1985年3月、54歳のゴルバチョフがソ連共産党第一書記長となった。 彼は、
1986年4月のチェルノブイリ原発事故を契機に、革命としての全面的な
ペレストロイカとグラスノスチ(情報公開)、国際政治の新思考を主張して、
人々を熱狂させ、変革の時代を開いた。 その革命の中で、モスクワの通りの名、
地名などを革命前の古い名前に戻された。 1990年にゴーリキー通りが
トヴェルスカヤ通りに戻されたのは、その代表例であった。

1991年8月、フィナーレは、ゴルバチョフ派の副大統領、国防相、KGB議長らの
クーデターで始まった。 カリーニン大通りとモスクワ川が交差する角に
『ホワイト・ハウス』と呼ばれる白亜の殿堂がある。 これは、1965年から
建設が始まり、1979年に完成したロシア共和国ソヴィエト会館であった。

80年代からは、ここには、ロシア共和国最高会議が置かれていた。
ペレストロイカの中で、エリツィン大統領のロシア共和国が主権宣言をするに
及んで、この建物が俄然注目を集めるようになった。 そして、1991年の
クーデターが起こると、ホワイト・ハウスは、クレムリンに陣取っていた
連邦クーデター派に対するロシア共和国の抵抗の拠点となった。

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この建物の前の戦車の上で、エリツィンは、クーデター勢力に闘争宣言を
発表し、市民にこの建物の死守することを呼び掛けた。 闘争の結果、
クーデター派は、あっけなく敗北し、エリツィン大統領の『ロシア革命』は
勝利した。 1991年8月、その勝利を祝う集会もこのホワイト・ハウスの周りで
行われた。 8月の革命は、殆どが無血であった。 ホワイト・ハウスから
遠くないカリーニン大通りの脇に、1991年の闘争の犠牲となった2名の死者の
碑がある。

1991年12月25日、ソ連は崩壊した。 ゴルバチョフ大統領は、ソ連大統領の
ポストを辞任し、クレムリンの上のソ連国旗が降ろされた。 後継国家となった
のは、エリツィンのロシア連邦である。 だが、その2年後、クレムリンに
入った大統領のエリツィンとホワイト・ハウスの最高会議との間に衝突が
起こった。 ついに、1993年10月、両者は、武力衝突するに至った。
エリツィンは、戦車隊にホワイト・ハウス砲撃を命じた。 30分間の砲撃で、
最高会議側は白旗を掲げ、降伏した。

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大統領が勝利した後、ホワイト・ハウスは政府に摂取され、1994年からロシア
連邦政府会館となっている。 ロシア国家ドゥーマは、旧ゴスプランの建物に
移った。 この激動の時代に、ソ連の各地では、レーニン像の撤去が行われたが、
モスクワでは、レーニン廟も残ったし、マルクス、エンゲルスの像も、レーニンの
像も残った。 撤去されたのは、ルビャンカ前のジェルジンスキー像とカリーニン
通りのスヴェルドロフ像だけである。 そして、ルビャンカの近く、綜合技術
博物館の前に、スターリン時代にラーゲリに送られ、処刑され全ての犠牲者を
悼む記念碑『全体主義体制犠牲者記念碑』が1990年に建てられた。

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新しいロシア連邦政府によって建てられたのは、救世主キリスト聖堂である。
実は、地下鉄クロポトキンスカヤ駅の斜め前のモスクワ・プールの場所に、
1931年末まで救世主キリスト聖堂があった。 これが再建されたのである。

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