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    タグ:ドナウ川

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    モスクワからベオグラードまでは、約3時間半のフライト。 ベラルーシ、
    カルパチア山脈、パンノニア平原を越えて、いよいよ、セルビアの首都である
    ベオグラードに到着です。

    空路でドナウ川を越えると、ベオグラードの街が見えて来ます。ベオグラードは、
    セルビアの中でも、最北端に位置しており、すぐ隣りには、ハンガリー系住民が
    多いヴォイヴォディナ自治州が広がっています。 ニコラ・テルサ空港も、
    そのヴォイヴォディナのすぐそばにあるため、コソヴォのみならず、
    ヴォイヴォディナまでもが独立宣言をすると、セルビアはますます窮地に
    立たされます。

    【モスクワ ⇒ ベオグラード】
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    ベオグラードの町の中心部を流れているのは、サヴァ川で、ドナウ川の支流。
    旧ユーゴ内では、泥沼の内戦後に、各民族ごとに完全に住み分けが進められて
    おり、他の民族の領地に入ると、雰囲気が一変するため、一目で分かります。

    セルビアは、東方正教の国で、文字はロシアと同じキリル文字を使っていましたが、
    近年、ローマ字への完全移行を行っているため、古い看板はキリル文字、新しい
    看板は、全てローマ字で書かれていました。

    アメリカを中心とするNATO軍に空爆された跡が生々しいベオグラード中心部は、
    表面的には、かなり復興が進み、街も明るくなりましたが、前回ベオグラードに
    来たのは、1997年のため、内戦終了間際。 ベオグラードが空爆されたのは
    1999年で、その命令を下したのは、元アメリカ大統領のビル・クリントン。

    【ベオグラード】
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    旧ユーゴの内戦終了から20数年程度既に経過していますが、今でも、その残骸が
    まま残されています。 やった方はすっかりと忘れ去っているのに、やられた方は
    いつまでも覚えているとは、正にこのこと。 数年前のトランプの大統領選の際に、
    クリントンが出馬していましたが、クリントン夫婦は、2人揃って世界各地で殺戮を
    繰り返している人間のクズです。

    数ヶ月前に閉鎖された旧ベオグラード中央駅は、一応中には入れるが、両替屋以外、
    特に何もありません。 但し、空港行きのバスは、今でもここから出ているため、
    閉鎖の意味が分かりません。

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    ドイツに人が定住するようになったのは、今から約65万年前のことであると
    考えられている。 だが、これら初期の人々については、殆んど何も分かって
    いない。 約10万年前になると、狩猟生活をしていたノルマン系の人々が、
    中央ヨーロッパ北部の森林や川の流域に移り住んだ。 現代になってその骨格は、
    デュッセルドルフ近郊のネアンデルタル谷で発見され、発見場所に因んで
    ネアンデルタール人と名付けられた。

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    紀元前400年までには、ケルト人が現在のドイツ南部と西部を含む中央ヨーロッパに
    住み着いて行った。 ケルト人は、農業を営み、家畜を飼い、農耕や戦闘用の
    鉄器を作り、また、鉱石から金、銀、銅を精製していた。

    【チュートン人】
    紀元前100年頃には、北ヨーロッパのチュートン人が、ケルト人を圧迫しながら
    ドイツに移住して行った。 同じ頃、イタリア半島を拠点としながら、勢力を
    伸ばしていたローマ帝国の軍隊が、ライン川西岸のケルト人を征服した。 この
    ライン川は後に、ローマ帝国の属州ガリア(現在のフランス)と、ゲルマニア
    (ローマ人はライン川東岸にあるチュートン人の領土をこう呼んだ)との境を
    成す事になる。

    ゲルマニアの森林が深いため、ローマ人はチュートン人の農地や村落を征服する
    事が出来ないので、ライン川とドナウ川との間に要塞を築き、チュートン人が
    ガリアやイタリアに侵入するのを防いだ。

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    しかし、紀元前4世紀までに、ローマ帝国はチュートン人の攻撃によって次第に
    衰退し、395年、帝国は東西に分断された。 これを機にゴート族やフラン族等の
    ゲルマン民族は攻撃を仕掛け410年、ゴート族はイタリアに進撃を仕掛し、首都の
    ローマを焼き払った。 ローマ皇帝は軍事力強化のため、ローマ軍にゲルマン兵を
    雇い入れ、ゲルマン人の指揮官の下で働かせた。 しかし、このような指揮官の
    ひとりであったオドアケルが、467年ローマに反逆し、首都を攻撃すると共に、
    皇帝を廃して、自らイタリアの支配者となった。 こうして西ローマ帝国は崩壊し、
    フランク族等のゲルマン民族がライン川を渡って、ガリアにあるローマ領を占領する
    ようになる。

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    過去のある時期、ブルガリアの人々はとるこの支配を逃れて、山間の僻地で
    暮らしていた。 1878年に一部の地域が独立を回復すると、渓谷や低地の
    住民たちは、更に肥沃な土地を求めて移動し、人口は増加した。 第二次
    世界大戦後、各都市に新しい工業が出来、都市部の人口は増加した。

    1990年代初期には人口阿900万人を超え、68%は都市に住むようになった。
    人口110万人の首都ソフィアは、西武の高い山岳地帯にある。 交通の要衝
    として重要な位置を占め、西には隣国セルビア、北にはドナウ台地、東は
    トラキア平野に通じる街道がここから出発する。 この都市には、繊維、
    薬品、機械、靴、衣類、車両などの工場がある。

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    ソフィアは、ブルガリアの文化の中心地でもあり、大学、技術専門学校、
    博物館、オペラハウスなどがある。 イスラム教の寺院とユダヤ教の協会堂が
    あり、それぞれの教徒の集会に使われている。 古代のキリスト教の教会も
    数多く復元されている。 ソフィア市立庭園には噴水、並木、芝生などがあって、
    市民たちの憩いの場となっている。

    古代のトラキア人が、現在のソフィアの地に定住したのは、紀元前1000年である。
    紀元前29年にローマ人がこのトラキア人定住地を占領して、セルディカと名付けた。
    ブルガール人がこの地域に到達したのは、紀元前809年で、その後オスマン・
    トルコ帝国の支配下に入った。 14世紀になって、地元の教会の名を取って、
    ソフィアと名付けられた。 1897年に首府となった後は、第二次世界大戦中に
    激しい爆撃を受けたが、戦後に復興された。

    第二の都市であるプロブディフは、人口35万人で、マリツァ川のほとりにある
    重要な商業都市である。 古代ギリシャ人はここに、エウモルピアスという
    都市を建設した。 紀元前341年にマケドニア人がこの都市を征服し、その後
    この都市は、ローマの1州であったトラキアの首府となった。

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    プロブディフは食品加工業が盛んで、米、果実、タバコ、ワインなどの包装と
    梱包が行われている。 他には、靴や繊維、金属製品などが製造されている。
    この町では毎年1回見本市が開かれて、ブルガリアの工業製品が多く展示される。
    観光名所としては、全体が大理石でつくられた古代の劇場がある。 また、
    この都市から遠くないところに、13世紀につくられた威圧的な要塞がある。

    人口30万人のヴァルナは、黒海沿岸の主要港だが、ここも古代ギリシャ人の
    建設した都市で、当時はオデッソスと呼ばれた。 現代のヴァルナには繊維、
    家具、陶器、ディーゼル・エンジンなどの製造工場があり、また、軍事基地と
    海員学校もある。

    南部にある人口14万5,000のブルガスは、幅が広くて奥行きも深いブルがス湾に
    面していて、港の近くには、魚肉缶詰工場や精油工場、巨大な化学工場がある。

    ブルガリア政府は、ブルガス近くの沿岸沿いに近代的なリゾート地をいくつか
    建設して、観光客の誘致をはかっている。

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    9世紀の終わりに、中央アジアからマジャール人が、大挙してヨーロッパに侵入
    して来た。 マジャール人は、906年にブラチスラバでスラブ人を破り、
    大モラビア帝国を滅亡された。 戦いの後、現代のハンガリー人の先祖である
    マジャール人は、スロバキアの都市や街を占領した。 一方、ボヘミアと
    モラビアは、ドイツの諸侯と同盟を結んだ。

    スロバキアの支配者となったハンガリー人は、村や都市を占領し、南の平原の
    彼方から指令を発して支配した。 スロバキアは今や、ハンガリー王国に属し、
    スロバキアの鉱山収入の権利はハンガリーに奪われた。

    大部分のスロバキア人は、法的に自由のない労働者、すなわち、農奴となった。
    マジャール王は、スロバキア人の奴隷を所有財産とみなし、貿易と鉱業で王や
    貴族は富を蓄えた。

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    1217年に、ハンガリー人支配者は、ブラチスラバをハンガリー王家から独立した
    都市として認める勅令を出した。 ドナウ川の通交税でブラチスラバは潤い、最も
    豊かな商業の中心地となった。 しかし、1241年にドナウ川流域は、東アジアから
    来たモンゴル遊牧民族の残忍な侵入に悩まされた。 モンゴル人は、中央
    ヨーロッパの街を焼き払い、略奪の限りをつくし、翌年撤退した。

    モンゴル人侵略の後、ハンガリー人は東から最侵入を防ぐ決心をした。 多くの
    地主は、中央スロバキアの川に沿った平野に要塞を建設した。 東スロバキアの
    人口のまばらな平野の守りを固めるため、ハンガリー王は、北ドイツから
    サクソン人を招いて、この地方に新しく建設した街に定住するよう求めた。
    国王は、コシツェに王発令の営業許可を与えた。 同時に24の新しい街と
    鉱山の街にも認可を授けた。 この許可のお陰で、鉱業と手工業から利益を上げる
    商人や、手工業者、貿易商などの豊かな階層の人たちが生まれた。

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    ドナウ川沿いの交易は、スロバキアにも、中央ヨーロッパ諸国にも大きな
    利益をもたらした。 ボヘミア王国オタカール2世は、兵力をスロバキアに進め、
    領土を地中海の内科医であるアドリア海まで広げた。 しかし、1278年、
    オタカールは、隣国オーストリア公国の統治者であるハプスブルグ家の
    ルドルフと戦って死んだ。 戦いの後、ハンガリーは、ブラチスラバと
    西スロバキアの支配権を取り戻した。

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    少なくとも2500年に渡って、スロバキアには人類が住んでいた。 最も古い
    定住者が確認されているのは、ドナウ川流域での低地帯である。 そこでは、
    前史時代にわずかな穀物を栽培していた。 考古学者は、カルパート山脈の
    洞窟にも人間が居た形跡を発見している。

    紀元前500年頃、遊牧民のケルト人がヨーロッパの北と東からスロバキアへ移り
    住んで来た。 ボイイと呼ばれるケルト人グループが、現在のブラチスラヴァの地に
    要塞の町を築いた。 北のバルト海と南の地中海を結ぶ琥珀交易の道が、この地で
    ドナウ川を横切っていた。 戦略上、金属細工、武器や土器の取引を盛んに行った。
    ボイイは、スロバキアかやボヘミア、モラヴィアに定住した後、チュートン人の
    大規模な侵略に悩まされた。

    現在のドイツ人の先祖であるチュートン人は、ドナウ川上流の山脈や森から
    やって来た。 チュートン人の一族、マルコマーニは、紀元前12世紀にボイイを
    破り、スロバキアにあったケルト人の町を次々と侵略した。 その間にフランク人や
    他のチュートン人が、ドナウ川流域の平野の入って来た。 川に沿って砦を築いた
    フランク人は、南ヨーロッパを支配していた強力なローマ帝国軍の侵入に備えた。

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    【ローマ人とスラブ人】
    1世紀頃、ローマの軍団(陸上部隊)は、ドナウ川の南岸に到達した。 しかし、
    チュートン人を征服する事が出来ず、ローマ人は帝国の北方全線の要塞として、
    川に沿っていくつかの砦を築いた。 しかし、ローマ帝国は、イタリア半島の南に
    ある首都ローマから統治するには、版図を広げ過ぎた。 4世紀になると、ローマ
    帝国は、ローマを首都とする西と、コンスタンティノープルを首都とする東の帝国に
    分裂した。 両帝国共キリスト教を公認の宗教としていた。

    ドナウ川流域の要塞は、ローマの守備のために作られたのだが、流域の平野沿いに
    東からの侵入者がたやすく入り込めた。 4世紀にフン族が、中央アジアの平野から
    中央ヨーロッパに押し寄せた。 アッチラの指揮の下、フン族はローマ人をドナウ
    平野から追い出した。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、アジア系の
    アヴァール人がスロバキア、ボヘミア、モラヴィアを征服した。 6世紀には、
    何千というスラブ人がやって来たスラブ人は、カルパート山脈の狭い峠を通って
    スロバキアの平野になだれ込んだ。 彼らはアヴァール人と戦って、オクルフリチェ
    という小さな円形の村を作った。

    スラブ人は東、西、南の民族集団に分かれた。 ボヘミアとモラヴィアに定住
    していたチェコ人と、北方に定住したポーランド人、そして、スロバキア人は、
    皆西スラブ人である。

    623年に3集団は団結して、アヴァール人を中央ヨーロッパから追い出した。
    スラブ人のリーダー達は、武器売り込み承認のドイツ人サモをリーダーに招いた。
    アヴァール人を破ってからサモとスラブ人達は、フランク人の侵略を受けていたが、
    637年のヴァガティスブルグの戦いでフランク人に勝った。

    勝利の後、サモは、スロバキアのドナウ川低地にスラブ人のサモ王国を建国し、
    支配することが許された。 しかし、658年にサモが死ぬと、国はすぐに崩壊した。
    その後2世紀に渡ってスロバキアは広い範囲に渡って荒廃し、政治的な混乱が続いた。
    各地で衝突が起こり、スラブ人の農地や町は荒れ、やがて姿を消した。 強力な
    中央政府がないため、スラブ人領主は自分達の小さな領地を独自に治め、領地拡大の
    ために戦った。

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    スロバキアには、大都市がなく、ヨーロッパでも最も、地方を主体とした国である。
    人口537万人の57%が都市に住んでいる。 これは、ほかのヨーロッパ諸国に比べて
    低い割合だが、主に戦後の工業化の結果、都市部の人口は、着実に増え続けている。

    スロバキアの首都であるブラチスラヴァ(人口約45万人)は、ドナウ川に面し、
    オーストリアとハンガリーと、真近に国境を接している。 市の一部には、先史
    時代から人間が住み、やがて古代ケルト人が定住した。 紀元後5世紀に
    ブラチスラフ(市の名は彼に由来)という名のリーダーに率いられたスラブ人の
    一団が、その地に定住した。

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    ハンガリーに支配された時代は、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれていた。
    1500年代には、ハンガリー議会の所在地になった。 文化、教育、政治全般の
    中心をなしていたブラチスラヴァは、スロバキア人、ハンガリー人、ロマニ
    (ジプシー)、ドイツ人が集まった。

    市の最も有名な場所は、城である。 はじめは9世紀初期に、ドナウ川に面した
    要塞として建設されたが、その後、3回火災にあっている。 現在の城は、
    1953年に再建されたものである。 もうひとつの名所は、代々のハンガリー国王が
    戴冠した聖マーティン大聖堂である。

    全スロバキアの10%の工業製品は、ブラチスラヴァで作られる。 重要な産業は、
    化学工業だが、織物、石油精製、食品工業も主産業である。 多数の貨物船や
    貨客船が出入りする港から製品を輸送する。

    コシツェ(人口23万人)は、東スロバキアの主な都市である。 市は13世紀に
    ドイツ人の定住者によって建てられ、後に重要な文化の中心となった。 第二次
    世界大戦後、巨大な製鉄所が市の付近に建設され、コシツェは工業の中枢となった。
    しかし、工場は周辺地域を広く汚染する原因にもなった。

    バンスカ・ビストリッツァ(人口10万人)は、中部スロバキアのホロン川に面し、
    700年前に金や貴金属が発見されてから急速に発展した。 ドイツ人の鉱山労働者が
    この町に群れをなし、ヨーロッパでも最も豊かな街となった。 しかし、鉱山は既に
    長いこと堀り尽くされ、街は鉱山に代わって、観光業で収入を得ようとしている。

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    962年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。
    この新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国
    (公爵の領地)などの領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の
    中で、7人が選挙候と呼ばれる地位を持ち、選挙候が皇帝を選ぶ仕組み
    であった。 976年、オットー1世の後継者であるオットー2世は、
    バーベンベルク家のレオポルドをオーストリア辺境伯(比較的地位の低い君主)
    に任命した。 オーストリアのバーベンベルク王朝の始まりである。

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    バーベンベルク王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに
    入植して、村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと
    東のマジャール人の土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が
    新たに整備されて近隣諸国との交易が拡大された。 オーストリアは、
    神聖ローマ帝国内の一領邦ではあったが、実質的には、独立国の要素が
    大きかった。

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    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、
    バーベンベルク家は皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、
    オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世ヤソミルゴットの地位を公爵に
    引き上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、初めて
    ウィーンに定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で
    繁栄を続けた。

    バーベンベルク家の君主達はまた、十字軍の後援者でもあった。 十字軍の
    戦士達は、イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かう
    ことが多かったため、オーストリアの経済的重要性が大きくなった。
    リンツやクレムスなど川沿いの都市がこの時期に誕生した。 1192年、
    隣国シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま死ぬと、
    バーベンベルク家は、事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

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    オーストリアの首都ウィーンは、スロヴァキアとの国境から、およそ64.4kmの
    ドナウ川南岸にある。 人口は、約160万人で、国の総人口のおよそ5分の1
    となっている。 市内や郊外に数多くある宮殿や歴史的な建造物は、かつて
    権力の中枢だったこの都市の重要性を良く示している。

    ウィーンは、ヨーロッパ中部の重要な交易ルート沿いに位置する。 およそ
    2000年前、ケルト人達は、ここに最初の定住地を建設した。 紀元前15年に、
    ローマから来た兵士達は、そのケルトの町の跡に、ウィンドボナという名の
    要塞を築いた。 ウィーンは、13世紀以来、政治の中心であり、文化と産業の
    中心でもある。

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    市街の最も古い部分は、リング(輪)と呼べれる大通りに囲まれている。
    リングの1.6km外側には、ギュルテル(帯)という第二の環状道路があって、
    比較的新しいアパートやオフィスビルが、ギュルテル沿いに建っている。

    ウィーンの主な建造物は、第二次世界大戦中の爆撃で損害を被ったが、市民達は、
    せっせとそれを再建した。 15世紀に建てられた聖シュテファン寺院は、今でも
    街の中心にそびえている。 国立オペラ劇場は、1800年代にリング沿いに建て
    られた厳しい建造物の1つである。 かつてオーストリアの君主達が暮らしていた
    ホーフブルグとシェーンブルンの両宮殿は、今では歴史と美術に関係のある、
    様々な文化財を展示するために使われている。

    この国第一の工業都市であるウィーンは、機械、薬品、繊維、電気製品、食品、
    各種手芸品等が生産されている。 ウィーン大学の他、美術、音楽の大学も
    ここにはある。 国家間の協議や平和会議もしばしばここで開かれた。 国連の
    機関のいくつもがウィーンに置かれている。

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    【その他の都市】
    シュタイヤーマルク州の州都であるグラーツは、人口25万人で、かつてここには
    大きな要塞があり、トルコ軍の攻撃から何度か、ウィーンとハプスブルグ帝国を
    防衛した。 現在のグラーツは、工業都市で、薬品、鉄鋼、自動車等の工場がある。
    近くの鉱山からは、鉄鉱と石炭が採掘される。

    ドナウ川沿いの都市リンツは、人口20万人で、古代のローマの時代から河港として
    交易の中心だった。 リンツは、ヨーロッパの北部と西部諸国を、東部と南部諸国に
    結び付ける重要拠点だった時期もある。 1832年、リンツと現在のチェコ領との間に
    オーストリア最初の鉄道が開通した。 現在、この都市には、大型機械、薬品、
    鉄鋼を生産する大工業コンビナートがある。

    人口13万8,000人の都市ザルツブルグは、付近でザルツ(岩塩)が採掘されること
    から付けられた地名となっている。 ドイツとの国境に近いザルツァッハ河畔の
    この都市は、18世紀の大作曲家モーツアルトの生まれ故郷で、毎年夏に開かれる
    モーツアルト音楽祭には、世界中から大勢の音楽愛好家達が集まる。 旧市街には、
    大きな要塞や教会等の歴史的建造物が多い。

    人口11万6,000人のインスブルックは、チロル州の首府で、13世紀に建設され、
    北ヨーロッパとイタリアとを結ぶ交易の重要な拠点として成長した。 ここでは、
    1964年と1976年の2回、冬季オリンピックが開催され、その際に建設された
    スポーツ施設には、今でも冬季スポーツの愛好家達が多数訪れる。

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパ中央にある内陸の山岳国家で、人口は
    約800万人。 かつては、多数の民族から成る巨大な帝国の一部だったが、
    現在は、9つの小さな州から成り立ち、国民の大部分がドイツ語を話す。

    オーストリアの歴史は、ヨーロッパの交易の民族移動の十字路として始まった。
    国の北部を流れるドナウ川は、ヨーロッパの西、北、東の3つの部分を繋いでいる。
    ドナウ渓谷に最も早く定着したのは、東から来たケルト民族と、南のイタリア
    半島から来たローマ人であった。

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    1200年代、ルドルフがこの地にハプスブルグ王朝を創設した。 この王朝は、
    その後600年以上に渡り、オーストリアを含むヨーロッパ各地を統治した。
    16世紀から17世紀に掛けての絶頂期には、ヨーロッパの半分近くがハプスブルグ
    帝国の領域であった。

    1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアは、隣国であるドイツに
    味方して、セルビア、ロシア、イタリア、イギリス、日本、アメリカ等と戦った。
    4年間の戦闘の末、オーストリアとドイツは敗北し、ハプスブルグ王朝は崩壊した。
    1918年、帝国内の非ドイツ系民族はそれぞれ独立して別個の国家となり、ドイツ系
    民族は、オーストリア共和国を創った。

    hapsburg

    1929年の世界大恐慌はオーストリアの経済にも深刻な打撃を与えた。 国力の
    衰えていたオーストリアは、1938年に、ドイツのヒトラー政権によって併合を
    食い止めることが出来なかった。 1939年に第二次世界大戦が勃発した時、
    オーストリアは、ドイツの一部として、日本、イタリアと共に、枢軸国側に立ち、
    イギリス、フランス、ソビエト、アメリカ等の連合国側と戦った。 連合国側に
    よる広範な爆撃と地上攻撃の結果、ドイツは1945年に降伏し、オーストリアは
    独立を回復した。

    戦後のオーストリアは、外国の援助を受けて、1955年までに順調な経済成長を
    遂げ、安定した政府を持つに至った。 過去の歴史を反省したオーストリアの
    指導者達は、将来、世界にどのような扮装が生じようとも、一切関与しないと
    宣言した。

    現在のオーストリア国民の生活水準は高く、健康保険と社会保証は、労働者全体に
    行き渡り、失業率は低い。 国内の主要政党は、協力して国家の方針を定めており、
    東西両ヨーロッパとの貿易額は増加を続けている。

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    スウェーデンの地に最初に人がやって来たのは、およそ1万年前、最後の氷期の
    終わり頃だった。 彼らは、トナカイを狩り、果物や木の実を採ってあちこちに
    移動していた。 氷が溶けて来ると、人々は小舟に乗って、湖や川を通り、更に
    北へと移動した。 考古学者たちは、彼らの使った火打ち石、弓矢、魚を捕る
    ための槍などを発掘している。

    紀元前約4,000年頃から、スウェーデン南部では、人々が定住し、農耕を始める
    ようになった。 彼らは、穀物を栽培し、牛を飼った。 死者を埋葬する塚を作り、
    岩に彫刻や絵を施した。 紀元前約1,500年には、南部の人達は、小舟でバルト海を
    渡り、更にドナウ川に沿ってヨーロッパ本土まで入ったりして、交易をするように
    なった。 こうして船による旅の中で、商人達は、青銅の作り方を身に付けた。
    一方、北部では、その間も変わらず、人々は狩猟と採集の暮らしをしていた。

    swedenmapcard

    西暦1世紀に、スウェーデン人は、ローマ帝国との交易を行っていた。 ローマの
    作家タキトゥスは、西暦98年に表した著書『ゲルマニア』の中で、スウェーデン人
    について記し、彼らを『スイオーネス』と呼んでいる。 タキトゥスによれば、
    彼らは、たくましい男達で、船団を組み、強力な武器を持っていた。 これが
    スウェーデン人について書かれた最古の文献である。

    elderrune

    西暦500年頃、好戦的なスベア人がスウェーデン南東部で勢力を持つように
    なった。 スベア人は、彼らの王が死ぬと、その遺体を現在のストックホルムの
    北にあるウプサラに埋葬した。 ウプサラには王宮があり、スベア人が信仰する
    オーディン、フレイ、トールという神々を祀る神殿もあった。 スウェーデンの
    人々は、自分達の国をスベリエと呼ぶ。 これは、『スベアの地』という意味。

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    先史時代、現在のオーストリアとなっている地域の渓谷は、氷河で覆われていた。
    紀元前1万年頃、この氷河は溶けて、北へ後退した。 気候の温暖化につれて、
    穴居している先史人類達は、森林や渓谷で狩猟や耕作を始めた。 そのうちに、
    人々は、この地域の岩塩を採掘したり、金属の器具や武器を作るようになった。

    その結果、紀元前3000年頃には、この地域は、ヨーロッパ交易の中心になって
    いた。 紀元前800年頃、ザルツカンマーグート地域のハルシュタット付近に
    重要な交易の中心地が出来、熟練した工人達が作った鉄や青銅の剣は、ヨーロッパ
    西部や北部に輸出された。

    Austriaromana

    紀元前450年頃から、ケルト人と呼ばれる熟練した騎馬戦士達が、東からヨーロッパ
    東部を横断してドナウ川の南岸に侵入し、ノリクム王国を建てた。 ケルトの
    工人達は、鉄、銅、青銅を使って武器や日常用具を作った。 岩塩と鉄鉱石の
    管理で、強力で安定した王国となったノリクムは、数世紀に渡って繁栄した。

    ケルト人の土地の北には、今のドイツ人の先祖であるゲルマン人達が住んでいた。
    ゲルマン人は、ノリクムの鉱山や定住地を度々攻撃し、遂には、ノリクム王国を
    通過して、王国の南にあるローマ人の都市を度々攻撃した。 ローマ人は、
    イタリア半島を根拠地とする民族だが、紀元前1世紀には、地中海沿岸の殆どを
    征服して大帝国を築きつつあった。 ローマ人達は、ゲルマン人の攻撃を阻止
    するために、ノリクムに侵入し、紀元前15年頃、ケルト人達を征服して、ドナウ川
    沿いに新しく要塞を築き始めた。

    06024011652

    ローマ帝国は、この地域に3個の州を作った。 アルプス山脈ラエティア、
    オーストリア中部のノリクム、そして、ノリクムの東でドナウ川の南岸を
    占めるパンノニアである。 この地域のローマ諸州では、安定した軍制の下で、
    200年に渡って平和が続き、往来の激しい交易ルートに沿って、新しい都市が
    次々に建設された。 商人達は、帝国の他の地域に岩塩、金属、羊毛、家畜を
    輸出した。 ローマ人達は、ウィンドボナ(後のウィーン)とその東の
    カルヌントゥムに城壁に囲まれた都市を建設した。

    しかし、西暦2世紀の後期になると、繁栄していたノリクムの諸都市は、ローマの
    国境外に住む好戦的な諸民族の攻撃に再びさらされることになった。 ドナウ川
    越しの攻撃は、4世紀一杯続いた。 その間に、帝国の指導者層が分裂して、
    国境沿いの諸州への支配力が弱まった。 こうして、この地域での交易は、次第に
    衰えた。

    400年代になると、ローマの軍隊は、北部の諸州から撤退した。 すると、
    東からは、スラヴ人が、北からは、ゲルマン人が、ローマの諸州を次々と攻撃
    した。 5世紀末には、ローマはすっかり衰退し、アジアから来たフン族の大軍が、
    アッティラという名の王に率いられて、ヨーロッパ中部を制圧した。 農地や
    交易ルートをめぐる争いも、しばしば戦争の原因となった。 ゲルマン人達は、
    パンノニアに定住した。 北東からはチェコ人達がドナウ渓谷に進出し、また、
    西から移動して来たアレマニ人は、オーストリア西部の山岳地帯にいくつも
    村落を作った。

    キリスト教は、1世紀初めに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて
    成立した宗教である。 代々のローマ皇帝達は、この宗教を敵視し、厳しい
    禁止令を設けて信者達を迫害したが、伝道者達のたゆみない努力でキリスト教は、
    帝国領地内の人々の間に着実に広まり、4世紀末には、帝国の国教として公認
    された。

    ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる中で、キリスト教は、一層の
    広がりを見せ、8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としての
    カトリック教会が成立した。 この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣の
    バイエルンからで、人々は、両地域の境のザルツブルグに教会を建立した。
    798年、ザルツブルグは、独立の大司教管区として定められた。

    corton-charlemagne

    この頃、ゲルマン人の一派フランク族の皇帝でフランスに君臨していた
    シャルルマーニュは、領土を東に広げて、788年、この地域を征服し、ここを
    『オスト・マルク(東の防衛戦)』と名付けた。 東からスラヴ人や
    アヴァール人等への牽制の意味を持つ名称で、後に『エスターライヒ
    (東の王国)』と変えられ、オーストリアの正式な国名となった。

    814年にシャルルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって
    争った。 817年、オーストリアは、シャルルルマーニュの孫のルートヴィッヒの
    支配するバイエルン王国の一部となった。 843年にヴェルダン条約が締結
    されて相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、東ランク王国を創設した。
    これは、現在のオーストリアとドイツを殆ど含む広大な領域となっている。

    878年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
    9世紀末、アジア系の遊牧の民、マジャール人は、ドナウ川か沿いに、スラヴ人と
    アヴァール人は、東と南から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や
    農場を破壊した。 955年、ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いで
    マジャール人を破り、オーストリアを独立の領邦、つまり、小国家と定めた。

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