1931年に日本は満州事変を起こし、満州国を作り上げた。 ソ連は、日本を
刺激しないように必死になった。 1933年、ドイツでヒトラーが政権を取り、
1936年には、日独防共協定が結ばれる。 ソ連指導部は、日本とドイツの共謀、
挟み撃ちを恐れた。 そのような中で、かつての党と政府の指導者の中に裏切りが
発見されたと発表された。
1936年からモスクワ裁判が行われ、ボリシェビキ党の大幹部であった
ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンらが被告として法廷に引き出され、
自分達がナチに通じていた、日本のためにスパイ行為をしたと認め、厳罰を
請うと陳述した。
3回の公開裁判が行われた。 会場は常に組合会館であった。 判決の後には、刑の
即時執行を求める大衆デモがモスクワ市内で組織された。 この裁判を出発点
として、テロは全国民の中に持ち込まれ、1937年から38年の間に157万5,259人が
人民の敵とし逮捕され、うち68万1,692人が処刑されるという悲劇を生んだ。

それでいて、スターリンは、1939年8月、ヒトラーのドイツと不可侵条約を結んだ。
スターリンがヒトラーと本当に友邦になれると思ったはずはないが、しばらくは
この条約でドイツが攻めて来ることは防げると安心していたのである。 ところが、
1941年6月22日、ドイツ軍は電撃的にソ連を攻撃した。 スターリンがドイツの
攻撃日さえ探知したスパイ、ゾルゲの通報を含め、一切の情報をイギリスの陰謀と
考えて退けていたため、ソ連軍は不意を撃たれ、致命的な打撃を受けるに至った。
10月、ドイツ軍がモスクワ均衡に迫った。 今日モスクワ近郊にある
シェレメチェヴォ空港からモスクワの中心部へ向かう幹線道路の途中に鋼材を
組み合わせたモニュメントがある。 その地点までドイツ軍が攻め込んで来た
のである。 10月15日、モスクワ撤退が決定され、重要施設には爆破のための
爆弾が仕掛けられた。 市民の間にパニックが起こった。
だが、ここでスターリンは踏み止まった。 11月7日の革命記念日に、地下鉄
マヤコフスキー駅のプラットホームでの式典で演説し、ロシアの民族的軍事英雄の
形象を引き合いに出して国民に抵抗を呼び掛けた。 ついで雪の振る赤の広場の
レーニン廟に登り、前線に向かう部隊を閲兵した。 この日のスターリンの演説と
赤の広場の閲兵は、ソ連国民の心を奮い立たせた。
厳しい戦いの末、ソ連の国民は、ドイツ軍を跳ね返した。 1943年2月、スターリン
グラードの戦いでついにソ連軍が勝利した。 7月~8月のクルスクの戦いに勝利
すると、それからはソ連軍は追撃戦に移った。 1945年4月23日、赤軍はベルリンに
突入した。 ヒトラーは鑑定地下室で自殺し、5月8日、ドイツ軍は降伏した。
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