多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳 Samurai Global』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ソ連

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    チェルノブイリ事故で放射線により被害を被った者は、児童を含む国民全てが
    補償対象となっており、被災者は以下の4つのカテゴリに分けられる。

    9hkgodfor

    【カテゴリー1】
    チェルノブイリ原発事故により、障害者、犠牲者、あるいは、病気を発症した者

    補償内容
    - 医師からの処方箋があれば医療費免除。
    - 歯科補綴物は無料。
    - 医療機関、および、薬局における優先的なサービスを受ける事が出来る。
    - 長期療養所での治療券、および、無料旅行クーポン券の発行。
    - 年金を受給する際や転職をした際には、これまで通院していた病院を優先的に
      利用可能。
    - 専門家による診断を伴う健康診断、専門医療機関での治療費免除。
    - 企業、団体における従業員の解雇や再編等による労働環境の変化、並びに、
      雇用に関する再雇用のための継続的な優先権が与えられる。
    - 勤続年数に関係なく、平均賃金と同額の一時障害補償金が支給される。
    - 現在就労中の障害者に関しては、一時的な補償金として最大で給与5ヶ月分が
      付与される。
    - 住宅環境の改善が必要な者に対しては住居を特別に提供する。
    - 居住費(家賃、修繕費)、光熱費(ガス、電気、水道、その他サービス)の
      50%割引、燃料費50%払い戻される。
    - 対象者が事業主、あるいは、その家族であっても、国営、あるいは、公営住宅
      アパート基金が所有する住宅が私有財産として無償で提供される。
    - カテゴリー1に属する障害者は、医学的な観点、あるいは、カテゴリー2に
      属する障害の有無に関係なく、自動車の運転が禁止されているため、無償で
      自動車が提供される。
    - 公共交通機関の利用は無料となる。
    - 国からの社会補償金の支払い金額に応じて、療養所、専門医療機関等の全専門
      機関における病気治療、並びに、病気療養が必要な際には優先的に施設への
      受け入れが行われる。
    - 学区区分に関係なく、就学前教育に関しては、特別義務教育規定が適用される。
    - ウクライナ国内を移動する際には、1年に1度に限り、陸路、空路、鉄道、
      水上交通の切符の優先購入を行うことが出来る。
    - 不動産協議会による農業用地の強制転換、生活条件改善のための強制移住、
      引っ越し、並びに、農園、ガーデニング、ガレージ、別荘建設他、土地を
      転換する際(申請書提出後1年以内)には、不動産が無条件で割り当てられる。
    - 休暇取得時に年間14日間の追加有給休暇が付与される。
    - 住居を持たない者が国立高等教育機関、職業専門技術学校に入学する際には、
      学習期間中に限り、その付随施設への入寮が認められ、奨学金が与えられる。
    - 社会保険事務所で特別機器の貸し出しを行っているが、自宅でこのサービスを
      受ける場合は、近親者が同居していない者に限られる。

    【カテゴリー2】
    チェルノブイリ原子力発電所の事故区域外で労働に従事していた者

    - 労働日数に関わらず、事故発生時から1986年7月1日までの間、事故区域外で
      労働に従事していた者。
    - 1986年7月1日から12月31日までの間で5日以上事故区域外で労働に従事
      していた者。
    - 1986年のチェルノブイリ事故により、14日以上何らかの被害を被った者、
      または、原発事故による被害者。
    - 1986年度に事故区域外へ避難した者(避難時は胎児で後に成人した者を含む)。
    - 事故発生後、定住先が決まるまでの間、災害住宅や避難先に長期的に住む者。

    補償内容
    - 医師からの処方箋があれば医療費免除。
    - 歯科補綴物は無料。
    - 医療機関、および、薬局における優先的なサービスを受ける事が出来る。
    - 年金を受給する際や転職をした際には、これまで通院していた病院を優先的に
      利用可能。
    - 専門家による診断を伴う健康診断、専門医療機関での治療費免除。
    - 勤続年数に関係なく、平均賃金と同額の一時補償金が支給される。
    - 対象者が雇用主、あるいは、その家族であっても、国営、あるいは、公営住宅
      アパート基金が所有する住宅を私有財産として無償で提供される。
    - 学区区分には関係なく、就学前教育に関しては、特別義務教育規定が適用される。
    - 不動産協議会による農業用地の強制転換、生活条件改善のための強制移住、
      引っ越し、並びに、農園、ガーデニング、ガレージ、別荘建設他、土地を
      転換する際(申請書提出後1年以内)には、不動産が無条件で割り当てられる。
    - 休暇取得時に年間14日間の追加有給休暇が付与される。
    - 住居を持たない者が国立高等教育機関、職業専門技術学校に入学する際には、
      学習期間中に限り、その付随施設への入寮が認められ、奨学金が与えられる。
    - 社会保険事務所で特別機器の貸し出しを行っているが、自宅でこのサービスを
      受ける場合は、近親者が同居していない者に限られる。
    - 住宅環境の改善が必要な者に対しては住居を特別に提供する。
    - 企業、機関、団体等における従業員の解雇や組織再編等の労働環境の変化等、
      再雇用に関する継続的な優先権が与えられる。
    - ウクライナ国内を移動する際には、1年に1度に限り、陸路、空路、鉄道、
      水上交通の切符の優先購入を行うことが出来る。
    - チェルノブイリ原発事故が原因で生じた疾病、または、傷害により職業能力が
      永続的に損なわれた場合は、 健康障害を被る以前の能力に応じて、法的な
      補償金が支払われる。
    - 国内各都市への公共交通機関が無償となる。

    【カテゴリー3】
    チェルノブイリ原発事故後に被害を被った者

    - 1986年7月1日から1986年12月31日までの期間で、事故対象外地域に1日から
      5日間滞在した者。
    - 1987年に事故対象外地域に1日から14日間滞在した者。
    - 1988年から1990年までの間、事故対象外地域に30日以上滞在した者。
    - 1986年度に公共衛生処理場、除染作業現場、建設現場で14日間以上労働に
      従事した者。
    - 第2カテゴリーには分類されないチェルノブイリ原発事故で被害を被った者。
    - 1993年1月1日現在、強制移住区域内で2年以上居住、通学、あるいは、労働に
      従事しており、自発的に移住を行なった転居先で3年以上経過している者。

    補償内容
    - 医師からの処方箋があれば医療費免除。
    - 歯科補綴物は無料。
    - 医療機関、および、薬局における優先的なサービスを受ける事が出来る。
    - 専門家による診断を伴う健康診断、専門医療機関での治療費免除。
    - 企業、機関、団体等における従業員の解雇や組織再編等の労働環境の変化等、
      再雇用に関する継続的な優先権が与えられる。
    - 勤続年数に関係なく、平均賃金と同額の一時補償金の支払いが行われる。
    - 学区区分に関係なく、就学前教育に関する特別義務教育規定が適用される。
    - 不動産協議会による農業用地の強制転換、生活条件を改善するための強制移住、
      引っ越し、並びに、農園、ガーデニング、ガレージ、別荘の建設他、土地を
      転換する際(申請書提出後1年以内)には、別の不動産が再度割り振られる。
    - 社会保険事務所で特別機器の手配を行う事が出来るが、自宅でこのサービスを
      受ける場合には、近親者が同居していない者に限定される。
    - 放射性物質による汚染地域に住んでいる未成年の児童を持つ両親の何れか
      一方に対して、最高で14日間の年次休暇が与えられる。
    - 住居面積を問わず、共同住宅に入居するための市民としての権利を有する。
    - 市民が独立して移住可能な場合は、国営、または、公営居住の所有権を譲渡する。

    【カテゴリー4】
    1993年1月1日時点で強制移住地域内で4年以上就労、通学、あるいは、居住する者。

    1986年4月26日の事故発生後から7月1日まで少なくとも14日間、あるいは、
    1986年から1987年の間に強制退去区域内で政府の指示により作業を行なった者は、
    法律で定められた補償(放射線による被害)の対象となる。

    カテゴリー4に分類されていた補償は、2014年12月28日に廃止された。

    osentizu

    【チェルノブイリ原発被災者に対する特別年金】
    全カテゴリで既に退職したチェルノブイリ原発被災者に対して、基本年金に
    加算して、特別年金が支給される。 汚染地域で労働に従事していた者、あるいは、
    住んでいた者は、年金支給年齢が引き下げられる。

    【チェルノブイリ原発事故対応委員会加入者】
    - 労働日数に関わらず、事故後から1986年7月1日までの期間、避難区域で労働に
      従事していた者、または、1986年7月1日から1986年12月31日まで期間、5日
      以上この区域で労働に従事していた者は、年金受給年齢が10年引き下げられる。

    - 1987年に避難区域内で少なくとも14日以上労働に従事していた者は、
      年金受給年齢が8年引き下げられる。
    - 1986年7月1日から1986年12月31日までの期間、避難区域内で1日から5日間
      同区域の衛生処理場での作業、あるいは、除染作業を14日間以上行っていた者は、
      年金受給年齢が5年引き下げられる。

    【チェルノブイリ原発事故で被害を受けた児童の保護】
    チェルノブイリ原発事故発生時に妊娠期間中であった児童を含む、原発事故の
    被害により、避難区域から避難した者が対象となる。

    - 事故発生後に強制避難区域内で少なくとも1年間継続して居住、通学していた者。
    - 事故発生後の1986年4月26日以降に誕生し、自主避難区域で少なくとも2年
      継続して居住、通学していた者。
    - 事故発生時に原発事故に関するカテゴリー分けの1から3に属する父、または、
      母を持ち、1986年4月26日以降に誕生した者で、放射線管理強化区域内で
      少なくとも3年間以上継続して通学していた者。
    - 放射線量に関わらず、甲状腺がんの患者と放射線病患者。

    【補償と給付金】
    - 14歳未満の病気を発症した児童を持つ親に対する一時的な補償金として、
      平均賃金の100%の金額が支払われる。
    - 医師の処方箋に基づいた医薬品が無料となり、急を要する歯科補綴物も
      無料となる。
    - チェルノブイリ事故で被災した女性に対しては、出産前には90日間の妊娠休暇、
      更に、出産後は90日間の休暇が付与される。
    - 放射線汚染地域内にある中等学校、専門学校、大学、それぞれの児童の学費は
      無料となり、強制避難区域から避難した者、事故の影響で障害を負った者は、
      移住先での定住に関わる費用が無条件で無料となり、上記の教育機関で学校給食を
      受けていない者や、これらの機関に通えなかった者に対しては、補償金が
      支払われる。
    - 12歳未満の事故で被害を被った児童を持つ両親のうちの何れか一方に対して、]
      児童をケアする時間が労働時間に参入される。

    - 障害児童を持つ両親の何れか一方、あるいは、その代理人が年次休暇を取得する
      際には、年間最大で14日間の特別有給休暇が付与される。
    - チェルノブイリ原発事故で障害者となり、特別なケアを必要とする児童に
      対しては、  居住スペースが特別に提供される。
    - 障害児を持つ何れか一方の親、または、それに代わる代理人に対しては、2ヶ月間
      有効の年次無料旅行クーポン券が発行される。
    -  2016年1月1日に第4カテゴリーに属するチェルノブイリ原発事故被災者に対する
      法律上の優遇処置が廃止され、特別年金受給者に対する補償金が廃止された。
      政府からの予算削減により、特別年金受給者に対しては、満額の特別年金が
      支払われると記載されているものの、チェルノブイリ原発事故に関する他の
      カテゴリーの補償の権利を有する者には関しては、選択肢としてこの権利を使う
     ことが出来るのみである。

    チェルノブイリ原発事故被災者に対する主な補償金は、過去6ヶ月間において、
    1人当たりの平均月額家計収入が社会保証協定によって定められている所得額を
    上回らないことを条件として支給される。 2017年度の予算額は、「ウクライナの
    社会補償(2017年度版)」にて参照のこと。 法改定以前は、法律によって
    チェルノブイリ被災者に対する全ての給付金額と追加補償金額が決定されていたが、
    新政権発足後に法改正がなされ、現在、補償金の金額は、社会保証協定により定め
    られている。 今後は、更に予算が縮小される可能性がある。

    現在の新政府は、各カテゴリーごとの補償金額を減らすことは出来ないとする
    ウクライナ憲法に反する法律を採択した。
    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    カウナスは、第二次世界大戦、すなわち、ソ連邦への併合以前までは、
    リトアニアの首都であったため、『杉原千畝記念館』は、元々は、
    日本大使館であった。 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、
    多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込んだが、ソ連によるリトアニア
    併合が確実となり、彼らには日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという
    方法しか残されていなかった。

    >>杉原千畝 ~六千人の命のビザ~

    杉原は、苦悩の末、外務省の訓命に反し、『人道上、どうしても拒否出来ない』
    という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を
    発給した。 それは、人道、博愛精神第一という大きな決断であった。 その後、
    戦況が悪化したため、日本大使館は閉鎖、カウナス市内を転々としながら、更に
    ビザの発給を続けた。 合計で約2,000枚のビザを発給したものの、本国からの
    命令に逆らったとして、その後は、ルーマニアヘと送られ、後に、外務省をも
    追われる事となる。

    IMG_1094
    IMG_1111
    IMG_1102
    IMG_1106
    IMG_1097
    IMG_1099
    IMG_1100
    IMG_1105
    IMG_1101

    カウナス駅に今でも杉原千畝のプレート残されている。 日本大使館が閉鎖され、
    最後の最後までビザを書き続けたのがカウナス駅。 千畝は、その後、汽車で
    ベルリンへと向かった。 ユダヤ人たちが日本の通過ビザを欲しがったのは、日本へ
    行きたかったからではなく、日本を経由して、第三国へ脱出しかたったためで、
    当時は、シベリア鉄道に乗って、日本を経由して、オランダ領のキュラソーに
    行くしか残された道はなかったのである。

    その後、杉原は、ユダヤ人たちからは非常に感謝されたが、日本での扱いは、
    外務省に無断で勝手にビザを発給したとして、名誉剥奪のまま無念の死を遂げた。
    2000年に日本政府から正式に名誉回復がなされたのは、杉原の没後14年目、
    そして生誕100年という節目のことであった。

    【お勧めの一枚】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    モスクワから1時間半のフライトで、ベラルーシの首都ミンスクに到着。
    このミンスク第2空港は、中国の資本で建設されたとかで、あちこちに漢字
    表記があるため、日本人には非常に便利。 空港到着後は、ベラルーシの
    厳しい入国審査があるのかと思いきや、一切何もなく、そのまま外に出て
    しまったため、拍子抜けした。 夜中の11時半にミンスクに到着したため、
    タクシーが一切捕まらず、色々と交渉した結果、恐らく、ミンスク市が
    運営している予約制のタクシーを1時間後にようやく予約出来たため、
    夜中の1時過ぎに本日のお宿である健康センターへとたどり着いた。

    【ミンスク】
    IMG_0908
    IMG_0909
    IMG_0911
    IMG_0912
    IMG_0913
    IMG_0914
    IMG_0915
    IMG_0916
    IMG_0917

    空港から宿までの道には、街灯がひとつもなく、正に漆黒の闇の中を林の
    中へとずんずん突き進んだ場所にこの健康センターがあるのだが、一夜明けて、
    朝になると、素敵な森の中にある施設である事が判明。 日本円にして1,200円
    程度でスウィートルームを予約したため、朝から気分は大金持ちのおぜう様w
    健康センターだけあって、マイナスイオンたっぷりの朝の散歩が気持ち良い。
    敷地内には、サウナやらレストランやら、色々な施設があった。

    ミンスク市内は、ロシア語とベラルーシ語のちゃんぽん表記が多く、周囲は
    皆ロシア語だけで話しているのに、地下鉄の放送は、ベラルーシ語と英語のみ。
    元々、ベラルーシ語は「死語」と呼ばれる程すたれた言語だったが、近年になって、
    徐々に復活をしている模様。 旧ソ連邦の国々では、ロシア語のみが公用語で
    あったため、ベラルーシ語やウクライナ語が激しく規制されていた時代もあった
    影響で、各民族語がすたれたのだが、ソ連から独立の後は、各民族語の復活に
    力を入れている国々もあるものの、ウクライナのように、余りにも強引な
    やり方をして、ロシア語話者の人権を無視している国もあるため、ベラルーシ語の
    復活にも、慎重な体制で臨んで欲しいところ。

    【ミンスク】
    IMG_0931
    IMG_0929
    IMG_0930
    IMG_0932
    IMG_0933
    IMG_0934
    IMG_0935
    IMG_0936
    IMG_0937

    基本的に、ベラルーシ語はロシア語に非常に似ているため、特にロシア語の
    アナウンスをしなくとも理解出来るのだが、周囲で喋っている言語と、公共
    放送とのズレがあるのには違和感を感じた。 大阪で標準語の放送等、この逆
    パターンは、幾らでもあると思うのだが、道路表記は、話し言葉が追いついて
    来てから変更した方が良いと思った。

    ミンスク駅構内のキオスクでは、溢れるばかりの商品が並べられていた。
    一部の旅行雑誌には、「ベラルーシは、旧ソ連邦の中でも最もソ連時代の面影を
    残している国」との記載があったため、どれほど古めかしい国なのかと思いきや、
    こんな程度のレーニンやらモニュメント的な遺物は、ロシアこくないにもまだまだ
    残っているため、ロシアとベラルーシの決定的な違いは見出せなかった。
    ベラルーシでは、チェルノブイリ原発事故の影響で、国内を旅行するという
    習慣がないそうなのだが、その現実を後で何気ない場所で見る事となった。

    【ミンスク】
    IMG_0918
    IMG_0919
    IMG_0920
    IMG_0923
    IMG_0924
    IMG_0925
    IMG_0927
    IMG_0928
    IMG_0938

    ミンスク駅前には、重々しい重厚な雰囲気の建造物があり、社会主義建設の
    象徴となっている。 この日は、このまま夜にこの駅からビリニュスへ向けて
    旅立つため、まずは、駅の下見から。 行き先とホームの番号が記載されている
    ものの、ビリニュス行きの電車は、1番線の最先端部分にある21番線からの出発と
    なっており、非常に分かり辛い。 ミンスク空港から入国し、5日間のビザなし
    訪問でベラルーシへやって来た人達の場合は、鉄道での国境越えは絶対に出来ず、
    今回は、わざわざベラルーシのビザを取得して来ているため、この超難ルート
    での国境越えに挑みます。 ミンスク空港からのビザなし訪問でベラルーシへ
    入国した場合は、絶対にミンスク空港から以外は出国出来ないため、ご注意
    くだされ(出発前にベラルーシ大使館に確認済み)
    。 

    >>トップページに戻る



    【お勧めの一冊】


    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を
    貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを
    突き合わせ、明らかにした。 米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供
    だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の
    背景にあったことが浮かび上がった。

    68FB4E58AA9

    振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、
    ソ連の対日参戦が決まった1945年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった
    米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。

    米国は1945年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の
    艦船をソ連に無償貸与。 4~8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州
    コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。
    コールドベイには常時1,500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たった
    という。

    訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島の作戦に投入された。 8月
    28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦には、米の貸与艦船10隻を含む
    17隻が参加。 ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、四島の占領は9月5日
    までに完了した。

    20161075097

    こうした歴史的史実が判明したのは、根室振興局が2015年度から取り組む
    北方領土遺産発掘・継承事業が切っ掛け。 各国の資料を集める中で、ソ連が
    樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べ上げたイーゴリ・サマリン氏
    (現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の論文「1945年8月のサハリンと
    クリル諸島上陸作戦に参加した軍艦と補助船舶の注釈付きリスト」(2011年3月)を
    入手した。

    リストに米艦船が含まれていることが分かり、経緯を探るうち、米ソの極秘
    プロジェクトの内実を書いた元米軍人リチャード・ラッセル氏の著書
    「プロジェクト・フラ」(2003年)の存在を知り、米国から取り寄せた。
    国後島の地元紙「国境にて」の過去記事など各種資料と照らし合わせ、四島占領
    作戦での米艦船の使用を突き止めた。

    調査を取りまとめた国後島元島民2世の谷内紀夫・根室振興局副局長は
    「米国が徹底した対ソ支援を行っていたことが分かり、北方領土問題への両大国の
    関与が浮き彫りになった」と話す。

    調査資料は来年1月19日~2月2日に根室市内の道立北方四島交流センターで開く
    企画展で公開。 初日の1月19日に谷内副局長が講演する。

    5017

    ■ソ連の独断ではなかった 北方領土問題の経緯に詳しい和田春樹東大名誉教授の話
    北方四島占領を含む旧ソ連軍の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、
    日本国内ではほとんど知られておらず、発見と言える。 四島占領はソ連が勝手に
    行ったのではなく、米ソをリーダーとする連合国の作戦として行われたという
    ことを示している。

    【お勧めの一冊】

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    エストニアとラトビアは、中世を通じて、数世紀に渡ってドイツ騎士団やその他の
    勢力の支配下にあった。 それに対してリトアニアは、14世紀の半ばリトアニア
    大公の下に大公国を形成し、その公国は、バルト海からモスクワ、そして、一時は、
    黒海沿岸にまで広がっていた。

    lithuania

    1386年に行われた大公の孫ヨガイラとポーランド女王ヘドヴィクの結婚は、大きな
    影響をもたらした。 大公家と共にリトアニア国民もカトリック教徒となり、この時
    成立したリトアニアとポーランドの連合は、その後400年以上も続いた。 数世紀に
    渡り、リトアニア地方は、ポーランドの一州となり、そのして、1795年に第三次
    ポーランド分割の後、ロシアの支配を受けることとなった。

    第一次世界大戦中、リトアニアは、ドイツ軍に占領されたが、1918年に共和国
    として独立した。 その後、ベラルーシとリトアニアの地域に社会主義ソビエト
    共和国が成立したが、ピルスドスキ率いるポーランド軍が、赤軍をリトアニアの
    首都であるビリニュスとその周辺から駆逐した。 この歴史的な街は、その後、
    数々の戦いが繰り返されつつも、1939年までポーランドの支配下に留まった。

    1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいて、ソ連軍は、リトアニアに
    駐屯し、リトアニア政府の組織を手助けした。 そして、1940年、リトアニアは
    連邦構成共和国となった。

    pict1fdgj

    【大衆の力で勝ち取ったソ連からの解放】
     ペレストロイカ政策時代、民族自立への歩みを進めるにあたって、この国は、
    非常に好条件に恵まれていた。 それには、多数民族の割合が高いことも
    大きく起因している。 1988年10月、リトアニアの人民戦線『サユジス』
    (ペレストロイカを支持する運動)が創設された。 彼らは当初、ソ連からの
    分離独立を目指していた訳ではなかった。 むしろ、その目標は、リトアニア
    文化とロシア文化を対等なものとして取り扱い、2ヶ国語の使用を認めることと、
    経済的な自立を促進することであった。

    サユジスは、それによって多くの国民の支持を得た。 1987年8月23日に起きた、
    ヒトラー・スターリン協定に抗議するデモは、非常に小さな一群によって行われた
    のであったが、それがその後1年程の期間を経るうちに、20万人から30万人もの
    人々が参加する大衆デモへと成長して行った。 独立への気運はますます高まり、
    1990年3月リトアニアは独立宣言を行った。

    リトアニアの連邦離脱宣言に対し、ゴルバチョフは、初め戸惑いを見せていたが、
    その後、資源輸出の停止という対抗処置を取った。 1990年7月、モスクワ政府との
    交渉の間、リトアニアは独立宣言を一旦引き下げ、それによって経済制裁は停止
    された。 モスクワにおけるクーデターの失敗後の1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、リトアニアの独立は遂に承認された。

    【お勧めの一枚】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    13世紀の初め以来、ドイツ騎士団がラトビアを植民地化し、彼らはポーランドと
    手を組んでロシアに対抗した。 リボニアは、ポーランド・リトアニア連合国家、
    後のスウェーデンの手に渡ったが、一方ドビナ川南側の地域は、クールランド
    (クルリャンド)公国とゼムガレ公国として領土が保障された。

    peedzX0q8

    ピョートル大帝の時代にロシアは、リボニア騎士団の征服に成功し、エカテリーナ
    2世がポーランドを分割によってその支配権を確実にした。 1772年の第一次
    ポーランド分割によって、ラトガレ地方がロシアの手に落ち、間もなくラトビア
    全土がロシアの支配下に置かれた。

    しかし、度重なる支配者の交代にも関わらず、ラトビアの人たちは、19世紀に
    入っても尚、ドイツ・バルト騎士領の領主の下で農奴として生活していた。
    そのため、都市にもドイツの影響が色濃く残っている。 19世紀末に工業化が
    始まると、ラトビアの都市住民の存在が大きな意味を持つようになった。

    ラトビア人は、ロシア皇帝政権によって、抑圧を受け、また、ドイツ・バルトの
    大地主たちからも社会的に冷遇されて来た。 そのため、1905年にロシアに
    革命が起きた時には、革命派の側に付く者もいた。

    ロシア皇帝政権の崩壊後、ラトビア人は、民族の独立を目指して新たに戦いを
    始めた。 1920年、長い闘争の末、ようやく独立を勝ち得たが、それも長くは
    続かなかった。 1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書によって、
    ラトビアはソ連に編入された。

    10635637

    【毟り散られる自国の富】
    1945年以来、ラトビアの経済構造は大きく変化し、以前は農業を主体とした
    地域であったのが、ソ連の近代的な工業地帯へと様変わりした。 例えば、
    工業化や交通整備の度合い、経済発展の速度や経済効率は、ソ連の平均的な
    水準を遥かに超えている。

    しかしながら、ラトビアは、自国の富の恩恵を受けていなかった。 と言うのは、
    ソ連の計画経済に沿って、製品の大部分を他の連邦共和国に輸出しなければ
    ならなかったからである。

    【民族独立への突破口】
     1980年代末、ゴルバチョフ政権のペレストロイカの下で、ラトビアの民族運動の
    再開がようやく可能となった。 1989年以来、独立への闘争が強まるに連れて、
    モスクワとあつれきが生じることになった。 モスクワで保守派のクーデターが
    失敗した直後、1991年8月21日に独立を宣言し、同1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、承認された。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

    estoni

    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

    1915445

    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    キルギスの人口は440万人で、そのうち、キルギス人がそのおよそ半分を
    占めている。 キルギス人は、ウズベク人(人口のおよそ12%)やタタール人と
    同様、トルコ系民族で、イスラム教スンニ派を信仰している。

    それに対して、ロシア人(約25%)やウクライナ人(2.5%)はスラブ系民族
    である。 彼らは、異なる文化を持ち、キルギスの中ではますます異質な
    存在となり、両者の間の対立が今日、強まりつつある。

    kyrgyzstan

    現在のキルギス人の祖先は、トルコ系民族とモンゴル系民族であった。
    キルギス人が一民族としての意識を持つようになったのは、早くとも、18世紀
    以降のことと考えられている。 キルギス人が遊牧してた地域は、19世紀以来、
    コーカンド・ハン国の支配下に置かれていた。 1830年頃には、ロシア人の
    入植が始まり、1876年には、コーカンド・ハン国がロシアに併合され、
    キルギス人は、完全にロシア皇帝政権の支配を受けることになった。

    もっとも、それ以前にも、既に、自身の意思によってロシア皇帝に従っていた
    キルギス人も居た。 それにより、更に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、
    キルギス人の牧草地は、彼らのものとなった。 その結果、キルギス人は、
    牧畜のかたわら、耕作も余儀なくされた。

    12044391be

    【反ロシア抵抗運動から独立へ】
    1916年に起こった反ロシア抵抗運動は、全トルキスタンに広がり、キルギスも
    それに加わった。 1917年の革命後、キルギスは、『トルキスタン自治ソビエト
    社会主義共和国』の一部となり、この共和国は、長い抗争の末、最終的には、
    ボリシェビキが治めることとなった。

    トルキスタンの行政区分は、何度も変えられた。 1926年『キルギス自治共和国』が
    ロシア共和国内に設立され、1936年には、『キルギス・ソビエト社会主義共和国』
    として連邦構成国となった。 その後、住民たちの激しい抵抗にも関わらず、
    農業の集団化が強行された。

    キルギス語は、この時代まで、文字を持っていなかったが、初めにラテン文字、
    そして、1940年からは、キリル文字が取り入れられた。 ロシア以外の全ての
    共和国にとって、ロシアの党幹部は、独裁者以外の何者でもなかった。 1980年代
    後半、ようやく民族運動が実を結び始め、1990年12月15日、キルギスタンとして
    主権を宣言、翌年8月31日には独立を果たした。 そして、同年12月21日には、
    独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

    afdgfg

    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

    dfjsksifja1

    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ウズベキスタンの人口は、約2070万人で、そのうちの71.4%がウズベク人である。
    彼らは、トルコ系民族(この民族は、以前は中央アジアで遊牧民として生活
    していた)に属し、イスラム教スンニ派を信仰している。

    Uzbekistans

    人口の8.2%を占めるロシア人が最大の少数民族で、以下、タジク人4.7%、
    カザフ人4.1%、タタール人、朝鮮人、キルギス人などが住んでいる。 約2%を
    占めるカラカルパク人の定住地域は、1932年に自治共和国になった。

    ウズベク人の名前は、14世紀に部族を統合支配したキプチャク・ハン国の君主、
    ウズベクの名に由来する。 17世紀には、ブハラ・ハン国(18世紀以降ブハラ
    首長国)、コーカンド・ハン国、ヒバ・ハン国が形成され、今日のウズベクの
    国の基礎が築かれた。

    これらの国は、今世紀初頭まで存在した。 1860年台、1870年代、ロシア人が
    勢力を拡大し、ウズベク人の統治地域は、彼らの支配を受けるようになった。
    コーカンド・ハン国は帝政ロシアに完全に併合されたが、ブハラ・ハン国と
    ヒバ・ハン国は、その保護領となり、ある程度の自治が認められた。 ロシア
    皇帝政権のロシア化政策の結果、早くも1898年には民族の反乱が起こり、
    その後発生した1916年の大蜂起は、トルキスタン全域を巻き込んだ。

    B3E38389

    【20世紀の歩み】
    1917年に権力の座に就いたボリシェビキ派は、長い戦いの後、中央アジアにおいて
    勝利を収めた。 支配体制の再編が繰り返され、1924年に『ウズベク・ソビエト
    社会主義共和国』が設立された。 同国に属していたタジク自治共和国が、1929年
    には『タジク・ソビエト社会主義共和国』として独立し、連邦構成共和国に昇格
    した。 ウズベキスタンのソビエト化は、暴力をも辞さずに遂行された。

    民族運動は弾圧されていたが、1980年代になって盛んになった。 ウズベキスタンは
    1990年8月31日には独立宣言を採択した。 同年12月21日は独立国家共同体
    (CIS)に加盟した。 隣接するキルギスやタジキスタンとは、国境問題や少数民族
    問題のことで対立している。 また、国内の民族抗争も大きな問題となっている。

    1989年には、スターリン時代にグルジアからウズベキスタンに移住して来た、
    メンシェビキ派の人々に対する敵対も起こっている。 このように国内での対立が
    表面化して来たため、ここ数年、10万人ものロシア人とウクライナ人がウズベクの
    地を去っている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    人口360万人のうち、トルクメン人の占める割合は72%で、トルコ系民族に属して
    いる。 彼らの宗教は、イスラム教のスンニ派で、定住生活を行うようになった
    のは、比較的最近のことである。 その他、国を構成する主要な民族は、ロシア人
    9.5%、ウズベク人9%で、更に、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、
    アルメニア人、ベラルーシ人など、多くの小さな民族が住んでいる。

    mapturk

    トルクメン人は、数百人の間、数多くの部族に分かれて生活し、戦争の時だけ結集
    した。 そのため、トルクメン人について実際に論じることが出来るのは、ようやく
    今世紀に入ってからのことである。 トルクメン人は、1869年から1885年の間に
    ロシア帝国の支配下に入った。 1916年に中央アジアで起きた、ロシアに対する
    大蜂起にはトルクメン人も加わたが、それは逆に、ロシア皇帝政権が中央アジアの
    人たちをロシア軍に徴兵する切っ掛けとなった。

    ソ連邦の設立後、一部のトルクメン人たちは、『トルキスタン・自治ソビエト
    社会主義共和国』に属することになり、他の人たちは、その後、すぐに滅びた
    ブハラ共和国とヒバ共和国に属すことになった。 1924年に『トルクメン・
    ソビエト社会主義共和国』が設立された。 その後は、他のソビエトの全ての
    共和国と同様の歩みをたどった。 すなわち、農業の集団化、工業化、伝統的な
    社会秩序の排除、宗教の弾圧や残忍な粛清などが行われた。

    [11004427

    プラス面としては、文字教育の推進と、近代学校制度の確立が挙げられる。
    1980年代のペレストロイカ(改革)の時代には、トルクメニスタンでも民族自決
    運動が起こった。 1990年8月22日、トルクメニスタンは主権宣言を採択し、
    翌年10月27日に独立宣言をした。 そして同年12月21日には、独立国家共同体
    (CIS)に加盟したが、1992年5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を
    採択。 1992年5月にロシア・CIS諸国との集団安全保障条約の署名を拒否。
    1995年12月、国連総会において『永世中立国』として承認された(ロシアの
    影響力を排除する目的と言われる)。

    今のところ、さまざまな民族グループの間に大きな緊張はない。 しかしながら、
    これまで数千人のロシア人がトルクメニスタンを離れている。 また、隣接する
    各共和国との間に、国境問題や水源の問題で対立が起こる可能性もある。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    古代、この地域は、メディア人の帝国とペルシャ人の帝国に属していた。
    8世紀には、アラブ人に征服され、イスラム化が進んだ。 それに続く時代は、
    モンゴル、ペルシャ、オスマン帝国に従属する多数の小国家に分裂した。
    18世紀以降、ロシアがこの地域で勢力を得て、ハンの支配する個々の国々を
    次第に征服して行った。

    2eb6151e1d5097

    1829年、ロシア・ペルシャ戦争の結果、アゼルバイジャン北部は、ロシア帝国に
    併合されたが、南部はペルシャが支配を続けた。 ロシアは、再三に渡って南部
    地域も占領しようと試みた(最後の試みは第二次世界大戦)が、結局成功しな
    かった。

    ロシア地域のアゼルバイジャンは、19世紀には、一時的に世界一の石油産地
    となった。 ロシア革命後の1918年、民族主義党派のムサーワート党の指導の下、
    独立した共和国を設立した。 しかし、1920年、共産主義者たちはが彼らの牙城で
    あったバクーでクーデターを起こし、例によって、ソビエト・ロシアに援軍を
    求めた。 こうして、赤軍が進攻し、その直後、『アゼルバイジャン・ソビエト
    社会主義共和国』の設立が宣言された。

    1922年、共和国はアルメニア、グルジアと共に、『ザカフカス・ソビエト社会主義
    共和国』を創設した。 1936年には、この連邦は解消され、3つの構成国は、
    それぞれソ連邦構成共和国となった。

    60626081720

    【アルメニアとの宿命的対立】
    1980年代の改革気運の名まで、民族自立の運動が高まると、アゼルバイジャン人と
    アルメニア人との宿命的とも言える対立が再燃した。 彼らは、言葉だけではなく、
    宗教的にも文化的にも全く異質な民族だからである。 両民族の扮装は、ナゴルノ
    カラバフ自治州で始まった。

    約80%の割合でアルメニア人が住んでいるこの地域では、1922年にソビエト政権に
    よってアゼルバイジャンに割譲されたという経緯がある。 この背後には、分割して
    統治しやすくするという考え方があったに違いない。 政治集会やデモが繰り
    返された末、1988年にナゴルノカラバフ自治州は、アゼルバイジャンから独立し、
    アルメニアへ帰属することを決定した。 アゼルバイジャン最高会議もソ連最高
    会議もこれを無効とし、対立は流血の惨事へと発展して行った。
    アゼルバイジャンの都市バクーとスムガイトでは、アルメニア人の住民に対する
    凶行が繰り広げられた。

    ナゴルノカラバフにはソ連軍が進攻し、この地域は、モスクワのソ連中央政府が
    直轄するという体制が敷かれた。 しかし、事態は収拾に向かうどころか、
    アゼルバイジャン、アルメニア両共和国は、事実上の戦時体制をとった。

    数十万人のアルメニア人が、アゼルバイジャンからアルメニアへ亡命し、また、
    同様に多くのアルメニアに住むアゼルバイジャン人も国境を越えて行った。
    ソ連崩壊後も、この対立は根強く残っている。 とは言え、1991年に両共和国は、
    この地域の問題に関して、直接交渉を行うことで合意している。

    新連邦条約に関する交渉に代表を送ったアゼルバイジャンだが、1991年8月に
    独立宣言を行った。 そして、1991年12月、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    【お勧めの一本】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ