1960年代に入って、チェコスロヴァキア経済は急速に衰退し始めた。 政府が
機械に投資しなかったので、工場施設は古くなるばかりだった。 国営と共同組合
農場の生産は上がらず、食料不足も生じた。 生活水準が低下するに連れて、
チェコスロヴァキア政府関係者は政治、経済の方向転換の必要性を感じた。

それに答えて、アントニン・ノヴォトニ大統領は、企業によっては賃金と価格を
自主的に設定する自由を与えた。 しかし、ノヴォトニ政権は、政府の管理下に
ある計画経済制度の破棄、報道規制の緩和、複数野党の合法化などを拒否した。
1960年代中ごろ、経済情勢が悪化するに連れて、大統領は共産党内部からの強い
批判にさらされた。

スロヴァキア共産党の指導者アレクサンダー・ドプチェクは、自由改革の加速と、
スロヴァキアの自主性を求めてノヴォトニに挑戦した。 ドプチェクは報道の
自由を許可して、改革を更に進めた。

1968年1月、ドプチェクはチェコスロヴァキア共産党の第一書記(指導者)に
選出された。 2ヵ月後、ノヴォトニは辞任し、ルートウィック・スヴォボダが
大統領に就任した。 党は検閲制度を廃止し、宗教と新聞の自由を保障した。
産業は農場に対する政府の統制を緩和した。 スロヴァキアの独立促進も約束
した。

2149880

これらの動きはソ連指導者と、ワルシャワ条約機構加盟国の指導者をあわて
させた。 共産主義の改革は、自身の政治体制を脅かすと見たからである。
1968年8月20日、ワルシャワ条約機構国軍は、チェコスロヴァキアに侵入し、
占領した。 ソ連政府指導者は、ドプチェクの逮捕を命じ、モスクワに連行した。
それから2年後、党はドプチェクの改革を放棄して検閲制度を復活し、経済の
統制を始めた。

ソ連は、チェコスロヴァキアを懐柔するために、連邦制度を認めて、チェコと
スロヴァキアにそれぞれ社会主義共和国が設立された。 ソ連はチェコ
スロヴァキアに軍隊を駐留させ、ソ連と親しいフサクが、チェコスロヴァキアの
共産党第一書記となった。

ソ連の侵入によって挫折した一連の改革事件は、毎年開かれる国際音楽祭にから
名を取って『プラハの春』自由化運動と呼ばれた。

【お勧めの一冊】


>>トップページに戻る



クリックをお願いします☆
にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
にほんブログ村