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    タグ:デンマーク

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    15世紀のカトリック教会は、権力が強く裕福だった。 教会は所有する地所と
    農地から莫大な利益を得ており、国内で生産される全ての穀物から一定の
    割合で金品を徴収していた。 高位の聖職者の殆どは、貴族の子弟で、
    それがますます裕福になって行くため、一般の人々は、教会に反発を
    抱き始めた。

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    1479年、クリスティアン1世は、教会から提供させた資金でコペンハーゲンに
    大学を創立した。 教会の権威に反抗する宗教改革の思想はこの大学から
    生まれた。 この思想の信奉者は、プロテスタントと呼ばれ、次第に勢力を
    拡大して行った。 この風潮に対応して、次の国王ハンスは、最初の国会を
    召集した。 この国会では、貴族や聖職者と並んで、一般市民が議席を
    与えられた。

    1513年に国王に選ばれたクリスティアン2世は、聖職者と貴族の勢力を
    抑えるのに努めた。 土地制度の改革が実行され、一般市民が王の顧問に
    任命された。 王はまた、スウェーデンに兵を送って、デンマークの権威の
    回復を図った。 1520年、王はスウェーデン貴族82人を処刑させた。

    スウェーデン人は、この虐殺に激怒し、本格的な氾濫が勃発した。 3年後には、
    スウェーデンは、独立を勝ち取り、スコーネなどわずかな地域だけが
    デンマークの支配下に残った。

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    クリスティアン2世の叔父フレゼレグ1世の時代には、プロテスタントの勢力は
    ますます盛んになった。 この国でのプロテスタントの主な支持者は、地位の
    低い聖職者と中流階級出身者だった。 1533年、フレゼレグ1世が死ぬと、
    宗教対立は絶頂に達した。 彼の息子たちのうち、カトリックのハンスと、
    プロテスタントのクリスティアンのどちらが王位に就くかを巡って国論は二分し、
    内乱が勃発した。

    クリスティアンが、1536年に勝利をおさめて国王のクリスティアン3世となり、
    プロテスタントの一派である福音派教会を国教と定めて、国王はその首長となった。
    クリスティアン3世は、カトリック教会の土地を没収して、王家の権力と財力を
    大いに増大させた。

    しかし、デンマークがスウェーデン、ロシア、ポーランドと次々に戦って、
    バルト海での勢力を拡大させようとしたため、財力はたちまち減少した。
    1563年から70年に掛けて、デンマークは、スウェーデンと北方七年戦争を
    戦ったが、一片の領土も確保出来なかった。

    その後デンマークは、16世紀末まで軍事から一切手を引いた。 平和の続いた
    30年の間に、この国から輸出される穀物と家畜の値段が上昇し、一般市民の
    生活が潤った。

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    【デンマークによる征服】
    アルフレッド王死後も、王国の統一は破られず、平和が続いた。 だが、11世紀
    初頭に再びデンマークが侵入して来ると、ウェセックスのエセルレッド王は、
    デーン税と呼ばれる税金を徴収し、この金でバイキングを買収し、その襲来を
    防ごうとした。 しかし、これも長続きせず、1013年にデンマーク人が大軍で
    襲って来た。 スウェイン王の下、デンマークのバイキングはエセルレッドの
    領土を征服した。

    スウェイン王が1014年に死んだ後、王国は息子のカヌートが引き継いだ。
    カヌートは、イングランド人にもデンマーク人にも支持されたが、カヌートの
    後継者には人望のあつい者が出ず、また、直径の跡継ぎも残さずに死んだ。

    1042年、ウェウセックスの指導者達は、エセルレッド王の息子であり、
    ノルマンディー(現在のフランス北西部地方)で育てられたエドワードを
    イングランド王に選んだ。 懺悔王のあだ名を持つエドワードは、信仰心があつく、
    治世の大半をロンドンの寺院建設に費やした。 現在のウェストミンスター
    寺院がそれである。

    1066年、エドワード王が跡継ぎを残さずに死ぬと、イングランドの指導者達は、
    義理の弟ハロルドを王位に就けようとしたが、ハロルドは、その難しさを
    知っていた。 故エドワードの遠縁ノルマンディー公ウィリアムなどが王位
    継承を主張していたからだ。 ウィリアムは兵を率いて、イングランド南部に
    上陸、1066年10月14日ヘースティングスの戦いでハロルドを破った。
    ウィリアムは、ノルマン人初のイングランド王となり、ウィリアム征服王と
    呼ばれた。

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    【ノルマン人治下での変化】

    ノルマン人の勝利の後、ノルマン人の貴族、聖職者、役人、職人、商人が
    大挙してイングランドに渡り、ウィリアム征服王は、イングランド人から
    奪った土地を彼らに分け与えた。 ノルマン人は、独特の建築様式を持ち込み、
    新たに建てられた城塞や聖堂に反映された。

    ノルマン人の言語であるフランス語は、裕福で教養のある上流階級の言葉
    となるが、一般の人々は、アングロ・サクソンの言語から発達した初期の
    英語(古英語)を依然として使っていた。 ノルマン征服はまた、
    イングランドの権力構造を激変させた。 土地所有者は、資力がどれほど
    大きくとも、その地位は、王位の下にあり、また、王室を除く全ての人は、
    自分より上の地位にある人に責任を負うことになった。

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    ウィリアムとその後継者達は、この封建制と呼ばれる制度を1世紀掛けて強化して
    行く。 内乱や、不満を募らせたノルマン人、イングランド人貴族の小さ反乱は
    あったが、封建制は続き、1154年までにノルマンの政治形態が確立された。

    この年、ウィリアムの曾孫アンジュー(ノルマンディーの南)のヘンリーが
    イングランド王となり、フランスのアンジュー、アキテーヌ、ノルマンディーの
    地に加え、イングランドも所領として支配することになった。

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    クヌッド4世の弟ヴァルゼマール2世が1202年に国王になると、ドイツの
    諸侯との間で抗争が生じた。 ヴァイゼマール2世は、バルト海沿いの
    ドイツ騎士団と戦って、エストニア、メクレンブルク等各地を占領した。

    北ドイツの諸侯は、反撃を開始して、1223年、ヴァイゼマール2世を捕らえて
    監視した。 ヴァイゼマールは、自由を回復するため、征服した領土のうち、
    エストニアを除く大部分を放棄した。

    ヴァイゼマール2世が1241年に死ぬと、再び内戦が頻発した。 王族、貴族、
    聖職者達が権力抗争を始めたのである。 1282年、貴族達は、ヴァイゼマール
    2世の孫にあたる国王エーリック5世に強制して、王権を制限する憲章に
    署名させた。

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    1286年にエーリック5世の後を継いだ息子のエーリック6世メンヴェドは、
    北海とバルト海沿岸のドイツ商業都市の連合体であるハンザ同盟の勢力を抑え
    ようとした。 王はそのために、国土の一部を抵当に入れて軍備を調達した。
    スコーネまでがドイツ貴族の所有となった。

    1333年、スウェーデンはドイツのホルスタイン公からスコーネを買い取った。
    これは、デンマークへの重大な脅威と考えられた。 エーリック5世の孫
    ヴァイゼマール4世アッターダーは、1346年、エストニアをドイツ騎士団に
    売却し、その金で抵当に入れられていた国土を買い戻した。

    こうして力を付けた王は、1360年、スコーネをスウェーデンから回復し、翌年、
    ゴットランド島にあるハンザ同盟の有力都市、ヴィスビを占領した。 また、
    娘マルグレーテをノルウェー王ホーコン6世と結婚させた。

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    ローマ人が去った後、様々なゲルマン民族、特にアングル族とサクソン族が
    イギリス諸島を侵略し始めた。 ゲルマン民族の活動とケルト文化の復興に
    よって、ローマ文化は大部分ブリタニアから消え去った。

    アングロ・サクソン人の侵略に加え、6世紀半ばに伝染病が流行、ケルト人の
    人口が減り、ゲルマン人は今日のウェールズ、カンブリア、コーンウォール等
    西や北の端へ逃げた。6世紀後半、7人のアングロ・サクソン王がイングランドの
    地に、それぞれ王国を創った。 ケント、ノーサンブリア、東アングリア、
    マーシア、ウェセックス、サセックス、エセックスの7王国である。

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    この後597年、キリスト教の中心地、ローマからイングランドに宣教師が来て、
    アングロ・サクソン人にキリスト教を布教した。 ケントに上陸した宣教師一行の
    指導者が修道士アウグスティヌスで、ケント国王エセルバードを始め、多くの
    ケントの人々に洗礼を施した。

    エセルバードは、アウグスティヌスにカンタベリーの土地を与え、ここから
    キリスト教がイングランドに広まって行く。 やがて、他の6人の王もキリスト教を
    受け入れた。 キリスト教とアングロ・サクソン芸術は次第に融合、7王国の
    中でもノーサンブリアでその芸術は頂点に達した。 リンディスファーン修道院等で
    写本が作られ、ラテン語で書物も書かれた。

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    【マーシア、ウェセックスとバイキング】
    7王国に代わって、8世紀には強力なキリスト教国が力を伸ばした。 757年から
    796年まで勢力を広げたのは、オッファを指導とするマーシア王国(イングランド
    中西部)である。 オッファは、ウェールズとの国境沿いに『オッファの防壁』と
    呼ばれる長い堤を築き、西の国境を守った。 オッファの後を継いだマーシア王達は
    力が弱く、9世紀にはイングランド中央部から南西部に位置したウェセックスが
    最強の王国となる。

    ほぼ同時期に、優れた航海技術と戦闘技術を持ったバイキングと呼ばれる冒険
    好きの民族がイングランドに攻撃を仕掛けた。 この民族は、スカンジナビア
    地方の民族で、973年にリンディスファーンを略奪、また、別の攻撃で、790年代
    には、ウェセックスを襲撃した。

    海賊行為を繰り返した後、デンマークのバイキングはウェセックスを襲った。
    イングランド周辺に定住し、貿易が出来るようにイングランドを征服しようと
    したのだった。 だが、878年の春ウェセックスのアルフレッド王が、
    グートルム王率いるデンマーク軍をエディントンで破り、886年アルフレッド王と
    グートルム王は、それぞれの王国の国境を定め、イングランド北東部の大半が
    デンマーク領となった。

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     紀元前800年頃には、南のフランク王国が強大となって、ユトランド半島を
    脅かし始めた。 デンマーク王ゴットフレッドは半島を横断する堅固な城壁を
    造って、フランク人の侵入を防いだ。 王が殺害されると、その甥、ヘミングは
    逆にフランク王国の領域に侵入して略奪した。 やがてデンマーク以外の
    北欧諸国の船乗りや冒険家達も混じって、バルト海や北海を渡って、ヨーロッパ
    各地への侵入を始めた。 この侵入に加わった人々をバイキングと呼ぶ。

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    バイキングは巧みに組織された航海者集団だった。 快速の小型船舶で大船団を
    組み、各地に奇襲を加えて相手を武力で圧倒した。 続く250年余りの間、
    デンマーク系、ノルウェー系、スウェーデン系のバイキングは、領土獲得と交易に
    はげんだ。

    デンマーク系とノルウェー系のバイキングは、西と南に進み、イギリス諸島沿岸を
    攻撃した。 イギリスの一部の地域では、村や町の破壊を免れるために、デーン
    ゲルトと呼ばれる賠償金をバイキングに支払った。 イギリスのその他の地域では、
    デンマーク系のバイキングが定住して、土地の人々と婚姻関係を結んだ。 886年、
    当時のイギリス王は、デーン人の定住地を独自の主権を持った地域と認めた。
    この地域をデーンローと呼ぶ。

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    へミングの死後分裂していたデンマークは、900年、ゴルム老王の下に最終的に
    統合された。 ゴルムが死ぬと、自由民達は、集会を開き、ゴルムの息子ハーラル・
    ブロータンを国王に選んだ。 ハーラルは、国王の領域を広げ、父ゴルムと自分の
    功績を石の記念碑に刻み込んだ。 イェリングに建てられたこの記念碑には、
    ハーラルがデンマーク全土とノルウェーの一部を征服して、国民をキリスト教に
    改宗させたと書いてある。

    ハーラルのこの主張にも関わらず、当時この国でキリスト教を信仰していたのは
    極僅かで、大部分の人達はオーデン、フライア、トール等の北欧の神々を崇拝
    していた

    ハーラルはドイツの主権者が、デンマーク人を改宗させる名目で国土を侵略
    するのを防ぐため、キリスト教になったらしい。

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    デンマークの人口の約85%は都市部に住んでいる。 海洋と航海に依存して来た
    歴史的な経緯から、主な都市の殆どは、海岸部にあるが、大きさと重要性という
    点において、コペンハーゲンは、デンマーク国内でも随一の都市と言える。

    人口約140万人の首都コペンハーゲンは、産業と教育と文化の中心であり、最大の
    港湾でもある。 市街の大半は、シェラトン半島の東海岸にあるが、南部は隣接
    するアマイェル島に広がっている。 1160年、デンマーク王国ヴァルゼマール
    1世は、当時漁村だった地域を大司教アプサロンに与えた。 アプサロンが建設し
    た街はケブマンスハウン、つまり、『商人の港』と呼ばれ、これがやがて今の
    名前となった。

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    アプサロンは、スロスホルメン島に要塞を建設した。 コペンハーゲンの中心部
    にあって、運河に囲まれているスロスホルメン地域には、現在デンマーク政府が
    置かれている。 国会の開かれるクリスティアンスボア宮は、かつて政府官庁の
    全てが置かれていた。 時代と共に大きなスペースが必要となった官庁は、まず
    スロスホルメンの他の建物に移り、やがて首府の中の別の地域へと移って行った。

    クリスティアンスボア宮の北1.6kmたらずのところに、アリエンボア宮がある。
    この宮殿は八角形の広場を囲む4つの建物から成り立っている。 その建物の
    ひとつに国王が住み、もうひとつの建物は、王位継承のために留保されている。
    3つ目の建物は、外国の王侯の宿泊にあてられ、4つ目の建物が宮内庁である。

    コペンハーゲンの商業地域の中に、1843年に開設された有名な公園兼遊園地の
    ティボリ庭園がある。 この庭園には、交響楽やバレエの演奏会場、ダンスホール、
    パントマイム劇場、児童遊技場、レストラン他がある。

    コペンハーゲンは、この国の文化の中心で、デンマーク王立バレエ劇場や、数多くの
    博物館がある。 1970年代以降、ここはまた、廃屋を取り壊した跡地を利用して、
    クリスティアニアという芸術村が形作られている。 コペンハーゲンの東の
    中心部にあるこの小さな地域社会には、大勢の芸術家や職人が集まって来る。

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    【デンマークのその他の都市】
    オールフスは、ユトランド半島の東海岸にある大港湾都市で、人口は約26万人と
    なっている。 造船業の他にも、機械、ビール、繊維類の製造も盛んに行われて
    いる。 この都市には、10世紀から司教が住み、1201年から300年以上掛けて
    完成された有名な寺院がある。 オールフスは、デンマーク第二の都市で、文化と
    教育の中心地でもある。 オールフス大学は、湖に面した緩やかな斜面に位置
    しており、近代的な設計様式で有名となっている。 オールフス植物園の中には、
    『昔の街』と呼ばれる一角があり、ここには国内外各地から集められた小さな
    家屋が数多く展示されている。

    人口17万人のオーデンセは、デンマーク第三の都市で、フェン島東部のオーデンセ
    フィヨルドの置くから少し離れた位置にある。 元は、北欧伝説の神、オーデンを
    祀る場所で、町の名前もそれに由来する。 童話作家ハンス・クリスティアン・
    アンデルセンは、ここで生まれた。 オーデンセは、今では重要な工業都市と
    なっており、電子機器、繊維類、木材を生産している。 ここにはまた、大造船所が
    あり、マンモスタンカーを製造している。 この都市とオーデンセフィヨルドの
    間には、長さ8kmの運河がある。

    人口約15万人のオールボアは、ユトランド半島北部のリムフィヨルドの奥に位置
    していて、11世紀発祥の大運河都市である。 グリーンランドとの交易は、殆どが
    この都市の近代的な港湾施設を通じて行われている。 オールボアは、造船と
    セメントの街として、国の経済に重要な役割を果たしている。 また、タバコと
    デンマークならではの飲み物、アクアヴィットが生産されている。 1430年に
    建築が始まった聖ボトルフ教会は、この街の歴史的建築物のひとつとなっている。
    1620年代にイエンス・バングという裕福な商人が建てた5階建ての豪壮な石造りの
    家も歴史的建築物として有名。

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    現在のデンマークの国土で、最後の氷河期の氷が解けて消え始めたのは、紀元前
    1万2000年頃である。 紀元前1万1000年頃には、遊牧民の集団がやって来た。
    彼らは、トナカイを捕獲して、食料と毛皮を得ていたらしい。 紀元前3000年
    頃には、人々は定住地を作り始め、森林を焼き払って、灰の中に穀物を栽培した。
    食料用の家畜も飼われていた。

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    紀元前3000年前後に氷河が解けたため、ヨーロッパ北西部の一部は水没した。
    その後、比較的標高の高い地面が海面から次第に姿を現し始め、一部がこの国の
    島々を形作った。 紀元前2000年から1500年位の間に、東と南から新来の人々が
    ユトランド半島に侵入した。 彼らは、現在のデンマーク人語の祖先である
    ゲルマン語を話していたと思われる。 そして、青銅製の頑丈な武器や精巧な
    装飾品を作り、帆船で海を渡って、ヨーロッパの他の地域と交易をしていた。

    紀元前500年頃までに、この国土の住民達は、鉄製の武器や道具を作る方法を
    会得した。 その後、600年余りの事は良く分からないが、この間に北欧全体の
    気温が寒冷化して、人口が減少し、他の地域との交易も衰えたらしい。
    一部の集団は、南に移住したと思われる。 紀元前100年以降、この国の人々は、
    他の国との交易を再開した。

    6世紀までに人口が急増し、多数の小王国が成立した。 紀元前500年前後、現在の
    スウェーデン南部のスコーネ地域から、デーン人と呼ばれる人々が、エーレ海峡を
    超えてデンマークにやって来た。

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    その後の300年の間に新来者は、スコーネ、シェルラン島、ユトランド半島に
    またがる王国を建設し、この国の名をダンマルク、つまり、『デーン人の国』と
    呼んだ。 これが、デンマークの国名の起源である。

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    デンマークは、北ヨーロッパの小さな国で、北海とバルト海の間に位置している。
    この国は、昔から重要な交通の十字路であった。 その主な港である
    コペンハーゲンは、現在でも世界一の商業の中心である。 半島と数多くの
    島々から成り立っているため、国土内のどこも海に近い。 その結果、人々は
    早くから海上交通と貿易に通じていた。

    紀元前800年から1050年に至るバイキング時代を経て、この国は、バルト海
    地域の強大国となり、ノルウェーの全部とスウェーデンの広い部分を支配した。
    14世紀から18世紀に掛けて、デンマークは、ドイツの商人や諸侯から挑戦を受け、
    続いてスウェーデンと対立した。 度重なる戦争の結果、1814年までに、
    デンマークはノルウェー等の海外の領土を殆ど失った。

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    この国は、19世紀半ば以降、ずっと立憲君主制を続けている。 この政治形態では、
    憲法が人権を保障し、選挙で選ばれた立法機関が法律を定めている。 デンマーク
    国王の権力は、多分に象徴的なものである。 デンマークは、国民に対して、最初の
    無料教育を保障した国々のひとつである。 教育の無料化と社会保障制度によって、
    デンマーク人は、世界で最も高い生活水準に達することが出来た。 この種の
    数多くの制度と施策を維持するため、人々は高い税金を払っている。

    20世紀後期までは、デンマークは経済的に繁栄していた。 しかし、1970年代半ば
    以降、物価の上昇と失業率の増加に悩まされている。 その上、ヨーロッパ諸国の
    共同体であるEUへの加盟について、人々の意見が分裂している。 この国の
    経済の将来は、ヨーロッパとの国々との貿易を上手く続けられるかに掛かっている。

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    700年代に後半になると、スベア人をはじめとするスウェーデン、ノルウェー、
    デンマークの氏族たちは、ヨーロッパの北部沿岸を襲うようになり、バイキングと
    呼ばれた。 バイキングとは、彼らの使っていた古代スカンジナビア語で『海賊』を
    意味する。 彼らは、バイキング船に乗って、遠くスペインやイタリアまでも
    襲撃した。 後にはヨーロッパ人として最初に大西洋を横断し、北アメリカ大陸に
    到達した。

    彼らの多くは、人を襲い、盗みを働くだけの海賊だったが、なかには、辿り着いた
    場所に定住して農民となる者もいた。 更に、商人になる者もいた。 スウェーデンの
    バイキングは、バルト海を渡ってヨーロッパの川へと船を進め、内陸まで入って
    行った。 そして、奴隷、ハチミツ、毛皮、琥珀などの交易で富を成して行った。

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    【キリスト教の国】

    キリスト教の宣教師達が最初にスウェーデンにやって来たのは、800年代から
    900年代の頃となっている。 1008年、ヴェスティルイェータランドの王、
    オーロフ・シュットコンヌングが洗礼を受けた。 オーロフは、自らを
    スウェーデン国王と名乗った。 オーロフや後継の王達はが多神教徒と戦い、
    1100年代にスウェーデンは、キリスト教の国となった。

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    【貿易と同盟】
    1300年代になると、スウェーデンでは、ドイツの商人が勢力を持つようになった。
    彼らは、北ドイツに基盤を置く承認の組合、ハンザ同盟に属する商人だった。
    ハンザ同盟の商人達は、ストックホルムと度とランド島のビスビューに拠点を
    設けていた。 その他にも交易都市が発展して行った。 スウェーデンの貴族は
    裕福になり、権力も強くなった。

    1389年、スウェーデンの貴族達が国王アルブレヒトに対して反乱を起こした。
    貴族達を後押ししたのは、ノルウェーのマルグレーテ女王で、女王はデンマークも
    支配していた。 アルブレヒトは破れ、1397年、マルグレーテの姪の息子である
    エリクが、スウェーデンとノルウェーとデンマークの王となる同盟が結ばれ、
    エリクがカルマルで即位した。

    このカルマル同盟を結んだ3国の間で争いが起きた。 1471年にスウェーデンが
    デンマークの国王クリスチャン1世を倒した。 1520年には、デンマーク国王
    クリスチャン2世がスウェーデンを侵略した。 クリスチャン2世は、スウェーデンの
    貴族達を晩餐会に招き、82人の貴族を打ち首にした。 これは、
    『ストックホルムの大虐殺』として知られている。

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    駐日デンマーク大使館の公式ツイッターアカウントでは、定期的に同国の労働環境に
    関する内容をツイートしており、ブラック企業と長時間労働に苦しんでいる日本の
    ツイッターユーザーから「羨まし過ぎる」といった声が続出している。

    「デンマークでは、年5週間の有給休暇が認められています。 実際には6週間以上
    取得できる職場も多いようです。 全ての人が有給休暇をほぼ100%消化します」
    これはデンマーク大使館が10月に投稿した内容。 これに対して、日本の有休取得率は
    47.6%(2014年・厚労省調べ)。 旅行サイトのエクスペディアが毎年発表している主要
    25か国の有休取得率でも、日本は例年最下位レベルに沈んでいる。

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    残業の翌日は早めに退社。 初任給も高く「生活残業」も不要


    他にも羨ましい投稿がたくさんある。 まず、労働時間は「37時間(1日平均7.4時間)」で、
    実際に企業によっては37時間以下に定められていることもある。 更に、「残業」の規定が
    ない職場もあるという。

    残業がほとんどない上、フレックスタイム制の中で処理する企業も多く、前日遅くまで
    働いた場合は早めに帰るなどして労働時間を調整するのだそうだ。 同大使館は、
    「職種毎組合の力によって、初任給からある程度の高給であることも背景にあります」
    とも説明しており、日本のように残業代目当ての「生活残業」をする人もいないのだろう。
    なお、日本の労組は企業別になっており、雇用の維持と引き換えに長時間労働やサービス
    残業に口を出さない「御用組合」も少なくない。

    更に、デンマークでは、残業が発生した場合には「代休」と「残業代」のどちらかを選ぶ
    ことができる。 例えば、月12時間残業だと、35%増しの16時間12分、つまり2日間分の
    代休を取得するか、残業代をキャッシュでもらえる。 
     
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    最低賃金2000円なのに「ビジネスのしやすい国」3位

    ホワイト労働環境のデンマークだが、決して生産性が低いという訳でもない。 1時間
    あたりの労働生産性は、59.5ドル(2012年)で、OECD加盟国中7位に入っている。
    尚、日本は40.1ドルで20位。 連日残業して一生懸命働いているのに、デンマークに
    敵わないのが非常に悲しい。

    また、同大使館の投稿によると、デンマークの最低時給は110クローネ(約2000円)と定め
    られており、こちらもかなり高い。 それでいて起業しにくいということもなく、世界銀行の
    「ビジネスのしやすい国」ランキングでも、同国はシンガポール、ニュージーランドに続いて
    3位に入っている。

    同大使館は、他にも自国の生活環境を自慢する投稿をツイートしている。 大学院まで
    全ての教育は無料で、全ての学生に月8万円が支給される。 更に、医療費も無料で、
    18歳になるまで子ども手当も出る。

    消費税25%でも「幸福度ランキング3位」は国会議員の差?

    こうした北欧特有の福祉の厚さの背景には、世界有数の産油国であることの他、25%の
    消費税に代表される高い税金があるが、多くの人が納得しているのだろう。 国連が発表
    した2015年の「世界幸福度ランキング」でも同国は3位になっている。

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    【デンマークの高福祉を支える数】

    ・出産費用、保育園から大学までの教育費が無料。 
    ・子供には毎年国から18才20万円の児童手当が支給される。
     大学生には国から毎月8万円支給される。 
    ・結婚式、葬式が無料。
    ・失業の際には、それまでの収入の90%が4年間支給される。 
    ・デンマーク人はほとんど貯金をしない。 税金が貯金通帳だと思う人が多いため。 
    ・OECD加盟国の中で一番貧困率が低い。
    ・民主主義指数世界3位。
    ・公務員と政治家がクリーンな国ランキングで世界2位。
    ・世界平和指数ランキングで2位。
    ・国連の発表した幸福度指数で世界1位。
    ・医療費が無料。 入院費用、歯医者も無料。
    ・介護サービスが無料。
    ・年金は掛け金なしでも支給される。

    出典:キャリコネニュース

    【お勧めの一冊】



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    国連の『持続可能な開発ソリューション・ネットワーク』が各国の幸福度を指標化した
    幸福度報告書が4月23日に発表となった。 これは、各国の政策に反映させることを
    目的としたもので、2012年から開始され今年で3回目となる。

    経済学者らが国民1人あたりの実質GDP(国内総生産)、健康寿命、社会的支援、
    人生選択の自由度、汚職レベルの低さ、寛容度を変数として幸福度を割り出したもので、
    調査対象となった158か国中、1位はスイス、2位はアイスランド、3位はデンマークと
    相変わらずヨーロッパの小国がトップを占めており、日本は46位で昨年の43位から
    順位を3つも下げた。

    japanranking

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    『世界幸福度ランキング』で世界156ヶ国中、例年首位をキープしているデンマーク。

    デンマーク

    『マッチ売りの少女』にあるような厳寒、貧困の国であったデンマークは、戦後の
    社会福祉国家としての制度改革によって、いまや『国民の幸福度ランキング』で
    世界第一位の生活大国となった。 世界でも最も小さな国家とも言える
    デンマークの生活は、一体何が幸福なのか? 

    その生活を日本と比較すると、余りの落差に驚きを隠す事が出来ない。


    ・出産費用、保育園から大学までの教育費が無料。 
    ・子供には毎年国から18才20万円の児童手当が支給される。
     大学生には国から毎月9万円支給される。 
    ・結婚式、葬式が無料。
    ・失業の際には、それまでの収入の90%が4年間支給される。 
    ・デンマーク人はほとんど貯金をしない。 税金が貯金通帳だと思う人が多いため。 
    ・OECD加盟国の中で一番貧困率が低い。
    ・民主主義指数世界3位。
    ・公務員と政治家がクリーンな国ランキングで世界2位。
    ・世界平和指数ランキングで2位。
    ・国連の発表した幸福度指数で世界1位。
    ・医療費が無料。 入院費用、歯医者も無料。
    ・介護サービスが無料。
    ・年金は掛け金なしでも支給される。



    残業が基本的にない。 残業をする場合は、大幅に賃金が割高になるため、
    企業は労働者に残業させないようにする。

    国民の貧富の格差が世界で最も少ない。 4ヶ月間の徴兵制度はあるものの、
    それを拒否して、社会福祉施設等での労働へと替える事が出来る。 

    週2日の休日の他にも年間6週間の休暇が取得出来る。 年間休日は140日程度。 
    平均的なサラリーマンは17時頃には仕事を終え、夕飯は家族で食べる。
    窃盗などの犯罪が多い理由は長期休暇で家を空ける事が多いため。

    国家予算の70%以上が、社会保障福祉、教育、医療に当てられている。
    国にとって、国民一人一人は、大切な財産。 国民は国を信じて税金を納める。
    世界一幸福な国は、国と国民との信頼関係で成り立っている。

    尚、日本のランキングは、世界158カ国中、46位に留まる
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