ビザンチン皇帝、バシル2世は、1024年にブルガリア軍を撃破し、ブルガリア人
殺しの異名を取った。 1万4,000人のブルガリア兵士がバジルの命令で眼球を
摘出され、やがてブルガリア全土が支配下に編入された。

ビザンチンの支配下でブルガリア人は重い税金を課せられ、貧困に苦しんだ。
人々は何度か反乱を起こしたが失敗し、その後12世紀になって十字軍が
ブルガリアを通過するようになると、領域の衰退はますます激しくなった。

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ビザンチンの支配は、1180年代まで続いたが、イワンとぺトルのアッセン兄弟は
バルカン山脈内のヴェリコ・タルノヴォを首府とし、第二次ブルガリア帝国を
建国した。 内部抗争で弱体化していたビザンチン帝国は、マケドニアをこの
新しい国に譲渡して和議を結んだ。

13世紀初期、イワン・アッセン2世は、トラキア西部とアルバニアを征服した。
アドリア海に面したアルバニアの獲得によって、ブルガリアの商人たちは、
外国貿易を広げることが出来た。 ブルガリアは、再び富に栄えて、外国の
商人や移民が沢山入り込んで来た。 貿易が急激に拡大して、この国最大の
貨幣が作られた。

ブルガリアのボヤール人と商人は、繁栄を楽しんでいたが、農奴たちは、貧困と
飢餓と病気に苦しんでいた。 1277年、農奴の反乱が起こった。 この反乱と、
その後に続く、セルビアやハンガリーとの戦争の敗北が原因で、ブルガリアは、
マケドニアその他、重要な地域を放棄せっざるを得なくなった。 その上、
アジアから侵入したモンゴル軍のために、ブルガリア北部の都市と港湾と交易の
中心地は大きな損害を被った。



更に、一層深刻な脅威が現れて来た。 1360年代、小アジアのオスマン・
トルコ人がバルカン半島に侵入し、マリツァ渓谷にあるブルガリアの諸都市を
攻撃した。 ブルガリア王イワン・シシュマンは3世は、トルコ皇帝の臣下と
なった。 トルコ人は、既にビザンチン帝国の大部分を征服し終わっていた。
1393年、ヴェリコ・タルノヴォは陥落し、3年後、オスマン・トルコ帝国は
ブルガリアを併合した。

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