多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:チロル

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    バーベンベルク家の領土が拡大するにつれて、マジャール人の攻撃がまた
    盛んになった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人
    との戦いで戦死し、バーベンベルク家は絶えた。 北隣のベーメン
    (今のチェコ)の国王オットカル2世は、フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、
    オーストリアとシュタイヤーマルクを自分の領土に併合した。

    980059

    1273年、選挙候達は、スイスの裕福な一族の家長であるハプスブルク家の
    ルドルフを神聖ローマ帝国皇帝に選出した。 1278年、ハプスブルク家の
    軍隊は、マルヒフェルトの戦いでオットカルを打ち破った。 オットカルの
    領土は次々とルドルフの支配化に入った。 こうして、ルドルフを初代とする
    ハプスブルク王朝が始まり、以後、600年以上にも渡ってオーストリアに
    君臨することになる。 ハプスブルク家のオーストリアの君主のほとんどは、
    同時に神聖ローマ帝国皇帝でもあった。 ハプスブルク家は結婚によって
    14世紀中に、ケルンテン、チロル、フォアアールベルクをオーストリアに
    併合した。

    だが、ハプスブルク家は、これらの新領地の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
    貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は人民に課税し、軍隊を
    徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な労働を強いられ、領主の認可が
    なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者達は、ローマ教皇以外の権威を
    認めなかった。

    ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序ある
    継承順序を定めてはいなかった。 相続同士の争いは、しばしば公国を混乱に陥れ、
    貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。 ハプスブルク家と貴族達
    との対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの経済を衰退させた。

    8cf8fa82

    【帝国の膨張】
    1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、
    チロル以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの
    息子マキシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、ネーデルランド
    (現在のオランダとベルギー)の土地は、残らずハプスブルク家の領域に編入
    された。

    1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマキシミリアンは、結婚によって
    ハプスブルク家の領域を拡大する政策を続け、自分の息子をスペイン王
    フェルディナントの娘と結婚させた。 この結婚から生まれたカール5世は、
    1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。
    その結果、カールは、ドイツとスペインを含む、広大な領域をハプスブルク家
    当主として支配することになった。

    カールの弟フェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンと
    ハンガリー両国の王ラヨシュ2世の妹と結婚して、1526年、ラヨシュの戦士後、
    両国の王を兼ねた。ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、
    マジャール人が創設した国である。 ハンガリー貴族の一部は、トルコの支配を
    得て、フェルディナントに反抗した。 当時のトルコは軍事大国で、バルカン
    半島の大部分を支配化に治めていた。 トルコ軍は、1529年にウィーンに
    迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。

    【お勧めの一品】



    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    元々、チロルはひとつだったが、第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国の
    崩壊と共に、南チロルは、オーストリア領からイタリア領となった。 しかし、
    この地域では、今でも『チロル』としての住民意識が根強く、イタリア内に
    ありながら、多くの人達が今でもドイツ語で生活をしている。

    現在は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ
    自治県に属しており、街で飛び交う言語は、ドイツ語が最も多い。 街の通りは
    ドイツ語とイタリア語が併記されており、南チロルでは、イタリア語が強制
    されたことから、衝突が生じた時代もあったが、今では、ドイツ語で教える
    学校もあり、各家庭で子供をどちらで学ばせるかを選択出来るようになっている。



    【メラーノ(Merano) / メラーン(Meran)
    チロル地方の古都、メラーノは、ドイツ語では『メラーン』と呼ばれており、
    13世紀にチロル地方の都として定められた。 公式には、19世紀まで都であり
    続けたが、実際のところは、名ばかりであったため、現在では、緑あふれる
    気品のある街となっている。 ブルグラヴィアート(ブルクグラーフェンアムト)
    地方 (Burggrafenamt) の中心都市となっており、県都ボルツァーノからは、
    北西へ約25km、州都トレントからは、北へ約66kmの距離にあり、保養地
    として整備されているため、街歩きも実に楽しい。



    【ボルツァーノ(Bolzano) / ボーツェン(Bozen)】
    ボルツァーノは、ドイツ語では『ボーツェン』と呼ばれており、イタリア共和国
    トレンティーノ=アルト・アディジェ州北部の都市で、その周辺地域を含む人口
    約10万人の基礎自治体(コムーネ)で、ボルツァーノ自治県の県都となっている。
    古都メラーノの街からは、約25キロの場所にあり、山に囲まれた地理的な条件は
    同じだが、非常に対象的な街となっている。 緑の街であるメラーノに対して、
    ボルツァーノは石の町。 都であるメラーノに対して、ボルツァーノは商業の
    街だった。

    ボルツァーノの旧市街は意外に広く、街が古くから繁栄して来たことを意味して
    いる。 大きな広場を中心に、石畳の路地や、建物の中を通り抜けられる道が
    張り巡らされている。 建物には、壁画や彫刻を施されたものが目に付く。
    ボルツァーノは、石造りの特有の重々しい印象があるが、南チロルに降り注ぐ
    力強い日差しがそれを跳ね返し、街全体をとても明るくしている。 同じ
    チロルにある石造りの街、インスブルックと比較してみるのも興味深い。

    旧市街は、1本の川が境界線となっており、川沿いの道は、緑の多い公園と
    なっている。 古くは、ローマ時代まで遡る街だが、中世時代に、年に4回
    ほど大きな市が開かれたため、街が発展した。 その歴史を受け継ぎ、市が
    立つ通りが今でもある。

    【お勧めの一冊】




    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ