDですら、
    殆んど見せには並ばない時代になった。

    ノボシビルスク大学に在学中は、シベリア猫を飼っていたのだが、この
    ノボシビルスクのどこを探しても、キャットフードなどという物は1つたりとも
    売っていなかったのと、アカデムゴロドク自体に食べ物が全く売っていなかった
    ため、週に1度、バスと地下鉄を乗り継いで、丸1時間掛けて中央市場まで
    食料品の買出しに来ていたという時代であった。

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    FIFAワールドカップ
    2018年にロシアで開催されるFIFAワールドカップを見に行くことにした。
    特にサッカーに興味がある訳ではないが、ロシアで開催されるという部分に
    魅かれた。 この話は、2017年12月から準備しており、まず1月に航空券の
    値段を調べたところ、モスクワまで直行で行くよりも、6月から就航する
    S7航空のノボシビルスク&イルクーツク経由の方が安いことが判明。

    【成田空港】
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    最終目的地であるカリーニングラードまでの往復チケットを自分で購入すると、
    モスクワからは片道4万円強も掛かることが分かったため、10,800の手数料を
    支払ってでも、HISで航空券を購入した方が最終的には安くなることが分かった。
    2月の時点で、まだ就航していないS7航空のノボシビルスク&イルクーツク便に
    予約を入れたため、成田⇔モスクワ間は何ら問題がなかったものの、問題は、
    モスクワ→ミンスクとカリーニングラード→モスクワ便だった。

    共に到着時間が午後11時30分であったため、どちらも到着後に色々と問題が
    発生した。 ロシアの飛行機は、奇跡が起こらない限り、絶対に時間通りには
    出発しないのだが、この日のフライトも予想通り1時間半の遅れを持って
    ノボシビルスクへと飛び立った。 機材が到着したのも1時間20分遅れだったため、
    1時間30分の遅れだけで済んだのは、ロシアのプロ意識が成せる技w 日本の
    場合は、1時間以上も遅れると乗客がブーブー文句を言い出すのだが、ロシアの
    場合は、1時間以上遅れるのが当たり前なので、誰も文句は言っていなかった。

    【ノボシビルスク】
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    尚、S7航空がノボシビルスクへの直行便を就航させたのが6月2日からが初めてで、
    それまで、ノボシビルスクへ行く場合は、韓国のソウルを経由して行くのが
    一般的であった。 私の時代は、ハバロフスクを経由して行くのが一般的だった
    のだが、25年前のロシアは、ソ連崩壊直後であったため、経済危機のど真ん中で、
    全ての航空機が燃料不足のため、飛んでおらず、ハバロフスクからノボシビルスク
    までシベリア鉄道で丸4日掛けて行った。

    当時のロシアでは入国72時間ルールというものが存在しており、今回の
    ワールドカップで再び復活したこのルールは、色々と問題を引き起こす原因
    となった。 因みに、ロシアは何もかもが言った物勝ち、やった者勝ちなので、
    一々このルールを真剣に考えると頭に来るため、適当にやり過ごして、見つかった
    際には、それなりの「言い訳」を述べてやるのがロシア式の対処方法。

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    ロシア第3の都市、ノボシビルスクとは、シベリア開発のために建設された
    シベリアの中では比較的新しい街で、街が造られた当初は、『ノボニコラエフスク』
    という名前だった。 これと同様に、ソ連崩壊直後に、名前が変えられた都市や
    通り名は数多く、ざっと思い出せるだけでも、数知れない。 

    【 国名 】
    ソビエト社会主義共和国連邦 → 独立国家共同体
    ベロロシア → ベラルーシ
    カザフ → カザフスタン
    キルギス → キルギスタン
    ウズベク → ウズベキスタン
    トゥルクメン → トゥルクメニスタン
    タジク → タジキスタン
    タタール → タタルスタン

    【 都市名 】
    レニングラード → サンクト・ペテルブルグ
    ゴーリキー → ニージニー・ノブゴロド
    スベルドロフスク → エカテリンブルグ
    クイビシェフ → サマーラ
    ザゴールスク → セルギエフ・ポサード

    【 通り名・土地名 】
    カリーニン通り → 新アルバート通り(モスクワ)
    カールマルクス通り → 劇場通り(モスクワ)
    レーニンヶ丘 → 雀ヶ丘(モスクワ)

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    実際は、まだまだあるのだが、これを日本語とロシア語で全て覚え直さなければ
    ならないというのには、かなりの時間を要した。 よって、ロシアでは、今でも
    ペテルブルグのことを普通にレニングラードとも言う。 ソ連がなくなり、最も
    変わったのは、社会システムで、社会主義を捨てて、市場経済へ移行するための
    厳しい現実が待っていた。 ソ連の時代は、国が生産管理をしていたため、商品が
    売れようが売れなかろうが、一切関係がなかったのだが、市場経済ではそうは
    行かない。 売れ残り商品は、すぐに在庫となり、マイナスとなって財政に跳ね
    返って来る。 この期に乗して、それまで国立であった設備の私有化が始まった。

    ソ連の崩壊とは、戦後そのもので、火事場泥棒のごとく、やった者勝ちの新興財閥が
    次々と現れては消えて行った。 国がなくなったということは、それらを取り締まる
    法律がなくなったという意味で、弱肉強食の世界へと一変した。 この際、一番
    バカを見たのは、正直に生きて来た人間で、それまでは、生活保障が余りにも
    充実し過ぎてたがために、犯罪、殺人、自殺などは、表には出て来なかったが、
    一気にそれらの問題が表面化したばかりではなく、世界でも有数の治安の悪い国に
    成り果てた。

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    1991年末に、新生ロシアになってからは、ロシアは2000年頃まで激しいハイパー
    インフレに常に悩まされ続けたため、殺人、強盗、盗み、自殺等は、日常茶飯事で、
    知識層を中心に、年間で数万人規模で、移民が多発した。 それまでは、日本国内
    には、恐らく、100名程度しかロシア人が住んではいなかったのだが、今では、
    推定でも2万5千人以上のロシア語圏の人たちが日本で生活をしている。 それは、
    田舎の嫁不足を解消するために、長らく結婚紹介所がロシア人女性を日本に送り込み
    続けた結果とも言える。

    ソ連の時代は、東京でもロシア人を探すのは困難を極めたが、今では浅草等の
    観光地に行くと、必ずロシア人観光客が居るのには驚かされる。 正に、時代は
    変わったのである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥

    【お勧めの一冊】


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    ロシア第3の都市、ノボシビルスクは、『シベリアの首都』と呼ばれており、
    シベリア最大の学術研究都市である。 日本のつくばは、このノボシビルスクを
    まねて造ったとも言われており、国立ノボシビルスク大学のレベルは、ロシアでは、
    モスクワ大学に次いで、第2位となっている。 理系が非常に強い大学であるため、
    現在、ノボシビルスク大学の日本の姉妹校は、同じく理系が強い国立東北大学と
    なっている。 尚、ドイツの姉妹校は、オルデンブルグ大学となっており、
    大学側が用意してくれた学生寮では、ドイツ人2人と生活を共にすることとなった。

    ノボシビルスク大学への入学は、簡単なものではなかった。 特に、外国人が
    ロシアの大学に入学をする際には、エイズ検査が必須となっており、その他にも、
    大学側からの招待状と学費の前納が大前提だった。 大学への入学後は、ロシア人
    学生と一緒の授業を受けたものの、全てのロシア語を理解出来ている訳ではない
    ため、かなりのハンデとなった。 その理由から、担当教授とのマンツーマンでの
    ロシア語での特別授業が始まった。 そこでは、古代教会スラブ語を習うように
    言われたのだが、既に死語である教会スラブ語は、使う場所が全くないため、
    教授に頼み込んで、ドイツ語を専攻することにした。

    Transsiberian

    丁度、学生寮では、ドイツ人2人と生活をしていたため、このことをドイツ人学生に
    話したところ、親切にも、無料でドイツ語でのマンツーマンの授業をしてくれた。
    この日から、外ではロシア語、学生寮の中では、ドイツ語で話す生活が始まった。
    元々、ロシア語とドイツ語は文法的にかなり似ているので、両立はさほど難しく
    なかったのと、日本の大学ではやることがなかったため、ドイツ語をかなり本気で
    学んでおり、特に苦にはならないどころか、自分の知識が目に見えて増えて行くのが
    手に取るように分かったため、毎日が充実していた。

    ノボシビルスクは、学術研究都市であるため、行くところと言えば、ショッピング
    センター(ロシア語では『商業中心』と言う)と本屋めぐりぐらい。 たまたま、
    札幌に昔留学をしていたというカザフ人女性と知り合いになり、度々家にも遊びに
    行くようになった。 更に、そのカザフ人の友人の旦那さんの実家があるアルマ・
    アタ(当時はカザフの首都、現在の名前はアルマトゥイ)に遊びに行くことになった
    のだが、その当時、ロシアとカザフスタンの間には、国境があったものの、国境での
    パスポートチェック等は一切なかった。

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    当時のロシアは、ロシア・ルーブルを使用していたのだが、カザフスタンは、ソ連
    時代のルーブルをまだ使用しており、カザフスタンの通貨である『テンゲ』は、
    その1年後ぐらいまで全く流通していなかった。 ノボシビルスクからアルマ・
    アタまでは、電車で40時間、運賃は、日本円にして40円であった。 この旦那の
    方は、現在、カザフのアクタウに住んでいるが、20年以上も音信不通だったが、
    今ではFacebookで繋がっているため、良い時代になったものである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②

    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    前回、ハバロフスクからノボシビルスクまでは、シベリア鉄道で丸4日間掛かると
    述べたが、ロシアでは、割とつい最近まで、入国後72時間以内に警察に行って、
    住民登録を必ずしなければならなかったため、この件で罰金を取られることと
    なった。

    当時アエロフロートは、燃料不足により、半年以上も一切飛んでいなかったのだが、
    ロシアでは、そのようなどうでも良いことは一切考慮されないばかりではなく、
    規則は規則なので、どうにもならない。 よって、このような場合は、机を叩いて
    でも怒りの意思表示をしなければならないのがロシアのしきたり。

    実は、チケットを購入して、ハバロフスク空港に到着してから、この衝撃的な
    事実を知ってしまったのだが、その時のアエロフロートの窓口の対応は最悪で、
    チケットは払い戻しするが、手数料が掛かるという意味不明なものであったため、
    怒りの意思表示をしたところ、空港まで送ってくれたロシア人の友人が、こちらの
    余りの剣幕に、呆れ顔で見ていたという逸話が残った。

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    さて、シベリア鉄道だが、ロシアの車両は、外国人専用のスーパーワゴンには
    シャワーが付いているものの、ロシア人向けのコンパートメントや、3段式の寝台
    車両にはシャワーがない。 また、ロシアの長距離列車には、コンパートメント
    内にお菓子が置いてあるのだが、それを食べると別料金を請求される。 ロシアは
    基本的に何でもやった者勝ちで、少しでも遠慮をした人間が100%バカを見るという
    システムが完全なまでに構築されている。

    ロシアを訪れた人間が、ロシアに対して、好意を抱くか、または、悪意を抱くか
    なのだが、基本的に、ロシア語を喋れない人間の場合は、ぞんざいな扱いしか受け
    ないため、嫌いになる確率の方が遥かに高い。 但し、例え片言だけでもロシア語を
    喋れると、大歓迎されるため、好きになるという、インド並ぐらいに好き嫌いが
    ハッキリと分かれる国でもある。

    元々、ロシアは世界一の超多民族国家であるため、アジア人でも特に差別はされない
    のだが、よほどのインテリでもない限り、外国語は通じないため、ロシアを訪れる
    際には、基本的にロシア語が必須となっている。 但し、2000年以降は、急速に
    英語が普及したため、大学の学生レベルであれば、ある程度英語を喋れるように
    なったのには、時代の流れを感じずにはいられない。

    ソ連時代の外国語と言えば、ドイツ語とフランス語がメインで、英語はかなり
    マイナーな言語でワンツースリーのレベルでも一切通じなかった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    ソ連崩壊直後の93年4月から、ロシア第3の都市、ノボシビルスクに留学する
    ことになった。 これは、90年から始まった、札幌とノボシビルスクの姉妹都市
    締結を記念して開催された、コム博が切っ掛けではあったが、実際は、全て
    自分から持ち掛けた話であるため、大学にも札幌市にも一切関係がない話であった。
     
    93年当時のノボシビルスクには、全部で7人程度の日本人しか住んではいなかった。
    しかも、そのほぼ全てが札幌からの関係者ばかりであった。 当時、ノボシビルスク
    大学には、過去においても、日本人が入学したことがなかったことから、私が
    ノボシビスルク大学に正式に入学した日本人第一号となった。
     
    93年当時のロシアは、91年の12月末にソ連が崩壊したばかりで、まだ崩壊から
    1年程度という状況もあり、混迷を極めていた。 ソ連の崩壊と言うとあまりピンと
    来ない人が多いのだが、実際には、国がなくなった訳で、国を司っていた法律も
    全てなくなった。 よって、ソ連末期の頃から既に治安が悪化していたのだが、更に
    状況が悪化し、世界一治安が悪い国とまで呼ばれるに至った。

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    その状況たるや、目を覆うばかりで、車が信号で止まると、ジプシーが列挙して
    車に襲い掛かり、部品を丸ごと持って行くだとか、これを同じく、信号待ち
    していた人がジプシーに身包みはがれただとか、男でもトイレの中で犯された
    だとかはまだましな方で、至るところで犯罪、殺人、自殺等の社会不和が一気に
    表面化し始めた。 昼間でもひとりで道を歩くには危険と言われたが、日が暮れて
    から外出するのは、正に命懸けであったため、常に何らかの武器を携帯しなければ
    犬死も同じ時代であった。
     
    それと同時に、ハイパーインフレが始まり、ロシア・ルーブルは、連日米ドルに
    対して、20ドルづつ暴落していたため、商店に並んでいた商品の価格は、朝と
    夕方とでは大幅に異なっていた。 尚、ノボシビルスク大学にあるのは、学術
    研究都市である、アカデム・ゴロドクにあるため、当時のロシアの中では、比較的
    治安が良い場所ではあったものの、いかんせん、研究都市であったため、市場や
    スーパーというものがなく、週に1度、約1時間ほど掛けて、路線タクシーと
    地下鉄を乗り継いで、ノボシビルスク中心部にある市場へと食料の買出しに行か
    なければならなかった。 その当時、猫を飼っていたのだが、当時の
    ノボシビルスクには、キャットフードなどという贅沢品は一切置いてはおらず、
    週に1度、魚を買いにはるばる市場へと通った。
     
    尚、93年には、モスクワで反エリツィン派による政治クーデータが起こり、国の
    機能が一時麻痺した。 テレビ局も全て機能がストップし、全てのテレビ局が
    同じ放送内容ばかりを流した。 恐らく、ロシアの歴史の中でも、この93年
    前後が最も厳しい時期で、食料や燃料が不足し、正に地獄の底であった。 この
    当時、アエロフロートの国内便は、燃料不足により、数ヶ月間全便結構していた
    ため、ノボシビルスクへの移動は、ハバロフスクから丸4日掛けて、シベリア
    鉄道で移動した。 当時は、ロシアの学生証を所持していたため、丸4日間電車に
    乗っても料金は日本円に換算して、400円であった。

    当時飛んでいなかったハバロフスク→ノボシビルスクの飛行機のチケットは、
    180ドルであった。

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    ロシアは、国全体の人口密度は低いが、人口の約73%が都市部に暮らしており、
    都市化の進んだ国と言える。 主な都市には、モスクワ、サンクト・ペテルブルグ、
    ノボシビルスク等がある。

    【モスクワ】

    ロシアの首都であるモスクワは、ボルガ川の小さな支流であるモスクワ川のほとりに
    発展した人口約900万人のヨーロッパ第一の都市。 1147年に初めて歴史書に登場
    して以来、モスクワは、ロシアを統一し、ロシア帝国を建設する上で重要な役割を
    果たした。 モスクワの街は、クレムリンと呼ばれる要塞を中心に発展した。
    現在のクレムリンは、連邦政府の建物となっている。 クレムリンに隣接する
    赤の広場には、レーニン廟、聖ワシリー寺院、かつて、世界最大と言われた
    グムデパート等がある。 モスクワは、ロシアの文化活動の拠点であり、ロシア
    正教会の中心地でもある。 更に、製造業の中心地でもあり、多くの工場が立ち
    並ぶ。



    【サンクト・ペテルブルグ】
    サンクト・ペテルブルグは、人口約500万人のロシア第二の都市であり、
    フィンランド湾に注ぐネヴァ川のほとりに建設された都市。 ピョートル大帝に
    よって、1703年に建設され、1712年にロシア帝国の首都となった。 運河が
    多く、ヨーロッパ風の建物が立ち並ぶのが特徴となっている。 20世紀に入り、
    第一次世界大戦が勃発すると、ロシアは、ドイツと戦った。 この時、ニコライ
    2世はがサンクト・ペテルブルグというドイツ風の名前を嫌い、ペトログラードに
    改称した。

    その後、共産主義政権が誕生すると、レーニンにちなんで、レニングラードと
    改称され、1991年のソ連崩壊時には、元のサンクト・ペテルブルグという名前に
    戻された。 エルミタージュ美術館、歴代の皇帝が暮らした冬の宮殿、
    ペトロパブロフスク要塞等が観光名所となっている。



    【ノボシビルスク】

    人口約150万人のロシア第三の都市。 『シベリアの首都』と呼ばれる事もある。
    オビ川のほとりに位置し、シベリア横断鉄道を建設中の1893年に建設された。
    現在でもシベリア横断鉄道の重要な停車地であり、産業と交通の拠点となって
    いる。 ノボシビルスクには、シベリア最大の美術館、北半球最大のバレエ劇場、
    有名な交響楽団とジャズグループ等があり、シベリア文化の中心地としても
    知られている。 1950年にロシア科学アカデミーの重要な支部が開設されて以来、
    学術研究都市が建設され、学問が非常に盛んになったロシアを代表する
    学術研究都市。



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    ロシア第三の都市、ノボシビルスク出身で、日本で活躍をしていた歌手の
    オリガが、2015年1月17日に肺がんにより死去しました。 ロシアの
    Wikipediaでは、日本よりも早く、2015年1月18日に『オリガ死亡』と記載
    されました。
     
    bg-origa

    オリガのFacebookは、1月13日に最終更新がされており、以前、英語で、
    これから暫く海外に行くとの記載があったのですが、オリガは、元々、
    ロシアの学校では、フランス語を学んでいたため、英語がかなり苦手でした。
    ただし、その後、必死に英語を学んで、苦手意識を克服しました。

    1990年に姉妹都市締結を結んだ、札幌とノボシビルスクの国際交流は、私と
    オリガの時代に始まりました。 姉妹都市締結後、オリガが、初めて札幌に
    やって来たロシア人で、私が、ノボシビルスクに初めて留学をした日本人。
    オリガは、ノボシビルスク音楽大学在学中に札幌にホームステイにやって
    来たのですが、自分の身の回りから、芸能界にデビューを果たした人間は、
    このオリガだけだったので、自分の事のように嬉しかったのが、つい昨日の
    事のようです。

    オリガの芸名の由来は、デビュー時に、『L』の発音が出来なかった札幌の
    関係者が、『R』 で発音をしたものを、オリガが気に入り、そのまま使ったため。

     

    オリガが日本でのデビューのチャンスを掴んだのは、札幌でホームステイを
    していた際に、周りから勧められて、さっぽろ雪祭りのステージで歌った事が
    切っ掛けで、その後、まず、札幌でインディーズデビューを果たし、その類稀な
    歌声は、すぐに東京のプロデューサーの目に留まり、日本でのメジャー
    デビューが決まりました。
     


    私がノボシビルスクに居た頃は、オリガもまだノボシビルスクに住んでいて、
    これから、東京へ引っ越す準備をしていた時期で、同じく当時ノボシビルスクに
    住んでいた、私の知り合いから日本語を習っていましたが、あれから、時は流れて、
    かれこれ、25年以上の月日が経過しております。 25年以上も前から日本に
    住んでいたロシア人は、非常に稀で、当時は、日本全国でも、100名弱ぐらいの
    ロシア人しか住んでいませんでした。 逆に、当時ノボシビルスクに住んでいた
    日本人は、全員合わせても、7名でした。
     


    当時は、ロシア人に対する差別もあったものの、その後、菅野ようこ氏と
    出会い、アニメソングを歌うようになりました。 元々は、自分のオリジナル曲を
    歌っていたのですが、菅野氏が作った曲もそれ以降、歌うようになり、活動の幅が、
    大幅に広がりました。

    その後、結婚をして、昔ほどは、音楽活動をしなくなりましたが、それでも、
    Facebookを時々見ては、元気そうだと思っていた矢先の出来事なので、未だに
    信じられません。
     


    同じ時代、同じ場所を見てきた人間として、非常に残念でなりません。
    オリガ・ヤコブレワのご冥福を心よりお祈り致します。 享年44歳・・・
     
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    これが、オリガの最後の姿だとか・・・

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