多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳 Samurai Global』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ソ連崩壊

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ソ連崩壊と新生ロシア
    ロシアの歌謡会は、過去に2回、大きな革命的な変革を経て、現在の形になった
    のだが、ロシアの現代ポップスをまともに語れる人間など日本ではほぼ皆無で
    あるため、この辺でその簡単な歴史をまとめておきませう。



    1986年のロック解禁とソビエト・ロック
    それ以前のソ連では、ロックは完全に禁止で、演奏どころか、聞くのも当然禁止。
    当時、国民は、ビートルズのカセットテープを勝手にダビングして、皆で回し
    聴きをしていた。 その後、ロックが解禁になって、一番最初にロックを
    歌ったのは、確か、ソフィア・ロタルやウラジーミル・クジミンの辺りだったと
    思う。 ソ連の音楽が本当の意味で始まったのは、この時からで、それ以前は、
    歌謡曲しかなかった。

    ウラジーミル・クジミン (Владимир Кузьмин)


    ソフィア・ロタル(София Ротару)


    キノー/ヴィクトル・ツォイ(КИНО - Виктор ЦОЙ)


    ソ連時代、特に、スターリンの時代は、粛清とかも普通に行われており、80年代は、
    流石にそこまでは酷くはなかったが、ソ連末期時代は、壁の中にマイクが仕掛けて
    あったりもしたため、ロックを聞いていることが周囲にバレると、秘密裏に処理
    (強制労働、シベリア送り等)されてしまうこともあったものの、ロシア人は
    仲間意識が非常に強いため、皆見てみぬ振りをしていた。 その昔聞いた話では、
    スターリンの時代は、ドイツ語の辞書を所持していただけで、シベリア送りと
    なって処刑されたお方とかもいたとか。 1991年12月末のソ連崩壊後、ロシアは
    長期に渡り経済的にどん底の時代が長く続いたため、音楽にも大きな変化が
    現れたのは、もう少し先のお話。 尚、ソ連は、国民100%が国家公務員であった
    ため、歌手やミュージシャンも全員国家公務員であった。

     【1999年から人気歌手が続々とデビュー】
    この時代にデビューをしたか歌手の中で、最も代表的なのがt.A.T.uで、この
    頃からロシアの音楽は革命的な大変化を遂げた。 それ以前のロシアの音楽は、
    聞いていてダサい音楽しかなく、ハッキリ言って、耳障りな音楽ばかりだった
    のだが、1997年の経済危機を乗り越えた辺りから、国内の経済が上向き始めた
    ため、音楽にも余裕が出て来た模様。 現在、ロシアの歌謡界で活躍をしている
    若手~中堅どころの歌手は、この前後にデビューを果たしている。

    t.A.T.u


    ヂアナ / イリーナ・ネルソン(Диана / Ирина Нельсон)


    ソ連邦内では、「メロージヤ(Мелодия)」と言う唯一の国営レコード会社が
    存在しており、ソ連国内で販売されるレコードは全て「メロージヤ」から
    発売されていた。 尚、ソ連崩壊直後、新生ロシアでは、一応CDは、発売
    されていたが、当時の平均的な月給が日本円に換算して3,000~6,000円程度で
    あったのに対して、CDは贅沢品として扱われていたため、1枚約3,500円程度も
    していた時代が長かった。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    日本政府の北方領土交渉を見ていると、第二次世界大戦(日本では太平洋戦争)の
    結果を一切認めてはいないため、国際的な観点から見ると、「交渉の席にすら
    就けていない」とみなすのが妥当な評価だと思うのだが、日本政府が本当に
    国際法の則って争う気持ちがあるのであれば、まずは、現状を受け入れ、そこから
    打開策を見つけ出さない限り、国際的な効力が得られないため、この先も
    北方領土は1島足りとも返っては来ない。

    plt1811160024-p1

    日本は、アメリカとの「日米安保条約」により、日本国内のどこにでも米軍施設を
    造ることが可能だが、いつまでも意味不明な対応を採り続けている日本政府を
    相手に、誠実な対応をしているロシア政府の方が数段まともだとも言える。
    ロシアが抱える隣国との領土問題は、これまでにノルウェー、リトアニア、
    中国、ウクライナと全て解決済みのため、日本との「北方領土」問題のみしか
    残されてはいないが、ロシアは、元々親日国であるため、日本との交流を早急に
    望んでいるものの、そんなロシアの親日情報すら日本側には何も伝わっては
    いないどころか、逆に情報自体が非常に歪められている。

    これは、実践経験のない自称専門家らが、自己の勝手な憶測や感情移入を
    ふんだんに含めた情報を垂れ流しているため、そのウソの情報を真に受けている
    人間が多いのが現状。

    これまでの北方領土の交渉に関しては、私の覚えている限りでは、エリツィン氏が
    ロシア初代大統領になる以前の共産党第一書記時代の1989年に根室までやって
    来て、「北方領土は日本の領土である」とハッキリと述べているのだが、その後、
    1991年末にソ連邦が崩壊し、その直後に行われた1993年の領土交渉においても、
    歯舞群島、色丹島、国後島の3島までの日本側への引渡しは確定的だったのにも
    関わらず、日本政府があくまでも「4島一括返還」に固執したため、2島どころか、
    1島すら返って来なかったというのが歴史的事実なのだが、そのような愚かな
    過去も日本政府は公式に認めるべきだと思う。

    plt1811160024-p2

    北方領土問題は、実は、田中角栄の時代には、4島全てで解決しそうになった
    時期があったのだが、その直後に、「ロッキード事件」をでっち上げられて失脚、
    鳩山由紀夫は一家全体がロシアの専門家だが、沖縄の米軍基地問題に切り込んだ
    直後に、民主党ごと失脚。 結局のところ、全てアメリカが絡んでいるため、
    全ての交渉が流れている。

    2000年代に入り、プーチン氏の代に代わってからも、3島を先に引き渡し、軍事
    基地がある択捉島は、早急に結論を出さずに、「未来の世代に委ねる」という
    ところまで交渉が進んだものの、日本政府があくまでも「4島一括返還」の姿勢を
    一切崩さなかったため、今日に至っている。

    北方領土最大の択捉島は、先に述べた「日米安保条約」により、そのまま米軍基地に
    されることがほぼ確実なため、ロシア側としては、すぐには引渡しが出来ない。
    このことは、先日の領土交渉にて、プーチン氏もハッキリと述べている。
    ロシアにとっては、最後の隣国との領土問題となるため、早々にこの問題を
    解決したいのだが、日本のメディアが発信する情報は、全てアメリカ寄りで、
    ウソばかり報道されないため、この国では、ある一定数の人間は、ロシアとの
    交流など一切望んではいないと考えて間違いない。



    かれこれ30年以上も「北方領土問題」を見て来たが、現在の状況は、過去よりも
    遥かに後退している。 本気で北方領土を返して欲しいのであれば、まずは、
    過去の歴史を正確に学ぶべきなのと、ウソしか言わない自民党与党政府のそのウソを
    しっかりと見抜けるようになってから責任のある発言をすべし。 余計なウソの
    拡散は、更に領土の引渡しを遅らせるだけなので、北方領土の返還を遅らせて
    いるのは、誰でもない、実は、日本政府とその国民だと思う。

    北方領土に渡航自粛令を発令しているのは、実は、日本の外務省であり、ロシアの
    外務省ではない。 北方領土、ロシア語名「南クリル」は、ロシアのビザさえ
    取得すれば、誰でも行くことが出来る。

    北方領土の日本政府の見解としては、以下の通りになるが、現在国際法上でも
    「南クリル」は、ロシアの領土なのに、「いまだかつて一度も外国の領土となった
    ことがない」と平然と述べている時点で、国際法を完全に無視しているため、
    話が全く先に進まない。

    日本の領土をめぐる情勢(外務省)
    (1) 北方領土はいまだかつて一度も外国の領土となったことがない、日本固有の
    領土です。しかし、現実には、北方領土は依然としてロシアの不法占拠の下に
    おかれており、現在、日本はロシアとの間で北方領土返還のための交渉を精力的に
    行っています。

    hqdefault

    話し合いにはそれなりのルールが必要だが、そのルールを完全に無視して、己の
    ことだけを述べ立てるのは、大人がすべき行動ではない。 北方領土問題の担当は、
    内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)だが、過去に北方領土のことを
    学んだことすら人間が、何をどうやって領土交渉に望めるのか、甚だ疑問である。

    最近では、安倍首相自らが、何度も会談に臨んでいるが、特に何の知識も持ち
    合わせてはいないため、単なる税金の無駄使いにしか見えない。 国民の税金を
    投入して会談に臨むからには、それなりの「成果」が必要だが、その成果すら
    全く期待出来ないのであれば、そもそも、会談自体を開催する意味がないが、
    日本政府は、隣国を「敵」に仕立て上げて、軍備増強を押し進めようとしている
    としか思えない。

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    1993年のソ連崩壊直後、ロシア国内では社会主義から自由市場経済への移行の
    最中にいたが、その社会システムの抜本的な転換のためには、大きな痛みが伴い、
    社会全体が混乱を極めた状態となった。 一時的に経済が機能しなくなり、国中が
    ハイパーインフレに陥ったのだが、その当時の新生ロシアの世論は、北方領土を
    日本に引き渡すのはやむなしとの意見が実は多数派となっていた。

    戦争末期の1945年に行われたヤルタ会談でアメリカ、ソ連、イギリスは
    ソ連がクリル諸島全てを得ることに合意した。 しかし、1956年の日ソ共同宣言
    では、平和条約が締結され次第、色丹島、歯舞群島を返還することにソ連が同意
    したため、平和条約は締結されなかった。

    ソ連崩壊後、自国への投資を必要とするロシアは1993年に同様の共同宣言に
    署名し、平和条約に向けた交渉の土台を作ったが、当時の日本国内では、
    4島一括返還論が多数派を占めていたため、事態は進展しなかった。
    04461152399
    1993年当時、歯舞と色丹の2島返還はほぼ確実、国後と択捉に関しては、
    ロシア側から見ると、日本の経済援助が喉から手が出るほど欲しかったため、
    国後を手放して、日本からの経済援助を引き出すというロシア側の意見も多かった。
    残る択捉は、北方4島の中でも最大面積、かつ、最大の人口を抱えており、何よりも
    ロシア空軍基地が立地していることもあり、3島だけ日本に引渡し、残りの択捉
    だけは次の世代にその判断を委ねるというところまで実は話が進んでいた。

    戦後70年以上も既に経過したが、日本とロシアとの間には、未だに平和条約は
    結ばれてはいない。 その最大の障害となっているのが、江戸時代より続く日本と
    アメリカとの不平等条約。 日本とアメリカは戦後数度に渡って、様々な条約を
    結んで来た、いわば最良のパートナーの筈なのだが、実は、外務省が作成した
    高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方 増補版」1983年12月)の
    中には、以下のような文が明確に記載されている。

    ● アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる。
    ● 日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することは出来ず、現実に提供が
       困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない。

    つまり、日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で
    アメリカ側の基地提供要求に『NO』と言うことは出来ないと日本の外務省が
    ハッキリと認めている。
    img_da385bd3d0b9dcaa7d22a4f59ff62840171253
    北方領土問題が解決できない理由
    この極秘マニュアルによれば、そうした法的権利をアメリカが持っている以上、
    例えば日本とロシア(当時ソ連)との外交交渉には、以下のような大原則が
    存在する。

    ● だから北方領土の交渉をするときも、返還された島に米軍基地を置かないという
     ような約束をしてはならない。

    そして、この極秘マニュアルにこうした具体的な記述があるということは、ほぼ
    間違いなく日米の間に、この問題について文書で合意した非公開議事録(事実上の
    密約)があることを意味している。

    従って、現在の日米間の軍事的関係が根本的に変化しない限り、ロシアとの領土
    問題が解決する可能性は実はゼロで、ロシアとの平和条約が結ばれる可能性もまた
    ゼロとなっている。 2016年12月15日にロシアのプーチン大統領が来日した
    際には、その直前の11月上旬にモスクワを訪れた元外務次官の谷内正太郎国家安全
    保障局長から、『返還された島に米軍基地を置かないという約束は出来ない』
    という日本側の基本方針がロシア側に伝えられた。

    その報告を聞いたプーチン大統領は、11月19日、ペルーのリマで開催された
    日ロ首脳会談の席上で、安倍首相に対し『君の側近が『島に米軍基地が置かれる
    可能性はある』と言ったそうだが、それでは交渉は終わる』と述べたことが
    分かっている。(「朝日新聞」2016年12月26日)

    この時点で既に、1ヵ月後の日本での領土返還交渉がゼロ回答に終わることが
    完全に確定していたこととなる。
    139368
    img_d56efedfd1ce6dc0d058eac072720f66175878
    kore49643
    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ソ連崩壊から25年。 ロシアは、旧体制から引き継いだ対外債務をようやく完済
    出来る見込みとなった。

    ロシア政府は、ボスニア・ヘルツェゴビナに対する旧ソ連時代の債務1億2520万ドル
    (約140億円)を近日中に完済する方針を明らかにした。 セルゲイ・ストルチャク
    (Sergei Storchak)副財務相は、ボスニア・ヘルツェゴビナへの支払いで『旧ソ連
    時代の公的対外債務の返済が完了する。これは歴史的な出来事だ』と述べた。
    ロシアは現在、ウクライナ危機をめぐって、日本や欧米諸国から経済制裁を
    科されている。

    1991年末のソ連崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の履行
    責任を負って来た。 債務の大半は『ペレストロイカ(改革)』で民主化が推進
    された85~91年に生じ、その履行は90年代に財政の圧迫要因となった。

    90年代後半、ロシアは壊滅的な経済問題に直面し、98年にはデフォルト
    (債務不履行)に陥った。 2000年代初めから石油収入が安定したおかげで、
    2006年にはパリクラブ(Paris Club、主要債権国会議)の主要17か国への債務を
    返済した。

    default

    ソ連時代の負の遺産は、ロシアがその殆どを引き継いだため、ロシア独立時には、
    この天文学的な大赤字は、一生掛かっても返済出来ないと言われたが、独立から
    25年で完済の運びとなった。 尚、ロシア独立当時の平均的な給与は、円に換算
    すると、月3,000〜6,000円しかなかった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    1993年当時、カザフスタンの首都であった、アルマ・アタ(現在の首都は
    アスタナ)は、『緑の街』の別名を持っている通り、緑豊かな中央アジアの
    大都市で、旧ソ連邦の中では、かなり南に位置しているため、果物や野菜も
    豊富だった。 当時のノボシビルスクは、ロシア第3の都市とは言うものの、
    外国から最も遠い位置にあるため、ロシア国内でも物資が最も足りていない
    場所であった。

    10339055

    カザフスタンにあって、ロシアにはないものを挙げるとすると、馬乳酒の
    クムイスと餃子のお化けのような食べ物マンティを思い浮かべることが出来る。
    クムイスは、若干すっぱく、少々癖のある味で、かなり苦手な味がしたため
    それ以来、一切飲んではいない。

    マンティは、時々、カザフ人の友人宅でご馳走になっていたので、結構馴染みが
    あった。 旧ソ連の中では南国の部類に入るのだが、実際の緯度は札幌と同じ
    程度であるため、冬はかなり寒い。
     
    実は、このアルマ・アタ滞在中に、天山山脈を越えて、中国のウルムチへ行き
    たかったのだが、残念ながら、ロシア側の学生ビザが下りなかったため、断念
    した。 後日ドイツのベルリンにも行こうとしたのだが、こちらも許可され
    なかった。 許可が下りなかった理由は、『学生には必要ないから』という、
    非常に理不尽なものであった。

    当時のロシアのビザには、写真2枚が必要で、そのうち、一枚は、ロシア入国時に
    提出させられ、ビザの中には、滞在都市の記載があったのだが、そこに記載されて
    ある都市以外へ行くことは当時は禁止されていた。 よって、このアルマ・
    アタへの旅行は、ロシアの出入国と滞在都市以外へ行ったという、2重のリスクを
    犯しての旅であった。

    但し、電車に乗る際に、たまたま駅で出会ったカザフ人の友人の知り合いが
    一緒の電車に乗ることになったため、万事事なきを得たが、周囲が全員カザフ語で
    喋っていたため、全く気付かなかったのだが、実際には、車掌に何度もお金を
    要求されたとその知り合いから教えて貰った。

    1338

    ビザが下りなかったため、ウルムチに行くのは諦めたが、せめて、キルギスの
    首都であるビシケク(ソ連時代はフルンゼという名前だった)にだけは行きた
    かったのだが、時間的にこちらも無理だった。 その後、キルギスの担当をして
    いたため、毎日キルギスには電話をしていたが、今でもキルギスには行った
    ことがない。

    尚、アルマ・アタからは、天山山脈がハッキリと肉眼でも見えており、その山脈を
    越えると、そこは中国の新疆ウイグル自治区となっている。 カザフスタンの北の
    端には、世界最大の核実験場であったセミパラチンスクが、また、この新疆ウイグル
    自治区も中国の核実験場として有名な場所となっている。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②

    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    1985年3月、54歳のゴルバチョフがソ連共産党第一書記長となった。 彼は、
    1986年4月のチェルノブイリ原発事故を契機に、革命としての全面的な
    ペレストロイカとグラスノスチ(情報公開)、国際政治の新思考を主張して、
    人々を熱狂させ、変革の時代を開いた。 その革命の中で、モスクワの通りの名、
    地名などを革命前の古い名前に戻された。 1990年にゴーリキー通りが
    トヴェルスカヤ通りに戻されたのは、その代表例であった。

    1991年8月、フィナーレは、ゴルバチョフ派の副大統領、国防相、KGB議長らの
    クーデターで始まった。 カリーニン大通りとモスクワ川が交差する角に
    『ホワイト・ハウス』と呼ばれる白亜の殿堂がある。 これは、1965年から
    建設が始まり、1979年に完成したロシア共和国ソヴィエト会館であった。

    80年代からは、ここには、ロシア共和国最高会議が置かれていた。
    ペレストロイカの中で、エリツィン大統領のロシア共和国が主権宣言をするに
    及んで、この建物が俄然注目を集めるようになった。 そして、1991年の
    クーデターが起こると、ホワイト・ハウスは、クレムリンに陣取っていた
    連邦クーデター派に対するロシア共和国の抵抗の拠点となった。

    P1010303

    この建物の前の戦車の上で、エリツィンは、クーデター勢力に闘争宣言を
    発表し、市民にこの建物の死守することを呼び掛けた。 闘争の結果、
    クーデター派は、あっけなく敗北し、エリツィン大統領の『ロシア革命』は
    勝利した。 1991年8月、その勝利を祝う集会もこのホワイト・ハウスの周りで
    行われた。 8月の革命は、殆どが無血であった。 ホワイト・ハウスから
    遠くないカリーニン大通りの脇に、1991年の闘争の犠牲となった2名の死者の
    碑がある。

    1991年12月25日、ソ連は崩壊した。 ゴルバチョフ大統領は、ソ連大統領の
    ポストを辞任し、クレムリンの上のソ連国旗が降ろされた。 後継国家となった
    のは、エリツィンのロシア連邦である。 だが、その2年後、クレムリンに
    入った大統領のエリツィンとホワイト・ハウスの最高会議との間に衝突が
    起こった。 ついに、1993年10月、両者は、武力衝突するに至った。
    エリツィンは、戦車隊にホワイト・ハウス砲撃を命じた。 30分間の砲撃で、
    最高会議側は白旗を掲げ、降伏した。

    4cff7ec2d8

    大統領が勝利した後、ホワイト・ハウスは政府に摂取され、1994年からロシア
    連邦政府会館となっている。 ロシア国家ドゥーマは、旧ゴスプランの建物に
    移った。 この激動の時代に、ソ連の各地では、レーニン像の撤去が行われたが、
    モスクワでは、レーニン廟も残ったし、マルクス、エンゲルスの像も、レーニンの
    像も残った。 撤去されたのは、ルビャンカ前のジェルジンスキー像とカリーニン
    通りのスヴェルドロフ像だけである。 そして、ルビャンカの近く、綜合技術
    博物館の前に、スターリン時代にラーゲリに送られ、処刑され全ての犠牲者を
    悼む記念碑『全体主義体制犠牲者記念碑』が1990年に建てられた。

    05099

    新しいロシア連邦政府によって建てられたのは、救世主キリスト聖堂である。
    実は、地下鉄クロポトキンスカヤ駅の斜め前のモスクワ・プールの場所に、
    1931年末まで救世主キリスト聖堂があった。 これが再建されたのである。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ロシアは、世界最大の国土面積を持つ一方で、人口密度は非常に低い。
    ソ連崩壊後は、大幅な人口減少が続いていたが、近年は、横ばい状態が続いて
    いる。  2013年の人口は、約1億4,350万人 となっており、世界第9位と
    なっている。

    隣国ウクライナの人口密度は、1平方キロメートルあたり、536人、アメリカが
    199人であるのに対して、ロシアの人口密度は、わずか57人となっている。
    その一方で、ロシアには、1000を超える都市があり、人口100万人以上の都市が
    少なくとも12ある。 ロシアの人口は、川や湖の周辺に集中しており、約73%が
    ウラル山脈以西の都市を中心とする都市部で暮らしている。

    a880d5d4c930

    ロシア連邦は、多くの共和国からなる連邦国家であり、それぞれの共和国に
    約180の民族が暮らしている。 最大の民族は、ロシア人であり、ソ連時代は、
    ロシア人の比率は、50%強を占めるに過ぎなかったが、ソ連崩壊後は、周辺諸国の
    相次ぐ独立とロシア人への差別等により、本国への移住を余儀なくされたため、
    現在では、約80%程度をロシア人が占めている。

    その他の主な民族としては、タタール人、ウクライナ人、バシキール人、
    イングーシ人 、チュバシ人、ブルガリア人、ラップランド人、コサック人等が
    居る。 多数の民族が暮らすロシアには、様々な言語、宗教、文化がある。
    しかし、タタール人の大半は、イスラム教徒であり、トルコ語とつながりのある
    言語を話す。 ロマ(ジプシー)のように、伝統的な習慣や文化をロシア人の
    宗教や社会と融合させている民族も多い。

    ロマ等、多くの少数民族が、過去に厳しい抑圧と差別を受けた経験を持っている。
    土地や各種の権利や、しばしば自由さえも奪われた。 21世紀を迎えても、
    尚差別に苦しむ民族があるが、少数民族の多くは、民族の歴史に新たな誇りを
    見出している。 少数民族の代表組織も結成された。

    russian

    【言語】
    ロシア語の筆記には、キリル文字が用いられるが、キリル文字が普及する前までは、
    伝道者のキュリロスと兄のメトディオスが9世紀に考案したグラゴール文字が使用
    されていた。 グラゴール文字に代わって、10世紀にスラブ語圏に広まったのが、
    キリル文字である。 現在でもキリル文字の変形がロシア、ウクライナ、
    ブルガリア、その他、東方正教会の近隣諸国でも使われている。

    ロシア連邦には、様々な民族が暮らしているため、100位上の言語や方言がある。
    連邦の公用語は、ロシア語であり、全ての学校でロシア語教育が実施されている。
    この他に、共和国や地域によっては、地元の言語を教えている学校もある。

    nebo1331

    【教育】
    ソ連時代の暮らしは、厳しかったが、学校教育は充実していた。 その結果、
    ロシアの識字率は、男性が100%、女性が99%という非常に高い数字が報告
    されている。 義務教育は、9年間で、小学校は、7歳から始まり、10歳で
    中学校に進む。 公的教育の大部分は無料だが、1990年代に入り、一部の公立
    大学で財政難のために学費の徴収が始まった。 高等教育期間に在籍する学生
    には、教育費の補助として、政府から少額の給付金が支給される。 ソ連の
    崩壊後は、私立学校の設立が相次ぎ、1998年までに約600の学校と250の高等
    教育機関が誕生した。 ソ連が崩壊したことによって、教育内容も大きく変化した。
    特定の政治理論に則った教育を行う必要性がなくなり、学生達は、ソ連時よりも
    客観的に自国と世界の歴史を学べるようになった。 かつて、反体制的である
    として禁止されていた本も、今では自由に使用出来るようになった。

     【生活】
    ロシア人男性の平均寿命は、1990円には65歳であったが、2002年には、59歳に
    低下した。 2002年の女性の平均寿命は、72歳となっている。 薬物の乱用、
    飲酒、ストレス、事故、慢性病等、健康を害する要因が全て増えているのが、
    平均余命の低下に関係すると考えられている。 これらの要因を悪化させるのが
    貧困である。

    ロシア国民の約3分の1が貧困線ギリギリ、あるいは、それ以下の状態で暮らして
    いるとされている。 それ以上の生活をしている人達も、多くが生活に苦しんで
    いる。 近年になって、モスクワでは、近代化が進んだが、その他、地方都市
    との格差が広がっている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    日本でも大人気のチェブラーシカ(Чебурашка)は、ロシアの児童文学家、
    エドワルド・ウスペンスキーによるシリーズものの絵本『ワニのゲーナ』に
    登場するキャラクターで、たぬきのようでもあり、パンダのようでもあるが、
    実は、正体不明の生き物。

    25e3be98


    果物屋のおじさんが、アフリカから送られてきたオレンジが入った箱を開けてみた
    ところ、小さなカワイイ生き物がその中で眠っていました。 何度起こしても、
    寝ぼけてすぐに倒れてしまうことから『チェブラーシカ(ロシア語で「ばったり
    倒れ屋さん」)」と名付けられました。 困り果てたおじさんは、この生き物を
    引き取って貰うため、動物園へと連れて行きますが、動物図鑑にも全く載って
    いないこの正体不明な生き物は、動物園でも引き取ってはもらえず、電話ボックスの
    中で、孤独に生きて行くこととなりました。

    その動物園の中で『ワニ』として働いているアフリカワニのゲーナは、友達が
    いないため、毎日寂しい想いをしていました。 そこで、ゲーナは街中に貼り紙を
    貼って、友達を募集することにしました。 この貼り紙が切っ掛けで出会った
    チェブラーシカとゲーナは、同じように友達のいない寂しい想いをしている
    みんなが集まるための『友達の家』を作ることにしました。



    本来、このシリーズの主人公は、チェブラーシカの友人であるワニの『ゲーナ』で
    あったが、その人気から、『チェブラーシカ』が実質的な主人公となっている。
    1966年に絵本作品として登場し、1969年からは、ロマン・カチャーノフ監督に
    より、人形アニメで映画化され、日本にも紹介された。 2009年には、
    日本でもテレビアニメ化され、2010年には、約6年近い歳月を掛けた
    完全新作の人形アニメ映画が完成し、日本で公開された。

    チェブラーシカの版権は、現在、日本の企業が所持しているが、既にソ連時代から
    ロシア国内では、無許可の商品が数多く出回っていた。

    ソ連崩壊直後の1992年、映画の権利は、アメリカの配給会社 Jove へと渡った。
    日本の配給元であった、チェブラーシカ・ジャパンは、版権をこのアメリカの
    会社から得たが、原作者のエドワルド・ウスペンスキー氏は、ロシアの様々な
    商品におけるチェブラーシカに対する著作権が自分に属すると主張。 版権
    入手の際、原作者のウスペンスキー氏を介していなかったチェブラーシカ・
    ジャパンに対しても著作権侵害であるとの訴訟を起こす事となる。

    2958762398


    一方、2004年にチェブラーシカがオリンピックのロシア選手団のマスコットに
    決定した時には、それがウスペンスキー氏の許可しか得ていないものであったため、
    アニメーションのキャラクターの作者であるレオニート・シュヴァルツマンを中心
    とする人々によって異論が唱えられた。 1965年のウスペンスキー氏の本に
    あったチェブラーシカの挿絵は、現在のものとはまったく異なるものであり、
    現在のキャラクターは、シュヴァルツマンが創作したものである。

    zYuGpS


    また1990年代にウスペンスキー氏は『チェブラーシカ』«Чебурашка»の名前の
    商標権も獲得したが、これはロシアの有名菓子メーカーとの論争に発展した。
    2006年に新たに版権を獲得したチェブラーシカ・プロジェクトは、交渉の末、
    旧ソ連地域以外での版権問題がすべてクリアになったとしている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ブログネタ
    ロシア語 に参加中!

    ソ連崩壊を決定的にしたのは、ソ連邦を構成していた15共和国中最大の国、
    ロシアが主権宣言を行ったためで、ゴルバチョフ氏がそれまで推し進めていた
    情報公開によって、一気に西側の情報が国内に溢れてしまったため、その急激な
    流れに歯止めが効かなくなった。 ゴルバチョフ氏の当初の考えでは、ソ連を
    崩壊に導くつもりは、毛頭なかったと思うが、民主化の流れは、怒涛のごとく
    押し寄せて、一気にソ連を飲み込んだ。

    それまでのソ連では、買い物をするのにも、スーパーマーケット方式の店が全く
    なかったため、一々レジに3回並ばなければならず、ソ連末期の時代には、食料を
    手に入れるためのクーポン券がなければ、販売すらしては貰えなかった。 外貨
    ショップのべリョースカが、外国人にとっては、食料を自給自足するための
    「ダーチャ」の代わりであったのは、つい25年ほど前の話。 マルボロやグラビア
    雑誌の切り抜きが、賄賂としてまかり通ったのも、この時代。 元々、ソ連では、
    都合の悪い事は、存在しない事になっていたため、法整備すらまともにはされては
    いなかった。 何もかもウソで塗り固めていたが、それでも、一般市民は、それが
    ウソだと分かっていたため、最終的には、ソ連が崩壊したと言うよりも、ウソの
    世界が崩壊したと言った方が分かりやすい。



    ロシア、ウクライナ、白ロシア(現在の名前はベラルーシ)の東スラブ3国は、
    ソ連から独立し、スラブ連合を樹立するとエリツィン氏が宣言し、残りの
    各共和国も、バルト3国とグルジアを除き、それに追随して、新たに緩やかな
    国家連合である、『独立国家共同体』を形成したため、ソ連はその歴史に幕を
    降ろした。 ソ連の崩壊は、実質、このスラブ3国だけで決定した。 他の
    旧ソ連邦の国々は、ほぼゼロからのスタートだったのだが、ロシアだけは、
    旧ソ連邦の負の遺産のほぼ全てをそのまま引き継いだため、天文学的な大赤字を
    背負ってのソ連からの独立であった。

    その後、ソ連の崩壊と共に、ロシアは、地獄の底まで落ちたが、余りの赤字額の
    多さのため、一生掛けても絶対にその赤字を返済出来ないとまで言われたが、
    オイルマネーの波に乗り、その後に彗星のごとく現れた、プーチン氏一代だけで、
    全ての天文学的な赤字を解消した。 その後、何度も通貨危機、テロ等にも
    見舞われたロシアだが、2000年以降からは、経済的にも安定し、かなりの経済
    成長を遂げていたため、25年前のロシアと現在のロシアとでは、全く別の国。

    この25年間で、最も変貌を遂げた国は、間違いなく、ロシア。 24年前までの
    正式名称は、『ロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦』で、通称『エル・エス・
    エフ・エス・エル』と呼ばれていた。

     

    ウクライナは、ロシア人にとっては、最も信用出来る自分たちのパートナー
    であった筈が、ウクライナが漁夫の利を得てソ連から独立を果たしてからは、
    何かにつけて、対立した。 白ロシアは、ソ連から独立をした際に、国名を
    ベラルーシに改めた。 カザフ共和国、キルギス共和国等々も、共和国の部分を
    チュルク語で「国」を表す『スタン』に改めた。

    何もかもソ連、または、ロシアのせいに出来る他の共和国とは異なり、ロシアの
    場合は、例え、失敗をしたとしても、隣国のせいには出来ないため、旧ソ連邦の
    中では、やはり、自分たちが一番でありたいというプライドがある。

    最近の自称ロシア研究家を見ていて、非常に疑問に感じるのは、ロシアと共に
    地獄の底を見てはおらず、単に英語の文章を日本語へと直訳しては、そのまま
    世に垂れ流しているため、ロシアへの風当たりが強い。 25年前も今も、ロシアに
    対する偏見がなくならないのは同じだが、ロシアでは、ロシア語で喋らない限り、
    まともには相手にされないため、せいぜいお客さん程度の扱いで終わって
    しまったか、または、お互いに片言同士の英語で喋ってしまったため、本当の
    ロシアの姿が見えずに終わったのではと感じる。

     

    ロシア国内には、約180の民族、約100の言語が存在し、人の考え方も多種多様
    であるため、一概には言えないが、元々、ロシア人は、非常に親切な人が多いため、
    逆に親切にして貰えなかったとするならば、その人のロシア人に対する接し方が
    間違っていたのであろう。 ロシアに行って、100%良い思い出だけがある訳では
    ないが、それでも、嫌な目にあった数よりも、親切にして貰った数の方が遥かに
    多いため、ロシアは、好き嫌いという以前に、自分の一部。 88年頃に、当時
    共産党第一書記長であった、エリツィン氏が根室を訪れて、『北方領土は日本の
    領土である』と言ったのを覚えている人は、今の日本にはどれぐらい居るのか。
    25年前は、ロシア語ではなく、ソ連語と良く言われた。 何でソ連語なんか勉強
    しているのですか?とも言われたが、それは、もう遠い遠い過去のお話し。

    現在のロシアの国歌は、旧ソ連の国家とは、歌詞が違うだけだが、それは、
    ロシアが、ソ連の継承国である証。 25年前は、ソ連を批判する事すら許され
    なかったが、今では自由に批判出来る。 昔のソ連のビザは、訪問都市を全て
    記載しなければならず、それ以外の都市へ行く事は許されなかったが、今では、
    それもなくなった。

    10年ちょっと前までは、ロシアの通貨であるルーブルの国外への持ち出しは一切
    出来なかったが、今では、都内の銀行でも気軽にルーブルへ換金する事が出来る。
    ロシアを見ていると、時代は代わったのだと、つくづく感じる。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ソ連崩壊を決定的にしたのは、ソ連邦を構成していた15共和国中最大の国、ロシアが
    主権宣言を行ったためで、ゴルバチョフ氏がそれまで推し進めていた情報公開によって、
    一気に西側の情報が国内に溢れてしまったため、その急激な流れに歯止めが効かなく
    なった。 ゴルバチョフ氏の当初の考えでは、ソ連を崩壊に導くつもりは、毛頭なかったと
    思うが、民主化の流れは、怒涛のごとく押し寄せて、一気にソ連を飲み込んだ。

    それまでのソ連では、買い物をするのにも、スーパーマーケット方式の店が全くなかった
    ため、一々レジに3回並ばなければならず、ソ連末期の時代には、食料を手に入れる
    ためのクーポン券がなければ、販売すらしては貰えなかった。 外貨ショップの
    べリョースカが、外国人にとっては、食料を自給自足するための「ダーチャ」の代わりで
    あったのは、つい25年ほど前の話。 マルボロやグラビア雑誌の切り抜きが、賄賂と
    してまかり通ったのも、この時代。 元々、ソ連では、都合の悪い事は、存在しない事に
    なっていたため、法整備すらまともにはされてはいなかった。 何もかもウソで塗り
    固めていたが、それでも、一般市民は、それがウソだと分かっていたため、最終的には、
    ソ連が崩壊したと言うよりも、ウソの世界が崩壊したと言った方が分かりやすい。



    ロシア、ウクライナ、白ロシア(現在の名前はベラルーシ)の東スラブ3国は、ソ連から
    独立し、スラブ連合を樹立するとエリツィン氏が宣言し、残りの各共和国も、バルト3国と
    グルジアを除き、それに追随して、新たに緩やかな国家連合である、『独立国家共同体』を
    形成したため、ソ連はその歴史に幕を降ろした。 ソ連の崩壊は、実質、このスラブ3国
    だけで決定した。 他の旧ソ連邦の国々は、ほぼゼロからのスタートだったのだが、
    ロシアだけは、旧ソ連邦の負の遺産のほぼ全てをそのまま引き継いだため、天文学的な
    大赤字を背負ってのソ連からの独立であった。

    その後、ソ連の崩壊と共に、ロシアは、地獄の底まで落ちたが、余りの赤字額の多さの
    ため、一生掛けても絶対にその赤字を返済出来ないとまで言われたが、オイルマネーの
    波に乗り、その後に彗星のごとく現れた、プーチン氏一代だけで、全ての天文学的な
    赤字を解消した。 その後、何度も通貨危機、テロ等にも見舞われたロシアだが、2000年
    以降からは、経済的にも安定し、かなりの経済成長を遂げていたため、25年前のロシアと
    現在のロシアとでは、全く別の国。

    この25年間で、最も変貌を遂げた国は、間違いなく、ロシア。 24年前までの正式名称は、
    『ロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦』で、通称『エル・エス・エフ・エス・エル』と呼ばれ
    ていた。

     

    ウクライナは、ロシア人にとっては、最も信用出来る自分たちのパートナーであった筈が、
    ウクラインが漁夫の利を得てソ連から独立を果たしてからは、何かにつけて、対立した。
    白ロシアは、ソ連から独立をした際に、国名をベラルーシに改めた。 カザフ共和国、
    キルギス共和国等々も、共和国の部分をチュルク語で「国」を表す『スタン』に改めた。
    何もかもソ連、または、ロシアのせいに出来る他の共和国とは異なり、ロシアの場合は、
    例え、失敗をしたとしても、隣国のせいには出来ないため、旧ソ連邦の中では、やはり、
    自分たちが一番でありたいというプライドがある。

    最近の自称ロシア研究家を見ていて、非常に疑問に感じるのは、ロシアと共に地獄の
    底を見てはおらず、単に英語の文章を日本語へと直訳しては、そのまま世に垂れ流して
    いるため、ロシアへの風当たりが強い。 25年前も今も、ロシアに対する偏見がなくなら
    ないのは同じだが、ロシアでは、ロシア語で喋らない限り、まともには相手にされない
    ため、せいぜいお客さん程度の扱いで終わってしまったか、または、お互いに片言
    同士の英語で喋ってしまったため、本当のロシアの姿が見えずに終わったのではと
    感じる。

     

    ロシア国内には、約180の民族、約100の言語が存在し、人の考え方も多種多様である
    ため、一概には言えないが、元々、ロシア人は、非常に親切な人が多いため、逆に親切に
    して貰えなかったとするならば、その人のロシア人に対する接し方が間違っていたので
    あろう。 ロシアに行って、100%良い思い出だけがある訳ではないが、それでも、嫌な目に
    あった数よりも、親切にして貰った数の方が遥かに多いため、ロシアは、好き嫌いという
    以前に、自分の一部。 88年頃に、当時共産党第一書記長であった、エリツィン氏が根室を
    訪れて、『北方領土は日本の領土である』と言ったのを覚えている人は、今の日本には
    どれぐらい居るのか。。 25年前は、ロシア語ではなく、ソ連語と良く言われた。 何で
    ソ連語なんか勉強しているのですか?とも言われたが、それは、もう遠い遠い過去の
    お話し。

    現在のロシアの国歌は、旧ソ連の国家とは、歌詞が違うだけだが、それは、ロシアが、
    ソ連の継承国である証。 25年前は、ソ連を批判する事すら許されなかったが、今では
    自由に批判出来る。 昔のソ連のビザは、訪問都市を全て記載しなければならず、
    それ以外の都市へ行く事は許されなかったが、今では、それもなくなった。 10年ちょっと
    前までは、ロシアの通貨であるルーブルの国外への持ち出しは一切出来なかったが、
    今では、都内の銀行でも気軽にルーブルへ換金する事が出来る。 ロシアを見ていると、
    時代は代わったのだと、つくづく感じる。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    これは、日ソ学院、現在の東京ロシア語学院の入学時に提出されられた作文のテーマ。 
    かれこれ25年以上も前の話であるため、当時は当然、ロシアではなく、ソ連であった。
    実は私は、この日ソ学院の最後の卒業生。 日ソ学院3年在学時に、ソ連が崩壊したため、
    卒業と同時に、学院の名前が『東京ロシア語学院』へと変更となった。 よって、
    『日ソ学院』と言う名称の学校は、ソ連と共にこの世からは消え去った。
     


    日本で、ロシア語を学んでいると、『どうして、ロシア語を始めたのですか?』という
    質問を頻繁にされるが、私の場合は、元々、ソ連ではなく、崩壊した旧ユーゴスラビアに
    興味があったため、ロシア語を始めたのだが、それはかれこれ32年も前のお話し。
    その当時に、何か起きたのか、覚えている人は、もう少ないのかも知れないが、84年は、
    サラエボオリンピックと、ロサンザルスオリンピックが開催された年。 その当時は、
    『冷戦』の真っ只中で、政治的にも東西陣営に真っ向対立しており、それが、そのまま
    スポーツの世界にも反映されていた。 その年に旧ユーゴで開催された、サラエボ
    オリンピックは、つつがなく終了したものの、その直後に開催された、ロサンゼルス
    オリンピックでは、東陣営の国々が多数ボイコットした大会となった。

    1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、その前年に起きたソ連軍のアフガニスタン
    侵攻に抗議」という理由により、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、
    日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。 その報復として、
    東側諸国は、ロサンゼルス大会をボイコットし、当時の不参加国は、ソ連、東ドイツ、
    ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、
    キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどとなっている。 中国は
    中ソ対立以降、ソ連との関係が悪化してアメリカ側についたため、モスクワオリンピックは
    不参加、逆にロサンゼルスオリンピックには参加している。
     
    soviet

    冷戦、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ原発事故、ソ連崩壊、北方領土ビザなし交流、
    ロシア通貨危機等々、全てリアルタイムで知っておりますが、最近の自称『ロシア通』達の
    劣化振りには残念を通り越して、ご愁傷様レベル。 単に興味があるのと、専門的な
    知識があるのとでは、全く別物であるため、常にアメリカのステレオタイプに惑わされない
    真実の目が必要。 ロシアを正確に見極めている人材は日本では相当稀であるため、
    ニセモノと本物の区別がありません。 これは、ロシア語に関しても同じ事が言えるため、
    やりたいのと、実際に出来る事は、全くの別物である事が良く分かります。

    尚、前述したサラエボオリンピックは私がロシア語を学び始める切っ掛けとなりましたが、
    その当時に、サラエボオリンピックでメインテーマソングを歌った、旧ユーゴの国民的歌手
    である、ヤドランカ・ストヤコヴィッチは、20年以上も日本に滞在をしていたため、友人と
    なりました。 強く望んでいれば、いつか願いは叶うと言う実例のようなお話。
     


    東西対立の時代、いわゆる、共産圏では、ロシア語とドイツ語が重宝されたのですが、
    時は流れて、今では東西問わずに英語が通じるようになりました。 一昔前までの
    ロシアでは、片言の英単語ですら一切通じなかったが、今では、観光地であれば、
    ある程度の英語が通じます。 特に、この10年間の経済成長は目を見張るものがあり、
    それに伴い、英語も格段に通じるようになりました。 ロシア語とドイツ語をを専門
    とした者としては、何とも寂しい限りですが、逆に、時代の波に取り残された日本の方が
    気になります。

    ロシア語を生業として、今年で丸25年、ロシア語を始めてからは、丸32年が経過し
    ましたが、これからも、ロシアからは目が離せない状況が続きそうです。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    これは、日ソ学院、現在の東京ロシア語学院の入学時に提出されられた作文のテーマ。 
    かれこれ25年以上も前の話であるため、当時は当然、ロシアではなく、ソ連であった。
    実は私は、この日ソ学院の最後の卒業生。 日ソ学院3年在学時に、ソ連が崩壊したため、
    卒業と同時に、学院の名前が『東京ロシア語学院』へと変更となった。 よって、
    『日ソ学院』と言う名称の学校は、ソ連と共にこの世からは消え去った。
     


    日本で、ロシア語を学んでいると、『どうして、ロシア語を始めたのですか?』という
    質問を頻繁にされるが、私の場合は、元々、ソ連ではなく、崩壊した旧ユーゴスラビアに
    興味があったため、ロシア語を始めたのだが、それはかれこれ32年も前のお話し。
    その当時に、何か起きたのか、覚えている人は、もう少ないのかも知れないが、84年は、
    サラエボオリンピックと、ロサンザルスオリンピックが開催された年。 その当時は、
    『冷戦』の真っ只中で、政治的にも東西陣営に真っ向対立しており、それが、そのまま
    スポーツの世界にも反映されていた。 その年に旧ユーゴで開催された、サラエボ
    オリンピックは、つつがなく終了したものの、その直後に開催された、ロサンゼルス
    オリンピックでは、東陣営の国々が多数ボイコットした大会となった。

    1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、その前年に起きたソ連軍のアフガニスタン
    侵攻に抗議」という理由により、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、
    日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。 その報復として、
    東側諸国は、ロサンゼルス大会をボイコットし、当時の不参加国は、ソ連、東ドイツ、
    ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、
    キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどとなっている。 中国は
    中ソ対立以降、ソ連との関係が悪化してアメリカ側についたため、モスクワオリンピックは
    不参加、逆にロサンゼルスオリンピックには参加している。
    642457c2.jpg


    冷戦、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ原発事故、ソ連崩壊、北方領土ビザなし交流、
    ロシア通貨危機等々、全てリアルタイムで知っておりますが、最近の自称『ロシア通』達の
    劣化振りには残念を通り越して、ご愁傷様レベル。 単に興味があるのと、専門的な
    知識があるのとでは、全く別物であるため、常にアメリカのステレオタイプに惑わされない
    真実の目が必要。 ロシアを正確に見極めている人材は日本では相当稀であるため、
    ニセモノと本物の区別がありません。 これは、ロシア語に関しても同じ事が言えるため、
    やりたいのと、実際に出来る事は、全くの別物である事が良く分かります。

    尚、前述したサラエボオリンピックは私がロシア語を学び始める切っ掛けとなりましたが、
    その当時に、サラエボオリンピックでメインテーマソングを歌った、旧ユーゴの国民的歌手
    である、ヤドランカ・ストヤコヴィッチは、20年以上も日本に滞在をしていたため、友人と
    なりました。 強く望んでいれば、いつか願いは叶うと言う実例のようなお話。
     


    東西対立の時代、いわゆる、共産圏では、ロシア語とドイツ語が重宝されたのですが、
    時は流れて、今では東西問わずに英語が通じるようになりました。 一昔前までのロシアでは、
    片言の英単語ですら一切通じなかったが、今では、観光地であれば、ある程度の英語が
    通じます。 特に、この10年間の経済成長は目を見張るものがあり、それに伴い、英語も
    格段に通じるようになりました。 ロシア語とドイツ語をを専門とした者としては、
    何とも寂しい限りですが、逆に、時代の波に取り残された日本の方が気になります。

    ロシア語を生業として、今年で丸25年、ロシア語を始めてからは、丸32年が経過しましたが、
    これからも、ロシアからは目が離せない状況が続きそうです。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ