横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
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    タグ:ナポレオン

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    1740年にハプスブルグ帝国の女帝として戴冠したマリア・テレジアは、帝国内に
    画期的な変化をもたらした。 彼女は、ハンガリー領内の支配を強化し、
    ハンガリー人地主と議会の力を弱め、ハプスブルグ領内でのドイツ語の使用を
    広めた。

    この『ドイツ化』政策による弾圧は、ハンガリー人とスロバキア人指導者の間に
    強い民族主義を呼び起こした。 スロバキアとハンガリーで初めての新聞が、
    ブラチスラヴァで発行された。 1787年、カトリック神父アントン・ベルノラクは、
    古くから教会で使われていたラテン語に代って、初めてスロバキア語の文法書を
    出版した。

    19世紀初めに、ハプスブルグの領土は、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトの
    攻撃にさらされた。 1805年、ナポレオンはハプスブルグ軍をモラビアの
    アウステルリッツの戦いで破った。 しかし、ナポレオンは1815年、ヨーロッパ
    から追放された。

    後の条約で、オーストリアはハンガリー、スロバキア、ルテニア、ボヘミアの
    支配権を強めた。 ハプスブルグは同時に、ハンガリー議会も含めて地方議会の
    支配を強化し、議会で決議された法でも拒否権を行使した。

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    【民族の反乱】
    19世紀半ば頃には、ハプスブルグ支配下のスロバキア人たちは、自由を求める
    ようになった。 スラブ人の指導者でも、オーストリア帝国に留まることを希望
    した者もあったが、多くはハプスブルグからの完全な独立を望んだ。 学校や
    教会でハンガリー語の使用を強要されたために、スロバキア人の怒りは増していた。

    1848年に民族革命がヨーロッパ各都市に起こり、スラブ民族議会がボヘミアの
    首都であるプラハで開かれた。 スロバキア代表は、オーストリア帝国の支配下で、
    チェコとスロバキアの連邦を形成しようとした。 しかし、ハプスブルグは会議を
    非難し、要求を無視した。

    同年、ハンガリー議会のスロバキア代議員ルドヴィト・ステュルは、他の
    スロバキア地方議会をつくり、学校でスロバキア語を使う権利を国会に請願した。

    しかし、スロバキアをハンガリーの領土とみなすハンガリー議会は、これに強く
    反対した。 議会がスロバキアの請願を拒否すると、スロバキアでは反乱が起こり、
    ハンガリー軍はすぐに蜂起を鎮圧し、反乱首謀者を処刑した。

    同じ時、ハンガリー人はハプスブルグに、民族の自治を求める反乱を起こしていた。
    反乱軍は、オーストリア・ハプスブルグ家と同盟を結んだ、スラブの強国ロシア軍を
    敵に回して戦った。 しかし、その後も20年間、ハプスブルグは帝国をしっかと
    支配し、スロバキアとハンガリーの独立要求を無視した。

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    1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンのフリードリヒ
    大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。 ハプスブルグ
    政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が進み、チェコ人も
    オーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。

    マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の文化は
    息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、鉱業などの
    新しい企業に進出するようになった。

    ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで経済力を
    高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も進んだ工業地域と
    なった。

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    1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。 ボヘミアの
    プロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、チェコ人がチェコ語の
    新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。 15世紀末以来、はじめて
    チェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、チェコの農民は農地と故郷を
    離れる自由を認められた。

    ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での仕事が、
    土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、フランス王朝を
    崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を握る、共和政府
    樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。ハプスブルグ家を
    はじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に及ぶことを恐れた。

    革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに侵攻した。
    彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)の戦いでハプスブルグ軍を
    破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は1806年に崩壊し、オーストリア
    帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、モラビア、ハンガリー、ポーランドと
    イタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。

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    1815年のウィーン会議で、ナポレオンに占領されていたジュネーヴ、バレー、
    ヌーシャテルの旧同盟州が新たにスイス連邦に加わえられることが決定され、
    22州の連邦が成立する。 この時、スイスの永世中立と独立も承認された。

    ウィーン会議では、スイス憲法の問題は取り上げられなかった。 ナポレオンの
    敗退後、スイス憲法は効力を失い、スイスの領土は殆んど2、3の有力な家に
    よって支配され、半ば独立した州(カントン)のゆるやかな連合体に戻った。

    工場労働者や農民から、政府の民主化に強化する要求が盛んに出され、それに
    連れて再び宗教と社会の対立が激しくなった。 1880年代になると、改革運動が
    強まり、政府が倒される州もあった。

    1834年に、最も自由な都市州において、教会の所有する土地への課税、信仰の
    自由、教会から独立した公立学校制度を要求する運動が高まった。 これに
    反感を抱いた保守的なカトリック派の7州が同盟を結んで、この運動に対抗した。
    連邦政府は、同盟の解散を命じるが、7州が拒絶したため、1847年に、3週間に
    渡って内乱が起きた。 7州の同盟軍は敗北し、翌年、新憲法が制定された。

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    【1848年憲法】

    新憲法は、州と連邦政府間の権限を慎重に分けるものだった。 将来ヨーロッパで
    いかなる紛争が起きても、スイスの中立を守るため、外敵の攻撃に備える軍隊と
    防衛制度を区別する条項が盛り込まれた。 更に、商取引の効率を上げるため、
    慣習と度量衡と通貨にそれぞれ同一の基準が設けられた。

    新憲法によって、スイスが抱えていた最もやっかいな政治上の問題が解決し、
    経済活動に集中出来るようになった。 その結果、19世紀中頃には、景気が著しく
    向上した。 自由貿易政策により貿易が増大し、産業も発展した。 スイスは、
    貿易相手国がスイスからの輸入品に関税を掛けなかった。 スイスは、小国だが、
    自由貿易の政策のお陰で、外国に多くの市場を獲得出来たのである。

    政府の制約を受けないスイスの商業は、瞬く間に発展した。 教育を受けた
    商人階級と政府の力で、政界の産業界と市場の変化にうまく対応することが出来た。

    自国の製品を輸出するため、鉄道と道路網が整えられ、生産性を高めるため
    機械化して、諸外国と有利な通商協定を結んだ。 スイスの繁栄には観光も
    役立った。 アルプスの雄大な自然を求めて、外国から大勢の人々が観光や
    保養にやって来たからである。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となっていた
    マリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの戦争が
    始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討つ破った。
    1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。 この新しい帝国は、
    現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、東南ヨーロッパの
    諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ
    帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、イギリス、
    ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年オーストリアに侵入
    して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが1812年、
    ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと
    戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて
    ヨーロッパ各国の国境を定めた。 この会議でオーストリアはヨーロッパの中心
    および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦だったザルツブルク大司教
    管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国もオーストリアの領域となった。
    神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】

    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・メツテニッヒは、
    その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持する
    ため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、ハプスブルク
    政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、メルテニッヒは
    辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、ハプスブルク家に
    忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。 12月、ハプス
    ブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、その甥の
    フランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    経済活動が拡大するにつれて、同盟内の社会的対立が増大し、表面に現れて来た。
    ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンでは、小作人たちが移住して来て人口が増え、社会は
    極めて不安定な状態となった。

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    富裕な支配層が、新たに増えた自由市民の権利を認めなかったため、市民は参政権を
    与えなければ税金を払わないと抵抗した。 それと同時に、カトリックとプロテスタントの
    間でも、時折、小競り合いが生じていた。 1798年にフランスで革命が起こり、その影響は
    全ヨーロッパに及んだが、特にスイスの受けた影響は大きかった。 革命の後、司令官
    ナポレオンが率いるフランス軍は、スイスを侵略する。 ナポレオンは州の自治体制を
    廃止して、新しい中央政府を樹立させ、スイスをヘルベチア共和国と名付けた。

    フランスが制定した新しいスイス憲法によって、諸侯は、権力を失った。 更に、それまで
    都市諸州を支配していた封建商人の権力も弱まった。 スイス人は、新憲法を支持したが、
    フランスによる占領には強く反対した。

    フランスによって樹立された中央政権的な政府は、民族も宗教も文化も州によって大いに
    異なるスイスの国情に合わず、すぐに混乱をきたした。

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    混乱をおさめるため、1803年にナポレオンは、各州の代表をパリに集めて、調停条約を
    結ばせ、憲法を改正させた。 この条約に基づいて、各州に自治権を認める連邦制が
    出来上がった。 連邦政府は、外交や軍事、通貨を定め、戦いと和平を司った。

    この時、新たに6州に自治権が与えられ、合計19州からなる連邦制が成立した。 また、
    条約は、市民は法の前で平等に取り扱われなくてはならないと規定した。 これによって、
    スイスの封建制度は、永久に終わりを告げたのである。

    このようにな改革を実現してくれたことへのお返しとして、スイスは、自国の兵士を
    フランス軍に提供することに同意した。 だが、1815年に、ナポレオンがヨーロッパ
    連合軍に敗北して統率力がなくなると、スイス新憲法は、たちまち効力を失った。

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    1790年、フランスの将軍、ナポレオン・ボナパルトが登場し、1804年に
    皇帝ナポレオン1世と称して各国の征服を始めた。 デンマークは、当初、
    中立を守ったが、1807年、フランスの敵国イギリスは、デンマーク艦隊が
    ナポレオンの手に渡るのを恐れて、引渡しを要求した。 デンマークが拒否すると、
    イギリス海軍は、コペンハーゲンを砲撃して、デンマーク艦隊を摂取した。

    国王フレゼレグ6世は、フランスと同盟を結んで、イギリス他各国と戦った。
    1814年、スウェーデンがイギリス側に立ち、ユトランド半島に侵入して
    デンマーク軍を敗北させた。 1815年、ベルギーのワーテルローでのナポレオンの
    敗北によって、戦乱は終わりを告げた。

    戦乱後のキール協定で、デンマークは、スウェーデンにノルウェーを割譲したが、
    元ノルウェー植民地のフェロー諸島、アイスランド、グリーンランドは、
    デンマーク領となった。 戦争で経済が破綻したデンマークは、大国の地位を
    失った。 国民の多くは、国王が判断を誤ったために敗戦の憂き目を見たと
    思ったが、ただちに王権を縮小しようとはしなかった。

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    しかし、デンマーク領ホルスタイン在住のドイツ系住民は、独自の憲法を
    要求した。 1830年代に国王は、この要求に応えてホルスタイン、
    シュレスウィッヒ、ユトランド諸島群がそれぞれ別個の議会を開くのを認めた。
    4つの議会は立法権は持たなかったが、それぞれの地域の地主階級が意見を
    表明することは出来た。

    1840年代までに、人々は教育改革と議会制民主主義を要求するようになった。
    1814年、無償の義務教育制度が確立された。 1848年に国王となったフレゼレグ
    7世は、翌年6月5日、国王の権限を大幅に放棄した。 同じ日、国王は、新憲法に
    署名した。 これによって、一般投票による二院制議会制度が確立した。
    この憲法がはまた集会、信仰、出版の自由を保証した。

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    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と
    共通する部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されて
    いたが、15世紀になると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)が
    ゆるい同盟を結び、連邦を形成した。

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    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で
    帝国との間に争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを
    統治していたハプスブルグ家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようと
    したが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック
    教会に属していたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決する
    ために、宗教を改革する運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が
    誕生した。 プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、
    幾度も宗教戦争が繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、
    国外から度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・
    ボナパルトの支配下に入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権
    国家を建設させ、スイス憲法を制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により
    承認された。 この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に
    中立を維持するという政策を認められたのである。 しかし、スイスは、
    ヨーロッパの出来事には全く関わらなかった訳ではない。 例えば、第一次、
    第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、医療を提供した。

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    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を
    見ても、多民族国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を
    認めている。 国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を
    与える事により、長年かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が
    発展した。 その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、
    スイスの銀行は世界最大の利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、
    スイス人の生活水準は、世界最高の部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ
    諸国との連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が
    交わされている。 だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄している
    という意味で、恐らく、スイスは世界の最も良いお手本であろう。

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    第三回分割後、ポーランドの軍人や政治家が多数フランスに移住した。
    フランスは、当時革命の最中であり、ポーランドの軍人たちは、フランスで
    戦闘部隊を結成して、祖国を解放しようと考えた。 これらの部隊は、
    フランス軍と協力して、オーストリアやプロイセンと戦った。

    1807年、プロイセンに勝ったフランス皇帝ナポレオンは、プロイセンに併合
    されていた元のポーランドの一部に、ワルシャワ大公国を創設した。 1812年、
    オーストリアに併合されていた領土の一部も、大公国領域に加えられた。

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    1815年、ナポレオンが没落すると、ワルシャワ大公国は解体された。
    その領土は、プロイセンとオーストリアに返還され、代わりに、ロシアの
    支配下に小さなポーランド王国が創設された。 ロシア皇帝がポーランド王を
    兼ね、王国は新憲法を制定して、産業と教育を振興させた。 しかし、
    ポーランド国民は、完全な独立を望んだ。

    1830年、反乱が起こると、ロシア皇帝は、ポーランド東部をロシア帝国に
    併合した。 ポーランドの憲法と国会は廃止され、経済はロシアに支配された。
    1860年代までに、ポーランド地域での行政と教育に使われる言語は、
    ポーランド語ではなく、ロシア語にされてしまった。 

    ポーランド西部での外国支配は、それ以上に厳しかった。 ドイツ人は、
    ポーランド西部に近代的な鉄道網の建設はしたものの、1870年代になると、
    プロイセンの首相になったビスマルクは、領内に存在するポーランド文化を
    抹殺しようとした。 カトリック系の学校は、閉鎖され、教会の活動は、
    制限された。 ポモルゼやシロンスクに住むポーランド人たちは、ドイツ語の
    使用を強制された。

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    ポーランド人たちは、自分たちの民族性を維持しようと懸命に努めた。
    ロシアの統治に対する激しい反乱は、多くのヨーロッパの指導者たちの間で
    同情を掻き立て、また、ポーランド人たちの愛国心を燃え立たせた。
    ポーランド人の作家、画家、音楽家たちは、消滅した祖国の栄光を讃え、
    ポーランドの民族的伝統を保存して、祖国の文化を活性化させた。

    20世紀初頭、ヨーロッパ諸国は、2つの強力な同盟を結んで、大陸の力の均衡を
    図った。 イギリスは、フランスやロシアと同盟して、ドイツ、オーストリア、
    トルコと対抗した。 ポーランド人の多くは、さまざまな新しい政党に入って、
    それぞれの支持の下に独立を達成しようとした。 政治家ロマン・ドゥモフスキの
    率いる民族民主党は、ロシアと連帯関係を結んだ。 ポーランド社会党と
    その指導者ヨゼフ・ピウスツキは、オーストリアと協力関係を結んだ。

    1914年夏、第一次世界大戦が勃発した。 ポーランドは、オーストリア、ドイツ、
    ロシア各国の軍隊の戦場となった。 敗北を重ねたロシアは、1918年3月、
    ドイツと講和条約を結んだ。 しかし、同じ年の9月、ドイツとオーストリアは
    降伏し、第一次世界大戦は終わった。

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    【七月革命二月革命から帝政へ】

    ナポレオンが追放されると、ブルボン朝のルイ18世が王位に就き、立憲君主国
    としてスタートした。 しかし、次のシャルル10世が議会を解散すると、1830年に
    七月革命が起こった。 オルレアン家のルイ・フィリップが王位に就くが、やがて
    中小の市民層が支持する共和派や、社会主義派が力を伸ばし、1848年に二月革命を
    起こした。

    ここに再び共和制が成立するが、1852年にナポレオン3世が帝位に就いた。 産業
    革命や鉄道建設を進め、スエズ運河の建設、パリの都市改造等にも着手した。
    外国にも、クリミア戦争への参加、インドネシアへの進出、メキシコ遠征等を
    進めるが、1871年にプロイセンとの戦いに敗れ、帝政は崩壊した。

    19世紀後半、フランスの文化はさまざまなジャンルで花開いた。 モネやセザンヌ、
    ルノアールらの画家が相次いで登場し、パリは芸術と流行の中心として発展した。
    それに合わせて、パリでは、万国博覧会が開かれ、世界の注目を集めた。

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    【2つの世界大戦】
    19世紀末から、ドイツとの緊張が高まった。 フランスは、ロシアやイギリスと
    手を結び、ドイツを中心とした三国同盟に対抗した。 1914年に第一次世界大戦が
    始まると、フランスは戦場となり、1918年までに140万人もの死者を出した。
    1939年に第二次世界対戦が始まると、ナチス・ドイツ軍は1940年にパリを占領
    した。

    これに対抗して、ド・ゴール将軍は、ロンドンに亡命政権を起こし、国内では
    レジスタンスによる抵抗運動が続けられた。 1944年にレジスタンスは反撃に
    転じ、パリを開放した。

    戦後は海外植民地で独立運動が高まった。 1954年にベトナムの独立を認めたが、
    アルジェリアでは1958年に反乱が起こった。 この危機に大統領に選ばれたド・
    ゴールは、アルジェリアの独立を国民投票で決め、フランスの工業化を進めると
    共に、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させる等、独自の路線を展開した。

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    経済成長期に北アフリカから多くの移民を受け入れたフランスでは、1980年代から
    移民を巡る問題が起こっている。 2005年には中東やアフリカ系移民による暴動が
    起こり、政府は非常事態宣言を出した。 移民対して開かれた国でいられるか、
    注目されている。

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    【百年戦争とユグノー戦争】
    1328年にカペー朝が絶えると、バロア朝が起こった。 これに対して、
    カペー朝の血を引くイギリス国王エドワード3世が、王位継承を主張して、
    1339年にフランスに攻め入った。 これが百年戦争の始まりである。 1429年、
    ジャンヌ・ダルクが現れてイギリスの支配下にあったオルレアンを解放。
    これに力を得たフランス軍は、1453年にイギリス軍を破り、百年戦争は終わりを
    告げた。

    15世紀末からフランスは、イタリアに何度か侵入し、領土を広げると共に、
    イタリアのルネッサンス文化を移入した。 一方、16世紀中頃、フランスには
    キリスト教プロテスタントのカルバン派(ユグノー)が広まり、カトリック教徒
    との間で国を二分するユグノー戦争(1562年~1598年)が起こった。 やがて、
    優勢となったアンリ・ド・ナバルが、カトリックに改宗しアンリ4世として
    ブルボン朝を開いた。

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    【絶対主義王政の確立とフランス革命】
    アンリ4世の後、ルイ13世とルイ14世の時代に、中央集権化が進み、絶対王政の
    最盛期を迎えた。 ルイ14世は、外国との貿易を進め(重商主義)、強力な
    常備軍を整え、フランスの国力を高めた。 18世紀後半には、教会や絶対王政を
    批判するボルテールや、法のあり方を論じたモンテスキューら啓蒙思想家が現れ、
    社会体制を批判した。

    ルイ16世の時代に、財政危機や凶作等から民衆の不満が高まり、1789年、王政が
    廃止され、共和制が成立した。 しかし、政局が安定しない中、1799年、
    ナポレオンがクーデターを起こし、1804年に皇帝となった。 ナポレオン1世は、
    強力な軍事力を元に、ヨーロッパ各地に遠征した。 しかし、1812年のモスクワ
    遠征に失敗したのを切っ掛けに、エルバ島に流された。 1815年には、再び軍を
    起こすが、イギリス軍に敗れて、セントヘレナ島へ流された。

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    貴族のグスタフ・エリクソン・バーサは、『ストックホルムの大虐殺』を免れ、
    軍隊を組織し、クリスチャン2世をスウェーデンから追い出した。 これにより、
    カルマン同盟は崩壊した。 1523年6月6日、グスタフは、スウェーデン国王に
    選出された。 スウェーデンでは、この日を建国記念日として、今も祝っている。

    グスタフは、君主制を強化し、軍隊も変えた。 それまでの軍隊はたいてい、
    戦争が起きると招集され、戦いが終われば家に帰された。 しかし、グスタフの
    軍隊は、戦争があろうとなかろうと、常に集団をなしていた。 ヨーロッパの
    キリスト教がカトリックとプロテスタントに分裂した時、グスタフはルター派
    というプロテスタントの一派を選んだ。 カトリック教会の財産と土地支配権は、
    国のものとなった。

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    それまで、スウェーデン国王は、貴族から選出されていた。 1544年、議会で
    法律が変えられ、国王の子孫が王位を継ぐことになり、グスタフの一族による
    バーサ王朝が1818年まで続いていた。 1600年代には、グスタフ2世アドルフを
    はじめとする王たちが、バルト海周辺の土地を征服し、スウェーデンをヨーロッパ
    屈指の強国にした。 しかし、1709年、スウェーデンは、ロシアに敗れた。
    その10年後、国王の権限の多くが議会に移された。

    1700年代、ヨーロッパの思想家たちは、人間は理性を用いることによって、知識と
    自由を探求するべきだと主張した。 この啓蒙思想と呼ばれる考え方を持つ人達の
    中には、植物学者のリンネウスや物理学者のアンデルス・セルシウス等の
    スウェーデン人もいた。 国王グスタフ3世は、芸術の黄金時代を支えた。 グスタフ
    3世は、議会から権力を奪い返したが、敵も多く、1792年に舞踏会で暗殺された。

    1805年、国王グスタフ4世は、フランスに対抗するヨーロッパ諸国の同盟に
    加わった。 当時、フランスを率いていたのは、ナポレオンと同盟を結んだ
    ロシア軍が、13世紀からスウェーデンの領土になっていたフィンランドの大部分を
    占領した。 この敗北の後、グスタフ4世は、王位を退くことを余儀なくされた。

    新国王カール13世には子供がいなかった。 スウェーデン議会は、フランス軍人
    ジャン=バティスト・ベルナドットを皇太子に選出した。 彼の率いるスウェーデン
    軍とその同盟軍は、1813年にナポレオンを破った。 和平調停の中でノルウェーは、
    スウェーデンの支配下に置かれることになり、スウェーデンとノルウェーの同君
    連合が1905年まで続いた。 ベルナッドは1818年、カール14世として即位した。

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    1812年にナポレオン軍がロシアに侵入した。 フランス軍を中核とした
    欧州諸国の兵士を合わせて約60万人の大軍団が目指したのは、ペテルブルグ
    ではなく、モスクワだった。 モスクワこそがロシアの心臓であるという
    ナポレオンの考えだったに違いない。 迎え撃つロシア軍は、数の上では、
    その半分にも満たなかった。

    モスクワ郊外のボロジノの野で両軍は激戦を展開したが、決着は付かず、
    ロシア軍の総司令官クトゥーゾフ将軍は、フィリ村(現在のモスクワの市域内)
    の農家での作戦会議で戦略的退却の道を選んだ。

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    9月1日に全ロシア軍が撤退し、ナポレオンはがモスクワに入ったのは、翌日の
    2日であった。 彼は、モスクワの西にあるポクロンナヤ・ガラーと呼ばれる
    場所で、開城の使節団が来るのを2時間ほど待ったが、慈悲を乞いに現れる者は
    居なかった。 27万5,000人居たと言われる当時のモスクワの住民のうち、
    残ったのは、1万人を超えなかった。 占領軍による略奪がすぐに始まった。

    その夜のうちにボヤが起きたが、大火になったのは、4日の未明の事である。
    6日に雨が降ったが、それでも火の勢いは衰えず、8日になってやっと鎮火した。
    モスクワの建物の3分の2が灰になった。 フランス軍は、血眼になって放火犯人を
    探したが、見つけることは出来なかった。

    火事のため、満足な住まいや食料が得られなくなったフランス軍は、たちまち
    困窮に陥った。 彼等がモスクワから退却を始めるのは、10月6日のことであった。
    その年は、格別に寒い冬が早く到来したのである。 フランス軍は、モスクワに
    放棄する直前に、腹いせにクレムリンの中の建物や、クレムリンから南東に
    4キロ程離れたシーモノフ修道院等を爆破して行った。

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    文豪トルストイの『戦争と平和』は、対ナポレオン戦争を描いた大河小説が
    あるが、その主人公の1人のナターシャは、貴族のロストフ伯爵家の娘である。
    若くて美しいナターシャは、アンドレ・ボルコンスキーに愛されるが、彼は
    戦死した後に、もう1人の主人公ピエール・ベズーホフと結ばれる。 ロストフ家
    の邸のモデルとなった建物は、クレムリンの西のポバルスカヤ通りに実在している。
    イワン雷帝の時代には、クレムリンでツァーリのコックとして働く人々がこの
    辺りに土地を与えられ、1つの村をなしていたのであるが、宮廷がペテルブルグに
    移ってからは、貴族達の広壮な屋敷が立ち並んでいたのである。

    ナポレオンを撃退したこの戦争は、特別に祖国戦争(ナチスドイツとの戦争は、
    大祖国戦争)と呼ばれ、ロシア人の国民意識を形成する上で大きな意味を持った。
    ナポレオン軍を撃退してヨーロッパの国々に赴き、その地の社会制度や人々の
    暮らしをその目で見た将校達は、ロシア社会の遅れに衝撃を受けたのである。
    やがて、それが民主化を目指すデカブリストの運動へと繋がって行くこととなる。

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