東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:ドイツ軍

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    第二次世界大戦の歴史を展示している『大祖国戦争博物館』は、ミンスクを
    中心としたベラルーシにおける戦争の歴史を分かりやすく展示した博物館で、
    ミンスクを理解するためには、是非訪れて欲しい観光スポット。

    この博物館では、武器や写真、ジオラマ等による展示が行われており、
    ベラルーシでは『大祖国戦争』と呼ばれている『第二次世界大戦』の歴史を
    伝えている。 当時ミンスク郊外には、アウシュビッツ等に次ぐ第3のナチスの
    収容所があり、20万人が虐殺されたとも言われている。 その収容所の様子を
    伝える展示もあり、他の国では見る機会が非常に少ない貴重な戦争の博物館で
    あるため、改めて平和について考えさせられるミンスクのおすすめ観光スポット。

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    ロシア語では、『第二次世界大戦』のことを『大祖国戦争』と呼ぶが、それは、
    対独戦で100万人以上にも及ぶ多大な戦死者を出したためこう呼ばれている。
    ミンスクの街は、ドイツ軍によって徹底的に破壊され、その後、社会主義経済に
    則り、復興されたため、ミンスク市内は旧ソ連式の大規模な建物が多い。

    戦争とは、幾ら語り継いだとしても、正確には伝わらないため、このような
    目で見て直接確かめることが出来る展示型の博物館が最も効果的。 米軍により
    爆撃を受けた仙台にも『戦災復興記念館』なるものがあるが、館内の展示品が
    少ないため、余り実際の戦争を想像出来ないのだが、この巨大な戦争博物館では、
    様々な展示品を用いて、かなり忠実に戦争を再現している。

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    大祖国戦争博物館は、地下鉄の駅からは若干離れており、全ての展示を見て周る
    ためには、半日程度は必要。 但し、この日は、列車が出るまでの時間が少なかった
    たため、45分程度の駆け足での見学となってしまったが、もっとゆっくりと時間を
    翔けて、色々な事を考えながら見たい設備であった。

    案内に展示していある展示物は、実際に戦争で使用された物も多く、非常に
    生々しく、蝋人形を交えて、更に細かく説明をしているため、非常に分かりやすい
    設備であった。

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    その後、ミンスク駅の1番線の一番奥にある21番線からビリニュス行きの電車に
    乗り、リトアニアの首都であるヴィリニュスへと旅立った。 ロシアから
    ベラルーシへ入国し、リトアニアへ抜ける場合、ベラルーシのビザが絶対に必要
    となる
    。 ビザをを所持していない場合、ここからリトアニアとの国境までは
    行けるものの、そこでビザがないことが判明すると、またミンスクまで強制的に
    連れ戻されるため要注意。

    べラルーシの国境が、実際のロシアとEUとの国境となるため、世界でも出入国
    審査が非常に厳しい場所となっている。 元々は、同じソビエト連邦という国
    だったのだが、体制が急激に変わったため、色々と面倒な手続きが増えた。

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    ペテルブルグの郊外には、皇帝の離宮がいくつもある。 代表的なものは
    ツァールスコエ・セロー(ソ連時代はプーシキン)、ペテルゴーフ(現在は
    ペトロドヴァレツ)である。 ツァールスコエ・セローは、ペテルブルグから
    南方約25kmのところにある。

    1725年、ピョートルの死後からツァーリの離宮が置かれた。 エリザヴェータ
    女帝時代、エカテリーナ2世時代に宮殿が整備された。 ピョートルの妃で、
    女帝となったエカテリーナ1世のために建てられた宮殿がエカテリーナ宮殿である。
    これがラストレッリによって拡張され、改築され、バロック様式の豪華絢爛たる
    宮殿になった。 1756年にラストレッリの改築は完成した。

    この宮殿の中で特に名高いのは、琥珀の間である。 1791年この宮殿の大広間で
    日本からの漂流民である大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、日本帰国を
    許されたのである。

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    1800年には、第2の宮殿アレクサンドル宮殿が完成した。 これはクワレンギの
    設計による古典主義的建築である。 エカテリーナ2世は、愛する孫の
    アレクサンドルを身近に置こうと、アレクサンドル(後の1世)のためにこの
    宮殿を建てたのである。 1811年エカテリーナ宮殿の右側に貴族男子の中高等
    学校、リツェイが開校した。 ここに学んだのが、詩人のプーシキンである。

    帝政最後の皇帝ニコライ2世は、妃アレクサンドラ・フォードロヴナが
    ペテルブルグを嫌ったために、首都にいる時には基本的にツァールスコエ・セロー
    のアレクサンドル宮殿で生活をした。 皇帝と皇后は、王女オリガ、タチヤーナ、
    マリヤ、アナスタシヤ、血友病の皇太子アレクセイと共に、この宮殿に立て
    こもっているがごとくであった。

    皇后が信頼する女官アンナ・ビルボーヴァは、ツァールスコエ・セローの街の中に
    家を借りて住み、皇后がラスプーチンと会う便宜を図った。 ラスプーチンは、
    皇太子が出血する際の痛みを止めるのに不思議な力を発揮し、皇后の絶大な信頼を
    得ていた。 皇太子の血友病は公式には全く秘密にされていたので、皇后、女官
    アンナとラスプーチンの関係は疑惑を持って見られるに至った。 二月革命後、
    皇帝の一家はこの宮殿に監禁される生活となった。 そして、シベリアに流刑に
    なったのである。

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    革命後、この街は、ジェツコエ・セローと改称されたが、1937年プーシキンの死後
    100年を記念して、プーシキンと改称された。 独ソ戦争の際、ドイツ軍は、この
    街を占領し、宮殿を完全に略奪した。 ドイツ軍が撤退した時、宮殿は壁だけが
    残っていたに過ぎない。 戦後の困難な状態の中で、完全復元の決定がなされ、
    途方もない努力によって、エカテリーナ宮殿は1959年に復元作業が終わり、公開
    された。

    ペトロドヴァレツは、ペテルブルグの西30kmのところにあって、フィンランド湾の
    南岸に位置している。 エルミタージュの脇の船着場水中翼船で30分、鉄道なら
    40分の距離である。 ここは元ペテルゴフと呼ばれ、1714年に早くも開かれた。

    大宮殿は海に開かれた斜面の上に建てられたが、その後の1755年にラストレッリに
    よって改築された。 大宮殿から下に噴水の階段が作られている。 夏の離宮
    として皇帝達に愛された。 ペテルブルグを離れることを望んだニコライ2世は、
    ここに来ると、大宮殿ではなく、その東の森の中の『農園』と名付けられた質素な
    パビリオンで人と会うことを好んでいた。

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    ペテルゴフもドイツ軍に占領された。 そしてここも完全な廃墟となった。
    これを復元しようという努力は、戦争中の1944年から始まった。 ペテルゴフ
    というドイツ風の名前をペトロドゥヴァレツというロシア風の名前に変えたのも、
    ドイツ軍に対する怒りの表れであったかも知れない。 1947年には、最初の
    噴水が水を出し始めた。 復元作業は60年代に終わった。

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    第一次世界大戦で敗れたドイツは、膨大な賠償金を課せられ、経済的に極めて
    厳しい状況に陥った。 政府は、国家を再建し、秩序を回復することがなかなか
    出来なかった。  ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせて
    くれる指導者を待望する動きが現れた。

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    アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)という小さな政党の
    党首であった。 彼は、ドイツの苦境を連合国やヨーロッパのユダヤ人等のせいに
    して非難することで、国民の人気を集めた。 1933年、ヒトラーは、その人気を
    利用して、ドイツの首相となった。 そして、間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。

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    戦争初期、ドイツ軍は、次々と勝ち進んだが、1940年には、ヒトラーは、中央
    ヨーロッパと東ヨーロッパのほとんどを手中に収めた。 1941年、ヒトラーは、
    広大なソビエト連邦に侵攻した。 ソビエト連邦は、現在のロシアを中心とする
    社会主義国家であった。 ドイツ軍は、モスクワの近くまで迫ったが、軍隊を
    広く展開させた結果、兵力が手薄になった。 ソ連軍が反撃を開始し、ドイツ軍を
    押し戻した。

    ドイツ軍は、他の戦線でもイギリス軍に敗北を続けていた。 アメリカ軍が
    連合国側として参戦し、戦況は、一変した。 1944年には、ドイツ軍は、3方向
    からの攻撃を浴びるようになった。 1945年4月には、ソ連軍がベルリンに進軍
    すると、ヒトラーは自殺した。

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    ドイツに進軍して来た連合軍は、後に『ホロコースト』と呼ばれるようになった
    出来事の証拠を発見した。 ナチスが、『死の収容所』を建設し、ヨーロッパの
    ユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた
    事実が明らかになった。

    収容所には、数十人の人々を瞬時に毒ガスで殺害出来る部屋が設けられていた。
    これらの収容所殺害された人々は、900万人にものぼると言われている。

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    ピョートル大帝は、湿地の広がるネヴァ川の両岸に、新しいロシアの首都である、
    サンクト・ペテルブルグを建設した。 ロシアには、海への出入口と『西欧への窓』が
    必要と考えたからだった。 数千人の人命を犠牲にしながら、1712年頃には、新しい
    首都の街並みは、おおよそ完成した。

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    宮殿群と尖塔の街並みは、ヨーロッパ古典様式を反映したもので、多数の外国人
    建築家らによって建設された。 第二次世界大戦では、ドイツ軍が3年間に渡って
    この街を封鎖したため、100万人以上が死んだ。



    街の名称も、時代と共に変わり、1914年から1924年までは、ペトログラード、その後、
    1991年までは、レニングラードと呼ばれたが、その後、再びサンクト・ペテルブルグに
    戻された。

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    【都市の構造】

    サンクト・ペテルブルグは、ネヴァ川につながる細い川や運河の周りに造られて
    いる。 ネヴァ川の左岸には、中心部と向き合う形でヴァシリエフスキー島や
    ペトロパブロフスク要塞がある。 ネフスキー大通りには、ネヴァ川から南へ放射状に
    伸びる数本の大通りの中でも、最も主要な通りとなっている。

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    【ペトロパブロフスク要塞】

    ペトロパブロフスク要塞は、1703年に建設され、 サンクト・ペテルブルグで最初の
    建造物で、その中央には、ペトロパブロフスク大聖堂がそびえ立っている。 細く高く
    伸びたその斜塔は、モスクワの聖ワシリー大聖堂と同じく、この街のシンボルに
    なっている。

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    【ペトロドゥヴァレツ】

    フィンランド湾に面したペトロドゥヴァレツは、ピョートル大帝がとでも気に入っていた
    夏の宮殿だった。 フランスのベルサイユ宮殿や庭園をモデルにしたこの宮殿は、
    1714年に造られ、その後、ラストレリによって、更に増築された。 噴水の大滝は、
    その後、多数の彫刻で飾られた。 宮殿と庭園は第二次世界大戦中に荒廃したが、
    その後、美しく修復された。

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