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    タグ:ソ連

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    第二次世界大戦で共に戦った、アメリカとソ連は、戦後には、自由主義と
    社会主義といった政治体制の違いや、軍事的な警戒心から、激しく対立する
    ようになった。

    このアメリカとソ連の対立は、沢山の国々を巻き込んで行った。 アメリカは、
    西ヨーロッパの国々や日本、韓国等、世界の自由主義、資本主義体制の国々と
    同盟を結んだ。 これに対し、社会主義のソ連は、主に、ポーランドや
    チェコスロバキア等の東ヨーロッパの国々と同盟を結び、更には、中国とも
    同盟関係を結んだ。

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    こうして、世界に西側同盟諸国と東側同盟諸国が出来上がり、ヨーロッパは、
    西側と東側に事実上分断された。 特に、ドイツでは、この分断がハッキリと
    現れ、西ドイツと東ドイツとに分断された。 この他、朝鮮半島が南北に、
    ベトナムも南北に分断された。

    アメリカとソ連は、世界で1、2を争う軍事大国であり、お互いに時刻を攻めて
    来るのではないかという不信感を抱いていた。 そのため、相手よりも常に
    勝ろうと、核兵器の開発等を進めて行った。 その結果、核兵器で攻撃すれば、
    相手からも核兵器で反撃されるのかも知れないという緊張関係が生まれた。

    こうしたなか、キューバ危機が起き、核戦争が起きるかも知れないという
    危機感を東西両陣営共に抱いていた。

    【旧ユーゴスラビアは、東側陣営ながら、独自の路線を行った】
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    冷戦時代、アメリカとソ連は、西側と東側それぞれの中心ではあったが、
    それぞれの陣営に属する国々は、皆同じ考えであった訳ではない。 西側では、
    フランスが一時期NATO(北大西洋条約)を脱退し、西ドイツが、東ヨーロッパ
    との関係を改善する動きを見せたりと、独自の行動を取る事もあった。 東側
    でも、ソ連と中国が対立したりと、西側諸国、東側諸国共に、それぞれの中での
    対立が生じた。

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    アメリカにとっても、ソ連にとっても、冷戦が長引く事は負担になっていた。
    核兵器の開発や、見方の国々との関係を保つための費用を膨大に負担しな
    ければならず、アメリカ、ソ連共に、経済的に苦しい状態になっていた。

    この他、いくつもの要因が重なり、2つの超大国を中心とする冷戦は、次第に
    崩れて行った。 それを象徴する出来事が、1989年のベルリンの壁崩壊であり、
    1991年のソ連の崩壊だった。

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    チェチェン共和国は、ロシア連邦国内にある小国であり、カスピ海と黒海に
    挟まれたロシア南部のコーカサス地方にある国。 大きさは、日本の四国ほどで、
    住民の多くは、アジア系のチェチェン人で、主にイスラム教を信仰しているため、
    主に東方正教を信仰しているロシア人とは、民族的にも宗教的にも異なる。

    ロシア連邦からの独立を望むチェチェン共和国との戦いは、テロという姿に形を
    変えて今でも水面下で続いている。 1991年にソ連が崩壊する間際には、ソ連
    各地で独立運動や暴動等が起き、大混乱に陥ったが、チェチェン共和国でも
    この頃から独立に向けた動きが活発になった。

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    1991年10月にチェチェン共和国の大統領に選ばれたドゥダエフは、すぐさま
    独立を宣言。 当時は、ソ連の中にロシア連邦共和国があり、ロシア連邦の中に
    チェチェン共和国があるという状況になっていたため、チェチェンは、ロシアに
    対して、独立を求めた。 しかし、当時のロシアの大統領であった、エリツィンは、
    チェチェンの独立を認めず、治安部隊を派遣して、これを鎮圧しようとした。

    1991年12月にソ連が崩壊し、15の共和国がそれぞれ独立したが、ロシアは、
    この際にもチェチェンの独立を認めず、チェチェンの独立運動は、その後も続く
    事となった。

    第一次チェチェン紛争(1994年~96年)
    ソ連崩壊から、3年後の1994年、ロシア国内の混乱をおさめ、政治体制を固めつつ
    あったエリツィン大統領は、本格的に、チェチェン問題に乗り出した。 12月に
    大規模な軍隊を投入し、チェチェンへ介入を始めた。 こうして第一次チェチェン
    紛争が始まった。 ロシア軍は、激しい空爆を行い、チェチェンの首都である
    グロズヌィを攻めたが、激しい抵抗にあい、首都制圧は出来なかった。 この
    戦いは、1996年まで続き、ロシア側とチェチェン側を合わせて、数万人の死者が
    出たと言われている。 チェチェンでは、ロシアの空爆により、一般市民にも
    多くの死者が出た。 1996年には、5年間にも渡って独立闘争を指揮して来た
    ドゥダエフ大統領までもが、ロシア軍の攻撃により死亡した。

    こうしたなかで、ロシアの国家保安保障会議のレベジ書記と、チェチェンの
    マスハドフ参謀総長らの努力により、1996年8月に和平交渉が行われ、両者は、
    チェチェンの独立問題を2001年まで先送りする事を定めたハサブユルト和平
    合意を結び、全面的な停戦が成立した。 これに伴い、1997年、ロシア軍は
    チェチェンから撤退した。

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    第二次チェチェン紛争(1999年~2009年)
    ロシア連邦がチェチェンから撤退した後、OSCE(欧州安全保障機構)等の
    監視の下で、民主的な選挙が行われ、マスハドフが大統領に選ばれ、国際的に
    承認された。 ハスハドフ大統領は、アメリカやアラブ諸国を訪ね、チェチェンの
    ロシアからの独立を訴えると共に、ロシアのエリツィン大統領とも定期的に
    交渉を行い、正式な独立に向けて準備を進めた。 ところが、チェチェン国内の
    武装勢力を上手くおさめる事が出来ず、誘拐等の犯罪が頻繁に起こるようになった。

    1999年8月、独立最強硬派のシャミル・バサエフとアミール・ハッターブに率い
    られた1,500名程のチェチェン人武装勢力が隣国ダゲスタン共和国へと侵攻し、
    一部の村を占領するという事件が発生する。 また、同時期にモスクワでは
    アパートが爆破されるテロ事件が発生し百数十名が死亡した。 これを受けて、
    ロシア政府はチェチェンへのロシア軍派遣を決定し、プーチン首相の強い
    指導の下、9月23日には、ロシア軍がテロリスト掃討のため、再びチェチェンへの
    空爆を開始し、ハサヴユルト協定は完全に無効となった。

    第二次チェチェン紛争以降にテロが過激化して来た事に関しては、イスラム原理
    主義の思想を持つイスラム過激派の勢力が加伸張して来た事があげられている。
    チェチェン領内でのゲリラ戦に加えて、2002年10月のモスクワ劇場占拠事件や
    2004年9月のベスラン学校占拠事件等、チェチェン共和国外での一般市民や政府
    などに対する攻撃や自爆テロも数多く起きている。 自爆テロの中にはチェチェン人
    の女が関わっているケースがあるが、これは殺害された独立派武装勢力兵士の
    妻等が、仇討ちのためにテロに身を投じていると考えられている。

    チェチェン独立派は事件直後には犯行声明を出さない事が多く、むしろ、発生後
    しばらくの間は、自分たちの関与を否定するかのような発言を行い、ある程度
    時間が経った時に初めて声明を出す事が多い。 また、独立派は、捕らえた一般
    市民やロシア兵を殺害する様子をビデオテープに記録し、インターネット上に
    配信した事もある。

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    このような紛争のテロリズム化に対して、ロシアは2003年から2006年に掛けて
    独立派最高指導者のチェチェン共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフ、
    第3代アスラン・マスハドフ、第4代アブドル・ハリムを殺害し、シャミル・
    バサエフ等の最強硬派の過激派指導者も殺害した。 これ以外にも、アフメド・
    ザカエフのような穏健な独立派指導者も大半は国外へ脱出している事から、
    チェチェン共和国の弱体化が指摘される事もあった。

    このような状況の中、チェチェン共和国の第5代大統領であった、ドク・ウマロフは、
    2007年に北コーカサスでのイスラム国家の建設を目指すコーカサス首長国の建国を
    宣言した。 2009年の戦争終結宣言以降も、コーカサス首長国等のイスラム
    過激派達はロシア連邦軍とチェチェン共和国政府に対するゲリラ戦を継続し、
    兵士や市民を殺害する事態が続いている。

    独立派は、この戦争により、6万人の市民が死んだと主張している。 また、
    ロシア国防省はこの紛争で、6,000人以上のロシア兵が死亡したと発表した。
    独立派指導者の一部は、西側諸国に対して仲介を要望し、ロシアの軍事行動等に
    対しては抗議をしている。

    独立派に対するロシアのプーチン政権の強硬策に対する批判も一部から出て
    おり、独立派は、紛争当初こそ各国から支援を得ていたものの、世界的な
    『テロとの戦い』という流れの中でチェチェン紛争もこの一部とされることが
    多く、紛争後期には独立派もアルカイダ等の国際テロ組織との関係を疑惑視され
    孤立無援となった。

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    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧】
     
    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破 - 親ロシア派のチェチェン共和国大統領
    アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第2次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧】
    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモデドボ空港爆破事件

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    1991年8月、共産党強硬派は、ゴルバチョフ大統領の改革路線に反対して
    クーデターを起こした。 新たに選出されたロシア共和国大統領ボリス・
    エリツィンは、クーデターに対抗して、モスクワの最高会議会館に立てこもった。
    モスクワ市民は、エリツィン支持を叫んで集結し、3日のうちにクーデターは
    失敗に終わった。

    1991年末にソ連は崩壊して、エリツィンを指導者とするロシア連邦が生まれた。
    1993年10月、エリツィンは、彼の改革に激しく反対する強硬派の議会を解散した。
    今度は、共産主義者と民主主義者が最高会議会館を占拠し、エリツィンは、これに
    対して、実力を行使し。 約150人の死者が出た結果、強硬派は敗北した。

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    それ以後、ロシアは、市場経済に向かって突き進み、犯罪と汚職が横行するなど、
    様々な問題を抱えながらロシアは変貌を遂げ、人々の生活は良くも悪くも変わり
    つつある。

    1992年、ロシアは、国有経済から自由市場経済への急転換を目指した。 最初は
    混乱と物価の高騰が起こり、通貨のルーブルの価値は急落した。 その後、一旦は
    持ち直したが、2000年代に入るまで、ロシア経済は混乱の真っ只中に居た。

    新しいビジネスが始まり、建物が修復されて、ロシアの都市は、その様相を急速に
    変えた。 ソ連時代に破壊されたクレムリン宮殿の壮大な階段、赤の広場の
    復活の門、救世主キリスト教会などの重要な歴史的な建物も元通りに再建された。

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    【ミハイル・ゴルバチョフ】

    1985年、新しいソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフは、改革
    (ペレストロイカ)、開放(グラスノスチ)の政策を慎重に取り入れた。
    ゴルバチョフは、改革に反対する共産主義者と一層の民主主義を求める急進
    主義者の両方から攻撃を受け、1991年8月のクーデターから4ヶ月後に退任した。
    しかし、新しいロシアを生み出したのは、ペレストロイカであったことに
    間違いはない。

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    【ボリス・エリツィン】

    建設技術者であったボリス・エリツィンは、1960年代にウラル地方の
    スヴェルドロフスクの党第一書記、1980年代には、ゴルバチョフの元でモスクワの
    共産党書記長となった。 1987年には、ゴルバチョフによって解任されるが、
    その4年後、ソ連最大のロシア共和国の大統領となった。 エリツィンは、ロシア
    史上最初の国民によって選ばれた指導者である。 1996年6月に行われた民主的な
    選挙では、隊長は十分ではなかったにも関わらず、再度大統領に再選された。

    1991年8月のクーデターから、12月31日までの4ヶ月は、ロシア史上でも最も混乱に
    満ちた時期だった。 その間に、共産党は解体され、ソ連邦を構成していた共和国は
    分解して、ゆるい関係の独立国家共同体(CIS)を作り、ソ連邦の最後の指導者
    であるゴルバチョフが辞任した。 ソ連の赤い国旗がクレムリンから降ろされ、
    そこに新しいロシアの国旗が掲げられた。 民主的なロシア連邦誕生の瞬間である。

    それまでのソ連邦を構成していた他の14共和国が分離独立しても、ロシアは、世界
    最大の国であり、潜在的な資源も極めて豊富に存在している。 ソ連邦の15共和国の
    うち、バルト3国を除く12共和国がCISへ加盟し、その後、グルジアとウクライナが
    脱退した。 トゥルクメニスタンは、当初から非公式な加盟国であったため、現在の
    CISの正式な加盟国は、9カ国となっている。

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    1918年に、ボリシェビキらによって、モスクワは、首都に返り咲いた。 1924年に
    レーニンが死ぬと、共産党の主導権をめぐる闘争が始まった。 最も有能なトロツキーは、
    戦略家のヨシフ・スターリンに敗れた。 スターリンは、他の2人の指導者と協力して、
    トロツキーの力を奪うと、次に別の人間と手を組んで、この2人をも追い出した。
    トロツキーは、1929年に、国外に追放された。

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    更に、スターリンは、急速な工業化と農業の集団化を進めて、権力を強化して行った。
    1934年、ボリシェビキの最高幹部のひとりだったセルゲイ・キーロフの暗殺を皮切りに、
    大粛清が始まった。 秘密警察NKVD(後のKGB)が全権を握り、悪名高いモスクワの
    本部が大量逮捕の指揮を取った。 そして、ボリシェビキの有名な古参達が皆、裁判に
    掛けられたり、銃殺されたりした。

    ロシア正教は、1917年までは、ロシアの国教とされていた。 ソ連時代には、多くの
    教会が破壊され、司祭たちは、銃殺されたり、投獄されたりした。 教会は、閉鎖された
    ばかりではなく、1920年代の後半には、破壊が始まった。

    スターリンの粛清によって、何百万という無実の人々が処刑され、あるいは、辺境の
    労働収容所に送られた。 この恐怖政治の後に、今度は、第二次世界大戦の悪夢が
    やって来た。 ソ連は侵略され、モスクワはドイツ軍によって陥落寸前まで行き、
    レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)は、長期に渡たる攻囲に苦しんだ。

    第二次世界大戦が終わると、西側同盟国との友好関係が崩れて冷戦が始まった。
    1953年にスターリンが死ぬと、関係は改善され始めたかに見えた。 しかし、フルシチョフ
    による1962年のキューバ・ミサイル危機は、西側との関係を再度悪化させた。

    この関係が大きく改善されるようになるのは、1985年にゴルバチョフが等の指導者と
    なり、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)の政策を取り入れてからのこと
    だった。

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    【ウクライナ事情】
    旧ソ連から独立を果たしたウクライナは、欧米諸国では、常にロシアに虐げられた
    可哀想な国という扱いで、10年程前までは、ここまで極右化した国ではなかった。

    アメリカのグランドゼロで起こった9.11も、アメリカの自作自演だと言われて
    いる通り、世界の警察を自称して止まないアメリカがくちばしを突っ込んでくると、
    世界各地では必ず戦争が起きるため、アメリカは、常に、差別する相手と敵を
    探していると言える。


     
    日本では、徹底して悪者扱いをされている、ヤヌコビッチ ウクライナ前大統領は、
    それまで、公の場では、ウクライナ語でしか喋る事を許されなかったのを、これまで
    通り、ロシア語でも喋れるように戻した人物。 ユーシェンコの時代には、
    ロシア語を外国語扱いとし、公の場で話す事を禁止していた。 ウクライナ全土
    では、概ねロシア語のみで話していのにも関わらず、このような愚かな言語統制を
    行ったのは、世界広しと言えども、ウクライナぐらいであろう。

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    【クリミアの帰属】

    クリミアは、元々が、ロシアの領土であり、第二次大戦の末期に、クリミア半島の
    ヤルタで、スターリン、チャーチル、ルーズベルトの三者会談が開かれたのだが、
    その時に、クリミアがソ連邦内のどこの共和国の所属だったかというと、ロシア。

    その後、ウクライナ人のフルシチョフ書記長によって、クリミアは、ウクライナに
    一方的に併合され、当時は、それを「友好の証」と称していたが、その当時の
    ロシアとウクライナの国境線は、日本で言うところの、県境程度の簡単なもので、
    国境を超える際に、特にパスポートも必要なかったため、ロシア人達もクリミアの
    併合を特に気にも止めていなかったのだが、ソ連邦が崩壊して、ウクライナが独立を
    果たしてからは、それまでの支配層・特権階級であったロシア系住民は、逆に、
    ウクライナ人から迫害や乱暴狼藉をされる側になった。



    クリミア住民は、20年以上にも渡り、ウクライナ人からの差別、乱暴、レイプ等に
    耐え抜いたものの、2014年になって、ついに、堪忍袋の尾が切れて、住民達による
    正式な住民投票を経て、ウクライナから一旦独立の後、住民達の意思に従って、
    クリミアはロシアに返還された。

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    【ドンバスへの被害の拡大】

    その後、ロシア系住民(日本では、親ロ派と呼ばれている)の不満が東部へと拡大
    したのが、現在のウクライナであり、旧ソ連時代のウクライナ東部は、ロシア人の
    移住が進み、元々は、支配的な立場であったロシア系住民の多くは、ウクライナ人の
    事を田舎者扱いし、一時期ウクライナ語は禁止されていた。

    ウクライナの独立後、ウクライナは、ウクライナ人だけの国となってしまったため
    (これは、旧ソ連邦の他の国も状況は同じ)、ロシア系住民は、逆に、差別、弾圧の
    対象と成り下がった。 ウクライナ東部では、ロシア系住民への空爆や、殺戮が
    繰り返され、数十万人単位でのロシアへの避難民が出ているが、そのような不都合な
    事実は、西側メディアでは一切伝えられていない。

    >>無誘導ロケット砲での民間人殺害 人口集中地域でのグラート・ロケット砲使用停止を

    【忍び寄るアメリカ】
     
    独立後、事あるごとにロシアに楯突いて来たウクライナに目を付けたのは、
    アメリカで、前回のオレンジ革命でも、ロシアを陥れるために、アメリカが
    大々的に裏で糸を引いていたのは、明白な事実。 その結果、ウクライナでは、
    数年間に渡り、ロシア語が禁止になったのは、既に述べた通り。

    ウクライナでは、ポーランド寄りにある西部の極一部を除いて、皆ロシア語で
    話しているのだが、そのロシア語は、ウクライナでは、外国語扱いとされ、
    ロシア語放送には、全てウクライナ語の字幕が義務付けられ、日本から、
    ウクライナへ何か製品を輸出したければ、ウクライナ語のマニュアルの添付が
    強制化された。

    >>日本が見習うべきはロシア。プーチンのようにユダヤ金融資本を日本から追い出せ

    それを解除したのが、今回追放された、ヤヌコビッチ元大統領。 ウクライナの
    政治は、汚職が蔓延しており、政治家は、国民のためではなく、自分たちのため
    だけに暴利をむさぼり、その不満を愛国心に転化して、ロシアに非難の矛先を
    向けている。 ウォール街のユダヤ資本家に操られて、世界中で戦争を繰り返して
    いるのは、むしろ、アメリカの方で、戦争でお金儲けをしている人たちがいなく
    ならない限り、この世から戦争はなくならない。

    >>マレーシア17便は墜落していなかった。ボストンと同じように役者たちが演技していた
    マレーシア航空機17便最後の映像 ウクライナ空軍が撃墜したと言われている

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    この事実を完全に無視して、アメリカ寄りの報道しかしていない日本のメディアは、
    ウソ、偽り、間違を平気で公共の電波を通して垂れ流しているが、そもそも、
    ドイツ、フランス等のまともなヨーロッパ人は、この事実を知っているため、
    ウクライナをまともには助けようとはしない。

    ロシアは、これまでにも、アメリカの一方的な偏見により、数々の嫌がらせや、
    ウソのプロパガンダばかりを流されて来たのだが、このような事実関係をしっかりと
    知っていれば、日本政府やマスコミの情報操作には騙されずに済んだと思うのだが、
    そもそも、日本には、ロシアの事をまともに認識出来ている人間が、皆無に近い
    ため、この先も、ロシアと日本との関係は、一向に改善しない。

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    ソ連崩壊を決定的にしたのは、ソ連邦を構成していた15共和国中最大の国、
    ロシアが主権宣言を行ったためで、ゴルバチョフ氏がそれまで推し進めていた
    情報公開によって、一気に西側の情報が国内に溢れてしまったため、その急激な
    流れに歯止めが効かなくなった。 ゴルバチョフ氏の当初の考えでは、ソ連を
    崩壊に導くつもりは、毛頭なかったと思うが、民主化の流れは、怒涛のごとく
    押し寄せて、一気にソ連を飲み込んだ。

    それまでのソ連では、買い物をするのにも、スーパーマーケット方式の店が全く
    なかったため、一々レジに3回並ばなければならず、ソ連末期の時代には、食料を
    手に入れるためのクーポン券がなければ、販売すらしては貰えなかった。 外貨
    ショップのべリョースカが、外国人にとっては、食料を自給自足するための
    「ダーチャ」の代わりであったのは、つい25年ほど前の話。 マルボロやグラビア
    雑誌の切り抜きが、賄賂としてまかり通ったのも、この時代。 元々、ソ連では、
    都合の悪い事は、存在しない事になっていたため、法整備すらまともにはされては
    いなかった。 何もかもウソで塗り固めていたが、それでも、一般市民は、それが
    ウソだと分かっていたため、最終的には、ソ連が崩壊したと言うよりも、ウソの
    世界が崩壊したと言った方が分かりやすい。



    ロシア、ウクライナ、白ロシア(現在の名前はベラルーシ)の東スラブ3国は、
    ソ連から独立し、スラブ連合を樹立するとエリツィン氏が宣言し、残りの
    各共和国も、バルト3国とグルジアを除き、それに追随して、新たに緩やかな
    国家連合である、『独立国家共同体』を形成したため、ソ連はその歴史に幕を
    降ろした。 ソ連の崩壊は、実質、このスラブ3国だけで決定した。 他の
    旧ソ連邦の国々は、ほぼゼロからのスタートだったのだが、ロシアだけは、
    旧ソ連邦の負の遺産のほぼ全てをそのまま引き継いだため、天文学的な大赤字を
    背負ってのソ連からの独立であった。

    その後、ソ連の崩壊と共に、ロシアは、地獄の底まで落ちたが、余りの赤字額の
    多さのため、一生掛けても絶対にその赤字を返済出来ないとまで言われたが、
    オイルマネーの波に乗り、その後に彗星のごとく現れた、プーチン氏一代だけで、
    全ての天文学的な赤字を解消した。 その後、何度も通貨危機、テロ等にも
    見舞われたロシアだが、2000年以降からは、経済的にも安定し、かなりの経済
    成長を遂げていたため、25年前のロシアと現在のロシアとでは、全く別の国。

    この25年間で、最も変貌を遂げた国は、間違いなく、ロシア。 24年前までの
    正式名称は、『ロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦』で、通称『エル・エス・
    エフ・エス・エル』と呼ばれていた。

     

    ウクライナは、ロシア人にとっては、最も信用出来る自分たちのパートナー
    であった筈が、ウクライナが漁夫の利を得てソ連から独立を果たしてからは、
    何かにつけて、対立した。 白ロシアは、ソ連から独立をした際に、国名を
    ベラルーシに改めた。 カザフ共和国、キルギス共和国等々も、共和国の部分を
    チュルク語で「国」を表す『スタン』に改めた。

    何もかもソ連、または、ロシアのせいに出来る他の共和国とは異なり、ロシアの
    場合は、例え、失敗をしたとしても、隣国のせいには出来ないため、旧ソ連邦の
    中では、やはり、自分たちが一番でありたいというプライドがある。

    最近の自称ロシア研究家を見ていて、非常に疑問に感じるのは、ロシアと共に
    地獄の底を見てはおらず、単に英語の文章を日本語へと直訳しては、そのまま
    世に垂れ流しているため、ロシアへの風当たりが強い。 25年前も今も、ロシアに
    対する偏見がなくならないのは同じだが、ロシアでは、ロシア語で喋らない限り、
    まともには相手にされないため、せいぜいお客さん程度の扱いで終わって
    しまったか、または、お互いに片言同士の英語で喋ってしまったため、本当の
    ロシアの姿が見えずに終わったのではと感じる。

     

    ロシア国内には、約180の民族、約100の言語が存在し、人の考え方も多種多様
    であるため、一概には言えないが、元々、ロシア人は、非常に親切な人が多いため、
    逆に親切にして貰えなかったとするならば、その人のロシア人に対する接し方が
    間違っていたのであろう。 ロシアに行って、100%良い思い出だけがある訳では
    ないが、それでも、嫌な目にあった数よりも、親切にして貰った数の方が遥かに
    多いため、ロシアは、好き嫌いという以前に、自分の一部。 88年頃に、当時
    共産党第一書記長であった、エリツィン氏が根室を訪れて、『北方領土は日本の
    領土である』と言ったのを覚えている人は、今の日本にはどれぐらい居るのか。
    25年前は、ロシア語ではなく、ソ連語と良く言われた。 何でソ連語なんか勉強
    しているのですか?とも言われたが、それは、もう遠い遠い過去のお話し。

    現在のロシアの国歌は、旧ソ連の国家とは、歌詞が違うだけだが、それは、
    ロシアが、ソ連の継承国である証。 25年前は、ソ連を批判する事すら許され
    なかったが、今では自由に批判出来る。 昔のソ連のビザは、訪問都市を全て
    記載しなければならず、それ以外の都市へ行く事は許されなかったが、今では、
    それもなくなった。

    10年ちょっと前までは、ロシアの通貨であるルーブルの国外への持ち出しは一切
    出来なかったが、今では、都内の銀行でも気軽にルーブルへ換金する事が出来る。
    ロシアを見ていると、時代は代わったのだと、つくづく感じる。

    【お勧めの一冊】


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    ソ連崩壊を決定的にしたのは、ソ連邦を構成していた15共和国中最大の国、ロシアが
    主権宣言を行ったためで、ゴルバチョフ氏がそれまで推し進めていた情報公開によって、
    一気に西側の情報が国内に溢れてしまったため、その急激な流れに歯止めが効かなく
    なった。 ゴルバチョフ氏の当初の考えでは、ソ連を崩壊に導くつもりは、毛頭なかったと
    思うが、民主化の流れは、怒涛のごとく押し寄せて、一気にソ連を飲み込んだ。

    それまでのソ連では、買い物をするのにも、スーパーマーケット方式の店が全くなかった
    ため、一々レジに3回並ばなければならず、ソ連末期の時代には、食料を手に入れる
    ためのクーポン券がなければ、販売すらしては貰えなかった。 外貨ショップの
    べリョースカが、外国人にとっては、食料を自給自足するための「ダーチャ」の代わりで
    あったのは、つい25年ほど前の話。 マルボロやグラビア雑誌の切り抜きが、賄賂と
    してまかり通ったのも、この時代。 元々、ソ連では、都合の悪い事は、存在しない事に
    なっていたため、法整備すらまともにはされてはいなかった。 何もかもウソで塗り
    固めていたが、それでも、一般市民は、それがウソだと分かっていたため、最終的には、
    ソ連が崩壊したと言うよりも、ウソの世界が崩壊したと言った方が分かりやすい。



    ロシア、ウクライナ、白ロシア(現在の名前はベラルーシ)の東スラブ3国は、ソ連から
    独立し、スラブ連合を樹立するとエリツィン氏が宣言し、残りの各共和国も、バルト3国と
    グルジアを除き、それに追随して、新たに緩やかな国家連合である、『独立国家共同体』を
    形成したため、ソ連はその歴史に幕を降ろした。 ソ連の崩壊は、実質、このスラブ3国
    だけで決定した。 他の旧ソ連邦の国々は、ほぼゼロからのスタートだったのだが、
    ロシアだけは、旧ソ連邦の負の遺産のほぼ全てをそのまま引き継いだため、天文学的な
    大赤字を背負ってのソ連からの独立であった。

    その後、ソ連の崩壊と共に、ロシアは、地獄の底まで落ちたが、余りの赤字額の多さの
    ため、一生掛けても絶対にその赤字を返済出来ないとまで言われたが、オイルマネーの
    波に乗り、その後に彗星のごとく現れた、プーチン氏一代だけで、全ての天文学的な
    赤字を解消した。 その後、何度も通貨危機、テロ等にも見舞われたロシアだが、2000年
    以降からは、経済的にも安定し、かなりの経済成長を遂げていたため、25年前のロシアと
    現在のロシアとでは、全く別の国。

    この25年間で、最も変貌を遂げた国は、間違いなく、ロシア。 24年前までの正式名称は、
    『ロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦』で、通称『エル・エス・エフ・エス・エル』と呼ばれ
    ていた。

     

    ウクライナは、ロシア人にとっては、最も信用出来る自分たちのパートナーであった筈が、
    ウクラインが漁夫の利を得てソ連から独立を果たしてからは、何かにつけて、対立した。
    白ロシアは、ソ連から独立をした際に、国名をベラルーシに改めた。 カザフ共和国、
    キルギス共和国等々も、共和国の部分をチュルク語で「国」を表す『スタン』に改めた。
    何もかもソ連、または、ロシアのせいに出来る他の共和国とは異なり、ロシアの場合は、
    例え、失敗をしたとしても、隣国のせいには出来ないため、旧ソ連邦の中では、やはり、
    自分たちが一番でありたいというプライドがある。

    最近の自称ロシア研究家を見ていて、非常に疑問に感じるのは、ロシアと共に地獄の
    底を見てはおらず、単に英語の文章を日本語へと直訳しては、そのまま世に垂れ流して
    いるため、ロシアへの風当たりが強い。 25年前も今も、ロシアに対する偏見がなくなら
    ないのは同じだが、ロシアでは、ロシア語で喋らない限り、まともには相手にされない
    ため、せいぜいお客さん程度の扱いで終わってしまったか、または、お互いに片言
    同士の英語で喋ってしまったため、本当のロシアの姿が見えずに終わったのではと
    感じる。

     

    ロシア国内には、約180の民族、約100の言語が存在し、人の考え方も多種多様である
    ため、一概には言えないが、元々、ロシア人は、非常に親切な人が多いため、逆に親切に
    して貰えなかったとするならば、その人のロシア人に対する接し方が間違っていたので
    あろう。 ロシアに行って、100%良い思い出だけがある訳ではないが、それでも、嫌な目に
    あった数よりも、親切にして貰った数の方が遥かに多いため、ロシアは、好き嫌いという
    以前に、自分の一部。 88年頃に、当時共産党第一書記長であった、エリツィン氏が根室を
    訪れて、『北方領土は日本の領土である』と言ったのを覚えている人は、今の日本には
    どれぐらい居るのか。。 25年前は、ロシア語ではなく、ソ連語と良く言われた。 何で
    ソ連語なんか勉強しているのですか?とも言われたが、それは、もう遠い遠い過去の
    お話し。

    現在のロシアの国歌は、旧ソ連の国家とは、歌詞が違うだけだが、それは、ロシアが、
    ソ連の継承国である証。 25年前は、ソ連を批判する事すら許されなかったが、今では
    自由に批判出来る。 昔のソ連のビザは、訪問都市を全て記載しなければならず、
    それ以外の都市へ行く事は許されなかったが、今では、それもなくなった。 10年ちょっと
    前までは、ロシアの通貨であるルーブルの国外への持ち出しは一切出来なかったが、
    今では、都内の銀行でも気軽にルーブルへ換金する事が出来る。 ロシアを見ていると、
    時代は代わったのだと、つくづく感じる。

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    ウクライナのチェルノブイリ原発が未曾有の原発事故を起こしたのは、1986年4月26日
    1時23分(モスクワ時間)。 それから、29年が経過したが、事故を起こした4号機には
    炉心から溶け出た「象の足」と呼ばれる核燃料などが手つかずのまま残されているなど、
    原発の廃炉作業が未だに目途が立たず、問題が山積みのまま残されている。

    後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において、最悪のレベル7に分類
    される事故である。 当時、チェルノブイリ原子力発電所にはソ連が独自に設計開発した
    黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)のRBMK-1000型を使用した4つの原子炉が
    稼働しており、そのうち4号炉が炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物が
    ウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染した。 1991年のソ連崩壊以後は、原子力
    発電所が領土内に立地しているウクライナに処理義務がある。



    2015年現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、
    原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度
    汚染地域が約100箇所に渡って点在し、ホットスポット内においては、農業や畜産業などが
    全面的に禁止されており、また、その周辺でも制限されている地域がある。

    事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、外部電源喪失を想定した非常用発電
    系統の実験を行っていたが、この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したと
    される。 爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に量にして推定10t前後、14
    エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出された。 これに関しては、広島市に投下された
    原子爆弾による放出量の約400倍とする国際原子力機関 (IAEA) による記録が残され
    ている。



    当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を内外に公表せず、施設周辺
    住民の避難措置も取られなかったため、彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を
    送り、高線量の放射性物質を浴び被曝した。 しかし、翌4月27日にスウェーデンの
    フォルスマルク原子力発電所にて、この事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が
    検出され、近隣国からも同様の報告があったため、スウェーデン当局が調査を開始、
    この調査結果について、事実確認を受けたソ連は、4月28日にその内容を認め、事故が
    世界中に発覚した。



    爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。 爆発した4号炉をコンクリートで封じ込める
    ために、延べ約80万人の労働者が動員され、4号炉を封じ込めるための構造物は石棺と
    呼ばれている。
     
    事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は居住が不可能になり、
    約16万人が移住を余儀なくされた。 避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故
    発生から1か月後までに、原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが移住したと
    ソ連政府によって発表されている。 しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人
    などの一部の住民は、移住せずにその場での生活を続けた。 放射性物質による汚染は、
    現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアにも拡大した。

    現在、チェルノブイリ4号機の建物の内部では、毎時7マイクロシーベルトという、高い
    放射線量を示している。 4号機には、合わせて19万トンもの高レベル放射性廃棄物が
    あり、廃炉に向けて、高さ109メートルの新しいシェルターの建設が進められている。
    このシェルターの計画は、当初の予定から2年ほど遅れ、2017年完成予定となっている。

    核燃料の除去に関しては、現状、そのような技術がないため、遠い将来の課題となって
    いる。 爆発から29年が経したが、チェルノブイリ原発は、廃炉に向けた目処すら立って
    いない。

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    これは、日ソ学院、現在の東京ロシア語学院の入学時に提出されられた作文のテーマ。 
    かれこれ25年以上も前の話であるため、当時は当然、ロシアではなく、ソ連であった。
    実は私は、この日ソ学院の最後の卒業生。 日ソ学院3年在学時に、ソ連が崩壊したため、
    卒業と同時に、学院の名前が『東京ロシア語学院』へと変更となった。 よって、
    『日ソ学院』と言う名称の学校は、ソ連と共にこの世からは消え去った。
     


    日本で、ロシア語を学んでいると、『どうして、ロシア語を始めたのですか?』という
    質問を頻繁にされるが、私の場合は、元々、ソ連ではなく、崩壊した旧ユーゴスラビアに
    興味があったため、ロシア語を始めたのだが、それはかれこれ32年も前のお話し。
    その当時に、何か起きたのか、覚えている人は、もう少ないのかも知れないが、84年は、
    サラエボオリンピックと、ロサンザルスオリンピックが開催された年。 その当時は、
    『冷戦』の真っ只中で、政治的にも東西陣営に真っ向対立しており、それが、そのまま
    スポーツの世界にも反映されていた。 その年に旧ユーゴで開催された、サラエボ
    オリンピックは、つつがなく終了したものの、その直後に開催された、ロサンゼルス
    オリンピックでは、東陣営の国々が多数ボイコットした大会となった。

    1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、その前年に起きたソ連軍のアフガニスタン
    侵攻に抗議」という理由により、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、
    日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。 その報復として、
    東側諸国は、ロサンゼルス大会をボイコットし、当時の不参加国は、ソ連、東ドイツ、
    ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、
    キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどとなっている。 中国は
    中ソ対立以降、ソ連との関係が悪化してアメリカ側についたため、モスクワオリンピックは
    不参加、逆にロサンゼルスオリンピックには参加している。
     
    soviet

    冷戦、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ原発事故、ソ連崩壊、北方領土ビザなし交流、
    ロシア通貨危機等々、全てリアルタイムで知っておりますが、最近の自称『ロシア通』達の
    劣化振りには残念を通り越して、ご愁傷様レベル。 単に興味があるのと、専門的な
    知識があるのとでは、全く別物であるため、常にアメリカのステレオタイプに惑わされない
    真実の目が必要。 ロシアを正確に見極めている人材は日本では相当稀であるため、
    ニセモノと本物の区別がありません。 これは、ロシア語に関しても同じ事が言えるため、
    やりたいのと、実際に出来る事は、全くの別物である事が良く分かります。

    尚、前述したサラエボオリンピックは私がロシア語を学び始める切っ掛けとなりましたが、
    その当時に、サラエボオリンピックでメインテーマソングを歌った、旧ユーゴの国民的歌手
    である、ヤドランカ・ストヤコヴィッチは、20年以上も日本に滞在をしていたため、友人と
    なりました。 強く望んでいれば、いつか願いは叶うと言う実例のようなお話。
     


    東西対立の時代、いわゆる、共産圏では、ロシア語とドイツ語が重宝されたのですが、
    時は流れて、今では東西問わずに英語が通じるようになりました。 一昔前までの
    ロシアでは、片言の英単語ですら一切通じなかったが、今では、観光地であれば、
    ある程度の英語が通じます。 特に、この10年間の経済成長は目を見張るものがあり、
    それに伴い、英語も格段に通じるようになりました。 ロシア語とドイツ語をを専門
    とした者としては、何とも寂しい限りですが、逆に、時代の波に取り残された日本の方が
    気になります。

    ロシア語を生業として、今年で丸25年、ロシア語を始めてからは、丸32年が経過し
    ましたが、これからも、ロシアからは目が離せない状況が続きそうです。

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    これは、日ソ学院、現在の東京ロシア語学院の入学時に提出されられた作文のテーマ。 
    かれこれ25年以上も前の話であるため、当時は当然、ロシアではなく、ソ連であった。
    実は私は、この日ソ学院の最後の卒業生。 日ソ学院3年在学時に、ソ連が崩壊したため、
    卒業と同時に、学院の名前が『東京ロシア語学院』へと変更となった。 よって、
    『日ソ学院』と言う名称の学校は、ソ連と共にこの世からは消え去った。
     


    日本で、ロシア語を学んでいると、『どうして、ロシア語を始めたのですか?』という
    質問を頻繁にされるが、私の場合は、元々、ソ連ではなく、崩壊した旧ユーゴスラビアに
    興味があったため、ロシア語を始めたのだが、それはかれこれ32年も前のお話し。
    その当時に、何か起きたのか、覚えている人は、もう少ないのかも知れないが、84年は、
    サラエボオリンピックと、ロサンザルスオリンピックが開催された年。 その当時は、
    『冷戦』の真っ只中で、政治的にも東西陣営に真っ向対立しており、それが、そのまま
    スポーツの世界にも反映されていた。 その年に旧ユーゴで開催された、サラエボ
    オリンピックは、つつがなく終了したものの、その直後に開催された、ロサンゼルス
    オリンピックでは、東陣営の国々が多数ボイコットした大会となった。

    1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、その前年に起きたソ連軍のアフガニスタン
    侵攻に抗議」という理由により、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、
    日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。 その報復として、
    東側諸国は、ロサンゼルス大会をボイコットし、当時の不参加国は、ソ連、東ドイツ、
    ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、
    キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどとなっている。 中国は
    中ソ対立以降、ソ連との関係が悪化してアメリカ側についたため、モスクワオリンピックは
    不参加、逆にロサンゼルスオリンピックには参加している。
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    冷戦、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ原発事故、ソ連崩壊、北方領土ビザなし交流、
    ロシア通貨危機等々、全てリアルタイムで知っておりますが、最近の自称『ロシア通』達の
    劣化振りには残念を通り越して、ご愁傷様レベル。 単に興味があるのと、専門的な
    知識があるのとでは、全く別物であるため、常にアメリカのステレオタイプに惑わされない
    真実の目が必要。 ロシアを正確に見極めている人材は日本では相当稀であるため、
    ニセモノと本物の区別がありません。 これは、ロシア語に関しても同じ事が言えるため、
    やりたいのと、実際に出来る事は、全くの別物である事が良く分かります。

    尚、前述したサラエボオリンピックは私がロシア語を学び始める切っ掛けとなりましたが、
    その当時に、サラエボオリンピックでメインテーマソングを歌った、旧ユーゴの国民的歌手
    である、ヤドランカ・ストヤコヴィッチは、20年以上も日本に滞在をしていたため、友人と
    なりました。 強く望んでいれば、いつか願いは叶うと言う実例のようなお話。
     


    東西対立の時代、いわゆる、共産圏では、ロシア語とドイツ語が重宝されたのですが、
    時は流れて、今では東西問わずに英語が通じるようになりました。 一昔前までのロシアでは、
    片言の英単語ですら一切通じなかったが、今では、観光地であれば、ある程度の英語が
    通じます。 特に、この10年間の経済成長は目を見張るものがあり、それに伴い、英語も
    格段に通じるようになりました。 ロシア語とドイツ語をを専門とした者としては、
    何とも寂しい限りですが、逆に、時代の波に取り残された日本の方が気になります。

    ロシア語を生業として、今年で丸25年、ロシア語を始めてからは、丸32年が経過しましたが、
    これからも、ロシアからは目が離せない状況が続きそうです。

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    1989年の共産党一党独裁時代のモスクワに留学していたのだが、当時のソ連は、
    確かに、どこのデパートやスーパーに行っても、全く物がなかったが、人間的には、
    日本人よりもロシア人の方が遥かにましであった。 ソ連時代は、何もかもウソで
    塗り固められていたが、国民は、その事に気付いていた。 子供達は「隣国である
    日本には、水すらないのだから、ソ連の方がまし」と政府から吹聴されていたが、
    そんな事は、ウソだと分かっていた。 それが、ソ連が崩壊した最大の原因。 
    10393160_779460742124898_4764164111609054334_n
    ソ連時代末期は、ソ連の悪口をロシア語では言わない方が良いとも言われていたが、
    それでも、助け合いの精神だけは、なくならなかった。 旧ソ連の場合は、教育水準が
    日本と比較すると、かなり高かったため、政府がいくらウソを言おうが、国民を騙す事は
    出来なかったのだが、日本の場合は、肝心な教育水準が、あり得ないぐらい低いため、
    話にもならない。 日本では、自分が何も知らずに、むしろ、ウソを吹聴している事すら、
    良く理解出来はいない。 国民を白痴化するのは、独裁国家の特徴。

    この国を変えるのは、この国の国民ひとりひとりです。 自分だけは大丈夫だと思って
    いる人間が、数百万人も居るこの国では、選挙による国民の声ですら、政治家には
    全く届かない。 本来、民主主義国家においては、国民が国家や政治家の暴走を
    食い止めるために、ひとりひとりが声を上げて行かなければならない筈が、日本では、
    それすら許されず、声すら上げられないまま、自殺を図る人が後を絶たない。

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    社会主義は、その考え方自体は、間違っていなかったと思うが、その実践方法が間違っていた。
    働いても、働かなくても、給料は同じ。 社会福祉が行き届き過ぎて、極論を言ってしまうと、
    働かなくても、絶対に死なない社会であった。 何もかも『自己責任』とされてしまう資本主義
    よりも、優しい社会であったが、競争性を排除した社会であったため、『停滞』が原因で、ソ連は
    崩壊した。 何も前進しない社会に未来はないということなのであろう。

    この先、日本が、このまま、商業主義的な資本主義を貫く気なのであれば、既に社会全体が
    限界に達している事をハッキリと自覚し、適度な進路変更を施すべき。 金儲け最優先主義は、
    世の習いなれど、歴史は繰り返すので、隣国ソ連の崩壊を人事とはせずに、次は、自分たちの
    番である事を常に意識すべき。
    1932463_975643039129064_256312708944339336_n
    ソ連の標章にもなっていた、鎌とハンマーは、農業と工業の融合を表しており、これらを組み
    合わせてることで、農業労働者と工業労働者の団結を表したものとなっている。 

    『全世界の労働者階級たちよ団結せよ!』は、ソ連の紋章にも書かれていた、マルクス・
    レーニン主義の象徴。 今では、その労働者階級も、既に社蓄と化しているこの日本では、
    変革を望む方が無理な話なのか。 『ソビエト社会主義連邦』、それを省略して『ソ連』と呼ばれて
    いたが、『ロシア』の当時の正式名称は、『ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国』。

    25年ほど前までは、『ソ連の言葉は、ソ連語ですか?』と度々言われたものが、日本から最も
    近い隣国は、ロシアなのにも関わらず、この程度の相互理解とは、何ともお粗末な限り。
    北海道からも肉眼でもハッキリと見えるのは、ロシアだけであり、韓国は、日本からは、肉眼
    では見る事は出来ない。

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