多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:チェコ

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    1960年代に入って、チェコスロヴァキア経済は急速に衰退し始めた。 政府が
    機械に投資しなかったので、工場施設は古くなるばかりだった。 国営と共同組合
    農場の生産は上がらず、食料不足も生じた。 生活水準が低下するに連れて、
    チェコスロヴァキア政府関係者は政治、経済の方向転換の必要性を感じた。

    それに答えて、アントニン・ノヴォトニ大統領は、企業によっては賃金と価格を
    自主的に設定する自由を与えた。 しかし、ノヴォトニ政権は、政府の管理下に
    ある計画経済制度の破棄、報道規制の緩和、複数野党の合法化などを拒否した。
    1960年代中ごろ、経済情勢が悪化するに連れて、大統領は共産党内部からの強い
    批判にさらされた。

    スロヴァキア共産党の指導者アレクサンダー・ドプチェクは、自由改革の加速と、
    スロヴァキアの自主性を求めてノヴォトニに挑戦した。 ドプチェクは報道の
    自由を許可して、改革を更に進めた。

    1968年1月、ドプチェクはチェコスロヴァキア共産党の第一書記(指導者)に
    選出された。 2ヵ月後、ノヴォトニは辞任し、ルートウィック・スヴォボダが
    大統領に就任した。 党は検閲制度を廃止し、宗教と新聞の自由を保障した。
    産業は農場に対する政府の統制を緩和した。 スロヴァキアの独立促進も約束
    した。

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    これらの動きはソ連指導者と、ワルシャワ条約機構加盟国の指導者をあわて
    させた。 共産主義の改革は、自身の政治体制を脅かすと見たからである。
    1968年8月20日、ワルシャワ条約機構国軍は、チェコスロヴァキアに侵入し、
    占領した。 ソ連政府指導者は、ドプチェクの逮捕を命じ、モスクワに連行した。
    それから2年後、党はドプチェクの改革を放棄して検閲制度を復活し、経済の
    統制を始めた。

    ソ連は、チェコスロヴァキアを懐柔するために、連邦制度を認めて、チェコと
    スロヴァキアにそれぞれ社会主義共和国が設立された。 ソ連はチェコ
    スロヴァキアに軍隊を駐留させ、ソ連と親しいフサクが、チェコスロヴァキアの
    共産党第一書記となった。

    ソ連の侵入によって挫折した一連の改革事件は、毎年開かれる国際音楽祭にから
    名を取って『プラハの春』自由化運動と呼ばれた。

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    チェコスロバキア共産党は、戦後初の総選挙で多数を獲得した。 3年間ベネシュを
    大統領としていた共産党は、諸党と連立を組んで政権の座に居た。 共産党の首相
    クレメント・ゴットワルドは、共産党から主要閣僚を任命した。 経済の国家管理を
    掲げる共産党をはじめ、諸党から参加した人民委員会が企業の国有化を決定した。
    共産党の権力が高まるにつれて、政府内の多くの反共産主義派は、危機感を高めた。

    1948年をはじめ、内閣の反共産主党閣僚は、新しい選挙を強行するために辞表を
    提出した。 選挙をすれば、共産党の敗北は確実との確信があったからである。
    しかし、共産党は、選挙戦に参加する代わりに、プラハで威圧的な集会を開いた。
    深まる混乱を避けるため、ベネシュは共産党幹部たちを新政権の閣僚に任命した。

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    1948年、ベネシュに代って、共産党のゴットワルドが大統領になった。 政府は、
    反対党を禁止し、チェコスロバキアを厳しい一党支配の国に代えた。 報道機関、
    学校、経済は、国家に管理された。 チェコスロバキアは、ソ連へますます接近し、
    ヨーロッパ共産主義国の軍事同盟であるワルシャワ条約機構にも参加した。

    ソ連を模範として、チェコスロバキアは工業、銀行、農業分野も政府の管理下に
    置いた。 政府は、高い生産目標を設定し、同時に価格を賃金を固定した。 国家は
    ソ連からエネルギーを輸入し、チェコスロバキア製品は、ソ連を市場として輸出
    された。 新しい体制では、ほとんどの労働者は、低賃金で長時間働いた。

    地方では、農民は土地と農業機械を共有し、強制的に共同組合に加入させられた。
    価格が固定された協同組合の収穫や家畜の販売先は、政府に限られていた。

    政府によって没収された土地は、国営農場に組み込まれ、農民は賃金労働者に
    なった。 例え、収穫が増えても農民は、生産の増収に値する賞与を受けて
    いなかった。

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    1939年、ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。 フランス、
    イギリス、アメリカ、ソ連の連合軍は、ドイツ、イタリア、日本の枢軸国と戦った。
    チェコスロバキアでは何十万人もの労働者、学生がドイツ軍の兵器調達のために
    強制労働をさせられた。

    反ナチス分子と、約10万人のチェコのユダヤ人は捕らえられ、強制収容所へ
    送られた。 ドイツが既にチェコスロバキアのほとんどの都市を占領していたので、
    チェコの都市は、市街戦や爆撃を受けず、他のヨーロッパの諸都市と比べれば、
    被害は少なかった。

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    イギリスへ逃れたベネシュは、戦時中、ロンドンにチェコスロバキア亡命政府を
    樹立した。 また、ソ連との友好条約に署名した。 その頃、チェコスロバキアの
    各政党は、ナチス占領軍に抵抗するレジスタンスを組織した。 例えば、
    チェコスロバキア共産党は、ソ連の首府モスクワで、レジスタンスを組織した。

    1944年、レジスタンスは、東部ヨーロッパ戦線でのドイツの劣勢を利用して、
    作戦を展開した。 1945年5月、連合軍がドイツの首府ベルリンに侵攻した時期に、
    プラハの抵抗も最高潮に達した。 ドイツ軍が全面降伏した5月7日、ソ連軍と
    チェコスロバキアのレジスタンスは、プラハを手中に収め、アメリカ軍は
    南ボヘミアを占領した。

    戦争終結後、アメリカ、イギリス、ソ連は、中央ヨーロッパの将来について
    ポツダムで会談を開いた。 3カ国は、チェコスロバキアを復活され、250万人の
    ズデーデン・ドイツ人をドイツへ強制移住されることに合意した。 ベネシュ
    大統領の下で、チェコスロバキア政府はソ連と同盟関係にあった。

    次第にソ連は、チェコスロバキアだけではなく、近隣諸国にも強い影響力を
    及ぼし、支配するようになった。

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    独立したチェコスロバキアは、ボヘミア王国の領土ボヘミアとモラビアの他、
    スロバキアと更に東に位置するルテニアも領土とした。 新国家は、ドイツ人、
    ハンガリー人などの少数民族が住む多民族国家であった。

    チェコスロバキアは、1920年に二院制議会を設立する憲法を採択した。
    マサリクが努力した、チェコとスロバキアそれぞれの政府を持つ連邦国家は
    実現しなかった。 選挙民に人気が高いマサリクは、1920年、27年、34年の
    大統領選挙で勝利をおさめた。

    同じ頃、議会各政党の議員数はしのぎを削っていた。 農民党は、農民を代表し、
    国営農場、国営企業を主張する共産党は、社会党に属していたが、1921年に
    独立した党となった。

    チェコスロバキア経済は、戦後の景気回復の恩恵を受けていたが、国内の
    民族間の問題はまだ解決していなかった。 スロバキア人は独立を求めていた。
    ハンガリー人は政府に忠誠心を持たなかった。 全人口の4分の1を占める
    ドイツ人は、ドイツとの結び付きを求めた。

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    ドイツ人の多くは、ポーランドとの国境にあるズデーテン山脈の麓に住んで
    いたことから、ズデーテン・ドイツ人と呼ばれ、住んでいた地域は総称して、
    ズデーテン地方と呼ばれた。

    チェコスロバキアの独立後、ドイツ人は、議会各党に代表を送るようになった。
    マサリク政府は、土地の所有を制限する土地改革を行い、大地主から土地を
    国が買い取り、農民に再分配した。 新しい税制改革も導入した。 多少の
    不満があるにせよ、大部分のドイツ人は、民主的なチェコスロバキア政府を
    支持していた。

    1930年代はじめに、世界規模の経済不況が広がり、深刻な不景気と失業に悩む
    隣国ドイツの不安が、チェコスロバキアにも影響を与えた。 ヒトラーが政権を
    取った1933年頃、民族戦線ズデーテン・ドイツ党が、チェコスロバキア議会に
    議席を持つようになり、ドイツ人が不当に差別されているという口実で、
    ヒトラーと結託しはじめた。

    ヒトラーは、ユダヤ人と共産主義は、ドイツの経済と政治を妨げるので、
    ユダヤ人、スラブ人などを絶滅して、ヨーロッパにドイツ民族国家を建設
    すると主張した。

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    【併合と占領】
    ドイツがオーストリアを併合した1938年春から半年後の9月、イギリス、イタリア、
    フランスは、戦争を避けるために、ヒトラーとミュンヘン会談で合意を結び、
    住民の半数以上がドイツ人であるチェコ領土を、ドイツが併合する許可を与えた。
    ドイツは280万人のドイツ人と75万人のチェコ人が住み、チェコ全国土の38%に
    あたるズデーテン地方を併合し、チェコ人は立ち退かされた。

    ドイツは、エドアルト・ベネシュ大統領に辞任を迫り、エミル・ハーハが後を
    継いだ。 ヒトラーは更に、ドイツ軍の兵器工場として、チェコスロバキアの
    占領を狙った。 ドイツとの衝突を避けるため、ハーハは、スロバキアと
    ルテニアの独立に同意した。 しかし、1939年3月、ヒトラーは、ボヘミアと
    モラビアの占領を宣言した。

    チェコスロバキア軍の抵抗もなく、ドイツ軍は容易にプラハへ侵攻した。
    ドイツはチェコスロバキアの工業を支配し、ボヘミアとモラビアはナチス・
    ドイツに占領された。

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    フランス革命のヨーロッパの人々に、社会変革に参加する勇気を与えた。
    1840年になると、チェコ人の作家や指導者たちは、政治改革とボヘミア、
    モラビア内部にあるドイツ権力に終止符を打つことを求めた。 パラツキーは、
    ボヘミア王国の歴史と文化を呼び覚ます『チェコ民族の歴史』を書いた。
    公立学校では、チェコ語を教え、詩人、作家、ジャーナリストはチェコ語で
    文章を書くようになった。

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    パラツキーは、有力な政治的指導者となり、1848年末、プラハ、ウィーンを
    はじめ、ヨーロッパ諸都市で革命が起こった。 しかし、ハプスブルグ皇帝、
    フランツ・ヨーゼフはスラブ民族会議の提案を拒否。 ハプスブルグ軍は、
    プラハの革命を鎮圧し、ボヘミアとモラビアに戒厳令を敷いた。 180年代に
    入ると、ボヘミア王国領であるボヘミアとモラビアは、オーストリア帝国に
    取って代わったオーストリア・ハンガリー二重帝国に編入された。

    1800年代終わり、ボヘミアとモラビアに住むドイツ人と、チェコ人との間の
    長年の対立が深まっていたが、政府は、帝国内の諸民族の平等の権利を打ち出す
    政策を採り、チェコ人のためにチェコ語で法律を書くようになった。

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    1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンのフリードリヒ
    大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。 ハプスブルグ
    政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が進み、チェコ人も
    オーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。

    マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の文化は
    息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、鉱業などの
    新しい企業に進出するようになった。

    ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで経済力を
    高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も進んだ工業地域と
    なった。

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    1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。 ボヘミアの
    プロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、チェコ人がチェコ語の
    新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。 15世紀末以来、はじめて
    チェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、チェコの農民は農地と故郷を
    離れる自由を認められた。

    ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での仕事が、
    土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、フランス王朝を
    崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を握る、共和政府
    樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。ハプスブルグ家を
    はじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に及ぶことを恐れた。

    革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに侵攻した。
    彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)の戦いでハプスブルグ軍を
    破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は1806年に崩壊し、オーストリア
    帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、モラビア、ハンガリー、ポーランドと
    イタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。

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    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア国王
    として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。 ボヘミアの
    チェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実なフェルディナンドは
    宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を鎮圧した。
    ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】

    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックとプロテスタントの
    対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守るフェルディナンド2世が、
    1617年にハプスブルグ王家を継いだ。 フェルディナンドは、プロテスタントを領地から
    一掃しようと決心した。

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    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、チェコ人の
    反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、ハプスブルグに
    対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦でチェコ軍を
    破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから追放された。 ビラー・
    ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックとプロテスタントの国々の間で三十年戦争が
    始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、ドイツ、デンマーク、スウェーデンから
    プロテスタント軍がボヘミアに侵入した。 相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、
    街、農村は根こそぎ破壊された。 フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ
    追放し、ボヘミア議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア王国領
    ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放されたチェコ人貴族の
    領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人カトリック教徒の手に渡った。
    ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、ドイツ語が政治、教育の公用語と
    なった。

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    1300年代頃、ボヘミアの宗教指導者は、カトリック教会と法王の、膨大な権力と
    財力に疑いを抱くようになった。 ボヘミアのカトリック聖職者の多くは、宗教改革
    運動に賛同した。 チェコ人は、聖職者を支持したが、ボヘミアにいる殆んどの
    ドイツ人は、法王を支持した。

    1378年のカレル4世の死後、チェコ人とドイツ人の間に衝突が起こった。 プラハ
    大学総長ヤン・フスは、法王の権威に反抗した。 フスは、チェコ人にとって、
    神聖ローマ帝国とドイツ権力からの解放の象徴であった。 しかし1415年、
    カトリック側は、フスを捕らえて裁判に掛け、火あぶりの刑に処した。

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    フス処刑は、その後20年におよぶ宗教と民族戦争の切っ掛けとなった。 チェコ人の
    フス派(ヤン・フス支持派)は、カトリック教会派に対して、プラハをはじめ、各地で
    戦った。 フス派軍を率いたチェコ人将軍ヤン・ジシュカは、ドイツの街や修道院、
    教会を破壊した。 ジシュカの戦闘が原因で沢山のドイツ人がボヘミアから逃げ出した。

    ローマ法王は、ボヘミアを異教徒の地と見なして、十字軍をボヘミアに向かわせた。
    十字軍を率いたのは、ハンガリー王であると同時に、ボヘミアの王位を継ぎたいと
    望んだシギスムンドである。 しかし十字軍は、優れた戦略家のジシュカの軍に敗れた。

    数年間、ボヘミアでは、激しい戦闘が続き、ボヘミアの王位は事実上、空白となった。
    あまりに酷い破壊に、フス派内部は戦闘的な急進派と、平和主義の穏健派に
    分かれた。 フス派の分裂を利用して、穏健派と組んだローマ法王は、急進派を
    一気に破った。

    戦争と破壊に失望したボヘミアの人たちは、1458年に穏健派の指導者である、
    イジー・ポジェブラドをボヘミア王に選び、法王と和解しようとした。 イジー王は、
    後継者もなく1470年に亡くなった。 その後、ポーランドから国王を迎えたが、
    王の力は弱く、権力ある土地貴族は、都市や農村に支配権を及ぼした。

    1487年に土地貴族たちは、農奴制をつくり、この制度の下、チェコ人の農民は、
    領主の合法的な所有物として土地に縛りつけられた。

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    1037年のヴラチスラフの死後、プシェミスル家は、ボヘミアの王冠を取り戻した。 王家の
    争いを終わらせるために、ブレティスラフ王は、勅令を発布し、一家の最年長者だけが
    王位を継承する宣言をした。 ブラティスラフはまた、ドイツ人のボヘミアへの移住を
    奨励した。 国王は、都市の外国商人と手工業者層を強化して、地方の領主達の力を
    弱めたいと考えた。

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    ドイツ人移住者は、主にボヘミアの西部と北部一帯に定住した。 ボヘミア王国は、
    ドイツ法を取り入れて、ドイツの諸都市と交易を続けた。 ドイツの影響力を強めるために、
    神聖ローマ帝国は、ドイツ人の教会関係者をボヘミアに送り込んだ。 やがて彼らは、
    教会で支配的地位を占め、チェコ人との争いの原因を作った。

    13世紀になると、プシェミスル家の国王オタカル2世は、領土を南に広げ、ハプスブルグ
    家のルドルフと、神聖ローマ帝国皇帝の地位を争って、オーストリアを征服し、バルト海
    沿岸にまで及ぶ広大なボヘミア王国を築いた。 オタカル2世は、ルドルフとの戦いで
    1278年戦死した。

    1306年、ボヘミアのプシェミスル家は、突然に断絶した。 1310年、プシェミスルの王妃と
    結婚していたルクセンブルグのヤンが、ボヘミア王を名乗ったが、ヤンの時代に王国内部は
    荒廃した。 しかし、ヤンを継いだカレル4世は、プシェミスル家の国王としての自覚が
    強く、ボヘミア王国の黄金時代を築き上げた。 カレルは、巧みな外交政策で王国を
    拡張し、ボヘミア、モラヴィア、シュレジア(現在のポーランド南部)の3地方は、それ以後、
    ボヘミア王国の伝統の地と総称された。

    カレル4世は1355年、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれて、ボヘミア王国の首都プラハは、
    今や帝国の首都として建物や橋、大聖堂、教会などが次々に建造された。

    プラハ城もボヘミア王の居城として作り変えられ、1348年に、プラハ大学が学問の拠点
    として創設された。 カレル4世は、神聖ローマ帝国皇帝を選出する7人の選挙候
    (ボヘミア、ケルン、マインツなど)を規定した金印勅令を発布し、選挙候のひとつボヘミア
    王国は、中央ヨーロッパで最高権力を持つ国となった。

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    1993年のはじめに、チェコスロバキアが分離して、チェコとスロバキアという
    ふたつの国が生まれた。 スロバキアは、歴史上初めて完全な独立国となり、
    長く続いた経済不況と、共産党の一党支配から抜け出す機会に恵まれた。
    しかし、国の将来については、意見がいくつも分かれ、スロバキアの政治は
    まだ安定していない。

    1918年以前のスロバキアは、中央ヨーロッパの王国、ハンガリーの一部であった。
    ハンガリー人は、スロバキアの独立要求を許さなかった。 そこでは、様々な
    権利や特権(例えば、投票権)を持った大地主が農場を経営して、その農場で
    働くスロバキア人農民は、投票権さえ持っていなかった。

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    第一次世界大戦(1914~1918年)の結果、中央ヨーロッパには劇的な変化が
    起こった。 ハンガリーが世界大戦で負けたのを機に、民族的に近いチェコ人と
    スロバキア人が一緒になったチェコスロバキアが建国され、独立した。
    スロバキアは国の東半分近くを占めていた。

    第二次世界大戦(1939~1945年)後、チェコスロバキアは、東ヨーロッパの強大な
    共産主義国であるソビエト連邦と親密な関係を築き、その政治勢力の下に入った。
    チェコスロバキアの共産党指導者は、民営の企業を禁止し、工業、農業、貿易の
    分野で厳しく管理した。 政府は、国家の情報や報道を規制し、全ての野党を
    禁止した。

    1950年に、スロバキアは、急速に工業化された。 共産党政府は、地方に巨大な
    工場を建設し、多数のスロバキア農民は、都市へ移動した。 雇用が増えて、
    政府は国民に医療福祉の恩恵を与え、生活水準は改善に向かった。 それでも、
    スロバキア人は、スロバキア自治を望んだ。 1968年に新しく連邦制となり、
    チェコとスロバキアは、それぞれの地方政府を持つことになった。

    チェコスロバキアでは、1989年まで、厳しい一等支配が続いた。 その都市に
    起こった市民革命は、共産党政権を辞任させた。 チェコでは、国家が決める計画
    経済に代わって、需要と供給が賃金と価格を決める自由市場経済の原理を取り入れた。
    しかし、それまで共産党員であったスロバキアの指導者達は、未だに国家管理の
    計画経済を支持している。 その結果、国営企業の民営化は、チェコの方が
    スロバキアよりも遥かに早く進んだ。

    1990年代の半ばに、スロバキアの企業は、外国からの投資に門戸を開いた。
    スロバキア工業製品の多くは、依然として時代遅れであるため、輸出が難しい。
    結果として、高失業率や物資不足、生活水準の低下に悩まされた。

    その上、共産主義の崩壊の後生まれた諸政党は、まだ混沌といしている。
    スロバキアの指導者達は、急速な経済改革を強く批判している。 そのため、
    政府は、重要な政策決定を下すことが出来ない。 スロバキア人は、ついに手に
    入れた自由と独立を喜ぶ一方で、国の将来に横たわる問題に不安を抱いている。

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    2016年9月29日(木)~10月1日(土)まで、東京駅前のKITTEにて、記念すべき
    第一回目のチェコフェスティバルが開催された。 同じ東欧のポーランド祭は、
    数年前から開催されているものの、東欧の中でも人気の高いチェコのフェスティバルが
    これまでなかったのは、かなり意外かも知れない。

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    この日は、ピアノ、プレゼンテーション、民族舞踊、民族音楽他のイベントが行われ、
    スラブの文化を満喫することが出来ました。 同じスラブの国でも、ロシアとは、似ている
    ようで全然違うチェコの魅力とは、中世の古い街並みがそのまま現在まで残っている
    ところと、カトリック教会であるところなのでは? 言語的には、ロシア語とチェコ語は
    かなり似ており、そのまま喋っても大体意思疎通が出来るレベル。 

    チェコは、大きく分けると、ボヘミアとモラヴィアに分かれるが、今回は、ボヘミアよりも
    モラヴィア色が強く、民謡も民族舞踊もモラヴィアが中心であった。



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    830年にモイミールという名のスラブ首長が、現在のチェコである、ボヘミアとモラヴィア、
    更には、スロヴァキア、ポーランドにあたる地域にまたがる大モラヴィア帝国を建設した。
    東フランクからの絶え間ない威圧に対抗して建設されたスラブ人の国だと言われている。

    大モラヴィア帝国は、東のビザンチン帝国と密接な関係を作るためにビザンチン教会を
    取るか、または、西のローマ教会を取るか、東西ふたつのキリスト教がぶつかる舞台と
    なった。 モイミール一派は、ローマ教会を受け入れたが、後継者のラチスラフ一派は、
    大モラヴィア帝国にビザンチン教会の伝道師を招いた。

    863年に到着した伝道師キリルとメトディウスは、スラブ人にスラブ語で、キリスト教の
    祈祷と儀式を伝えた。 彼らは聖書の翻訳に、キリルが作ったグラゴール文字を使った。



    同じ頃、ドイツ遠征中のラスティスラフは、ドイツ王に捕らえられた。 彼の甥である
    スヴァトプクは、ドイツ王と和平を結び、臣下のスラブ人をローマ教会のカトリックへと
    改宗させた。 南スラブ人、東スラブ人は、ビザンチン教会に留まり、チェコ人は、ローマ・
    カトリック教徒になった。

    984年にスヴァトプクが死んだ後、中央アジアのマジャール人がヨーロッパに侵入して
    来た。 屈強なマジャール騎馬軍は、大モラヴィア帝国を一気に滅ぼした。 ヨーロッパ
    南東にハンガリー王国を打ち立てたマジャール人は、現在のスロヴァキアを占領し、
    その後、約1000年間に渡って支配した。

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    【プシェミスル家とボヘミアの統一】 

    大モラヴィア帝国が滅亡した頃、チェコ人が住むボヘミア、モラヴィア一帯では、有力な
    豪族プシュミスル家が権力を広げ、同家のヴァーツラフ公は、チェコ人をまとめて、
    ボヘミア公国(後に王国となる)を創った。 大モラヴィア帝国を滅亡させた東の
    マジャールの脅威からボヘミアを守るために、929年、ヴァーツラフはドイツ国王
    ハインリッヒ1世に臣従の誓いをたてた。 怒った弟ポレスラフは、ヴァーツラフを殺害
    した。

    しかし、ボヘミア公国の支配を南ポーランドまで広げた弟は、悔い改め、ヴァーツラフを
    聖者に叙し、ボヘミアの守護神として祀った。

    962年にローマ法王が、ドイツ王オットー1世を皇帝としてローマ帝国を復活させようと
    したのが神聖ローマ帝国である。 ドイツを中心に、中央・東ヨーロッパの多数の都市、
    領主国、公国にまたがる神聖ローマ帝国は、今のEUのような国家共同体である。
    11世紀に、一時的にプシェミスル家に代わってボヘミア王に迎えられたポーランド王
    ヴラチスラフは、ボヘミア公国を神聖ローマ帝国に編入し、安全保障を条件に貢納の
    義務を負うことになった。

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