横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:トルコ

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    モルドバは、波乱の多い歴史を歩んで来た。 ベッサラビア北部は、14世紀に
    モルダビア公国の一部となった。 15世紀には、この地域全体がトルコの支配下に
    入る。 ロシア・トルコ戦争後の1812年に第一次世界大戦が終結すると、そこは、
    ルーマニア王国の領土となった。 しかし、その後1939年、ヒットラーと
    スターリンとの間に交わされた秘密議定書では、この地域は、ソ連の勢力圏に
    加えられた。

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    そして1940年、ソ連は、ルーマニアにこの地域の割譲を強いたので
    ある。 ベッサラビア南部は、ウクライナの一部となり、その他の部分は、既に
    1924年に設立されていた『モルダビア・ソビエト自治共和国』(この国は
    ドニエストル川東岸の狭い地域のみを領土としていた)と統合された。 この
    統合により、『モルダビア・ソビエト社会主義共和国』が創設された。 第二次
    世界大戦中、この地域は、一時的にルーマニア領に戻ったが、1947年のパリ講和
    条約において、ルーマニアは、この地域のソ連への併合を承認した。

    ソ連政府は、各共和国で大々的なロシア化政策をとっていたが、モルドバも例外
    ではなかった。 10万人余りものモルドバ人が、ソ連の他地域に強制移住させられ、
    その代わりに、ロシア人やウクライナ人がやって来た。 政治的、経済的に重要な
    ポストの殆んどは、ロシア人によって占められた。 ルーマニアが民族的にも
    言語の上でも緊密な関係を持つ国であるという事実は、公的には否定され、
    ロマンス語族の一種であるルーマニア語を、この国では、ロシア語と同じキリル
    文字で書かなければならなかった。 チュルク語の族のガガウス語の場合も同様で
    あった。

    モルドバ人がルーマニア人と接触することは、事実上不可能であった。 もちろん、
    ルーマニア自体もやがて独自の道を歩むようになって行った。 ルーマニアの
    独裁者チャウセスクは、この占領された自国の領土に関する問題は、最終的には
    まだ解決されていないという主張を匂わす発言を再三行っていた。

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    【モルドバ独立への道】
     民族運動がこのモルドバで再燃したのは、ミハイル・ゴルバチョフが改革路線を
    開始してからのことであった。 1989年以来、ルーマニア語を再びラテン文字で
    書くことが許されるようになった。 1990年夏、モルドバは、主権宣言を行い、
    ルーマニア語を公用語として定めた。 1991年夏にゴルバチョフが主催した
    新連邦条約に関する交渉にも、モルドバはもはや参加しなかった。 そして、
    1991年8月、ソ連のクーデター失敗後、モルドバは、独立を宣言した。

    どのような方法であれ、連邦の形態を新しくして存続させることには拒否の姿勢を
    とっていたモルドバも、1991年12月、独立国家共同体(CIS)には加盟した。
    半世紀も続いて来た経済的な関係を、即座に断ち切ることは出来なかったので
    ある。 また、共和国領内には多数の旧ソ連兵が駐屯しており、その撤退に
    関しても、拘束力の伴う協定は未だ存在しない。



    【揺れる民族のアイデンティティー】
    諸民族の問題は、この国に大きな波紋を投げ掛けている。 ロシア人は、
    ドニエストル川沿いに『ドニエストル共和国』という独立国の設立を宣言し、
    南部では、ガガウス人が同様に独立をうたっている。 モルドバ中央政府は
    もちろん、これを承認していない。 そして、更に重大なのは、モルドバは、
    いつの日にかルーマニアと統合すべきか否かという問いである。 この微妙な
    問題に関しては、これまでのところ、双方とも慎重な態度をとっている。

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    独立以後も、ブルガリア人が多数住んでいるトラキアとマケドニアは、トルコの
    領域のままだったので、国民は不満だった。 指導者たちも、、ブルガリア人
    全てを単一の国家に統合したいと望んだ。 また、貿易の促進と経済の拡大には、
    エーゲ海に港を持つ必要があった。

    1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャの3国は、同盟を結んでトルコに宣戦し、
    第一次バルカン戦争が始まった。 1913年、3国側が勝利をおさめたが、トルコ
    から得たマケドニアの分割について3国の意見が一致せずに紛争となり、第二次
    バルカン戦争が始まった。 この戦争では、セルビアとギリシャが、ブルガリア
    だけを敵に回して戦った。

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    ブルガリアは敗れて、同年、講和条約が結ばれた。 その結果、ブルガリアは、
    一部の領土をトルコに返還し、マケドニアの極一部だけがブルガリア領となった。

    この頃、貿易と領土をめぐる敵対関係から、ヨーロッパ諸国はふたつの陣営に
    分かれていた。 ひとつは、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコの3国
    からなる陣営で、『連合諸国』と呼ばれた。 それとは別に、バルカン半島の
    いくつかの国々は、オーストリア・ハンガリーの支配からの自由を求めていた。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、それが切っ掛けで
    オーストリア・ハンガリーは、セルビアに宣戦を布告した。 セルビアと同盟
    関係にあったロシアは、この紛争に介入、やがて『中央同盟』と『連合諸国』の
    戦争に広がり、第一次世界大戦が始まった。

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    第二次バルカン戦争で失った領土を取り戻す好機と考えたブルガリアは政府は、
    同盟国側に付く事を決め、1915年、マケドニアの返還を条件に、連合国側に
    宣戦を布告した。 セルビアやブルガリアとの国境でも戦闘が始まった。

    しかし、ブルガリアの政治家たちの間では政策について意見が対立し、国内は、
    不安定な状況となった。 社会民主党と農民連合党は、ブルガリア政府の戦争
    関与を激しく非難した。

    1918年秋、同盟国側は、連合国側に降伏し、ブルガリアもトラキアとマケドニアを
    ギリシャに割譲する条約に調印せざるを得なくなった。 その上、セルビアを
    中心に新しく成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(後のユーゴ
    スラビア)は、ブルガリアの領土の割譲を要求した。 ブルガリアの軍隊は、
    反乱を起こして政権を握り、フェルディナントは退位して、息子のボリス3世に
    王位を譲った。

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    1879年、ブルガリアの指導者らは、ヴェリコ・タルノヴォに集まって憲法を採択
    した。 この憲法の規定で一院制の国会が作られ、国会議員は、全ての市民の投票で
    選ばれることが決まった。 こうして出来た国会は、ドイツの公子バッテンベルグの
    アレクサンドルをブルガリア公に選んだ。 アレクサンドルは、ロシア皇帝の義理の
    甥にあたる人物だった。

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    しかし、アレクサンドルは政府の閣僚を勝手に入れ替えたりして、不評を買い、
    ついには、憲法を停止した。 何年もの間、このブルガリア公は、ロシア軍将校の
    力を借りて国を支配した。 憲法を支持する自由党と、アレクサンドルを支持する
    保守党の間で激しい論争が続いた。 この危機を乗り切るために、アレクサンドルは
    1883年に憲法を復活した。

    2年後、東ルメリアの人々は、トルコに反乱起こし、その地域をブルガリアに統合
    した。 ブルガリア勢力の拡大を経過したロシアは、アレクサンドルを誘拐して
    新政権を樹立する陰謀を支持した。 この陰謀は、国会議員ステファン・
    スタンボロフによって阻止されたが、アレクサンドルは1886年に退位した。

    国会は別のドイツ公子フェルディナントをブルガリア公に選んだ。
    フェルディナントは有能で精力的な指導者で、ブルガリアの各党派の融合を
    果たした。 1908年、フェルディナントは、トルコの衰退に乗じて、東ルメリアを
    含む、全てのブルガリア国土の独立を宣言した。

    フェルディナントの指導の下、ブルガリアは工業と農業の近代化に取り組んだ。
    教育は広がり、識字率は大いに高まった。 しかし、工場での労働条件は過酷で、
    労働者の利益を守るために、社会民主党が結成された。 農民の利益を代表する
    農民連合も結成された。

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    ヤン・フス の出現以来、プロテスタント信仰はスロバキア貴族の間に広まった。
    17世紀始めに、ハンガリーやスロバキアのプロテスタントは、強固なカトリックで
    あるハプスブルグの支配に対抗した。

    1618年、ボヘミアの首都プラハでハプスブルグに対する反乱が起こり、
    ヨーロッパのカトリック諸国とプロテスタント諸国の争いである三十年戦争
    (1618~1640年)が始まった。

    戦争中、トランシルバニアの支配者で、プロテスタントのガボール・ベトレンは、
    スロバキアのハプスブルグ家に反抗した。 1620年、ベトレンは、ハンガリー
    議会によって王国に選ばれたが、翌年、その称号を捨て、ハプスブルグと
    和解した。 ハプスブルグ支配下で、大勢のハンガリー貴族は改宗して、
    カトリックに戻った。

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    三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で、ハンガリー議会は
    権力を排除され、ハプスブルグはスロバキア支配を回復した。 17世紀の
    終わり、ハプスブルグ軍は、ハプスブルグ帝国の首都ウィーンでトルコ軍を
    破った。 この勝利は、ハンガリーをトルコの支配から解放したが、同時に
    スロバキアでのハプスブルグ支配を強めた。 オーストリアの言語である
    ドイツ語スロバキアの教育、行政の公用語となり、スロバキア語は死語も
    同然となった。

    同時に、ハプスブルグは、領地内の全てのプロテスタント宗派を禁止した。
    1703年に、ハンガリー人とスロバキア人は、ハプスブルグ支配に激しく抵抗し、
    反乱を起こした。 反乱は鎮圧されたが、ハプスブルグはブラチスラバで、
    ハンガリー議会を開くことを許可した。 1711年にハプスブルグは、トルコに
    征服されて失っていたハンガリー王国の国境線を回復した。

    だが、相変わらず、スロバキア人の大部分は貧困にあえぎ、ハプスブルグからの
    宗教的迫害を受けていた。 政治的権利は何もないのに、スロバキア人は
    税金を徴収され、兵役に就き、地主のために働くことを要求された。 こうした
    抑圧はやがて、スロバキア人がハプスブルグ領内で、自治を要求する動きに
    繋がった。

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    バルカン半島(南東欧)の小国アルバニア共和国は山がちの国であり、その歴史は
    長く波乱に富んでいる。 数世紀にも渡り、外国勢力の征服を受けて支配された。
    つい最近では、外国との交易や外交関係を一切絶つ鎖国政策を取ったことで知られて
    いる。 鎖国政策のお陰で経済は酷い状態になったが、その反面で、アルバニア人は
    古くからの独自の文化を守ることが出来たとも言える。

    アルバニア人はこの地域の先住民イリリア人の子孫である。 イリリア人は今から
    3000年以上も前に、バルカン半島に進出して住み着いた。 その後、ローマ帝国は
    イリリクムという州を置いて支配したが、イリリア人の多くは独立の精神を捨て去る
    ことはなかった。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、バルカン地域は混乱した。

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    これ以後の1000年の間、イリリア人の名で呼ばれたアルバニア人は、統一した
    政府を持つことは出来なかった。 アルバニアの河川の流域や、岩だらけの
    高地にわずかにある小さな土地を支配したのは、対立し合う有力な部族や強い
    力を持つ領主たちだった。 一方、イタリアのヴェネツィア共和国がアドリア海
    沿岸部の低地に港や貿易のための拠点を築いた。

    15世紀になると、オスマン・トルコが小アジアからバルカン半島に進出して来た。
    オスマン・トルコはアルバニア人領主を隷属させて支配を確立する。 そのため、
    アルバニアの都市や港の交易活動は衰えた。 アルバニアには肥沃な土地が
    ほとんどないため、農業生産は限られていた。 主要な輸出品と言えるのは、
    武器や外国軍隊への傭兵に過ぎなかった。

    アルバニアは1912年に、オスマン・トルコ帝国から独立を宣言した。 しかし、
    ヨーロッパ列強が新国家の国境を定めた後、数百万のアルバニア人が隣国に取り
    残されてしまった。 第一次世界大戦と第二次世界大戦の時期に、アルバニアは
    バルカン半島の支配権を狙う外国勢がぶつかり合う戦場となった。

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    第二次世界大戦期に抵抗運動を指導したエンヴォル・ホジャの下てで、戦後、
    社会主義政権が成立した。 1970年代末になると、ホジャは、真の社会主義国家の
    建設を理由に、社会主義国を含む全ての国との関係を絶った。 同時に、ただ
    ひとつの合法的な政治組織であった共産党が国内の反対勢力を容赦なく排除した。

    アルバニアは、1980年代初めまでに、孤立無援の国となった。 ホジャの鎖国
    政策は国内の産業を衰退させ、生産が落ちるにつれて、食料や日用品の不足が
    目立ち始めた。 ホジャが死去した1985年までに、アルバニアはヨーロッパで
    最も貧しい国になった。

    1990年代初めに社会主義体制が崩壊すると、新たな時代が始まった。 1992年には
    民主的な政権が成立し、経済再建に取り組んだ。 欧米の国々が再びアルバニアへの
    投資を開始し、貿易も再開された。 ここ数十年来初めてのことだが、アルバニア
    でも観光客が歓迎されるようになった。 これに伴い、政府は観光産業の進展に力を
    入れている。

    しかし、依然として貧困と、食料や日用品、職場の不足といった状態が続いている。
    隣接するバルカンの国々の民族紛争も、この国を新たな戦争に引き込む危険性を
    はらんでいる。

    政権が代わり、経済の面で多くの変化が見られたが、アルバニアは国を安定させ、
    繁栄を導くための長い戦いに直面している。

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    18世紀末、ブルガリア民族主義が復活して来た。 新しく学校が建てられ、
    そこでは教師たちがブルガリア語を使って国の古い民謡や抒情詩を通じて
    歴史を教えるようになった。 歴史に関する著作がいくつも発表され、
    ブルガリア人の民族意識が高まった。

    マケドニア生まれのパイシー神父は『スラブ・ブルガリア史』を著して、
    トルコ支配に対する民族意識を目覚めさせた。 この頃、ロシア帝国は領土を
    南のバルカン半島へ広げようとしていた。 ロシア人は、黒海地域の港と
    貿易を支配して、ロシアの広大な平野をエーゲ海や地中海と結ぼうと考えていた。
    ロシア皇帝は、ギリシャ正教を信じるロシア人の指導者として、トルコに圧力を
    掛け、ブルガリア人の宗教と政治上の自由を広げるように迫った。

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    トルコは、広大な領土を支配するのに疲れて弱体化し、支配下にあったギリシャや
    ルーマニアが次々と反乱を起こした。 独立運動の闘士ゲオルギ・ラコフスキーは、
    セルビアとルーマニアでゲリラ組織を訓練し、バルカン山脈を横断して反乱の
    火の手を上げた。 ヴァシル・レフスキーは、ブルガリアの農村地帯に入って
    革命家たちの地下組織をつくり上げた。

    反乱は最初は失敗を続け、ラコフスキーは、1867年に死に、レフスキーは捕ら
    われて1873年に処刑された。 3年後、反乱は残酷に鎮圧された。 1877年、
    ロシア皇帝は、ブルガリア人の要請に応じてトルコに宣戦し、ロシア軍はバルカン
    半島に侵入した。 ブルガリアとロシアの両軍は、トルコ軍と激突して、勝利を
    重ねた。

    1878年、トルコはサン・ステファノ条約に調印した。 この条約によって、
    トルコはバルカン半島の領土を全て奪われ、ブルガリアは、トラキアと
    マケドニアを領域に加えることになった。 しかし、ヨーロッパの多くの国々は、
    オスマン・トルコ帝国の没落は、ロシアのバルカン支配に通じると考えた。

    3ヵ月後、ベルリン会議が開かれて、ヨーロッパ列強は、ブルガリアに強制して、
    トラキアとマケドニアをトルコに返還させた。 ブルガリアは北部だけ独立を
    認められたが、東部は東ルメリアという名称で、トルコ支配下の半独立国と
    なった。

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    ビザンチン皇帝、バシル2世は、1024年にブルガリア軍を撃破し、ブルガリア人
    殺しの異名を取った。 1万4,000人のブルガリア兵士がバジルの命令で眼球を
    摘出され、やがてブルガリア全土が支配下に編入された。

    ビザンチンの支配下でブルガリア人は重い税金を課せられ、貧困に苦しんだ。
    人々は何度か反乱を起こしたが失敗し、その後12世紀になって十字軍が
    ブルガリアを通過するようになると、領域の衰退はますます激しくなった。

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    ビザンチンの支配は、1180年代まで続いたが、イワンとぺトルのアッセン兄弟は
    バルカン山脈内のヴェリコ・タルノヴォを首府とし、第二次ブルガリア帝国を
    建国した。 内部抗争で弱体化していたビザンチン帝国は、マケドニアをこの
    新しい国に譲渡して和議を結んだ。

    13世紀初期、イワン・アッセン2世は、トラキア西部とアルバニアを征服した。
    アドリア海に面したアルバニアの獲得によって、ブルガリアの商人たちは、
    外国貿易を広げることが出来た。 ブルガリアは、再び富に栄えて、外国の
    商人や移民が沢山入り込んで来た。 貿易が急激に拡大して、この国最大の
    貨幣が作られた。

    ブルガリアのボヤール人と商人は、繁栄を楽しんでいたが、農奴たちは、貧困と
    飢餓と病気に苦しんでいた。 1277年、農奴の反乱が起こった。 この反乱と、
    その後に続く、セルビアやハンガリーとの戦争の敗北が原因で、ブルガリアは、
    マケドニアその他、重要な地域を放棄せっざるを得なくなった。 その上、
    アジアから侵入したモンゴル軍のために、ブルガリア北部の都市と港湾と交易の
    中心地は大きな損害を被った。



    更に、一層深刻な脅威が現れて来た。 1360年代、小アジアのオスマン・
    トルコ人がバルカン半島に侵入し、マリツァ渓谷にあるブルガリアの諸都市を
    攻撃した。 ブルガリア王イワン・シシュマンは3世は、トルコ皇帝の臣下と
    なった。 トルコ人は、既にビザンチン帝国の大部分を征服し終わっていた。
    1393年、ヴェリコ・タルノヴォは陥落し、3年後、オスマン・トルコ帝国は
    ブルガリアを併合した。

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    20世紀のはじめのチェコ人は、ハプスブルグ統治からの独立を要求していた
    多くの民族のひとつに過ぎなかった。 数世紀に渡ってバルカン半島を支配
    していたオスマン・トルコ帝国は衰退し、答辞の南東ヨーロッパは不穏な情勢
    だった。 オーストリアとトルコの勢力に挑戦して、ロシア帝国などの列強が、
    中央ヨーロッパに領土拡大と支配の手を伸ばして来た。

    オーストリア対ロシアの不穏な情勢が、第一次世界大戦(1914年~1918年)の
    引き金となった。 オーストリアはバルカン半島で、ハプスブルグからの独立を
    求めるセルビア人と戦うこととなった。

    ドイツとオーストリアは同盟を結び、東でロシアと、南でイタリアと戦った。
    しかし、チェコ人は同じスラブ民族であるセルビア人はロシア人を相手に戦い
    たくなかった。 多数のチェコ人がロシアへ脱出して、チェコとスロバキア
    共同の軍隊を組織した。

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    対戦中、チェコの指導者トマシュ・マサリクとベネシュ、スロバキアの指導者
    ミラン・シュテファニックは、チェコとスロバキアにそれぞれ独立国を建て
    ようと計画していた。 しかし、情勢の成り行きを見たマサリクは、両者を合体
    したチェコスロバキア連邦共和国の建国を決心した。 アメリカ合衆国の州政府の
    ように、連邦政府の下にチェコとスロバキアそれぞれに、共和国政府をつくる
    ことを約束した。

    ドイツとオーストリアの敗北が目前となった1918年10月、マサリクは、チェコ
    スロバキアの独立を宣言した。 10日後、マサリクは、初代大統領に就任した。

    1918年11月のドイツとオーストリアの降伏の後、ハプスブルグ王朝は崩壊し、
    オーストリアとハンバリーも独立国となった。 旧オーストリア領内の国々も
    独立を勝ち取った。 同じ頃、ロシア革命が起こり、やがて、東ヨーロッパの
    国々を支配する共産主義国であるソビエト連邦共和国設立の切っ掛けとなった。

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    過去のある時期、ブルガリアの人々はとるこの支配を逃れて、山間の僻地で
    暮らしていた。 1878年に一部の地域が独立を回復すると、渓谷や低地の
    住民たちは、更に肥沃な土地を求めて移動し、人口は増加した。 第二次
    世界大戦後、各都市に新しい工業が出来、都市部の人口は増加した。

    1990年代初期には人口阿900万人を超え、68%は都市に住むようになった。
    人口110万人の首都ソフィアは、西武の高い山岳地帯にある。 交通の要衝
    として重要な位置を占め、西には隣国セルビア、北にはドナウ台地、東は
    トラキア平野に通じる街道がここから出発する。 この都市には、繊維、
    薬品、機械、靴、衣類、車両などの工場がある。

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    ソフィアは、ブルガリアの文化の中心地でもあり、大学、技術専門学校、
    博物館、オペラハウスなどがある。 イスラム教の寺院とユダヤ教の協会堂が
    あり、それぞれの教徒の集会に使われている。 古代のキリスト教の教会も
    数多く復元されている。 ソフィア市立庭園には噴水、並木、芝生などがあって、
    市民たちの憩いの場となっている。

    古代のトラキア人が、現在のソフィアの地に定住したのは、紀元前1000年である。
    紀元前29年にローマ人がこのトラキア人定住地を占領して、セルディカと名付けた。
    ブルガール人がこの地域に到達したのは、紀元前809年で、その後オスマン・
    トルコ帝国の支配下に入った。 14世紀になって、地元の教会の名を取って、
    ソフィアと名付けられた。 1897年に首府となった後は、第二次世界大戦中に
    激しい爆撃を受けたが、戦後に復興された。

    第二の都市であるプロブディフは、人口35万人で、マリツァ川のほとりにある
    重要な商業都市である。 古代ギリシャ人はここに、エウモルピアスという
    都市を建設した。 紀元前341年にマケドニア人がこの都市を征服し、その後
    この都市は、ローマの1州であったトラキアの首府となった。

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    プロブディフは食品加工業が盛んで、米、果実、タバコ、ワインなどの包装と
    梱包が行われている。 他には、靴や繊維、金属製品などが製造されている。
    この町では毎年1回見本市が開かれて、ブルガリアの工業製品が多く展示される。
    観光名所としては、全体が大理石でつくられた古代の劇場がある。 また、
    この都市から遠くないところに、13世紀につくられた威圧的な要塞がある。

    人口30万人のヴァルナは、黒海沿岸の主要港だが、ここも古代ギリシャ人の
    建設した都市で、当時はオデッソスと呼ばれた。 現代のヴァルナには繊維、
    家具、陶器、ディーゼル・エンジンなどの製造工場があり、また、軍事基地と
    海員学校もある。

    南部にある人口14万5,000のブルガスは、幅が広くて奥行きも深いブルがス湾に
    面していて、港の近くには、魚肉缶詰工場や精油工場、巨大な化学工場がある。

    ブルガリア政府は、ブルガス近くの沿岸沿いに近代的なリゾート地をいくつか
    建設して、観光客の誘致をはかっている。

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    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア
    国王として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。
    ボヘミアのチェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実な
    フェルディナンドは宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を
    鎮圧した。 ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】
    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックと
    プロテスタントの対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守る
    フェルディナンド2世が、1617年にハプスブルグ王家を継いだ。
    フェルディナンドは、プロテスタントを領地から一掃しようと決心した。

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    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、
    チェコ人の反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、
    ハプスブルグに対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦で
    チェコ軍を破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから
    追放された。 ビラー・ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックと
    プロテスタントの国々の間で三十年戦争が始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、
    ドイツ、デンマーク、スウェーデンからプロテスタント軍がボヘミアに侵入した。
    相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、街、農村は根こそぎ破壊された。
    フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ追放し、ボヘミア
    議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア
    王国領ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放された
    チェコ人貴族の領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人
    カトリック教徒の手に渡った。 ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、
    ドイツ語が政治、教育の公用語となった。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、
    ハプスブルグ家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、
    ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。
    これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南ヨーロッパのトルコ領を
    次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、
    まさに血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの
    王位にすえようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。
    スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、
    オーストリアは、ネーデルランドなどを勝ち取った。

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    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく
    支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーと
    ベーメンの自治を求める動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き
    継いだ。 その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、
    ベーメンの富裕な属州シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め
    込んだ。 フランス、スペインなどの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア
    継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、
    シュレージエンの回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年に
    フリードリヒの勝利に終わった。

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    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の
    資産を摂取した。 1774年彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア
    市民の全てが教育を受けられるようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と
    表現の自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから解放した。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、
    領主から強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ
    帝国を構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。
    各地に分散したハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の
    多くは、この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する
    絶好の機会と考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。
    この和議で、ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが
    認められた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年
    退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土は
    これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックの対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、カトリック教会に好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、
    宗教改革運動を自分達の権威の脅威と考えて、カトリック系の指導者達との
    連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を
    率いてオーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ベーメン王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ベーメンの
    プロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。
    ハプスブルグ家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を引くことになった。
    1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の宗教を
    選択する権利を再確認した。

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