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    タグ:トルドー

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    1980年に再び政権の座に就いたトルドーは、カナダの統一を一層強固なものに
    するよう努力した。 また、イギリスとの絆を弱めることを目指し、『1982年
    憲法』を公布して、その目標を達成した。 これにより、憲法の改正はイギリスが
    関わることなく、カナダ人によって行われるようになった。

    1980年代になると、カナダの経済は悪化し、失業率は1930年代の大恐慌以来、
    最高値に達した。 1984年にトルドーは辞職し、次の総選挙では進歩保守党が
    勝利をおさめた。 ケベック出身の新首相ブライアン・マルルーニーは、カナダ
    経済の再建に乗り出した。

    Mulroney

    カナダ議会では、西部の石油の利権と東部の漁業権をめぐって、長年の間、意見が
    対立していたが、マルルーニーはそれを解決することにより、カナダが抱える
    経済問題をいくつか処理した。 しかし、彼が最も意欲を燃やしたのは、アメリカ・
    カナダ自由貿易協定(FTA)だった。 1988年の初めにアメリカ議会を通過した
    同条約の条項に従って、両国間の現行の関税はなくなることになっていた。
    カナダ議会はこの協定の批准をめぐって、激しく意見を戦わせたが、結論は
    出なかった。

    内閣内部の不名誉な事件とアメリカ・カナダ自由貿易協定の反対に直面した
    マルルーニーは1988年10月、議会を解散し、総選挙を行った。 野党はアメリカ・
    カナダ自由貿易協定に強く反対した。 この協定はカナダの独立を制限し、広範囲に
    渡る社会福祉計画の実施を妨げると主張したのである。 マルルーニーは、
    この協定が結ばれれば、貿易が推進され、従ってカナダ人の雇用の機会が増える
    という点を強調した。 11月の総選挙の結果、進歩保守党が引き続き政権を握った。
    この勝利により、国民がアメリカ・カナダ自由貿易協定を支持していたことが
    確認され、1988年12月、カナダ議会でこの協定が成立した。

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    キング首相の後継者ルイ・サン・ローラン首相の下で、カナダは国際社会に
    積極的に進出するようになった。 国際連合(UN)の創設にも加わり、尽力した。


    1949年には、アメリカ合衆国および西ヨーロッパ諸国と共に、北大西洋条約機構
    (NATO)に加盟した。 国際問題に新しい役割を果たすようになったカナダは、
    朝鮮戦争(1950年~1953年)や、1950年代の中東戦争にも関わった。 国家間に
    紛争が起こると、停戦を監視する国連軍に兵を派遣し、しばしば停戦役を演じも
    した。

    しかし、国内では昔からの問題が再燃した。 フランス系カナダの小数民族である
    彼らの不満の声が再び上がった。 ケベックをカナダから分離独立させようという
    考え方が定着した。 分離主義者のグループが結成されたが、その中でも最も
    過激なのは、『ケベック開放戦線』というテロリストの集団だった。 新政党
    『ケベック党』は、ケベック州の行政における分離主義者を支持した。

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    1968年の選挙では、ケベック出身のフランス系カナダ人ピエール・トルドーの
    率いる自由党が勝利をおさめた。 新たに首相となったトルドーは、ケベックの
    分離主義者の問題を解決しようとした。 トルドー政権は、フランス語を英語と
    同等のものとする公用語法の制定に成功した。 彼は、カナダにおけるフランス系の
    伝統を公式に認めさせて、カナダの統一を図ろうとしたが、余り効果的では
    なかった。

    1976年、ケベック州議会で(ケベック党)が政権を得て、同党の党首ルネ・
    レベックが州首相の座に就いた。 レベック政権は、州政府がケベック独立に
    関する交渉権を握ることを提案し、州民投票でその賛否を問うた。 しかし、
    その提案は、反対約60%で否決された。 これにより、分離主義者の運動は
    後退した。

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    1970年代になると、反米感情が再燃した。 カナダの経済・軍事にアメリカ
    合衆国の及ぼす影響が強くなって来たことを、カナダ人は心配したのである。
    カナダの企業の多くは、アメリカ資本に支配されていた。 カナダの貿易と
    財政の安定は、アメリカに頼るところが大きく、経済の好・不況は、必ず
    カナダにも反映した。

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