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    タグ:ソ連

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    ロシア第3の都市、ノボシビルスクは、『シベリアの首都』と呼ばれており、
    シベリア最大の学術研究都市である。 日本のつくばは、このノボシビルスクを
    まねて造ったとも言われており、国立ノボシビルスク大学のレベルは、ロシアでは、
    モスクワ大学に次いで、第2位となっている。 理系が非常に強い大学であるため、
    現在、ノボシビルスク大学の日本の姉妹校は、同じく理系が強い国立東北大学と
    なっている。 尚、ドイツの姉妹校は、オルデンブルグ大学となっており、
    大学側が用意してくれた学生寮では、ドイツ人2人と生活を共にすることとなった。

    ノボシビルスク大学への入学は、簡単なものではなかった。 特に、外国人が
    ロシアの大学に入学をする際には、エイズ検査が必須となっており、その他にも、
    大学側からの招待状と学費の前納が大前提だった。 大学への入学後は、ロシア人
    学生と一緒の授業を受けたものの、全てのロシア語を理解出来ている訳ではない
    ため、かなりのハンデとなった。 その理由から、担当教授とのマンツーマンでの
    ロシア語での特別授業が始まった。 そこでは、古代教会スラブ語を習うように
    言われたのだが、既に死語である教会スラブ語は、使う場所が全くないため、
    教授に頼み込んで、ドイツ語を専攻することにした。

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    丁度、学生寮では、ドイツ人2人と生活をしていたため、このことをドイツ人学生に
    話したところ、親切にも、無料でドイツ語でのマンツーマンの授業をしてくれた。
    この日から、外ではロシア語、学生寮の中では、ドイツ語で話す生活が始まった。
    元々、ロシア語とドイツ語は文法的にかなり似ているので、両立はさほど難しく
    なかったのと、日本の大学ではやることがなかったため、ドイツ語をかなり本気で
    学んでおり、特に苦にはならないどころか、自分の知識が目に見えて増えて行くのが
    手に取るように分かったため、毎日が充実していた。

    ノボシビルスクは、学術研究都市であるため、行くところと言えば、ショッピング
    センター(ロシア語では『商業中心』と言う)と本屋めぐりぐらい。 たまたま、
    札幌に昔留学をしていたというカザフ人女性と知り合いになり、度々家にも遊びに
    行くようになった。 更に、そのカザフ人の友人の旦那さんの実家があるアルマ・
    アタ(当時はカザフの首都、現在の名前はアルマトゥイ)に遊びに行くことになった
    のだが、その当時、ロシアとカザフスタンの間には、国境があったものの、国境での
    パスポートチェック等は一切なかった。

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    当時のロシアは、ロシア・ルーブルを使用していたのだが、カザフスタンは、ソ連
    時代のルーブルをまだ使用しており、カザフスタンの通貨である『テンゲ』は、
    その1年後ぐらいまで全く流通していなかった。 ノボシビルスクからアルマ・
    アタまでは、電車で40時間、運賃は、日本円にして40円であった。 この旦那の
    方は、現在、カザフのアクタウに住んでいるが、20年以上も音信不通だったが、
    今ではFacebookで繋がっているため、良い時代になったものである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②

    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    前回、ハバロフスクからノボシビルスクまでは、シベリア鉄道で丸4日間掛かると
    述べたが、ロシアでは、割とつい最近まで、入国後72時間以内に警察に行って、
    住民登録を必ずしなければならなかったため、この件で罰金を取られることと
    なった。

    当時アエロフロートは、燃料不足により、半年以上も一切飛んでいなかったのだが、
    ロシアでは、そのようなどうでも良いことは一切考慮されないばかりではなく、
    規則は規則なので、どうにもならない。 よって、このような場合は、机を叩いて
    でも怒りの意思表示をしなければならないのがロシアのしきたり。

    実は、チケットを購入して、ハバロフスク空港に到着してから、この衝撃的な
    事実を知ってしまったのだが、その時のアエロフロートの窓口の対応は最悪で、
    チケットは払い戻しするが、手数料が掛かるという意味不明なものであったため、
    怒りの意思表示をしたところ、空港まで送ってくれたロシア人の友人が、こちらの
    余りの剣幕に、呆れ顔で見ていたという逸話が残った。

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    さて、シベリア鉄道だが、ロシアの車両は、外国人専用のスーパーワゴンには
    シャワーが付いているものの、ロシア人向けのコンパートメントや、3段式の寝台
    車両にはシャワーがない。 また、ロシアの長距離列車には、コンパートメント
    内にお菓子が置いてあるのだが、それを食べると別料金を請求される。 ロシアは
    基本的に何でもやった者勝ちで、少しでも遠慮をした人間が100%バカを見るという
    システムが完全なまでに構築されている。

    ロシアを訪れた人間が、ロシアに対して、好意を抱くか、または、悪意を抱くか
    なのだが、基本的に、ロシア語を喋れない人間の場合は、ぞんざいな扱いしか受け
    ないため、嫌いになる確率の方が遥かに高い。 但し、例え片言だけでもロシア語を
    喋れると、大歓迎されるため、好きになるという、インド並ぐらいに好き嫌いが
    ハッキリと分かれる国でもある。

    元々、ロシアは世界一の超多民族国家であるため、アジア人でも特に差別はされない
    のだが、よほどのインテリでもない限り、外国語は通じないため、ロシアを訪れる
    際には、基本的にロシア語が必須となっている。 但し、2000年以降は、急速に
    英語が普及したため、大学の学生レベルであれば、ある程度英語を喋れるように
    なったのには、時代の流れを感じずにはいられない。

    ソ連時代の外国語と言えば、ドイツ語とフランス語がメインで、英語はかなり
    マイナーな言語でワンツースリーのレベルでも一切通じなかった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    ソ連崩壊直後の93年4月から、ロシア第3の都市、ノボシビルスクに留学する
    ことになった。 これは、90年から始まった、札幌とノボシビルスクの姉妹都市
    締結を記念して開催された、コム博が切っ掛けではあったが、実際は、全て
    自分から持ち掛けた話であるため、大学にも札幌市にも一切関係がない話であった。
     
    93年当時のノボシビルスクには、全部で7人程度の日本人しか住んではいなかった。
    しかも、そのほぼ全てが札幌からの関係者ばかりであった。 当時、ノボシビルスク
    大学には、過去においても、日本人が入学したことがなかったことから、私が
    ノボシビスルク大学に正式に入学した日本人第一号となった。
     
    93年当時のロシアは、91年の12月末にソ連が崩壊したばかりで、まだ崩壊から
    1年程度という状況もあり、混迷を極めていた。 ソ連の崩壊と言うとあまりピンと
    来ない人が多いのだが、実際には、国がなくなった訳で、国を司っていた法律も
    全てなくなった。 よって、ソ連末期の頃から既に治安が悪化していたのだが、更に
    状況が悪化し、世界一治安が悪い国とまで呼ばれるに至った。

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    その状況たるや、目を覆うばかりで、車が信号で止まると、ジプシーが列挙して
    車に襲い掛かり、部品を丸ごと持って行くだとか、これを同じく、信号待ち
    していた人がジプシーに身包みはがれただとか、男でもトイレの中で犯された
    だとかはまだましな方で、至るところで犯罪、殺人、自殺等の社会不和が一気に
    表面化し始めた。 昼間でもひとりで道を歩くには危険と言われたが、日が暮れて
    から外出するのは、正に命懸けであったため、常に何らかの武器を携帯しなければ
    犬死も同じ時代であった。
     
    それと同時に、ハイパーインフレが始まり、ロシア・ルーブルは、連日米ドルに
    対して、20ドルづつ暴落していたため、商店に並んでいた商品の価格は、朝と
    夕方とでは大幅に異なっていた。 尚、ノボシビルスク大学にあるのは、学術
    研究都市である、アカデム・ゴロドクにあるため、当時のロシアの中では、比較的
    治安が良い場所ではあったものの、いかんせん、研究都市であったため、市場や
    スーパーというものがなく、週に1度、約1時間ほど掛けて、路線タクシーと
    地下鉄を乗り継いで、ノボシビルスク中心部にある市場へと食料の買出しに行か
    なければならなかった。 その当時、猫を飼っていたのだが、当時の
    ノボシビルスクには、キャットフードなどという贅沢品は一切置いてはおらず、
    週に1度、魚を買いにはるばる市場へと通った。
     
    尚、93年には、モスクワで反エリツィン派による政治クーデータが起こり、国の
    機能が一時麻痺した。 テレビ局も全て機能がストップし、全てのテレビ局が
    同じ放送内容ばかりを流した。 恐らく、ロシアの歴史の中でも、この93年
    前後が最も厳しい時期で、食料や燃料が不足し、正に地獄の底であった。 この
    当時、アエロフロートの国内便は、燃料不足により、数ヶ月間全便結構していた
    ため、ノボシビルスクへの移動は、ハバロフスクから丸4日掛けて、シベリア
    鉄道で移動した。 当時は、ロシアの学生証を所持していたため、丸4日間電車に
    乗っても料金は日本円に換算して、400円であった。

    当時飛んでいなかったハバロフスク→ノボシビルスクの飛行機のチケットは、
    180ドルであった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
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    ソ連崩壊直前の1989年当時、ロシアの通貨であるルーブルは、360円だった。
    但し、その年にロシアルーブルは一気に下落して、10分の1の価値である、36円
    まで暴落した。 ここからロシアの経済危機とハイパーインフレが始まった。
    90年1月には、モスクワのプーシキン広場に初めてアメリカ資本のマクドナルドが
    進出し、ソ連の歴史が始まって以来、身分の高い店員様が客に対して、
    『ありがとうございました』と言ったことが非常に話題となった。 それまでの
    ソ連の店では、客が店を後にする際に『ありがとう』と言い、店員の言葉と言えば、
    『どういたしまして』が普通だった。
     
    当時、和食レストランは、モスクワでは『サクラ』という一店しか存在していな
    かったのだが、今では、モスクワ市内だけでも、700店を超えるのだとか。 今や、
    ユニクロや丸亀製麺までもが進出を果たしており、この25年間のロシアの変貌振り
    には驚きを隠せない。 恐らく、この25年間でここまで変貌を遂げた国は、ロシア
    以外にはないであろう。 中国も大変貌を遂げてはいるものの、社会主義から資本
    主義への転換はしていない。 ロシアが最も変わったところは、やはり、社会主義
    から資本主義へと転換し、地獄の底を這いながらも、ここまで経済発展したところに
    尽きる。 現在のモスクワ・シティーは、新宿と何ら遜色がないばかりか、むしろ、
    発展している。 これが、経済危機で何年も完成が遅れた建物群かと見まごうばかり
    である。

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    ソ連当時、バスのチケットは、運転手から買うものだった。 よって、車内で隣の
    人にお金を渡せば、めぐりめぐって、自分のところへチケットとおつりが返って
    来るという、非常にのどかなものだった。 その後、ソ連が崩壊してしまったため、
    このような風習はすっかりと消え去った。 ソ連時代の最大の特徴は、民族友好で、
    ソ連国内に約180も居る多民族は、皆平等なソ連人だった。 基本的に国民全員が
    公用語であるロシア語を操り、社会主義の時代は、国をあげて教育にも熱心に力を
    入れたため、あれだけ広大な国であるのにも関わらず、ロシア語には方言という
    ものがほぼない。

    社会主義とは、アメリカ的なイデオロギーから見ると、悪らしいが、国家が計画的に
    経済を建設する社会であったため、国民全てに、マンションと別荘も与えられる
    という、強欲資本主義では到底あり得ない特典もあった。 よって、贅沢さえしな
    ければ、皆が幸福で居られる社会でもあった。 それゆえに、逆に発展性がなく
    なり、働いても働かなくとも、給与は同じという生温い社会が70年間も続いたため、
    ソ連は崩壊したとも言える。


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    世界の2大超大国であったソビエト社会主義共和国連邦(CCCP)は、1991年12月
    25日に崩壊した。 1991年の夏にモスクワで軍事クーデーターが起こり、当時
    ソ連大統領であったゴルバチョフ氏が軟禁され、それを助け出した元ロシア大統領の
    エリツィン氏への権力の移行が鮮明となった。 この時点では、まだソ連は崩壊
    などしないだろうと思われていたものの、その後、バルト3国で始まった独立運動に
    より、バルト3国はソ連からの独立を勝ち取った。

    そこから遅れて、今度は、エリツィン氏が率いるロシアが独立を主張し始め、同じ
    スラブ民族の国である、ウクライナとベロロシア(独立後にベラルーシへと改名)
    を誘い、スラブ3国はソ連から独立すると明言し、その後、その他のソ連加盟国が
    次々と独立を宣言したため、ソ連は崩壊した。

    ソ連消滅s

    そもそも、ソ連とはどういう国だったのか? ソ連は、世界で初めて、社会主義
    革命によって誕生した社会主義の国であった。 社会主義とは、一言で分かり
    やすく言うと、国民全員が国家公務員ということ。 貧富の差もなく、福祉が
    充実し、理論上は楽園だったが、スターリンの時代から、恐怖支配が横行し、
    個人の自由を許さない全体主義へと変貌した。 極端な例では、ドイツ語の辞書を
    所持していただけで、スパイ容疑を掛けられて、シベリアへ追放された例もある。
     
    社会主義では、資本主義とは異なり、国が一括して生産管理を行うため、物不足が
    頻繁に起きた。 私がソ連時代のモスクワに留学をしていたのは、89年~90年に
    掛けてだったため、正にソ連時代の末期であった。 当時は、深刻な物不足であった
    ため、お金だけでは物資を購入することが出来ず、お金の他にクーポン券が必要
    だった。

    外国人の場合、当時は外貨ショップがあったため、多少値段が高くとも、そこである
    程度の品物は購入出来たが、当時、一般市民が外貨を所持することは、不法投棄と
    みなされ、逮捕の対象となった。 売春はソ連には存在しないことになっていた
    ため、それを取り締まる法律がなく、野放しであった。
     
    ソ連末期の時代は、厳格な言語統制を敷いていたため、ソ連の政治批判はタブーで、
    壁にマイクが仕掛けてあるので、ロシア語でソ連の批判はしないようにと常々
    言われた。 それを改革したのが、当時の大統領であった、ゴルバチョフ氏だった
    のだが、余りにも急激に色々な改革を進めてしまったために、一気に箍が外れ、
    歯止めが掛からなくなった。 それまでは、モスクワでも女性が夜に1人で歩いて
    いても大丈夫だったのだが、ゴルバチョフ以降は、一気に治安が悪化し、殺人、
    犯罪が一気に明るみに出るようになった。

    ソ連末期は、至るところで行列が出来、生活物資を確保するのも大変であった。
    当時、ようやくスーパーマーケット方式の店が登場したばかりだったが、
    それまでは、店員に一々何が欲しいのかを伝え、それを伝票に書いて貰い、更に
    それをレジで清算してから、再度その店員のところへ戻って、品物を受け取る
    という方式であったため、ロシア語が喋れないことは、ほぼ死を意味した。
    店員様が神様の国であったため、店員に気に入られない場合は、当然、物は
    売っては貰えなった。 品物が売れようが売れまいが、店員の給与は一切変わら
    ないため、閉店時間の30分前には客を店内に入れないようにして、掃除を始め、
    定時キッカリには、全員が帰宅するというシステムだった。 これは、今でも
    さほど変わってはいない。
     
    店が繁盛しようがしまいが、一切何も変わらないため、むしろ、客が来ると面倒な
    仕事が増えるという理由から、食堂などでは、わざと髪の毛を入れたり、ハエを
    入れたり、ゴキブリを入れたり、挙句の果てには、国から配給された筈の肉を勝手に
    持ち帰ってしまうために、勝手にネズミの肉を客に出したりと、労働生産性が一切
    報われない社会の悪い面ばかりが目立つようになった。 市民の間では、外の食堂や
    レストランでは絶対に食事をしないようにという噂が広まり、外食をしているのは、
    外国人だけという時期もあった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    フィンランド語でスオミと呼ばれるフィンランド共和国は、スカンジナビア半島と
    ロシア連邦に挟まれた北ヨーロッパの国で、このような地理のため、フィンランドは
    領土を拡張しようとする近隣の大国から侵略されて来た。 フィンランドは、長い
    歴史の中で多くの戦争を経験し、国境は何度も変えられた。

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    国境を接するスウェーデンは、フィンランドを自分の国に組み入れて、13世紀
    半ばから1808年まで統治した。 1808年には、ロシア軍がフィンランドを征服
    したが、ロシア皇帝は、スウェーデンが制定した法律や行政制度は、そのまま
    フィンランドに残した。

    フィンランドで文芸が栄えた19世紀に、フィンランド人の民族意識と文化を誇る
    気持ちが高まった。 民族主義運動を支えとしてフィンランド人は、ロシアの祖国
    完全併合の企てに抵抗した。 1917年に革命家達が、ソ連をつくる第一歩として
    ロシア帝政を倒すと、フィンランドは、ロシアの支配からの独立を宣言した。

    独立国となったフィンランドは、国境紛争、特にソ連との紛争に巻き込まれるのを
    避けようと努力した。 だがフィンランドは、1939年にソ連に侵略されてしまい、
    中立政策を放棄しなければならなくなった。 それから1944年まで、ソ連は
    フィンランドに莫大な金と物資の賠償支払いを求め続けた。

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    それにも関わらず、フィンランド人たちは、第二次世界大戦後に産業を復興し
    近代化した。 また、1950年代初めまでに、フィンランドはソ連に対する賠償
    支払いを完了した。 それ以来、フィンランドは近隣諸国と友好関係を維持する
    ことを最優先とした。 同時にフィンランドは、西ヨーロッパ諸国との通商上の
    協定も発展させた。 これらの努力によって、1990年代半ばまでに経済は健全化し、
    フィンランド人の生活水準は非常に良くなった。

    政府は、国民所得の多くを教育や福祉にあてている。 1人あたりの所得も高く、
    このような数多くの利点を、フィンランド人はこれらも改善し守って行こうとして
    働いている。

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    ソビエト連邦崩壊を前にした1991年8月、ソビエトからの独立を果たした
    ラトビア、エストニア、リトアニアのバルト海に面する三国は、ドイツの
    ヒトラーとソビエトのスターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約(1939年)に
    よって、ドイツとソビエトに占拠され、後にソビエトに併合された。

    その後、1985年からのミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカ(政治
    改革運動)の中では、この占領は、『ソビエトの利益に反するスターリン個人の
    決定だ』として明確に非難されていた。

    2005年5月9日、ロシアのヴラジーミル・プーチン大統領は、対独ソ戦勝記念日に
    当たるこの日、更に踏み込んだ発言をした。 旧ソ連によるバルト三国占拠は、
    悲劇であると認めたのだ。 プーチン氏は、『実際、バルト三国は、壮大な
    世界政治における取引材料に過ぎなかった。 これらの国にとっては正に悲劇
    だった点は、ハッキリさせねばならない』と明言。 占領と言う言葉こそ使わな
    かったが、初めてその間違いを認めたのだ。

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    【それぞれ異なる三国の特徴】
    バルト三国と一口に言っても、ラトビア、エストニア、リトアニアでは、その
    成り立ちも国民の気質も大いに異なる。 バルト海に面する共和制国家である
    ラトビアは、13世紀には、ドイツ騎士団、17世紀には、ポーランド、18世紀には
    ロシア帝国からの支配を受けるなど、受難の歴史を繰り返して来た。 民族的には、
    ヨーロッパ系で、言語は、ギリシャ語、ラテン語、英語、ロシア語などが含まれる
    印欧語族の一派のバルト語派となっている。

    エストニアには、13世紀にはデンマーク、16世紀にはスウェーデン、そして18世紀
    にはロシア帝国に支配される。 民族は、フィンランドと同じアジア系で、言語も
    フィンランド語に近い。

    リトアニアは、14世紀にはポーランド・リトアニア連合王国を形成し、16世紀に
    なってポーランド・リトアニア共和国が成立した。 しかし、18世紀後半に
    ポーランドの分割によって、ロシア帝国に併合され、1918年なってようやく独立
    した。 言語は、ラトビアと同じ印欧語族の一派のバルト語派。

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    【三国に共通するロシア人問題】
    ソビエトの崩壊で、三国はほぼ半世紀ぶりに独立を果たしたが、共通するものは、
    ロシアに対する反感とロシア人の処遇問題となっている。

    ラトビアの場合、ラトビア人が60%を占めるが、ロシア人も28%と三国の中では
    一番多い。 そのせいか、公用語はラトビア語とされてはいても、ロシア語系住民
    (ロシア人、ベラルーシ人など)が多いことから、ロシア語使用の頻度が高い。

    ラトビア人の70%がロシア語を、ロシア人も半数以上がラトビア語を話すことが
    出来る。 また、映画館やテレビ放送では2つの言語での字幕が並んでいたり、
    新聞や雑誌ではラトビア語版とロシア語版があったりするものの、ロシア語版の
    方が種類、量とも豊富である。 独立した今も、かつての占領国のロシア語が
    大いに幅を利かせている事実から、ロシアを脅威と感じるラトビア人は多い。
    1990年に独立した際に、ラトビア政府は、ロシア系住民の国籍取得に対して、
    厳しい条件を付けた。 それは、ソビエト時代にラトビア井に移民して来た
    ロシア人や、ラトビアで生まれた人の子孫には与えなかったことだ。

    仕方なく彼らは、旧ソビエトが発給した旅券をそのまま使用していたが、1997年
    には、ラトビア政府発給のエイリアンパスポート(無国政旅券)への切り替えが
    義務付けられ、無国籍者と定義されるようになった。 ラトビア移民帰化局に
    よると、約230万人のラトビア人口のうち、ラトビア国籍者は、約180万人、
    外国籍が3~4万人、そして、残りの45~50万人は無国籍者となっている。

    エストニアでもロシア人の国籍取得には、エストニア語試験などの条件を付けて
    いるが、リトアニアでは、人口の80%以上がリトアニア人で、ロシア人は6%と
    少数派であるところから、ロシアとの関係は、他の2国に比べると、良好だと
    されている。

    独立後のロシア人処遇問題は、人権に関わるとして、当のロシアやヨーロッパからの
    指摘が絶えない一方、三国に共通する悩みは、ロシア人マフィアの存在だ。 麻薬や
    密輸品の売買、人身売買や売春などに暗躍するマフィアは、地元の下請け組織の
    協力もあって、その犯罪件数は、うなぎ登りとなっている。 ヨーロッパとロシアの
    間に位置するバルト三国は、犯罪の中継地点という、ありがたくない名前をいかに
    して返上するかが、これからの課題となっている。

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    ウズベキスタンは、ソビエト時代の民族別国境画定(1924年~1925年)によって、
    人為的に国境が定められて来た。 フェルガナ盆地の東端がウズベキスタンと
    キルギスに分割され、更に1929年には、ウズベキスタンの一自治州だった
    タジキスタンが連邦構成国へと昇格したことで、現在の国境線が画定された。
    ソビエト連邦崩壊後、かつての共和国が民族や宗教、それに領土をめぐって
    憎しみ合ったり、紛争に至ったりする原因は、ウズベキスタンも同じだ。

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    1999年8月、JICA(国際協力機構)から派遣された日本人技師4人が拉致された
    事件で、犯行声明を出したのは、『ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)』と
    呼ばれるイスラム原始主義をうたったテロ組織だった。

    IMUは、1998年に組織され、創設者は、原理主義者のタヒル・ユルダシェフとソ連の
    落下傘部隊出身のジュマ・ナマンガニ。 彼らは、ウズベキスタンのカリモフ政権
    打倒を掲げていたが、本音はウズベキスタン、タジキスタン、キルギスの3国に
    またがるフェルガナ盆地に、イスラム国家を樹立することだった。

    IMUがその名前を知られるようになったのは、1992年、隣国タジキスタン共和党系
    政府と、イスラム系野党勢力タジキスタン・イスラム復興党の間で起きた内戦で、
    野党の信任を得て参加したことだった。 そしてこの時、パキスタンのペシャワルで
    オサマ・ビンラディンと繋がったという。 その後IMUは、タジキスタンやタリバン
    支配下のアフガニスタンをベースに、武装闘争を宣言、1999年から2000年には、
    ウズベキスタン政府軍への攻撃を続けていた。

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    創設者の1人、ナマンガニは、2001年10月に『テロとの戦争』 を遂行する北部同盟
    および、アメリカ軍との戦闘で戦死。 ユルダシェフは、2009年にパキスタンの
    部族地域のひとつ、ワジリスタンでアメリカ空軍の攻撃を受け死亡した。

    アメリカのアフガニスタン侵攻後、ウズベキスタンやタジキスタンのイスラム武装
    組織の力は弱体化したと言われている。 しかし、IMUは、以前アフガニスタン
    との国境地帯で活動中であり、タジキスタンの反政府勢力も、首都ドゥシャンベ
    市内で2007年~2009年に7件の爆弾テロ事件を起こすなど、以前不安定な状況
    にある。

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    1985年3月、54歳のゴルバチョフがソ連共産党第一書記長となった。 彼は、
    1986年4月のチェルノブイリ原発事故を契機に、革命としての全面的な
    ペレストロイカとグラスノスチ(情報公開)、国際政治の新思考を主張して、
    人々を熱狂させ、変革の時代を開いた。 その革命の中で、モスクワの通りの名、
    地名などを革命前の古い名前に戻された。 1990年にゴーリキー通りが
    トヴェルスカヤ通りに戻されたのは、その代表例であった。

    1991年8月、フィナーレは、ゴルバチョフ派の副大統領、国防相、KGB議長らの
    クーデターで始まった。 カリーニン大通りとモスクワ川が交差する角に
    『ホワイト・ハウス』と呼ばれる白亜の殿堂がある。 これは、1965年から
    建設が始まり、1979年に完成したロシア共和国ソヴィエト会館であった。

    80年代からは、ここには、ロシア共和国最高会議が置かれていた。
    ペレストロイカの中で、エリツィン大統領のロシア共和国が主権宣言をするに
    及んで、この建物が俄然注目を集めるようになった。 そして、1991年の
    クーデターが起こると、ホワイト・ハウスは、クレムリンに陣取っていた
    連邦クーデター派に対するロシア共和国の抵抗の拠点となった。

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    この建物の前の戦車の上で、エリツィンは、クーデター勢力に闘争宣言を
    発表し、市民にこの建物の死守することを呼び掛けた。 闘争の結果、
    クーデター派は、あっけなく敗北し、エリツィン大統領の『ロシア革命』は
    勝利した。 1991年8月、その勝利を祝う集会もこのホワイト・ハウスの周りで
    行われた。 8月の革命は、殆どが無血であった。 ホワイト・ハウスから
    遠くないカリーニン大通りの脇に、1991年の闘争の犠牲となった2名の死者の
    碑がある。

    1991年12月25日、ソ連は崩壊した。 ゴルバチョフ大統領は、ソ連大統領の
    ポストを辞任し、クレムリンの上のソ連国旗が降ろされた。 後継国家となった
    のは、エリツィンのロシア連邦である。 だが、その2年後、クレムリンに
    入った大統領のエリツィンとホワイト・ハウスの最高会議との間に衝突が
    起こった。 ついに、1993年10月、両者は、武力衝突するに至った。
    エリツィンは、戦車隊にホワイト・ハウス砲撃を命じた。 30分間の砲撃で、
    最高会議側は白旗を掲げ、降伏した。

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    大統領が勝利した後、ホワイト・ハウスは政府に摂取され、1994年からロシア
    連邦政府会館となっている。 ロシア国家ドゥーマは、旧ゴスプランの建物に
    移った。 この激動の時代に、ソ連の各地では、レーニン像の撤去が行われたが、
    モスクワでは、レーニン廟も残ったし、マルクス、エンゲルスの像も、レーニンの
    像も残った。 撤去されたのは、ルビャンカ前のジェルジンスキー像とカリーニン
    通りのスヴェルドロフ像だけである。 そして、ルビャンカの近く、綜合技術
    博物館の前に、スターリン時代にラーゲリに送られ、処刑され全ての犠牲者を
    悼む記念碑『全体主義体制犠牲者記念碑』が1990年に建てられた。

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    新しいロシア連邦政府によって建てられたのは、救世主キリスト聖堂である。
    実は、地下鉄クロポトキンスカヤ駅の斜め前のモスクワ・プールの場所に、
    1931年末まで救世主キリスト聖堂があった。 これが再建されたのである。

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    1953年、スターリンが死ぬと、スターリンの遺体も永久保存され、レーニン廟の
    中に置かれた。 1956年20回党大会で、フルシチョフは、スターリンが誠実な
    党の働き手を不法に逮捕し、処刑したことを暴露し、その個人崇拝のおぞましい
    結果を批判する秘密報告を行った。 強制収容所に囚われていた人々が解放され、
    社会に復帰した。

    その後、1962年にもフルシチョフは第二次スターリン批判を行い、スターリン体制
    からの決別を図った。 1964年、フルシチョフにより、スターリンの遺体は廟から
    出され、火葬の後、廟の背後に埋葬され、そこに小さなスターリン像が置かれた。
    フルシチョフの時代には、ソ連は宇宙開発でアメリカを追い抜き、1956年には、
    初の人工衛星の打ち上げに成功し、更に、1961年、ガガーリンの乗った宇宙船
    ボストーク号の打ち上げにも成功した。

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    地上の生活も改善された。 プライバシーの確保に欠けるコムナールの不便さは
    次第に深刻化して、住宅建設も急がれた。 1960年代には、カリーニン大通り
    (現在のノーヴィ・アルバート通り)に15階を超える巨大なマンション群が出現
    した。 『書物を開いたような』といわれる斬新な形が見る人の目を惹いた。
    その設計者であるコソーヒンや、ムンドヤンツ等は、都市建設分野でグランプリを
    獲得した。

    その一方で、1950年代の末以来、無趣味で安価な集合住宅もおびただしく建設
    されていた。 フルシチョフの時代に、ラグチェンコという建築技師が発案して
    設計したと言われるもので、階数はおしなべて5階、薄い壁の半分がレンガ、半分は
    コンクリートで、天井は2.48mという低さだった。 エレベーターはなかった。

    モスクワだけではなく、ソ連の至るところで、この規格のアパートが建設された。
    この手の建物は、市民の間で『フルショーフカ』と呼ばれた。 1970年代には、
    モスクワ市民の10%がフルショーフカに住んでいたと言われている。 それでも、
    コムナールカよりは、ましだったのである。 流石にその後、ロシアの至る
    ところで、フルショーフカの建て直しが始まっている。

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    フルシチョフは1964年、その改革の進め方に不満を持つ政治局員たちによって、
    クーデター的に権力の座から追われた。 年金生活者となったフルシチョフは、
    密かに回顧録を書き、当局の制止を無視して、1970年に西側で出版させた。

    1971年にフルシチョフが死ぬと、遺体は、クレムリンの壁ではなく、ノボデビッチ
    墓地に葬られた。 フルシチョフの娘たちは、フルシチョフが第一書記時代
    『ぶたのしっぽ』と酷評して弾劾した彫刻家ネイズヴェストヌィーに墓碑の
    デザインを依頼し、これが墓地に建てられた。

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    フルシチョフを追い出したブレジネフらの体制は、20年間続いた。 ソ連の社会は、
    ブレジネフ時代に最も安定した時期を迎えた。 私生活の自由が保障され、家庭や
    友人の間では何を言っても良かった。 生活は、豊かではないが、安定していた。
    電話代、電気代、ガス代、水道料金などは、著しく安価であった。

    電話は、市内だけであれば、いくら話でも無料という時代もあった。 医療費や
    居住費もほとんど無料に近かった。 年金生活者や物価も安定していて、老後の
    心配をする必要がなかった。 パンやジャガイモのように必要なものは、必ず
    買えたし、長い行列に並べば、バナナのような珍しい物でさえ手に入れることが
    出来た。

    それに、必要であれば、闇で物を手に入れることが出来た。 禁じられた書物も
    禁じられた歌のテープも個人が読んだり、聴いたりする分には問題がなかった。
    だが、公的な場面では統制が厳しく、人々はそれに従わざるを得なかった。
    この結果、本音と建前の使い分けが拡大し、社会の力が失われることとなった。

    公的な場面でも統制に従わない人は、異論派と呼ばれ、彼らは、タイプ打ちの地下
    文章を配布した。 時に彼らは、赤の広場やプーシキン広場で行動に出ることも
    あり、逮捕され、裁判に掛けられた。 このような抵抗の地下水は、途切れ
    なかった。

    やがてブレジネフの体制も行き詰まりを見せるようになった。 ソ連は、緊張緩和
    政策でアメリカと付き合ううちに、体制の力が弱まり、1979年に始まった
    アフガニスタン戦争の負担にも苦しめられた。

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    第二次世界大戦におけるソ連の勝利は、社会主義圏を東欧とアジアにおいて
    拡大し、ソ連は、世界を二分する一方の盟主として、アメリカと並ぶ超大国に
    のし上がった。 モスクワの権威は、途方もなく上昇した。 このような
    ソ連の国家的な権威の高まりを顕示するために、スターリンは、1947年1月、
    モスクワ建都800年を記念して、モスクワに8つの高層ビルを建設することを
    決定した。

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    モスクワ大学本館、ホテル・ウクライナ、外務省の3つが重要で、後の4つは
    住宅と小ホテルであった。 モスクワ大学本館は、モスクワの周辺部の雀ヶ丘に
    建てられることが決定され、1949年から工事が始まり、1953年に完成した。
    高さは240メートル、36階建てである。 ホテル・ウクライナは、モスクワ川の
    ほとり、クトゥーゾフ大通りの脇に建てられた。

    1953年に着工し、1957年に完成した。 こちらは、モスクワ大学本館よりも少し
    低く、34階建てである。 第3の建造物は、外務省で、スモレンスカヤ広場に
    あるが、建てられたのはスターリン様式の建造物の中では、最も早く、1948年に
    工事が始まり、1953年に完成した。  高さは、172メートル、27階建てである。

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    残りの4つの建物は、規模が大幅に劣るものとなり、8番目の建物は、スターリンの
    生前に着工されなかったため、彼の死後、計画が中止された。 7つの建物は、
    正に、スターリン時代を代表するような建築で、上へ上へと伸びる権力中枢を
    皆に振り仰がせるような権力主義的な建造物であった。

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    ロシア帝国では、農奴制に依存した貴族の大土地所有が続き、農業生産性の
    低さもあって、工業化が遅れていた。 1861年の農奴解放令を切っ掛けに、
    農村の余剰人口は都市への流入を開始し、露仏同盟を基盤としたフランス資本の
    導入(シベリア鉄道の建設等)もあって、19世紀末に工業化が始まったが、20世紀
    初頭の時点においてもその生産力は西欧やアメリカなどの先進工業国に大きく水を
    あけられていた。 ただし、1905年のロシア第一革命で都市労働者と兵士の合同
    評議会であるソビエトが組織され、ロシア社会民主労働党や社会革命党等の社会
    主義勢力の支持基盤となった事は、その後のロシア政治にとって大きな意味を
    持った。

    レーニンは、ソビエト政権を防衛するための内戦を戦うため、1918年、全ての
    企業の国有化、反革命と見なした貴族・資本家・地主の資産没収、農村における
    穀物の強制徴発などを含む「戦時共産主義」とよばれる政策を実施した。 これは
    ソビエト政権の勝利に大きく貢献した一方、特にウクライナなどの農村部で数百
    万人とも言われる餓死者を出した。 また、有能な経営者の粛清や亡命もあって
    工業生産力も極端に低下した。

    その後のソビエト体制下での工業化の発展に伴い、農村部から大量の工業労働者が
    流入したが、彼らは概ね、党や行政の住宅委員会の裁量で、かつで貴族や
    ブルジョワの住まいであった大きな邸宅を小さく仕切って、そこに住み着いた。
    そのような建物は、『コムナルカ』と呼ばれた。 共同住宅という意味である。
    コムナルカでは、寝室は各世帯が別々で、食事を作る台所や手洗いは共同で使用
    するものだった。 とりわけ、市の都心部には、コムナルカが多かった。 元々
    住んでいた富裕層の家族も多くの場合、そうして仕切られた部屋の一つに格下げ
    されて住んだ。

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    不便な暮らしは、地域暖房が一般化するにつれて、解消した感があった。 地域暖房
    というのは、1つの市域全体に暖房のネットワークを及ぼすというものである。
    かつてロシアの家庭では、一戸づつに大きなペチカ(かまど)があって、暖房を
    行っていた。 レーニンの共産党は、政権を取ると、『共産主義はソビエト権力
    プラス電化である』というスローガンを掲げた。 モスクワでは、クレムリンに
    近いモスクワ川の対岸に巨大な火力発電所を建設した。 そして、タービンを
    冷やす時に生じる熱水を普通の水道水と並行的に各家庭に供給した。

    モスクワ市内のどの家庭の台所にも、冷水と温水の2つの蛇口が付いているが、
    これは、ホテルでも同じである。 こうすることによって、冬の最中でも、
    モスクワの屋内の居間では、Tシャツ一枚で過すことが出来るようになった。

    旧ロシア時代には『レニングラード』と呼ばれたサンクトペテルブルクでは、
    1980年代までこうした共同住宅が利用されていた。 当時はアパートの40%近くが
    コムナルカだったという。 ソ連時代に市中心部が大々的に改修されたモスクワでは
    当時からもっとコムナルカが少なく、今ではほとんど残っていないのと対照的と
    なっている。

    サンクトペテルブルク市当局も2008年、コムナルカの住人全員を退去させる政策を
    打ち出した。 その後7年間で、市内のコムナルカの数は11万6,000戸から8万3,000
    戸に減少したという。

    コムナルカでの生活には、一長一短あるという。 一人ぼっちにはならない代わりに
    10人前後で台所や手洗いを共同で使用するため、隣人との関係が難しいという
    問題を抱えている。 独居老人や一人が嫌いな人には打って付けの住居だが、
    プライベートの空間が少ないめ、サンクトペテルブルグでも様々な問題が持ち
    上がっている。 

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