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    タグ:ソ連

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    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

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    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

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    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

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    ウズベキスタンの人口は、約2070万人で、そのうちの71.4%がウズベク人である。
    彼らは、トルコ系民族(この民族は、以前は中央アジアで遊牧民として生活
    していた)に属し、イスラム教スンニ派を信仰している。

    Uzbekistans

    人口の8.2%を占めるロシア人が最大の少数民族で、以下、タジク人4.7%、
    カザフ人4.1%、タタール人、朝鮮人、キルギス人などが住んでいる。 約2%を
    占めるカラカルパク人の定住地域は、1932年に自治共和国になった。

    ウズベク人の名前は、14世紀に部族を統合支配したキプチャク・ハン国の君主、
    ウズベクの名に由来する。 17世紀には、ブハラ・ハン国(18世紀以降ブハラ
    首長国)、コーカンド・ハン国、ヒバ・ハン国が形成され、今日のウズベクの
    国の基礎が築かれた。

    これらの国は、今世紀初頭まで存在した。 1860年台、1870年代、ロシア人が
    勢力を拡大し、ウズベク人の統治地域は、彼らの支配を受けるようになった。
    コーカンド・ハン国は帝政ロシアに完全に併合されたが、ブハラ・ハン国と
    ヒバ・ハン国は、その保護領となり、ある程度の自治が認められた。 ロシア
    皇帝政権のロシア化政策の結果、早くも1898年には民族の反乱が起こり、
    その後発生した1916年の大蜂起は、トルキスタン全域を巻き込んだ。

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    【20世紀の歩み】
    1917年に権力の座に就いたボリシェビキ派は、長い戦いの後、中央アジアにおいて
    勝利を収めた。 支配体制の再編が繰り返され、1924年に『ウズベク・ソビエト
    社会主義共和国』が設立された。 同国に属していたタジク自治共和国が、1929年
    には『タジク・ソビエト社会主義共和国』として独立し、連邦構成共和国に昇格
    した。 ウズベキスタンのソビエト化は、暴力をも辞さずに遂行された。

    民族運動は弾圧されていたが、1980年代になって盛んになった。 ウズベキスタンは
    1990年8月31日には独立宣言を採択した。 同年12月21日は独立国家共同体
    (CIS)に加盟した。 隣接するキルギスやタジキスタンとは、国境問題や少数民族
    問題のことで対立している。 また、国内の民族抗争も大きな問題となっている。

    1989年には、スターリン時代にグルジアからウズベキスタンに移住して来た、
    メンシェビキ派の人々に対する敵対も起こっている。 このように国内での対立が
    表面化して来たため、ここ数年、10万人ものロシア人とウクライナ人がウズベクの
    地を去っている。

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    人口360万人のうち、トルクメン人の占める割合は72%で、トルコ系民族に属して
    いる。 彼らの宗教は、イスラム教のスンニ派で、定住生活を行うようになった
    のは、比較的最近のことである。 その他、国を構成する主要な民族は、ロシア人
    9.5%、ウズベク人9%で、更に、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、
    アルメニア人、ベラルーシ人など、多くの小さな民族が住んでいる。

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    トルクメン人は、数百人の間、数多くの部族に分かれて生活し、戦争の時だけ結集
    した。 そのため、トルクメン人について実際に論じることが出来るのは、ようやく
    今世紀に入ってからのことである。 トルクメン人は、1869年から1885年の間に
    ロシア帝国の支配下に入った。 1916年に中央アジアで起きた、ロシアに対する
    大蜂起にはトルクメン人も加わたが、それは逆に、ロシア皇帝政権が中央アジアの
    人たちをロシア軍に徴兵する切っ掛けとなった。

    ソ連邦の設立後、一部のトルクメン人たちは、『トルキスタン・自治ソビエト
    社会主義共和国』に属することになり、他の人たちは、その後、すぐに滅びた
    ブハラ共和国とヒバ共和国に属すことになった。 1924年に『トルクメン・
    ソビエト社会主義共和国』が設立された。 その後は、他のソビエトの全ての
    共和国と同様の歩みをたどった。 すなわち、農業の集団化、工業化、伝統的な
    社会秩序の排除、宗教の弾圧や残忍な粛清などが行われた。

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    プラス面としては、文字教育の推進と、近代学校制度の確立が挙げられる。
    1980年代のペレストロイカ(改革)の時代には、トルクメニスタンでも民族自決
    運動が起こった。 1990年8月22日、トルクメニスタンは主権宣言を採択し、
    翌年10月27日に独立宣言をした。 そして同年12月21日には、独立国家共同体
    (CIS)に加盟したが、1992年5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を
    採択。 1992年5月にロシア・CIS諸国との集団安全保障条約の署名を拒否。
    1995年12月、国連総会において『永世中立国』として承認された(ロシアの
    影響力を排除する目的と言われる)。

    今のところ、さまざまな民族グループの間に大きな緊張はない。 しかしながら、
    これまで数千人のロシア人がトルクメニスタンを離れている。 また、隣接する
    各共和国との間に、国境問題や水源の問題で対立が起こる可能性もある。

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    古代、この地域は、メディア人の帝国とペルシャ人の帝国に属していた。
    8世紀には、アラブ人に征服され、イスラム化が進んだ。 それに続く時代は、
    モンゴル、ペルシャ、オスマン帝国に従属する多数の小国家に分裂した。
    18世紀以降、ロシアがこの地域で勢力を得て、ハンの支配する個々の国々を
    次第に征服して行った。

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    1829年、ロシア・ペルシャ戦争の結果、アゼルバイジャン北部は、ロシア帝国に
    併合されたが、南部はペルシャが支配を続けた。 ロシアは、再三に渡って南部
    地域も占領しようと試みた(最後の試みは第二次世界大戦)が、結局成功しな
    かった。

    ロシア地域のアゼルバイジャンは、19世紀には、一時的に世界一の石油産地
    となった。 ロシア革命後の1918年、民族主義党派のムサーワート党の指導の下、
    独立した共和国を設立した。 しかし、1920年、共産主義者たちはが彼らの牙城で
    あったバクーでクーデターを起こし、例によって、ソビエト・ロシアに援軍を
    求めた。 こうして、赤軍が進攻し、その直後、『アゼルバイジャン・ソビエト
    社会主義共和国』の設立が宣言された。

    1922年、共和国はアルメニア、グルジアと共に、『ザカフカス・ソビエト社会主義
    共和国』を創設した。 1936年には、この連邦は解消され、3つの構成国は、
    それぞれソ連邦構成共和国となった。

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    【アルメニアとの宿命的対立】
    1980年代の改革気運の名まで、民族自立の運動が高まると、アゼルバイジャン人と
    アルメニア人との宿命的とも言える対立が再燃した。 彼らは、言葉だけではなく、
    宗教的にも文化的にも全く異質な民族だからである。 両民族の扮装は、ナゴルノ
    カラバフ自治州で始まった。

    約80%の割合でアルメニア人が住んでいるこの地域では、1922年にソビエト政権に
    よってアゼルバイジャンに割譲されたという経緯がある。 この背後には、分割して
    統治しやすくするという考え方があったに違いない。 政治集会やデモが繰り
    返された末、1988年にナゴルノカラバフ自治州は、アゼルバイジャンから独立し、
    アルメニアへ帰属することを決定した。 アゼルバイジャン最高会議もソ連最高
    会議もこれを無効とし、対立は流血の惨事へと発展して行った。
    アゼルバイジャンの都市バクーとスムガイトでは、アルメニア人の住民に対する
    凶行が繰り広げられた。

    ナゴルノカラバフにはソ連軍が進攻し、この地域は、モスクワのソ連中央政府が
    直轄するという体制が敷かれた。 しかし、事態は収拾に向かうどころか、
    アゼルバイジャン、アルメニア両共和国は、事実上の戦時体制をとった。

    数十万人のアルメニア人が、アゼルバイジャンからアルメニアへ亡命し、また、
    同様に多くのアルメニアに住むアゼルバイジャン人も国境を越えて行った。
    ソ連崩壊後も、この対立は根強く残っている。 とは言え、1991年に両共和国は、
    この地域の問題に関して、直接交渉を行うことで合意している。

    新連邦条約に関する交渉に代表を送ったアゼルバイジャンだが、1991年8月に
    独立宣言を行った。 そして、1991年12月、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    モルドバは、波乱の多い歴史を歩んで来た。 ベッサラビア北部は、14世紀に
    モルダビア公国の一部となった。 15世紀には、この地域全体がトルコの支配下に
    入る。 ロシア・トルコ戦争後の1812年に第一次世界大戦が終結すると、そこは、
    ルーマニア王国の領土となった。 しかし、その後1939年、ヒットラーと
    スターリンとの間に交わされた秘密議定書では、この地域は、ソ連の勢力圏に
    加えられた。

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    そして1940年、ソ連は、ルーマニアにこの地域の割譲を強いたので
    ある。 ベッサラビア南部は、ウクライナの一部となり、その他の部分は、既に
    1924年に設立されていた『モルダビア・ソビエト自治共和国』(この国は
    ドニエストル川東岸の狭い地域のみを領土としていた)と統合された。 この
    統合により、『モルダビア・ソビエト社会主義共和国』が創設された。 第二次
    世界大戦中、この地域は、一時的にルーマニア領に戻ったが、1947年のパリ講和
    条約において、ルーマニアは、この地域のソ連への併合を承認した。

    ソ連政府は、各共和国で大々的なロシア化政策をとっていたが、モルドバも例外
    ではなかった。 10万人余りものモルドバ人が、ソ連の他地域に強制移住させられ、
    その代わりに、ロシア人やウクライナ人がやって来た。 政治的、経済的に重要な
    ポストの殆んどは、ロシア人によって占められた。 ルーマニアが民族的にも
    言語の上でも緊密な関係を持つ国であるという事実は、公的には否定され、
    ロマンス語族の一種であるルーマニア語を、この国では、ロシア語と同じキリル
    文字で書かなければならなかった。 チュルク語の族のガガウス語の場合も同様で
    あった。

    モルドバ人がルーマニア人と接触することは、事実上不可能であった。 もちろん、
    ルーマニア自体もやがて独自の道を歩むようになって行った。 ルーマニアの
    独裁者チャウセスクは、この占領された自国の領土に関する問題は、最終的には
    まだ解決されていないという主張を匂わす発言を再三行っていた。

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    【モルドバ独立への道】
     民族運動がこのモルドバで再燃したのは、ミハイル・ゴルバチョフが改革路線を
    開始してからのことであった。 1989年以来、ルーマニア語を再びラテン文字で
    書くことが許されるようになった。 1990年夏、モルドバは、主権宣言を行い、
    ルーマニア語を公用語として定めた。 1991年夏にゴルバチョフが主催した
    新連邦条約に関する交渉にも、モルドバはもはや参加しなかった。 そして、
    1991年8月、ソ連のクーデター失敗後、モルドバは、独立を宣言した。

    どのような方法であれ、連邦の形態を新しくして存続させることには拒否の姿勢を
    とっていたモルドバも、1991年12月、独立国家共同体(CIS)には加盟した。
    半世紀も続いて来た経済的な関係を、即座に断ち切ることは出来なかったので
    ある。 また、共和国領内には多数の旧ソ連兵が駐屯しており、その撤退に
    関しても、拘束力の伴う協定は未だ存在しない。



    【揺れる民族のアイデンティティー】
    諸民族の問題は、この国に大きな波紋を投げ掛けている。 ロシア人は、
    ドニエストル川沿いに『ドニエストル共和国』という独立国の設立を宣言し、
    南部では、ガガウス人が同様に独立をうたっている。 モルドバ中央政府は
    もちろん、これを承認していない。 そして、更に重大なのは、モルドバは、
    いつの日にかルーマニアと統合すべきか否かという問いである。 この微妙な
    問題に関しては、これまでのところ、双方とも慎重な態度をとっている。

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    ベラルーシ(白ロシア)は、旧ソ連西部に位置する。 西はポーランド、北は
    リトアニアとラトビア、南はウクライナそそれぞれ国境を接している。 総面積
    20万7,600平方キロメートルの国土を持つ。 国名の『白』とは、『北』を
    意味する。 キエフ公国から見れば、この国は北にあったからである。

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    ベラルーシは、氷期に形成された低地に広がる国である。 モレーン低地
    (ベラルーシ山地)辺りにのみ激しい起状が見られる。 この国はいわゆる
    東ヨーロッパ混合林地域にあり、国土の約4分の1が森林と雑木林からなっている。
    この地域は、東ヨーロッパの一般的な気候から言うと、極めて降水量が多い。

    この地の自然は、湿地帯に広がる森林と低地の草原、また数多くの湖によって
    特徴付けられる。 この地の土壌は農業には余り適していないため、ここでは
    特に畜産(養豚、乳牛飼育)が盛んである。 主要農産物は、麻、ジャガイモ、
    ライ麦、飼料作物などである。

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    総人口は1000万人を上回り、そのうち、約80%がベラルーシ人で、その他、
    ロシア人12%、ポーランド人4%、ウクライナ人2%、ユダヤ人2%が住んでいる。
    ロシア革命以前は、国民の大半がロシア正教を信じていた。長い間、ポーランドや
    リトアニアとの交流も盛んであったため、カトリック信仰も、特に西部において
    かなり広がりを見せていた。

    ベラルーシは、自然条件から見ると、余り恵まれた国とは言えない。 土壌が
    優れないために、農業も畜産に限られている。 石炭、塩、石油、泥炭も生産
    されるが、国内需要にのみ使用されている。 国民の教育水準は比較的高く、
    機械や鉄鋼などの専門的な工業の育成が奨励されて来た。 首都ミンスクは、
    人口から言っても、また産業の集中度から言っても、他都市を遥かに上回る
    主要都市である。

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    ソ連崩壊から25年。 ロシアは、旧体制から引き継いだ対外債務をようやく完済
    出来る見込みとなった。

    ロシア政府は、ボスニア・ヘルツェゴビナに対する旧ソ連時代の債務1億2520万ドル
    (約140億円)を近日中に完済する方針を明らかにした。 セルゲイ・ストルチャク
    (Sergei Storchak)副財務相は、ボスニア・ヘルツェゴビナへの支払いで『旧ソ連
    時代の公的対外債務の返済が完了する。これは歴史的な出来事だ』と述べた。
    ロシアは現在、ウクライナ危機をめぐって、日本や欧米諸国から経済制裁を
    科されている。

    1991年末のソ連崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の履行
    責任を負って来た。 債務の大半は『ペレストロイカ(改革)』で民主化が推進
    された85~91年に生じ、その履行は90年代に財政の圧迫要因となった。

    90年代後半、ロシアは壊滅的な経済問題に直面し、98年にはデフォルト
    (債務不履行)に陥った。 2000年代初めから石油収入が安定したおかげで、
    2006年にはパリクラブ(Paris Club、主要債権国会議)の主要17か国への債務を
    返済した。

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    ソ連時代の負の遺産は、ロシアがその殆どを引き継いだため、ロシア独立時には、
    この天文学的な大赤字は、一生掛かっても返済出来ないと言われたが、独立から
    25年で完済の運びとなった。 尚、ロシア独立当時の平均的な給与は、円に換算
    すると、月3,000〜6,000円しかなかった。

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    ロシアの歴史の始まりは、かつて、現在のウクライナ付近に存在していた
    『ルーシ』が元となっており、初期の時代は、ウクライナの歴史と同じなのだが、
    モンゴル・タタールによる支配の後、北にあったモスクワ公国が台頭し、現在の
    ロシアとなった。

    ロシアの本来の意味は、『櫂の国』で、当時のロシア国内では、バイキングに
    よる略奪が横行していたが、本来この『ルーシ』とは、バイキング船の『櫂』を
    表していた。

    モンゴル・タタールによる支配を跳ね返したモスクワ公国は、同じ東方正教の国、
    ウクライナをポーランド支配から解放した際に、ウクライナを併合した。
    モスクワは、この時点で、『ルーシ』の正当な後継国となったことから、その後は
    『ルーシ国』という意味の『ロシア』を名乗ることとなった。

    Russian_countries

     ロシアには、大きく分けて、王朝が2つ存在したが、そのうちのひとつである、
    リューリック王朝は、スウェーデンから皇帝を招いたもの。 その後、その血が
    途絶えたため、ロマノフ王朝が新たに誕生した。 ロマノフ王朝最後の皇帝、
    ニコライ2世は、1917年の2月革命後で退位に追い込まれ、家族と共に、首都
    サンクトペテルブルク近郊のアレクサンドロフスキー宮殿に軟禁されたが、
    最後はエカテリンブルグで家族共々処刑された。

    革命以降、レーニンが率いるボリシェビキと共産党による、世界初の社会主義国家
    ソ連が誕生した。 その後、ソ連は、アメリカと並ぶ、世界を二分する超大国と
    まで言われ、冷戦時代には、東ドイツまでの東欧をその支配下に置き、約70年もの
    間存在したが、最終的には、当時のゴルバチョフ大統領が推し進めたペレストロイカ
    (改革)と情報公開が原因で崩壊した。



    ソ連崩壊後の新生ロシアは、ソ連時代の負の遺産を全て引き継いだため、
    天文学的な財政赤字を抱えていたが、その地獄の底のような状況下で、
    突如、彗星のごとく現れたプーチン大統領の一代だけで、この一生涯無理と
    言われた財政赤字を一気に解消した。

    この奇跡的な赤字の解消は、オイルマネーによるところが大きかったのだが、
    ソ連崩壊後は、何でもありの混沌とした時代が続いたため、危ない橋を渡った
    人たちは、一気に新興財閥にまで上り詰めることが出来た時代でもあった。

    社会主義から自由市場主義へと社会が急転換したため、90年代後半は、経済危機を
    招き、日本企業が全撤退するという自体にまで陥ったが、2000年以降は、比較的
    安定しており、大きな経済発展を遂げた。

    その後、ウクライナでの内戦が勃発し、クリミア半島をウクライナから奪還した
    ため、アメリカを中心とする西側諸国から経済制裁を加えられ、ロシアの通貨
    であるルーブルが急落し、現在は、生活にまで深刻な影響が出て来ている。

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    1960年代に入って、チェコスロヴァキア経済は急速に衰退し始めた。 政府が
    機械に投資しなかったので、工場施設は古くなるばかりだった。 国営と共同組合
    農場の生産は上がらず、食料不足も生じた。 生活水準が低下するに連れて、
    チェコスロヴァキア政府関係者は政治、経済の方向転換の必要性を感じた。

    それに答えて、アントニン・ノヴォトニ大統領は、企業によっては賃金と価格を
    自主的に設定する自由を与えた。 しかし、ノヴォトニ政権は、政府の管理下に
    ある計画経済制度の破棄、報道規制の緩和、複数野党の合法化などを拒否した。
    1960年代中ごろ、経済情勢が悪化するに連れて、大統領は共産党内部からの強い
    批判にさらされた。

    スロヴァキア共産党の指導者アレクサンダー・ドプチェクは、自由改革の加速と、
    スロヴァキアの自主性を求めてノヴォトニに挑戦した。 ドプチェクは報道の
    自由を許可して、改革を更に進めた。

    1968年1月、ドプチェクはチェコスロヴァキア共産党の第一書記(指導者)に
    選出された。 2ヵ月後、ノヴォトニは辞任し、ルートウィック・スヴォボダが
    大統領に就任した。 党は検閲制度を廃止し、宗教と新聞の自由を保障した。
    産業は農場に対する政府の統制を緩和した。 スロヴァキアの独立促進も約束
    した。

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    これらの動きはソ連指導者と、ワルシャワ条約機構加盟国の指導者をあわて
    させた。 共産主義の改革は、自身の政治体制を脅かすと見たからである。
    1968年8月20日、ワルシャワ条約機構国軍は、チェコスロヴァキアに侵入し、
    占領した。 ソ連政府指導者は、ドプチェクの逮捕を命じ、モスクワに連行した。
    それから2年後、党はドプチェクの改革を放棄して検閲制度を復活し、経済の
    統制を始めた。

    ソ連は、チェコスロヴァキアを懐柔するために、連邦制度を認めて、チェコと
    スロヴァキアにそれぞれ社会主義共和国が設立された。 ソ連はチェコ
    スロヴァキアに軍隊を駐留させ、ソ連と親しいフサクが、チェコスロヴァキアの
    共産党第一書記となった。

    ソ連の侵入によって挫折した一連の改革事件は、毎年開かれる国際音楽祭にから
    名を取って『プラハの春』自由化運動と呼ばれた。

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    チェコスロバキア共産党は、戦後初の総選挙で多数を獲得した。 3年間ベネシュを
    大統領としていた共産党は、諸党と連立を組んで政権の座に居た。 共産党の首相
    クレメント・ゴットワルドは、共産党から主要閣僚を任命した。 経済の国家管理を
    掲げる共産党をはじめ、諸党から参加した人民委員会が企業の国有化を決定した。
    共産党の権力が高まるにつれて、政府内の多くの反共産主義派は、危機感を高めた。

    1948年をはじめ、内閣の反共産主党閣僚は、新しい選挙を強行するために辞表を
    提出した。 選挙をすれば、共産党の敗北は確実との確信があったからである。
    しかし、共産党は、選挙戦に参加する代わりに、プラハで威圧的な集会を開いた。
    深まる混乱を避けるため、ベネシュは共産党幹部たちを新政権の閣僚に任命した。

    CommunistParty

    1948年、ベネシュに代って、共産党のゴットワルドが大統領になった。 政府は、
    反対党を禁止し、チェコスロバキアを厳しい一党支配の国に代えた。 報道機関、
    学校、経済は、国家に管理された。 チェコスロバキアは、ソ連へますます接近し、
    ヨーロッパ共産主義国の軍事同盟であるワルシャワ条約機構にも参加した。

    ソ連を模範として、チェコスロバキアは工業、銀行、農業分野も政府の管理下に
    置いた。 政府は、高い生産目標を設定し、同時に価格を賃金を固定した。 国家は
    ソ連からエネルギーを輸入し、チェコスロバキア製品は、ソ連を市場として輸出
    された。 新しい体制では、ほとんどの労働者は、低賃金で長時間働いた。

    地方では、農民は土地と農業機械を共有し、強制的に共同組合に加入させられた。
    価格が固定された協同組合の収穫や家畜の販売先は、政府に限られていた。

    政府によって没収された土地は、国営農場に組み込まれ、農民は賃金労働者に
    なった。 例え、収穫が増えても農民は、生産の増収に値する賞与を受けて
    いなかった。

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    ロシア第3の都市、ノボシビルスクとは、シベリア開発のために建設された
    シベリアの中では比較的新しい街で、街が造られた当初は、『ノボニコラエフスク』
    という名前だった。 これと同様に、ソ連崩壊直後に、名前が変えられた都市や
    通り名は数多く、ざっと思い出せるだけでも、数知れない。 

    【 国名 】
    ソビエト社会主義共和国連邦 → 独立国家共同体
    ベロロシア → ベラルーシ
    カザフ → カザフスタン
    キルギス → キルギスタン
    ウズベク → ウズベキスタン
    トゥルクメン → トゥルクメニスタン
    タジク → タジキスタン
    タタール → タタルスタン

    【 都市名 】
    レニングラード → サンクト・ペテルブルグ
    ゴーリキー → ニージニー・ノブゴロド
    スベルドロフスク → エカテリンブルグ
    クイビシェフ → サマーラ
    ザゴールスク → セルギエフ・ポサード

    【 通り名・土地名 】
    カリーニン通り → 新アルバート通り(モスクワ)
    カールマルクス通り → 劇場通り(モスクワ)
    レーニンヶ丘 → 雀ヶ丘(モスクワ)

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    実際は、まだまだあるのだが、これを日本語とロシア語で全て覚え直さなければ
    ならないというのには、かなりの時間を要した。 よって、ロシアでは、今でも
    ペテルブルグのことを普通にレニングラードとも言う。 ソ連がなくなり、最も
    変わったのは、社会システムで、社会主義を捨てて、市場経済へ移行するための
    厳しい現実が待っていた。 ソ連の時代は、国が生産管理をしていたため、商品が
    売れようが売れなかろうが、一切関係がなかったのだが、市場経済ではそうは
    行かない。 売れ残り商品は、すぐに在庫となり、マイナスとなって財政に跳ね
    返って来る。 この期に乗して、それまで国立であった設備の私有化が始まった。

    ソ連の崩壊とは、戦後そのもので、火事場泥棒のごとく、やった者勝ちの新興財閥が
    次々と現れては消えて行った。 国がなくなったということは、それらを取り締まる
    法律がなくなったという意味で、弱肉強食の世界へと一変した。 この際、一番
    バカを見たのは、正直に生きて来た人間で、それまでは、生活保障が余りにも
    充実し過ぎてたがために、犯罪、殺人、自殺などは、表には出て来なかったが、
    一気にそれらの問題が表面化したばかりではなく、世界でも有数の治安の悪い国に
    成り果てた。

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    1991年末に、新生ロシアになってからは、ロシアは2000年頃まで激しいハイパー
    インフレに常に悩まされ続けたため、殺人、強盗、盗み、自殺等は、日常茶飯事で、
    知識層を中心に、年間で数万人規模で、移民が多発した。 それまでは、日本国内
    には、恐らく、100名程度しかロシア人が住んではいなかったのだが、今では、
    推定でも2万5千人以上のロシア語圏の人たちが日本で生活をしている。 それは、
    田舎の嫁不足を解消するために、長らく結婚紹介所がロシア人女性を日本に送り込み
    続けた結果とも言える。

    ソ連の時代は、東京でもロシア人を探すのは困難を極めたが、今では浅草等の
    観光地に行くと、必ずロシア人観光客が居るのには驚かされる。 正に、時代は
    変わったのである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥

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    1993年当時、カザフスタンの首都であった、アルマ・アタ(現在の首都は
    アスタナ)は、『緑の街』の別名を持っている通り、緑豊かな中央アジアの
    大都市で、旧ソ連邦の中では、かなり南に位置しているため、果物や野菜も
    豊富だった。 当時のノボシビルスクは、ロシア第3の都市とは言うものの、
    外国から最も遠い位置にあるため、ロシア国内でも物資が最も足りていない
    場所であった。

    10339055

    カザフスタンにあって、ロシアにはないものを挙げるとすると、馬乳酒の
    クムイスと餃子のお化けのような食べ物マンティを思い浮かべることが出来る。
    クムイスは、若干すっぱく、少々癖のある味で、かなり苦手な味がしたため
    それ以来、一切飲んではいない。

    マンティは、時々、カザフ人の友人宅でご馳走になっていたので、結構馴染みが
    あった。 旧ソ連の中では南国の部類に入るのだが、実際の緯度は札幌と同じ
    程度であるため、冬はかなり寒い。
     
    実は、このアルマ・アタ滞在中に、天山山脈を越えて、中国のウルムチへ行き
    たかったのだが、残念ながら、ロシア側の学生ビザが下りなかったため、断念
    した。 後日ドイツのベルリンにも行こうとしたのだが、こちらも許可され
    なかった。 許可が下りなかった理由は、『学生には必要ないから』という、
    非常に理不尽なものであった。

    当時のロシアのビザには、写真2枚が必要で、そのうち、一枚は、ロシア入国時に
    提出させられ、ビザの中には、滞在都市の記載があったのだが、そこに記載されて
    ある都市以外へ行くことは当時は禁止されていた。 よって、このアルマ・
    アタへの旅行は、ロシアの出入国と滞在都市以外へ行ったという、2重のリスクを
    犯しての旅であった。

    但し、電車に乗る際に、たまたま駅で出会ったカザフ人の友人の知り合いが
    一緒の電車に乗ることになったため、万事事なきを得たが、周囲が全員カザフ語で
    喋っていたため、全く気付かなかったのだが、実際には、車掌に何度もお金を
    要求されたとその知り合いから教えて貰った。

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    ビザが下りなかったため、ウルムチに行くのは諦めたが、せめて、キルギスの
    首都であるビシケク(ソ連時代はフルンゼという名前だった)にだけは行きた
    かったのだが、時間的にこちらも無理だった。 その後、キルギスの担当をして
    いたため、毎日キルギスには電話をしていたが、今でもキルギスには行った
    ことがない。

    尚、アルマ・アタからは、天山山脈がハッキリと肉眼でも見えており、その山脈を
    越えると、そこは中国の新疆ウイグル自治区となっている。 カザフスタンの北の
    端には、世界最大の核実験場であったセミパラチンスクが、また、この新疆ウイグル
    自治区も中国の核実験場として有名な場所となっている。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②

    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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