多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:ドイツ語

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    南ドイツの中心都市ミュンヘン
    ミュンヘンは、ドイツ第3の都市で、南ドイツの経済と文化の中心地。
    空港からミュンヘンの中心街へ行くためには、ドイツの郊外電車Sバーンを
    利用すると非常に便利。 このSバーンに揺られること約45分程で、マリエン
    広場までたどり着きました。 ドイツ語の「Marienplatz(マリーエン・プラツ)」の
    意味は、「マリア広場」で、ドイツ語は、スペースなしで単語をそのまま連結する
    ことができるため、慣れないと単語が非常に長く感じるものの、単語の切れ目が
    分かるため、そこで意味を判断すると分かりやすく、ドイツ語は、世界一合理的な
    言語とも言えます。

    ドイツの鉄道は、自分で打刻が必要
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    【Sバーン路線図】
    munich

    【冬の食べ物】
    南ドイツの冬の風物詩と言えば焼き栗ですが、「栗」はドイツ語では、
    「Kastanien(カシュターニエン)」と言うものの、焼くと何故か「Maroni
    (マローニ)」となり、イタリア語へと変わる。 お隣りオーストリアの
    ウィーン方言もミュンヘンと大体同じで、こちらでも、「焼き栗」は、
    やはり「Maroni(マローニ)」と言います。

    焼き栗屋
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    ミュンヘン新市庁舎とフラウエン教会は、どちらも非常に重厚な建物で、
    ミュンヘンのシンボル的な建物となっています。 新市庁舎の方では、毎時
    定時になると、仕掛け時計が動き出すため、絶好のシャッターシャンスと
    なります。

    ミュンヘン新市庁舎
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    フラウエン教会
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    【ミュンヘン】
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    南ドイツの春の風物詩
    南ドイツ名物の「Maibaum(マイバウム)」は、5月のお祭りの時期になると、
    南ドイツでは割と普通に建てられる春のシンボル的な存在ですが、実は、
    これと同じ物が札幌の大通り公園にも置いてあります。 こちらは、
    ミュンヘン市から姉妹都市である札幌市へと寄贈された物。

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    ドイツの標準語とは
    ドイツは東西南北で言語も風習も大きく異なるため、それぞれの地方の方言を
    聞いているだけでも楽しい。 特に、ミュンヘンは、南部の訛りが非常に強い
    バイエルン弁を話している地域となっており、この方言は、オーストリアと
    概ね同じとなっている。 ドイツでは、通常、標準語ではなく、それぞれの
    地方の方言のみで話していますが、他の地域の人達と話す時だけは、標準語で
    ある「高地ドイツ語」で話しています。

    【マリエン広場】
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    486年には、フランク族の王クローヴィスがそれまでガリアを支配していた
    ローマ人を破り、北ヨーロッパにフランク王国を建設した。 クローヴィスは、
    キリスト教に改宗したことでも知られている。 キリスト教は中東から
    ヨーロッパに伝えられた宗教であるが、フランク族は宗教上、西欧キリスト
    教会の主座を占めるローマ教皇に服従していたのである。

    クローヴィスの死後、王国は息子たちの間で分割され、勢力は弱まった。
    そこでゲルマン民族の中には、フランク族からの独立を主張する者が多く表れ、
    例えば、北ドイツに勢力のあったサクソン族は、キリスト教に激しく反発した。

    768年にフランク族の支配者となったカール大帝は、サクソン族を破り、中央
    および西ヨーロッパに領地を広げた。 こうして、800年にはローマ教皇レオ3世
    からローマ教皇の冠を授けられ、西ローマ帝国の復活を果たしたが、これは
    かつての西ローマ帝国と性格の異なるものであった。 数年の間にカール大帝は
    ゲルマン民族を統一し、西ヨーロッパにおける戦争や侵略に終止符を打った。

    また、首都アーヘンにて中央集権政治を確立、学校や修道院の建設を命じ、
    教育や学問を奨励した。 こうして進歩的な支配者であったカール大帝の
    監修の下、初めてドイツ語の辞書が編纂された。

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    カール大帝の死後、後継者たちは領地の支配をめぐって争い、843年には、
    孫3人が帝国を三分割することを取り決めたヴェルダン条約を締結した。
    この条約によって、ルートヴィッヒ2世はライン川東岸を含む東フランクを、
    ロタールはライン川西岸の中部フランクを、カール2世(禿頭王)は西フランク
    (後のフランス王国)を、それぞれ獲得することになった。

    9世紀になると、東方からの侵略者が東フランク王国に襲撃を企てるようになった。
    ドイツの諸侯は、王国を守るのに手柄があるごとに、王国から称号や領地を
    授けられ、これらの諸侯はやがて、ドイツ内に独立した公国をつくって行った。
    その中でも最も強大なサクソン、シュヴァーベン、フランケン、バイエルン、
    ロートリンゲンなどがあった。

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    オーストリアは、1774年に全国民を対象とする無料の公共教育制度を発足
    させた。 識字率、つまり、読み書き出来る成人の割合は、99%に達している。

    オーストリアの義務教育は6歳からの9年間で、4年間の基礎学校を終えると、
    中学校と一般教育中高等学校の2つのコースに分かれる。 授業は月曜~土曜日の
    午前8時~12時、または午後2時までとなっており、義務教育の間は科目が決まって
    いるが、6年生からは外国語、コンピュータ、宗教、生物実験、ダンス、チェス等の
    選択科目がある。 学校教育の最初の4年間は、フォルクスシューレ(公共の
    小学校)で行われる。 フォルクスシューレを卒業した後、一部の学童は8年制の
    中等学校で教育を受ける。

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    年齢が18歳位になると、入学試験を受けて大学に入る。 その他の学童たちは、
    フォルクススシューレ卒業後、4年制のハウプトシューレに進学し、その後、更に
    4年間、技術研修所、または、職業訓練所で研修を重ねる。 研修所の中には、
    大学進学の道が開かれているものもある。

    オーストリアの教育施設の中で最も規模の大きいのは、ウィーン大学で、現在
    約3万人以上の学生を擁している。 創立は1365年で、ドイツ語圏で最も古い。
    法律、医学、実業、文学、美術等、多くの専門課程がある。 24歳以上の労働者
    には、成人教育センターでの教育の道が開けている。

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    【言語と文学】
     殆んどのオーストリア国民は、ドイツ語を使っている。 但し、この国のドイツ語
    には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドにはハンガリー語を
    話す人達もいる。 ケルンテンに住む2万人のスロベニア人の多くは、スロベニア語を
    使う学校に子供を通わせている。

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    ロシア第3の都市、ノボシビルスクは、『シベリアの首都』と呼ばれており、
    シベリア最大の学術研究都市である。 日本のつくばは、このノボシビルスクを
    まねて造ったとも言われており、国立ノボシビルスク大学のレベルは、ロシアでは、
    モスクワ大学に次いで、第2位となっている。 理系が非常に強い大学であるため、
    現在、ノボシビルスク大学の日本の姉妹校は、同じく理系が強い国立東北大学と
    なっている。 尚、ドイツの姉妹校は、オルデンブルグ大学となっており、
    大学側が用意してくれた学生寮では、ドイツ人2人と生活を共にすることとなった。

    ノボシビルスク大学への入学は、簡単なものではなかった。 特に、外国人が
    ロシアの大学に入学をする際には、エイズ検査が必須となっており、その他にも、
    大学側からの招待状と学費の前納が大前提だった。 大学への入学後は、ロシア人
    学生と一緒の授業を受けたものの、全てのロシア語を理解出来ている訳ではない
    ため、かなりのハンデとなった。 その理由から、担当教授とのマンツーマンでの
    ロシア語での特別授業が始まった。 そこでは、古代教会スラブ語を習うように
    言われたのだが、既に死語である教会スラブ語は、使う場所が全くないため、
    教授に頼み込んで、ドイツ語を専攻することにした。

    Transsiberian

    丁度、学生寮では、ドイツ人2人と生活をしていたため、このことをドイツ人学生に
    話したところ、親切にも、無料でドイツ語でのマンツーマンの授業をしてくれた。
    この日から、外ではロシア語、学生寮の中では、ドイツ語で話す生活が始まった。
    元々、ロシア語とドイツ語は文法的にかなり似ているので、両立はさほど難しく
    なかったのと、日本の大学ではやることがなかったため、ドイツ語をかなり本気で
    学んでおり、特に苦にはならないどころか、自分の知識が目に見えて増えて行くのが
    手に取るように分かったため、毎日が充実していた。

    ノボシビルスクは、学術研究都市であるため、行くところと言えば、ショッピング
    センター(ロシア語では『商業中心』と言う)と本屋めぐりぐらい。 たまたま、
    札幌に昔留学をしていたというカザフ人女性と知り合いになり、度々家にも遊びに
    行くようになった。 更に、そのカザフ人の友人の旦那さんの実家があるアルマ・
    アタ(当時はカザフの首都、現在の名前はアルマトゥイ)に遊びに行くことになった
    のだが、その当時、ロシアとカザフスタンの間には、国境があったものの、国境での
    パスポートチェック等は一切なかった。

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    当時のロシアは、ロシア・ルーブルを使用していたのだが、カザフスタンは、ソ連
    時代のルーブルをまだ使用しており、カザフスタンの通貨である『テンゲ』は、
    その1年後ぐらいまで全く流通していなかった。 ノボシビルスクからアルマ・
    アタまでは、電車で40時間、運賃は、日本円にして40円であった。 この旦那の
    方は、現在、カザフのアクタウに住んでいるが、20年以上も音信不通だったが、
    今ではFacebookで繋がっているため、良い時代になったものである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②

    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    オランダ語は、英語やドイツ語と同じくゲルマン系の語派に属しているため、
    これらの言語と基礎語彙がかなり良く似ている。 また、歴史を振り返ってみると、
    オランダ人が荒波を乗り越え、世界の隅々まで出掛け、言語を含めて文化的影響を
    残したという一時代があった。 日本もその恩恵に浴した国であることは言う
    までもない。 もっとも、オランダ語の語彙も、他言語からの影響を少なからず
    被っている。 主に英語やフランス語の語彙を取り込み、その多くの借用語が
    オランダ語には欠かせないものとなっている。



    今日、最も多くの語彙を借用するのは英語からで、実際、単語に留まらず、
    成句や諺にまで及んでおり、今やほとんど全く英語を話さないオランダ人ですら
    口にするようになっている。 例えば、tram、flat、fift-fifty、up to date などが
    挙げられる。 ただ、逆に、オランダ語の語彙は、例えば、ドイツ語などの
    隣接の言語と外見上良く似ているのに、意味の上で微妙な違いがあることもあって、
    注意が必要となっている。

    例えば、蘭:aardig 素敵な、独:artig 行儀が良い、蘭:aandacht 注意、
    独:Andacht敬虔さ、蘭: verzoecken 懇願する、独:versuchen 試みる
    などがある。

    dutch

    【オランダ語の今】
    現在の標準オランダ語は、パタビア共和国以来の中央集権によって発達した
    ホラント州の社会的上流階級の言葉が1900年ごろから標準語として認められる
    ようになったもので、そもそも、オランダ語の呼称に関して言うと、その国名は
    Holland あるいは、Netherlandとして知られているにも関わらず、その国民名と
    言語名は Dutch という言語名で呼ばれることが普通となっている。

    12~13世紀以降、ドイツは Deutschland という国名で知られていた。 そして、
    15~16世紀になると、英語の Dutch は、オランダ国内の諸方言を含んだ意味での
    ドイツ語のことを指すようになった。 オランダが独立し、大航海時代(17世紀)
    に入ると、英国との接触が頻繁になり、英語において Dutch という語は、次第に
    意味が狭まって行き、単に現在のホラント州を中心としたオランダ北部統一7州
    として知られる地域を指すようになった。

    日本におけるオランダ語の研究の歴史は長く、江戸時代の『ハルマ』や『訳鍵』
    といった蘭日辞書の編纂に始まる。 蘭学とは、広義には、当時の日本人が
    オランダ語を通じて学んだ西洋の学問一般を指し、医学をはじめとする西洋の
    学問は、オランダ語を媒体として日本に取り入れられた。 わずか4000坪の
    長崎の出島は、日蘭貿易の拠点であったのみならず、近代科学や思想が日本に
    流入する唯一の窓口でもあった。

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    ドイツ語の初学者は、名詞の性に悩まされ、動詞や形容詞のめまぐるしい
    語尾変化に挫折感を感じてしまう。 しかし、その峠を越えて、文法体系を
    マスターしてしまえば、後は結構自由自在で、分かりやすい。

    西ゲルマン語の代表であるドイツ語は、同系統の英語と異なることろも多く、
    まずは、語彙が本来のゲルマン語起源の単語を多く堅持しており、一方の英語は、
    ロマンス系の語彙を多く取り入れている。

    deutsch

    ドイツ語は、動詞が文の2番目に来る(従属節では文末)。 この原則さえ
    守っていれば、後は自由な語順となっている。 その他は、語順自由という
    日本語とも通じるところがある。 未来のことを表すのも現在形で大丈夫
    というところも日本語と似ている。 他にも、複合語を得意、格がある
    (日本語の格助詞に相当)、ローマ字発音でかなり通じるなど、日本語話者には、
    比較的取り組みやすい言語となっている。

    日本人にとって、少々手ごわい発音は、3つのウムラウト(変母音)と、lとrの
    区別だろう。 äは、アの口の形でエと、öはオの口の形でエと、üは口唇を
    丸めたウの形でイと発音する。 lは舌の先を上の歯茎の裏側に付けて、rは
    水なしでうがいをするように口蓋垂(喉仏)を震わせて出すのラ行の音と
    なっている。 大聖堂、オーデコロン(ケルンの水の意味)、カーニバルで
    有名なケルンは、Kölnと表記する。



    【ドイツ語の今】

    ドイツ語も他の多くの言語の例にもれず、昨今英語の影響を強く受けている。
    それも単語の流入だけではなく、文法にまで及んでいる。 ドイツ語は文法が
    複雑と言われているが、それでも簡略化の道を進んでおり、教科書では
    再帰動詞として紹介されるIch erinnere mich daran(私はそれを思い出す)が
    Ich erinnere das のように一般的な他動詞として使われ、Ich kenne den Student(en)
    (私はその学生を知っている) では不規則な語尾変化が消失しつつある。

    また、ドイツで最大の外国人居住者のトルコ語が数世代に渡る紆余曲折を
    経ながら新しいドイツ語の形成に一役買っている。 それに加えて、若者言葉の
    革新性も入りつつ、伝統的な造語力も今尚健在となっている。

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパ中央にある内陸の山岳国家で、人口は
    約800万人。 かつては、多数の民族から成る巨大な帝国の一部だったが、
    現在は、9つの小さな州から成り立ち、国民の大部分がドイツ語を話す。

    オーストリアの歴史は、ヨーロッパの交易の民族移動の十字路として始まった。
    国の北部を流れるドナウ川は、ヨーロッパの西、北、東の3つの部分を繋いでいる。
    ドナウ渓谷に最も早く定着したのは、東から来たケルト民族と、南のイタリア
    半島から来たローマ人であった。

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    1200年代、ルドルフがこの地にハプスブルグ王朝を創設した。 この王朝は、
    その後600年以上に渡り、オーストリアを含むヨーロッパ各地を統治した。
    16世紀から17世紀に掛けての絶頂期には、ヨーロッパの半分近くがハプスブルグ
    帝国の領域であった。

    1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアは、隣国であるドイツに
    味方して、セルビア、ロシア、イタリア、イギリス、日本、アメリカ等と戦った。
    4年間の戦闘の末、オーストリアとドイツは敗北し、ハプスブルグ王朝は崩壊した。
    1918年、帝国内の非ドイツ系民族はそれぞれ独立して別個の国家となり、ドイツ系
    民族は、オーストリア共和国を創った。

    hapsburg

    1929年の世界大恐慌はオーストリアの経済にも深刻な打撃を与えた。 国力の
    衰えていたオーストリアは、1938年に、ドイツのヒトラー政権によって併合を
    食い止めることが出来なかった。 1939年に第二次世界大戦が勃発した時、
    オーストリアは、ドイツの一部として、日本、イタリアと共に、枢軸国側に立ち、
    イギリス、フランス、ソビエト、アメリカ等の連合国側と戦った。 連合国側に
    よる広範な爆撃と地上攻撃の結果、ドイツは1945年に降伏し、オーストリアは
    独立を回復した。

    戦後のオーストリアは、外国の援助を受けて、1955年までに順調な経済成長を
    遂げ、安定した政府を持つに至った。 過去の歴史を反省したオーストリアの
    指導者達は、将来、世界にどのような扮装が生じようとも、一切関与しないと
    宣言した。

    現在のオーストリア国民の生活水準は高く、健康保険と社会保証は、労働者全体に
    行き渡り、失業率は低い。 国内の主要政党は、協力して国家の方針を定めており、
    東西両ヨーロッパとの貿易額は増加を続けている。

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    ドイツの首都ベルリンで、イラク難民のザイドさん(23)はスプーンとしゃもじを
    手に、グヤーシュ(ハンガリー風シチュー)とジャガイモがいっぱい入った大鍋の
    ふたを持ち上げた。 仕事のシフトの始まりだ。

    午後6時半から8時まで、ザイドさんはベルリン市に雇用され、スポーツセンターの
    ホールに集まるシリアやイラク、アフガニスタン、モルドバ出身の難民152人に
    夕食の配膳を行っている。 このスポーツセンターは、新たにドイツに到着する
    人々向けの緊急宿泊施設に様変わりした。

    ザイドさんはこのビーフシチューに何が入っているのか、いぶかしむような目で
    集まった人々に対して説明を試みていた。ザイドさんは『非常にドイツ的』な
    シチューだと言う。

    自転車の修理や植木の剪定、歩道の清掃といった業務をわずか1ユーロ(約120円)
    余りの時給で請け負っているザイドさんのような難民は数千人に上る。 この
    いわゆる『1ユーロジョブ』制度は、ドイツの労働市場に新たに加わろうとする
    人々の足掛かりとなるとうたわれているが、識者らは以前からその有効性を
    疑問視している。

    食卓を整え、パンを切り、料理を皿に盛り、そして片付ける。ザイドさんの時給は
    1.05ユーロ(約130円)だ。 就労が許されているのは週20時間までと制限されて
    おり、月給は頑張っても84ユーロ(約1万300円)にしかならない。 難民申請の
    審査結果が出るのを待つ間、当座の生活費として支給される143ユーロ
    (約1万7600円)のわずかな足しになる程度だ。

    イラクの首都バグダッドから南へおよそ100キロに位置するヒッラ(Hilla)から、
    父親と妹と共に半年前に逃れてきたというザイドさん。 月収はドイツ人の平均
    賃金に比べればごく少額だが『ドイツ人の配膳ボランティアと触れ合えるので、
    ドイツ語を話す機会にもなる』と、喜んで取り組んでいる。 

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    ■ベルリン市は約3,900人を雇用
    難民申請の審査には、数か月とはいわずとも、数週間はかかるケースが多い。
    その間、普通の就業は認められていないため、難民申請者らの多くは待ち時間に
    うんざりしている。 この問題を回避しようと、当局が活用を決めたのが、この
    1ユーロジョブ制度だ。

    元は10年前、長期失業者の再就職を後押しする目的で発案されたもので、昨年
    110万人という記録的な数に上った難民の受け入れにつながればと活用されている。

    ベルリン市は現在、75か所のセンターで生活する3,925人の難民を雇用している。
    今後はホームレス支援団体やアルコール依存症のリハビリ施設など、公共サービスを
    提供する機関での雇用にも適用を広げたい考えだ。

    一方、中部ハノーバー市では新たに同市に来た人々に対し、自転車の修理や寄付
    された服の仕分け、幼稚園児の送迎補助といった仕事と引き換えに、ドイツ語教室を
    受講できる制度を導入している。

    アンドレア・ナーレス(Andrea Nahles)労働社会相は、難民向けにこうした雇用
    10万件分を創出すると約束。こういった仕事が、労働市場に参入していくための
    『トランポリン』の役目を果たすと説明している。

    同国RWI経済研究所の経済学者、ロナルド・バッハマン(Ronald Bachmann)氏は
    AFPに対し『難民がこういう形でなければ働けないことを鑑みれば、短期的には理に
    かなっている』と述べた。 記録的な数の難民が流入していることに伴い、反移民の
    ポピュリズムが台頭する中『彼らに仕事をさせれば、良い政治的シグナルにもなる』
    と述べている。

    とはいえ、バッハマン氏は、この1ユーロジョブ制度が本来の狙いである長期
    失業者の再就職支援で功を奏してきたとは言えない点を指摘し『こういう仕事から
    学べることはほとんどなく、労働市場へ戻る一助になることはごくごくまれだった』
    と述べている。

    出典:AFP

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    ベルギーは、フランスとドイツに挟まれており、国として成立したのは、
    1830年である。 国名は、古代にここに定住したケルト人の一派
    『ベルガエ人』に因んでいる。 この地域は、西暦前50年頃以降、ローマ、
    フランク、スペイン、オーストリア、フランス、オランダ等の勢力に次々と
    制服された。 2度に渡る大戦の際には、ドイツの攻撃を受け、占領された。

    provincemap

    この国には、フラマンとワロンという2つの大きな地域圏がある。 2つの
    地域の大きな違いは、言語である。 フラマン地域圏は、北部と西部にあり、
    ここに住んでいるのは、オランダ語(フラマン語)を使用している。
    そのうちの多くは、フランス語も知っている。 ワロン地域圏は南部にあり、
    ここの人々は、日常生活にフランス語を使用しているが、オランダ語も
    話せる人もいる。 また、ワロン地域圏の中には、ドイツ語を使用している
    グループもある。 外国に支配されていた時期が長かったにも関わらず、
    それぞれの地域圏に住む人々は、自らの歴史と文化に強い誇りを持ち
    続けている。

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    人々は、信仰と生活の上でカトリック教会と固く結びつき、教会は、
    いくつもの政党に強い影響力を持っている。 カトリック教徒ではない
    人々は、非宗教的な政党に所属している場合が多い。 これらの内部事情
    にも関わらず、近代と現代のベルギーは、ヨーロッパの経済的統合を目指す
    上で指導的な役割を果たして来た。 EU(欧州連合)の政策決定の本部は、
    ベルギーの首都に置かれている。 ベルギーは、EU加盟国として大きな
    市場に販路を持ち、また、EUに投下される財源から一定の助成を受けて
    いる。 これらの利点によって、ベルギー国民は高い水準に達することが
    出来た。

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    オーストリアの国民の大部分は、ドイツ系であるが、その民族構成は、初期の
    歴史時代に起こった異民族の侵入や、移住を反映している。 ハプスブルク家が
    13世紀に権力を握る以前には、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、マジャール人、
    スラブ人が次々とオーストリアの河川沿いや山間の谷間に植民地を建設した。

    その後、クロアチア人、スロベニア人、ハンガリー人らが、ブルゲンランド、
    ケルンテン、シュタイヤーマルクに移動した。 北部と東部では、異民族同士の
    結婚が多く見られた。 この地域では、道路やドナウ川の水運党の交通が発達
    したが、それは、旅行や定住が容易だったため。 チロル、フォアアールベルグ、
    ザルツブルグ等の山岳部諸州では、大多数の住民がドイツ系となっている

    オーストリア国民の大多数は、ドナウ川流域と国の東半分に住居している。
    このうち、約56%が農村部に住んでいる。 第二次世界大戦後、ユーゴスラビア、
    チェコスロバキア、ハンガリーからの移民や政治的亡命者が増えた。 1980年代
    には、トルコやユーゴスラビア等の比較的貧しい国から20万人近くの未熟練
    労働者達が、仕事を求めてオーストリアの各都市にやって来た。

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    【言語】
    ほとんどのオーストリア国民は、ドイツ語を使用している。 但し、この国の
    ドイツ語には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドには、
    ハンガリー語を話す人達も居る。 ケルン店に住む2万人のスロベニア人の
    多くは、スロベニア語を使う学校に子供を通わせている。

    【音楽】
    オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ王朝時代に教会や修道院で
    演奏された宗教的な賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガー達の
    叙情詩は、各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者達の人気を集めた。

    14世紀から16世紀に掛けては、ドイツの音楽家達がオーストリアに来て、
    合唱団や楽団の指揮を取った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、
    オーストリアの作曲家達は、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合
    させて、ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

    18世紀には音楽は、王侯貴族達の公演を受けて、ウィーンその他の都市で
    盛んになった。 富裕な貴族エステルハージ公の管弦楽やソナタを数多く
    書いた。 彼は、生前に多数の作品の楽譜を出版し、ヨーロッパで最も
    有名な作曲家の一人となった。 こうして現代音楽は誕生した。

    モーツアルトは、少年時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、
    優れた歌劇、管弦楽、器楽等を含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の
    作品の多くは、批評家達に賞賛されたが、演奏家や歌手達にとって、
    モーツアルトの曲は演奏しにくかった。 生活苦と闘いながら、
    モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートベンは、ドイツ生まれだが、成人してからの
    生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートベンは作曲とピアノの演奏で、
    ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の絶頂期に聴力を失い始め、
    聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った後も、表現力豊かで力強い
    音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家達に影響を与えた。

    フランツ・シューベルトは、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を数百曲も作曲した。
    彼の作品の中で、最もポピュラーなのは、ピアノ演奏付きの歌曲、リートである。
    グスタフ・マーラーとアントン・ブルックナーは、どちらも19世紀後期に長大で
    劇的な管弦楽を作曲した。



    ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・ワルツを多数作曲し、
    父は、『ワルツの父』、息子は、『ワルツの王』と呼ばれた。 フランツ・
    レハールは、オペレッタの作曲家で、彼等の作品は、今もウィーンでは
    人気が高い。

    20世紀になって、この国の作曲家達は、洗練された新しい作曲技法を次々に
    作り上げた。 アルノルト・シェーンベルグ、アルマン・ベルグ、アントン・
    フォン・ウェーベルンは、伝統的なハーモニーを用いないで歌劇や管弦楽を
    作曲した。 エリッヒ・ウォルフガング・コルンゴルトは、ポピュラーソング、
    ミュージカル、映画音楽を作り出した。 この国では、今でも、軽い歌劇と
    重厚な管弦楽のどちらも盛んとなっている。

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    元々、チロルはひとつだったが、第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国の
    崩壊と共に、南チロルは、オーストリア領からイタリア領となった。 しかし、
    この地域では、今でも『チロル』としての住民意識が根強く、イタリア内に
    ありながら、多くの人達が今でもドイツ語で生活をしている。

    現在は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ
    自治県に属しており、街で飛び交う言語は、ドイツ語が最も多い。 街の通りは
    ドイツ語とイタリア語が併記されており、南チロルでは、イタリア語が強制
    されたことから、衝突が生じた時代もあったが、今では、ドイツ語で教える
    学校もあり、各家庭で子供をどちらで学ばせるかを選択出来るようになっている。



    【メラーノ(Merano) / メラーン(Meran)
    チロル地方の古都、メラーノは、ドイツ語では『メラーン』と呼ばれており、
    13世紀にチロル地方の都として定められた。 公式には、19世紀まで都であり
    続けたが、実際のところは、名ばかりであったため、現在では、緑あふれる
    気品のある街となっている。 ブルグラヴィアート(ブルクグラーフェンアムト)
    地方 (Burggrafenamt) の中心都市となっており、県都ボルツァーノからは、
    北西へ約25km、州都トレントからは、北へ約66kmの距離にあり、保養地
    として整備されているため、街歩きも実に楽しい。



    【ボルツァーノ(Bolzano) / ボーツェン(Bozen)】
    ボルツァーノは、ドイツ語では『ボーツェン』と呼ばれており、イタリア共和国
    トレンティーノ=アルト・アディジェ州北部の都市で、その周辺地域を含む人口
    約10万人の基礎自治体(コムーネ)で、ボルツァーノ自治県の県都となっている。
    古都メラーノの街からは、約25キロの場所にあり、山に囲まれた地理的な条件は
    同じだが、非常に対象的な街となっている。 緑の街であるメラーノに対して、
    ボルツァーノは石の町。 都であるメラーノに対して、ボルツァーノは商業の
    街だった。

    ボルツァーノの旧市街は意外に広く、街が古くから繁栄して来たことを意味して
    いる。 大きな広場を中心に、石畳の路地や、建物の中を通り抜けられる道が
    張り巡らされている。 建物には、壁画や彫刻を施されたものが目に付く。
    ボルツァーノは、石造りの特有の重々しい印象があるが、南チロルに降り注ぐ
    力強い日差しがそれを跳ね返し、街全体をとても明るくしている。 同じ
    チロルにある石造りの街、インスブルックと比較してみるのも興味深い。

    旧市街は、1本の川が境界線となっており、川沿いの道は、緑の多い公園と
    なっている。 古くは、ローマ時代まで遡る街だが、中世時代に、年に4回
    ほど大きな市が開かれたため、街が発展した。 その歴史を受け継ぎ、市が
    立つ通りが今でもある。

    【お勧めの一冊】




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    フランス語


    難易度★★☆☆☆

    【母語話者数 7,200万人 / 総話者数 2億2000万人】
    国連公用語でもあるフランス語は、ベルギー、カナダをはじめ、世界29カ国で
    公用語となっている言語。 イギリスとの長きに渡る対立の歴史により、
    フランス人は英語を余り話したがらないが、英語とは、単語的にも文法的にも
    類似点が非常に多いため、英語からはかなり入りやすい。 但し、発音が難しい
    ため、非常に取っ付きづらいイメージがあるが、綴りは、英語より規則が多い
    ため、最初は面食らうものの、基本的に書いてある通りに発音するため、
    慣れれば、むしろ英語よりも簡単。 男性名詞と女性名詞の区別がある。

    ドイツ語


    難易度★★★☆☆

    【母語話者数 1億3,000万人】
    英語と同じ西ゲルマン語に属している言語。 但し、英語やフランス語とは異なり、
    複雑な格変化や格支配を覚えなければならないため、日本で習える外国語の中では、
    比較的難しい部類に入る。 英語と似ているため、ドイツ語を学ぶと、英語学習の
    効率が飛躍的に向上します。 恐らく、世界で最も合理的な言語であるため、
    不規則変化はあっても、例外はひとつたりともないという、ドイツ国民をそのまま
    言語にしたような言葉。 よって、発音、文法全てにおいて、説明可能な分かり
    やすい言語となっている。 男性名詞、中性名詞、女性名詞の区別がある。
     
    ロシア語


    難易度★★★★★★
     
    【母語話者数 1億8000万人 / 総話者数 2億7,000万人】
    国連公用語のひとつとなっているロシア語は、世界でも難解な言語のひとつ。
    あり得ないぐらいの格変化、格支配、多数の例外変化、動詞の体、名詞の性、非常に
    難しい発音と、どれを取っても、簡単な要素がひとつたりともない。 音素的には、
    フランス語の二倍程度の音域を使用しているため、聞き取りも非常に難しい。

    旧ソ連邦諸国全てで通じる言語であるため、中央アジアに行く際には、必須の言語と
    なっているが、日本で習える場所がかなり少ないため、希少言語となっており、
    日本でロシア語をまともに喋れる人材自体が、非常に稀となっている。 男性名詞、
    中性名詞、女性名詞の区別がある。

    タイ語


    難易度★★★☆☆

    【母語話者数 4,600万人】
    欧州言語とは異なり、冠詞等が無く、文法が非常に単純であるため、非常に
    とっつきやすい一方で、声調、発音に苦労させられるため、独学では、ほぼ
    不可能と言われる言語。 中国語を知っていると、声調が似ているため、多少
    学びやすいかも知れない。 経済発展著しい東南アジアの新興国であるため、
    日系企業の工場が多く、その割には、タイ語を話せる人材が少ないため、今後も
    需要も見込まれている。 

    スウェーデン語


    難易度★★☆☆☆

    【母語話者数930万人】
    北ゲルマン語に属している北欧の言語(デンマーク語、ノルウェー語、アイスランド
    語)は、フィンランド語を除いて、全て非常に似ており、ドイツ語や英語との
    共通点も多い。 スウェーデンの他、フィンランドでも公用語となっている。
    ノルウェー語だけは、名詞の性が3つ残ってるため、若干難しいが、文法的には、
    北欧全言語ほぼ共通となっている。

    強弱高低アクセントであるため、スウェーデン語は、北欧語の中でも、かなり
    特徴的なイントネーションとなっている。  概ね、英語とドイツ語の中間言語と
    考えて間違いない。 両性名詞、中性名詞の区別がある。

    オランダ語


    難易度★★☆☆☆

    【母語話者数2100万人】
    オランダの他にも、アルバ、ベルギー、オランダ、オランダ領アンティル、
    スリナムで公用語となっている言語で、いわゆる、標準語がない。 日本で最も
    古くから使われている外国語のひとつだが、現在の人気は今一つで、東京都内でも、
    オランダ語を学べる場所は、極めて少ない。 日本が長らく鎖国をしていた時代に、
    唯一使われていた言語であるにも関わらず、これ程人気がない言語も珍しい。

    英語とドイツ語の完全中間言語となっており、必ず、どちらかに似ているため、
    英語とドイツ語を理解していると、概ね理解出来る言語。 英語、ドイツ語と
    同じく、西ゲルマン語に属しており、オランダ語を学ぶと、ドイツ語が、どの
    ような過程を踏んで英語へと変化したかが分かる。 通性名詞、中性名詞の
    区別がある。

    トルコ語 

     
    難易度★★☆☆☆
     
    【母語話者数 6000万人】
     
    VISTAの一角を担い、経済発展著しいトルコ語は、日本語にも文法上での共通点が
    多く、日本人には非常に学びやすい言語のひとつ。 母音調和の概念などが共通
    である中央アジアのカザフ語やウズベク語、ウイグル語などは、チュルク諸語と
    呼ばれ、トルコ語の方言とみなされることもある。 トルコ国内の人口増加は
    著しく、最近になって日系企業も多く進出しはじめたため、ビジネスでの需要が
    今後拡大して行くかも知れない。 

    タガログ語



    難易度★★☆☆☆

    【母語話者数2,500万人】
    フィリピンには、およそ、170の言語が存在すると言われており、経済の中心で
    ある首都マニラ付近で使われいるのが、タガログ語。 フィリピン語とも呼ばれて
    いる。 フィリピンでは、かなり英語が通じるが、訛りがキツく、理解しづらい。
    英語とタガログ語は、語順が非常に似ており、タガログ語話者には、英語は非常に
    とっつきやすいため、アジアの中でも英語が喋れる人の割合が、非常に高くなって
    いる。 インドネシア語やマレー語とは、文法的には異なるものの、共通語彙が
    多い。 日本では、司法通訳の需要が高い。 

    インドネシア語


    難易度★☆☆☆☆

    【母語話者数2,300万人】
    インドネシア語は、母音が少なく、時制までないため、日本人にとっては、非常に
    学習しやすい言語と言われている。 一説によると、世界で最も簡単な言事も
    言われている。 日本企業の進出が盛んな地域であるため、今後のビジネス需要が
    期待されている。 インドネシアでは、元々、ジャワ語が広く使われていたが、
    マレー語を基に、人工的に造られたのが、インドネシア語。 よって、マレー語
    とは、ほぼ同一言語。

    【お勧めの一冊】


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