830年にモイミールという名のスラブ首長が、現在のチェコである、ボヘミアと
モラヴィア、更には、スロヴァキア、ポーランドにあたる地域にまたがる
大モラヴィア帝国を建設した。 東フランクからの絶え間ない威圧に対抗して
建設されたスラブ人の国だと言われている。
大モラヴィア帝国は、東のビザンチン帝国と密接な関係を作るためにビザンチン
教会を取るか、または、西のローマ教会を取るか、東西ふたつのキリスト教が
ぶつかる舞台となった。 モイミール一派は、ローマ教会を受け入れたが、
後継者のラチスラフ一派は、大モラヴィア帝国にビザンチン教会の伝道師を招いた。
863年に到着した伝道師キリルとメトディウスは、スラブ人にスラブ語で、
キリスト教の祈祷と儀式を伝えた。 彼らは聖書の翻訳に、キリルが作った
グラゴール文字を使った。
同じ頃、ドイツ遠征中のラスティスラフは、ドイツ王に捕らえられた。 彼の
甥であるスヴァトプクは、ドイツ王と和平を結び、臣下のスラブ人をローマ教会の
カトリックへと改宗させた。 南スラブ人、東スラブ人は、ビザンチン教会に
留まり、チェコ人は、ローマ・カトリック教徒になった。
984年にスヴァトプクが死んだ後、中央アジアのマジャール人がヨーロッパに
侵入して来た。 屈強なマジャール騎馬軍は、大モラヴィア帝国を一気に滅ぼした。
ヨーロッパ南東にハンガリー王国を打ち立てたマジャール人は、現在の
スロヴァキアを占領し、その後、約1000年間に渡って支配した。
【プシェミスル家とボヘミアの統一】
大モラヴィア帝国が滅亡した頃、チェコ人が住むボヘミア、モラヴィア一帯では、
有力な豪族プシュミスル家が権力を広げ、同家のヴァーツラフ公は、チェコ人を
まとめて、ボヘミア公国(後に王国となる)を創った。 大モラヴィア帝国を
滅亡させた東のマジャールの脅威からボヘミアを守るために、929年、
ヴァーツラフはドイツ国王ハインリッヒ1世に臣従の誓いをたてた。 怒った弟
ポレスラフは、ヴァーツラフを殺害した。
しかし、ボヘミア公国の支配を南ポーランドまで広げた弟は、悔い改め、
ヴァーツラフを聖者に叙し、ボヘミアの守護神として祀った。
962年にローマ法王が、ドイツ王オットー1世を皇帝としてローマ帝国を復活
させようとしたのが神聖ローマ帝国である。 ドイツを中心に、中央・
東ヨーロッパの多数の都市、領主国、公国にまたがる神聖ローマ帝国は、今の
EUのような国家共同体である。 11世紀に、一時的にプシェミスル家に代わって
ボヘミア王に迎えられたポーランド王ヴラチスラフは、ボヘミア公国を
神聖ローマ帝国に編入し、安全保障を条件に貢納の義務を負うことになった。
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