カジミェシュ3世が跡継ぎのないまま1370年に死ぬと、甥のハンガリー王
ラヨシュがポーランド王を兼ねた。 ラヨシュの娘ヤドヴィガが1382年に
ポーランドの女王となり、4年後、リトアニア公ヨガイラと結婚した。
ドイツ騎士団との戦いでリトアニアの援助を必要としていたポーランドの
貴族達は、ヨガイラを1386年ポーランド国王に選び、彼はヴワディスワフ2世
ヤギェウォと称した。 ポーランドとリトアニアはまだ別個の政府を持ち
ながらも、同じヤギェウォ王家の支配を受けることになった。
こうして大きな勢力を持つようになったポーランドは、リトアニアと連合し、
1410年、その連合軍はタンネンベルグの戦いでドイツ騎士団を打ち破った。
ヴワディスワフ2世の後継者のカジミェシュ4世も、その後何度かドイツ騎士団を
破ったので、ついに騎士団はトルニの和議を結んで、プロイセンをポーランドに
割譲した。
トルニの和議の成立後、ポーランドは、中ヨーロッパ最強の国となり、経済と
文化の面でも大きく発展した。 新しい大学が出来、学者達は、それまで
ヨーロッパの宗教と学問で伝統的だったラテン語の代わりに、ポーランド語を
使い始めた。 1520年頃、最初のポーランド語の書籍が印刷された。 ラテン名の
コペルニクスで知られる天文学者ミコワイ・コペルニクは近代天文学の基礎を
築いた。
これら変化の進行中、キリスト教信仰は混乱状態に陥っていた。 ドイツでは
マルティン・ルターの教えで宗教改革が始まり、カトリック教会に対する反乱が
起こった。 教皇の権威を認めないプロテスタントの教会が、スウェーデンを
含むヨーロッパ北部の幾つかの国で作られた。 ポーランドはカトリック国家の
ままだったが、他の宗教にも自由な崇拝を認めた。 ポーランドは、ユダヤ人
共同体は世界最大規模のひとつとなった。
【ポーランド国会】
カジミェシュ4世の統治時代、シュラフタと呼ばれる、軍人と地主を中心と
する階級が勢いを増し、土地や農民を支配し始めた。 農民達には高い租税が
課せられ、多くは農奴に転落して、地主の土地に縛り付けられた。 1493年、
上流階級だけの国会が出来た。 国会は、裕福な貴族で構成される上院と、
地主で構成されるセイム、つまり下院から成っていた。 1505年、国会は最初の
憲法を制定した。
憲法には、ポーランド王は国会の同意がなければ、いかなる法律も成立させる
ことが出来ないと明記されていた。 下院はまた、国王の即位を投票によって
承認する権限を与えられていた。
1569年、ポーランドとリトアニアは、ポーランドの主権の下に、正式に
合併された。 この統合によって、ポーランド王国はドイツ人、ポーランド人、
リトアニア人、ウクライナ人を治める巨大な領土を支配することになった。
ヤギェウォ王朝の最後の国王ジグムト2世は、この統合から間もない1572年に
死んだ。
【外国人君主のポーランド統治】
ジグムント2世の死後、貴族達はますます勢力を増して、国王を選挙する
権限を握った。 激しい王位争奪戦が起こり、それを鎮めるために、国会は
外国の王族や公族をポーランドの王位に就けた。 1575年、国会は
ハンガリーの公子ステファン・バトリを国王に選んだ。 バトリは優れた
軍指導者で、ロシア皇帝イワン4世の命を受けた侵略軍を打ち破った。
1586年、スウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサが、バトリに次いで国王と
なった。 これは、以後3代続いたスウェーデン系ポーランド国王の初代である。
これが原因でプロテスタント国家スウェーデンと、カトリック国家ポーランド
との間に宗教紛争が起きた。 スウェーデン軍は、1655年ポーランドに侵入して、
都市や農場を焼いたり略奪したりした。
侵略はやがて阻止されたが、戦乱と経済不況が続いた。 この前から、
ウクライナやロシアから、コサックという自由農民のグループが、ポーランド
領内に定住していた。 コサックは外部の権威を全く認めず、ポーランドの
統治に反感を持つ多くのウクライナ農民を仲間にした。 国家の権威が衰えるに
連れ、ロシア帝国はポーランド東部に侵略の手を伸ばして来た。
この頃、小アジアを根拠地とするオスマン・トルコが、コンスタンティノープルや
ヨーロッパ東南部の大きな部分を征服していた。 1683年、トルコ軍は
オーストリアの首府ウィーンを囲んだ。 その9年後にポーランド王となった
ヤン3世はソビエスキは、ポーランド軍を率いてトルコ軍を撃退した。 これに
よって、中ヨーロッパへのトルコの侵略は阻止された。
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