チェチェン共和国は、ロシア連邦国内にある小国であり、カスピ海と黒海に
挟まれたロシア南部のコーカサス地方にある国。 大きさは、日本の四国ほどで、
住民の多くは、アジア系のチェチェン人で、主にイスラム教を信仰しているため、
主に東方正教を信仰しているロシア人とは、民族的にも宗教的にも異なる。

ロシア連邦からの独立を望むチェチェン共和国との戦いは、テロという姿に形を
変えて今でも水面下で続いている。 1991年にソ連が崩壊する間際には、ソ連
各地で独立運動や暴動等が起き、大混乱に陥ったが、チェチェン共和国でも
この頃から独立に向けた動きが活発になった。

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1991年10月にチェチェン共和国の大統領に選ばれたドゥダエフは、すぐさま
独立を宣言。 当時は、ソ連の中にロシア連邦共和国があり、ロシア連邦の中に
チェチェン共和国があるという状況になっていたため、チェチェンは、ロシアに
対して、独立を求めた。 しかし、当時のロシアの大統領であった、エリツィンは、
チェチェンの独立を認めず、治安部隊を派遣して、これを鎮圧しようとした。

1991年12月にソ連が崩壊し、15の共和国がそれぞれ独立したが、ロシアは、
この際にもチェチェンの独立を認めず、チェチェンの独立運動は、その後も続く
事となった。

第一次チェチェン紛争(1994年~96年)
ソ連崩壊から、3年後の1994年、ロシア国内の混乱をおさめ、政治体制を固めつつ
あったエリツィン大統領は、本格的に、チェチェン問題に乗り出した。 12月に
大規模な軍隊を投入し、チェチェンへ介入を始めた。 こうして第一次チェチェン
紛争が始まった。 ロシア軍は、激しい空爆を行い、チェチェンの首都である
グロズヌィを攻めたが、激しい抵抗にあい、首都制圧は出来なかった。 この
戦いは、1996年まで続き、ロシア側とチェチェン側を合わせて、数万人の死者が
出たと言われている。 チェチェンでは、ロシアの空爆により、一般市民にも
多くの死者が出た。 1996年には、5年間にも渡って独立闘争を指揮して来た
ドゥダエフ大統領までもが、ロシア軍の攻撃により死亡した。

こうしたなかで、ロシアの国家保安保障会議のレベジ書記と、チェチェンの
マスハドフ参謀総長らの努力により、1996年8月に和平交渉が行われ、両者は、
チェチェンの独立問題を2001年まで先送りする事を定めたハサブユルト和平
合意を結び、全面的な停戦が成立した。 これに伴い、1997年、ロシア軍は
チェチェンから撤退した。

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第二次チェチェン紛争(1999年~2009年)
ロシア連邦がチェチェンから撤退した後、OSCE(欧州安全保障機構)等の
監視の下で、民主的な選挙が行われ、マスハドフが大統領に選ばれ、国際的に
承認された。 ハスハドフ大統領は、アメリカやアラブ諸国を訪ね、チェチェンの
ロシアからの独立を訴えると共に、ロシアのエリツィン大統領とも定期的に
交渉を行い、正式な独立に向けて準備を進めた。 ところが、チェチェン国内の
武装勢力を上手くおさめる事が出来ず、誘拐等の犯罪が頻繁に起こるようになった。

1999年8月、独立最強硬派のシャミル・バサエフとアミール・ハッターブに率い
られた1,500名程のチェチェン人武装勢力が隣国ダゲスタン共和国へと侵攻し、
一部の村を占領するという事件が発生する。 また、同時期にモスクワでは
アパートが爆破されるテロ事件が発生し百数十名が死亡した。 これを受けて、
ロシア政府はチェチェンへのロシア軍派遣を決定し、プーチン首相の強い
指導の下、9月23日には、ロシア軍がテロリスト掃討のため、再びチェチェンへの
空爆を開始し、ハサヴユルト協定は完全に無効となった。

第二次チェチェン紛争以降にテロが過激化して来た事に関しては、イスラム原理
主義の思想を持つイスラム過激派の勢力が加伸張して来た事があげられている。
チェチェン領内でのゲリラ戦に加えて、2002年10月のモスクワ劇場占拠事件や
2004年9月のベスラン学校占拠事件等、チェチェン共和国外での一般市民や政府
などに対する攻撃や自爆テロも数多く起きている。 自爆テロの中にはチェチェン人
の女が関わっているケースがあるが、これは殺害された独立派武装勢力兵士の
妻等が、仇討ちのためにテロに身を投じていると考えられている。

チェチェン独立派は事件直後には犯行声明を出さない事が多く、むしろ、発生後
しばらくの間は、自分たちの関与を否定するかのような発言を行い、ある程度
時間が経った時に初めて声明を出す事が多い。 また、独立派は、捕らえた一般
市民やロシア兵を殺害する様子をビデオテープに記録し、インターネット上に
配信した事もある。

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このような紛争のテロリズム化に対して、ロシアは2003年から2006年に掛けて
独立派最高指導者のチェチェン共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフ、
第3代アスラン・マスハドフ、第4代アブドル・ハリムを殺害し、シャミル・
バサエフ等の最強硬派の過激派指導者も殺害した。 これ以外にも、アフメド・
ザカエフのような穏健な独立派指導者も大半は国外へ脱出している事から、
チェチェン共和国の弱体化が指摘される事もあった。

このような状況の中、チェチェン共和国の第5代大統領であった、ドク・ウマロフは、
2007年に北コーカサスでのイスラム国家の建設を目指すコーカサス首長国の建国を
宣言した。 2009年の戦争終結宣言以降も、コーカサス首長国等のイスラム
過激派達はロシア連邦軍とチェチェン共和国政府に対するゲリラ戦を継続し、
兵士や市民を殺害する事態が続いている。

独立派は、この戦争により、6万人の市民が死んだと主張している。 また、
ロシア国防省はこの紛争で、6,000人以上のロシア兵が死亡したと発表した。
独立派指導者の一部は、西側諸国に対して仲介を要望し、ロシアの軍事行動等に
対しては抗議をしている。

独立派に対するロシアのプーチン政権の強硬策に対する批判も一部から出て
おり、独立派は、紛争当初こそ各国から支援を得ていたものの、世界的な
『テロとの戦い』という流れの中でチェチェン紛争もこの一部とされることが
多く、紛争後期には独立派もアルカイダ等の国際テロ組織との関係を疑惑視され
孤立無援となった。

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【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧】
 
2002年
モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

2003年
共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

2004年
モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破 - 親ロシア派のチェチェン共和国大統領
アフマド・カディロフなど30人死亡
イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

2005年
カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

2006年
イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

2007年モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

【紛争終結宣言以降の第2次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧】
2009年
モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

2010年
モスクワ地下鉄爆破事件

2011年
ドモデドボ空港爆破事件

【お勧めの一冊】


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