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    タグ:ネヴァ川

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    海軍省と冬宮との間の通りを進むと、ネヴァ川に掛かる宮殿橋に出る。
    最初の橋は1856年に完成した。 現在の橋は、開閉式で、1912年に作られた。
    橋を渡ると、ヴァシリエフスキー島である。

    ヴァシリエフスキー島は、一時期ピョートルがペテルブルグの中心地にしようと
    考えたところであった。 しかし、貴族たちは、海軍本部からネフスキー大通りの
    方面に住むことを望み、この島に住もうとしなかったので、ピョートルの思惑は
    実現しなかった。 とはいえ、ピョートルの重要な機関をこの島に作った。

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    橋を渡ると、大ネヴァ川に沿った大学河岸通りとなる。 まず最初の塔のある
    緑の色の建物が文化人類学博物館である。 これは、ピョートルがヨーロッパ
    旅行の際に、入手したさまざまな品物を収容展示するために1714年に作られた
    最初の博物館が基になっている。 建物は1734年にゲオルグ・マッタルノーヴィの
    設計によって作られたバロック風のものである。 17世紀には色々な学術研究
    機関が入っていたが、その後、元の博物館に戻り、今日に至っている。

    次の建物は、旧科学アカデミーの建物である。 科学アカデミーは、1724年、
    ピョートルが死の直前に設立を決定した学術機関である。 科学アカデミー
    会員は、最初は外国人ばかりであったが、1742年にロモノーソフが最初のロシア人
    会員となった。 現在の建物はクワレンギが設計し、1785年に完成した。
    科学アカデミーは1934年までここを本部とし、その年モスクワに移転した。
    建物2階にロモノーソフが建設したモザイク画『ポルタヴァの戦い』が掛け
    られている。

    次は、ピョートルが作った12参議会の建物である。 トレジーニの設計で
    1722年に建設が始まった。 参議会というのは、省にあたる。 ピョートルが
    1719年から1721年に掛けて作った。 この建物だけで政府の機能を果たすことは
    すぐに難しくなったであろう。 省の建物は、ペテルブルグの色々なところに
    作られたが、結局、この建物は、ペテルブルグ大学に渡された。

    ここから大学の建物が始まる。 ペテルブルグ帝大は、1837年にこの場所に
    引っ越して来たのである。 この大学の創立年については、意見が分かれる。
    1724年に科学アカデミーが設立される時の発令には、大学と中学校を共に創る
    ということが含まれていた。 科学アカデミーの一部として、大学と中学校が
    創られたと見ることが可能である。 しかし、これは大学とは言えなかった。

    ロモノーソフは、モスクワ帝大の創設に尽力したのだが、ペテルブルグ大学に
    ついては、大学創設をハッキリさせるために開学式を行ってはどうかと提案した。
    しかし、エリザヴェータ女帝もエカテリーナ女帝もペテルブルグに大学を創る
    ことには関心を示さなかった。 結局、1819年になって、アレクサンドル1世
    によって、サンクト・ペテルブルグ大学の正式発足が決定されたのである。

    ペテルブルグ大学は、人文・東洋言語学部、物理・数学部、法学部、医学部
    から成っていた。 人文・東洋言語学部は、大学河岸通りに面したところにある。
    1935年にキーロフが暗殺されると、ペテルブルグ大学は、キーロフ名称という
    言葉が付された。 つまり、キーロフ名称国立サンクト・ペテルブルグ大学
    というのが正式名称である。

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    1704年から、フィンランド湾内のコトリン島に海軍基地クロンシュタットの
    建設が始まった。 更にウサギ島の対岸、ネヴァ川の左岸には海軍造船所が
    作られた。 これが後の海軍本部となる。

    ピョートルは国の統治を引き続き、モスクワのクレムリンから行っており、
    戦争のため各地に転戦した。 スウェーデン国王軍との決戦は、遠くウクライナの
    地ポルタヴァで1709年春に戦われた。 ピョートル軍は、カール12世軍を
    撃滅した。 戦争はなお12年続くが、ポルタヴァの勝利以後は、ロシアは
    バルト海沿岸でスウェーデンを圧して行った。

    1710年、ピョートルの軍はペテロパブロフスク要塞の北のスウェーデンの要塞
    ヴイボルクを占領した。 更にこの年、スウェーデン軍からレーヴェリとリガ
    という重要な港湾を奪った。 これによって、バルト海の南岸かがロシアの
    占領地域に入った。

    ペテロパブロフスク要塞は最前線の要塞ではなくなり、この要塞の周りに生まれ
    つつある都市の安全性は強固なものとなった。 この年ピョートルはネヴァ川が
    南の方角に曲がっているところ、かつてのスウェーデンの砦ニエンシャッツがあった
    ところの対岸にアレクサンドル・ネフスキー公の名を冠した修道院を建てさせた。

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    1240年、ノヴゴロドの公アレクサンドルがネヴァ川の流域でスウェーデン軍を
    打ち負かした勝利を讃えて、その戦闘があったと考えられた場所を選んだのである。
    これが後のアレクサンドル・ネフスキー修道院の基である。 更に同じ年、
    ピョートルは海軍造船所の近くにイサーク寺院を建立した。 正教の暦では、
    ダルマチアのイサークという聖人の日が5月30日と定めされていたが、この日が
    ピョートルの誕生日であった。

    1711年には、ピョートルのための最初の宮殿、冬宮がネヴァ川のほとりに建て
    られた。 これは5年後に建て直しになる程度の建築だったが、今やピョートルの
    住居は小屋から宮殿になったのである。

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    この要塞と海軍造船所のある北辺の拠点について、ピョートルは1704年9月28日に
    メンシコフに送った手紙の中に3、4日後に首都ペテルブルグに行くと書いている。
    これがピョートルがペテルブルグについて首都と述べた最初の例外的なケース
    であった。 だからと言って、ピョートルがこの時ペテルブルグを首都にすると
    既に決めていたことにはならない。 いずれにしても、スウェーデン海軍の攻撃は
    1705年夏までは続いていたのである。

    1709年のポルタヴァでの勝利の後、1711年ピョートルはモスクワに元老院を
    設置し、9名の議員を任命した。 貴族会議に代わって、皇帝の命令を遂行し、
    重要案件については皇帝に代わって仮の決定を下す中央統治機関とした。
    この機関が1712年にペテルブルグに移ったのは、翌1713年だが、これは重要な
    決定であった。

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    ネヴァ川は、ラドガ湖から発してフィンランド湾に流れ込む。 全長74kmと
    短いが水量の豊富な大河である。 『ネヴァ』という名称は、フィン語の
    Nevajoki から出ているが、これは、 Neva(沼)という言葉が元となっている。

    確かにこの川の河口は、沼沢地帯であった。 この川の周辺に住んでいたのは、
    フィン人であった。 この地に勢力を伸ばしていたのは、スウェーデン国家と
    ノヴゴロドというロシアの都市国家である。

    1300年、スウェーデンはネヴァ川にオフタ川が流れ込むところにランズクローンの
    砦を造った。 1年後にその砦はノヴゴロド人によって破壊された。 1323年の
    講和で、ネヴァの流域は、ノヴゴロドのものとなり、ラドガ湖からネヴァ川が
    始まる辺りにオレーシュクの砦が造られた。 その状態が1609年まで300年近く
    続いた。

    17世紀始め、ロシアは『動乱』の世となり、国が乱れに乱れた。 ポーランド王の
    軍にモスクワが占領されるという事態も生じた。 1611年、スウェーデンも
    ロシアに兵を進めて、ノヴゴロドまでを占領した。 ネヴァ川流域も
    スウェーデンの支配下に入った。

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    破壊されていたランズクローンの砦の後には、ニエンシャンツの砦が造られた。
    オレーシュクの砦は、スウェーデン風にノーテブルグの砦と改称された。
    1613年、動乱を克服したロシアは、ミハイル・ロマノソフを皇帝に選んだ。
    彼は、4年後にスウェーデンのグスタフ・アドルフとストルホヴォの講和を結び、
    ノヴゴロドを取り戻したが、東カレリアとネヴァ川流域一帯に対するスウェーデンの
    領有を認めた。

    スカンジナビア半島から発して、バルト海沿岸に覇権を広げた強国スウェーデンの
    威光は、1世紀続いた。 反抗の時をうかがっていた各国は、1700年に行動を
    起こした。 ロシアの若き英主ピョートルもこの年にスウェーデンに戦いを挑んだ。
    だが、8月にスウェーデンの要塞ナルヴァを包囲したロシア軍は、ピョートルより
    年少のスウェーデン王カール12世の精鋭部隊に壊滅させられてしまう。
    ピョートルは兵を退き、カール12世がポーランドに転戦している間に、ネヴァ川
    流域のスウェーデン領インゲルマンランドを攻めた。

    1702年10月、ノーテブルグの砦がロシア軍の手に落ち、シュリッセリブルグと
    改名された。 1703年4月には、ロシア軍はニエンシャッツの砦を包囲した。
    ピョートルも七個中隊の兵を引き連れて到着した。 スウェーデン軍は降伏を
    否定して、ロシア軍の砲撃を受け、砦は5月1日(12日)に陥落した。 この時、
    スウェーデン軍の軍艦2隻が救援に来たが、ピョートルは、ニエンシャンツの
    砦を我が物とし、これにシュロットブルグ(城の町)という名を与えた。

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    ピョートルは親政開始後、オランダ等に大使団を派遣し、オランダをあがめていた。
    命名はオランダ語によるものであった。 もっとも、彼にはこの砦の位置が不満
    であった。 海から離れていては、海軍基地と結びつかない。 そこで、ネヴァ川が
    3つに分かれているところの中央にある島エニサーリ(ウサギ)島に注目し、ここに
    要塞を造ることを決め、ただちに着工した。 1703年5月16日(27日)のことで
    あった。 ウサギ島は、ニエンシャンツの砦からは、ほぼ6キロ離れており、
    それだけ海に近い場所にある。

    この日ピョートルは、ここに居なかったので、着工は彼の意を受けた腹心の
    メンシコフの仕事であったが、恐らく、場所選びにはピョートルの意思も加わって
    いたのであろう。 数日後、戻って来たピョートルは、ただちに自分用の住居を
    ウサギ島から遠からぬ川岸に建てさせ、3日で完成した。 松の丸太で作られた
    この小屋が後に『ピョートルの小屋』と呼ばれるものであり、ペテルブルグの
    建築物第一号ということになる。 ピョートルは、ここに滞在する時は、この
    小屋に泊まった。

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    要塞は土で盛った保塁で作られ、急ピッチで建設が進んだ。 6月29日(30日)、
    ピョートルは、建設中の要塞にサンクト・ペテルブルグという名を与えた。
    自分の名ではなく、自分の守護聖人であるペトロから取ったものであった。
    それと共に、この日ペテロともう一人の聖人、パウロの名前を合わせて冠した
    聖堂の建設を始めるように命じた。 これがペテロパブロフスク聖堂となる
    のである。

    木造の質素な聖堂は、要塞共々、1703年の秋には完成した。 その頃には、
    要塞もペテロパブロフスク要塞と呼ばれるようになり、サンクト・ペテルブルグ
    という名は、要塞の周りに住み着く人々の集落を指す言葉になっていた。

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    ピョートル大帝は、湿地の広がるネヴァ川の両岸に、新しいロシアの首都である、
    サンクト・ペテルブルグを建設した。 ロシアには、海への出入口と『西欧への窓』が
    必要と考えたからだった。 数千人の人命を犠牲にしながら、1712年頃には、新しい
    首都の街並みは、おおよそ完成した。

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    宮殿群と尖塔の街並みは、ヨーロッパ古典様式を反映したもので、多数の外国人
    建築家らによって建設された。 第二次世界大戦では、ドイツ軍が3年間に渡って
    この街を封鎖したため、100万人以上が死んだ。



    街の名称も、時代と共に変わり、1914年から1924年までは、ペトログラード、その後、
    1991年までは、レニングラードと呼ばれたが、その後、再びサンクト・ペテルブルグに
    戻された。

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    【都市の構造】

    サンクト・ペテルブルグは、ネヴァ川につながる細い川や運河の周りに造られて
    いる。 ネヴァ川の左岸には、中心部と向き合う形でヴァシリエフスキー島や
    ペトロパブロフスク要塞がある。 ネフスキー大通りには、ネヴァ川から南へ放射状に
    伸びる数本の大通りの中でも、最も主要な通りとなっている。

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    【ペトロパブロフスク要塞】

    ペトロパブロフスク要塞は、1703年に建設され、 サンクト・ペテルブルグで最初の
    建造物で、その中央には、ペトロパブロフスク大聖堂がそびえ立っている。 細く高く
    伸びたその斜塔は、モスクワの聖ワシリー大聖堂と同じく、この街のシンボルに
    なっている。

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    【ペトロドゥヴァレツ】

    フィンランド湾に面したペトロドゥヴァレツは、ピョートル大帝がとでも気に入っていた
    夏の宮殿だった。 フランスのベルサイユ宮殿や庭園をモデルにしたこの宮殿は、
    1714年に造られ、その後、ラストレリによって、更に増築された。 噴水の大滝は、
    その後、多数の彫刻で飾られた。 宮殿と庭園は第二次世界大戦中に荒廃したが、
    その後、美しく修復された。

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