多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ソ連

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    海南航空で北京からアルマアタへと向かいます。 北京ーアルマアタの
    フライト時間は、約5時間半で、3時間の時差があります。

    カザフスタンのアルマアタは、現在は遷都され、カザフ語のアルマトイへと
    改名されましたが、ロシア語では、今でもアルマアタと呼ばれています。
    アルマアタの意味は「りんごの父親」で、要約すると、「りんごの里」と言う
    意味になります。

    IMG_3993

    IMG_3995

    【アルマアタ】
    IMG_3994
    IMG_4004
    IMG_4005
    IMG_4006
    IMG_4007
    IMG_4009
    IMG_4011
    IMG_4013
    IMG_4014

    カザフスタン共和国は、旧ソ連邦加盟国で、独立国家共同体にも加盟しており、
    ロシアとは、最も友好的な同盟国として、様々な経済協力や関税協定を結んで
    います。 中央アジア諸国は、2018度から、タジキスタンとトゥルクメニスタンを
    除き、ビザが免除となりました。 独立国家共同体内でも、ベラルーシと
    並んで、最もロシア寄りの国であるため、カザフ人の人口の約60%強がロシア語
    ネイティブです。 ロシア語しか喋れない、ロシア語も喋れる、カザフ語でも
    喋れる、カザフ語しか喋れないの合計4パターンがおりますが、ロシア語理解率は
    100%であるため、カザフでは、ロシア語で話し掛けて何ら問題はありません。

    IMG_3996

    IMG_4000

    尚、この日は、アルマアタ空港に到着したのが午後11時半過ぎで、そのまま宿の方に
    向かったところ、既に施設自体が閉まっていたため、急遽、Booking.comで他の
    施設を予約しました。 アルマアタ中心部にあるこのホステルは24時間営業で、
    1泊600円程度でした。 受付のおねえさんはロシア語ネイティブだったので、
    最後に、記念撮影をお願いしますと言われたため、とりあえず、写真に
    おさまりましたw

    【アルマアタ】
    IMG_4016
    IMG_4017
    IMG_4018
    IMG_4019
    IMG_4020
    IMG_4021
    IMG_4023
    IMG_4037
    IMG_4039

    アルマアタでホステルに到着したのは午前0時30分過ぎであったものの、日本とは
    4時間の時差があるため、現地時間午前6時にはもう目が覚めました。 よって、
    早朝からデニス・テン選手の殺害現場へと向かいます。 元々、予約を入れていた
    ホステルの方が、その現場には近かったものの、到着時に既に夜中であったため、
    閉鎖されており、約1.5km離れた別の施設に泊まりました。 よって、その施設に
    泊まっていなければ、これらの景色は見れなかった事になります。

    ソ連からの独立後は、路上の表示も、カザフ語にみになった場所が多く、パッと見
    では、何を書いてあるのかが分かりません。。 ロシア語も併記してくれないと、
    ロシア語しか分からない人も多いため、困ると思います。。

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    モスクワの歩行者天国
    モスクワで唯一の歩行者天国、アルバート通り。 ここを訪れた時は、ロシアの
    クリスマスの時期であったため、様々なデコレーションが飾られていました。
    尚、現在モスクワには、現在、約700店舗の和食レストランがあると言われて
    いますが、そのうち、最も和食レストランが集中している場所が、このアルバート
    通りです。

    IMG_3512

    IMG_3513

    アルバート通りから、モスクワの中心地である赤の広場までは、さほど遠く
    ないため、歩いて行く事にしました。 この日はマイナス13度でしたが、
    クリスマスのため、街が非常に華やいでいました。 ソ連の崩壊、経済危機、
    物不足を乗り越えたモスクワは、ソ連時代とは全く異なる街へと大変貌を
    遂げました。 社会体制を完全に覆してここまで経済発展を遂げたのは、
    世界でもモスクワだけでしょう。

    【アルバート通り】
    IMG_3506
    IMG_3507
    IMG_3509
    IMG_3511
    IMG_3514
    IMG_3515
    IMG_3510
    IMG_3517
    IMG_3518

    赤の広場
    ここからがモスクワ観光のハイライト、赤の広場です。 赤の広場は、政治の
    中心地であるばかりではなく、商業の中心地でもあります。 クレムリン宮殿
    すぐ横にある「無名戦士の墓」には、永遠の炎と共にロシア語で「君の名は
    無名だが、君の志は永久に消えない」と記されています。

    IMG_3527

    IMG_3521

    クリスマスの赤の広場は、至るところでイルミネーションが輝いていましたが、
    ソ連時代には、こんな風景を見れる様になるなど、夢にも思いませんでした。
    ソ連時代と比べると、建物は完全に同じままなのだが、社会主義から資本主義へと
    転換を図ったため、街の風景が一変しました。 社会主義時代は、イルミネーション
    などなかったため、夜になると真っ暗になっていた赤の広場も、時の流れと共に、
    今では、こんなに活気付いています。 尚、「赤の広場」の名前の由来は、
    スラブ語で「美しい」を表す形容詞が、ロシア語では「赤い」と意味するものへと
    変化したため、こうなりました。

    IMG_3531

    IMG_3532

    IMG_3533

    IMG_3535

    赤の広場は、冬の間は、市民のためのスケートリンクになります。 荷物さえ
    なければ、このスケートリンクで滑りたかったものの、気温がマイナス13度で
    あったのにも関わらず、こんなにも大勢の人々でごった返していました。
    簡易遊園地も設置され、クリスマス気分を盛り上げていました。

    【赤の広場】
    IMG_3519
    IMG_3520
    IMG_3522
    IMG_3524
    IMG_3525
    IMG_3530
    IMG_3536
    IMG_3546
    IMG_3554

    聖ワシリー大聖堂
    赤の広場にある聖ワシリー大聖堂(ポルコフルキー大聖堂)とその前にある像は、
    1612 年にポーランド軍に勝利したことを記念して、建てられたミーニンと
    ポジャーススキーの像。 王子であったポジャルスキーと肉屋のミーニンは、
    攻め入るポーランドとの戦いにおいて、ロシアの勝利に尽力しました。

    IMG_3541

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1986年4月26日1時23分に発生したチェルノブイリ原発事故により、
    プルトニウム(半減期約2万4000年)、ヨウ素131(半減期約8日)、
    セシウム134(半減期約2 年)、セシウム137(半減期約30年)、
    ストロンチウム90(半減期約28年)等の大量の放射性物質が大気中に
    放出された。  大気放出された放射線は、数時間後にスウェーデンや
    フィンランドまで到達し、翌日の朝までにはイタリア北部や
    アイルランドまで到達した。

    26s04 cher5

    最も広範囲に汚染された国々は、原発が立地するウクライナ(41,750平方
    キロメートル)、ベラルーシ(46,600平方キロメートル)、ヨーロッパ・
    ロシアの一部(57,100平方キロメートル)となっており、約9万人の労働者の
    力を借りて『石棺』が建設されたのは、1986年6月から11月までの206日間
    であった。

    1986年11月30日、国家委員会の決定により、チェルノブイリ原子力発電所
    4号炉の核燃料が抜き取られた。 現在、この強制避難区域内の特殊企業で
    働いている従業員は約6,500名おり、更に、約2,500名がチェルノブイリ原発で
    直接働いている。 原発事故後の11日間で、述べ10万人以上が避難をし、
    1986年度中には、原発付近から合計約115,000人が避難、1986年以降、
    ベラルーシ、ロシア、ウクライナからは合計で約22万人が移住をした。
    チェルノブイリ原発から大気中に放出された放射性物質は、北半球全体で
    測定された。

    26s04 cher11

    放射線による人体への影響は、予想されたものとは異なっており、被災地
    からの強制移住によって、家族が崩壊したり、失を失ったり、うつ病および
    ストレス関連疾患が激増した。 放射線による汚染地域に住む住民らのうち、
    国際的に認められた白血病の発生率が増加したという証拠はまだない。
    成長過程におけるガンの発生率に関しても、統計的に確かな根拠はなく、
    奇形児の誕生もなかった。 ウクライナ西部の慈善団体が寄付を集めるために
    使用していた先天的に障害を持った乳児のほとんどの写真は、チェルノブイリとは
    何の関係もない病気の写真であった。

    原発事故後は、今後奇形児が生まれるという噂により、ウクライナや
    ベラルーシでは中絶が激増した。 放射線の影響により数千人が死亡した、
    あるいは、深刻な病気を抱えている人が350万人もいるとも言われたが、
    実際に原発事故で死亡したのは134名であり、その死亡理由は急性放射線症
    であった。 このうち、事故直後の2ヶ月間で28名が死亡した。

    最大の放射能汚染を受けたのは、事故当時の天候から、チェルノブイリ原子力
    発電所のすぐ北に位置するベラルーシであり、放射性希ガスを除く全放出量の
    およそ70%が同国に落下・沈着したと推定されている。 セシウム137の
    濃度が1平方メートル当り3万7000ベクレル(旧単位で1平方キロメートル当り
    1キュリー)以上の汚染地域がベラルーシでは全国土面積の23%に達した。
    これに対しウクライナでは5%、ロシアでは0.6%であった。 ベラルーシの
    汚染地域に居住する人口は220万人で、同国人口のおよそ5分の1に達した。

    osentizu

    1989年に公式に発表された汚染地図は、三つの共和国の約2万5000平方キロ
    メートル(日本の四国の面積が約1万8000平方キロメートル)2,225居住地区が、
    1平方メートル当り18万5,000ベクレルを超えるセシウム137の地表汚染のある
    ことを示している。  これらの地域では外部照射に基づく被曝線量だけでも
    年間4.38ミリシーベルトに達し、そこに住み続けた場合は、医学的検診が必要な
    レベルに達することになる。

    2005年までのデーターによると、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ国内では、
    事故により被爆したとされる小児や青少年のうち、6,000件以上が甲状腺ガン
    として登録されており、今後も数値の増加が予想される。 これらのガン
    発症例の多くは、事故直後の放射線被爆によって引き起こされた可能性が高いが、
    発症例の増加や事故20年後の人体への影響に関する医学的な根拠は今のところ
    解明されていない。 よって、放射線によるガンの発生率、死亡率、良性腫瘍等の
    増加率に関しては、科学的根拠がない。 白血病に関しては、発生率は増加して
    おらず、高濃度汚染地域に住んでいる国民は、放射線の影響により、日々被曝の
    可能性には直面しているが、国民の多くが重大な健康被害を被る可能性は低い。
    原発事故とは全く関係がない他の健康被害もチェルノブイリ原発事故の中には
    多数混在している。


    26s04 cher6

    【放射性物質の放出】
    チェルノブイリ原発事故は、定期メンテナンスのために原子炉を停止する際に、
    電源システムの実験を行っていた最中に発生した。 安全基準を無視して、
    監視システムの電源を切り、元々、設計ミスであった原子炉が不安定となった。
    急激に電力が増加したことにより、水蒸気爆発が発生し、原子炉本体に亀裂が
    発生し、炉心が破壊され、原子炉建屋が大規模損傷した。 その後、炉心から
    発生した火災により、10日間火災が続いた。 このような条件の下、大量の
    放射性物質が大気中に放出された。

    事故直後に建設された石棺の建設費は3億ドルとなっており、1992年から1998年
    までの間は、ロシアだけが連邦予算から30億ドルを支払っていた。 米国と
    西ヨーロッパ諸国は、これまでにウクライナにおける事故を処理するために
    8億ドル以上を費やした。 予測によると、ベラルーシでは、チェルノブイリ
    被災者に対する補償として、820億ドルを2015年までに費やす予定となっている。
    欧州復興開発銀行(ECB)は、チェルノブイリの影響を解消するために23億
    ユーロを費やす計画となっている。 過去10年間で、ウクライナはチェルノブイリ
    原発に対して、60億ドルを費やした。 キエフ政府によると、今後20年間で、
    更に50億を要するという。

    最も被害を最小に見積もった調査によれば、チェルノブイリ原発の事故処理を
    完了するためには、全世界で更に10億から12億ドルのコストが掛かると
    言われている。 

    26s04 cher7

    チェルノブイリ原発強制移住区域における事故と人命への影響
    チェルノブイリ原発事故の結果、総面積207.5千平方キロメートル、合計
    17カ国に渡る広大な土地が1Ci/km2(37 kBq/m2)以上のレベルでセシウム137に
    よって汚染された。 セシウム137による汚染は、ウクライナで37.63千平方
    キロメートル、ベラルーシで43.5千平方キロメートル、ロシアで59.3千平方
    キロメートルとなっている。 ロシアでは、19名がセシウム137により被爆した。
    最も汚染された地域は、ブリャンスク州(汚染地域11.8千平方キロメートル)、
    カルーガ州(4.9千平方キロメートル)、トゥーラ州(11.6万平方キロメートル)、
    オリョール州(8.9千平方キロメートル)となっている。

    1Ci/km2以上のレベルでのセシウム137により汚染された地域は、約6万平方
    キロメートルとなっており、この中には、旧ソ連邦以外のオーストリア、ドイツ、
    イタリア、英国、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー他が含まれており、
    西ヨーロッパ諸国全域が広域に渡って汚染された。 ロシア科学アカデミーに
    よると、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの国土の広範囲が5Ci/km2(185m2)
    以上の水準で汚染され、約52,000平方キロメートルの農地がセシウム137と
    ストロンチウム90に汚染されたが、それぞれの半減期は30年と28年となっている。

    事故直後に31名が死亡し、消火活動に参加した60万人が高線量の放射線により
    被爆した。 約840万人のベラルーシ、ウクライナ、ロシア国民が被爆し、
    そのうち約404,000人が移住した。 事故後は、放射線量が非常に高いため、
    原子力発電所の運転が停止された。 汚染された地域の除染と石棺建設の後、
    1986年10月1日には第1電源回路が、11月5日には第2電源回路が、そして、
    1987年12月4日には、第3第一電源回路が遮断された。 チェルノブイリ原子力
    発電所は、最終的には、2065年に完全に廃止される予定となっている。

    チェルノブイリ原発作業員とその家族が住む街、プリピャチ市民の避難は、
    4月27日14:00から始まった。 市民には「3日間」だけ街を離れると告げられたが、
    その後、この地に再び戻って来ることはなく、街は土で埋められた。 キエフと
    その他の地域から1,225台のバスが到着し、2台のディーゼル車が鉄道の駅に
    送られた。 この他にも、自宅に車を持っていた市民らは自力で避難をし、
    人口約5万人全員が3時間以内に避難を完了した。 5月上旬には、キエフ市内の
    全ての児童がピオネールキャンプ場へと連れて行かれたため、キエフ市内からは
    子供の姿が完全に消えた。

    2144474

    【健康に対する影響】
    チェルノブイリ原発事故の直後、放射線の影響により急性放射線障害が発生した。
    1986年4月26日早朝からの作業を行っていた600人の作業員のうち、134名は、
    高濃度の放射線(0.8-16グレイ)を浴びて急性放射線障害になった。 これらの
    うち、28名は事故発生直後の3ヶ月間に死亡し、残りの19名は、必ずしも放射線
    被ばくとは関連しておらず、様々な理由により、1987年から2004年の間に
    死亡した。 また、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の
    2008年度の報告書によると、事故後の作業員53万人の大部分は、1986年から
    1990年までの期間に、0.02 - 0.5 グレイの被曝をした。 これら作業員は、ガンや
    他の病気の発症等の可能性があるため、長期的に厳格な健康管理を行っている。

    放射線にさらされた青少年の間では甲状腺ガンの発生率が急激に増加したが、
    原発事故が原因でガンや白血病を発症したという明確な証拠はなく、放射線量は
    高かったものの、他にも時間を掛けた調査が必要で、これらの病気は、事故前
    にも被災地で観察されていたことにも留意すべきである。
    【現場責任者のその後】
    尚、原発の現場責任者であったブリュハーノフ所長、フォーミン技師長、
    ディアトロフ副技師長は、1986年8月に全ての役職を剥奪されて失脚し、安全
    規則違反で刑事裁判に掛けられ禁固10年を宣告、労働収容所に収監された。
    ブリュハーノフはこれに加えて、権力濫用の廉で更に5年の刑期を追加されている。

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    チェルノブイリ事故で放射線により被害を被った者は、児童を含む国民全てが
    補償対象となっており、被災者は以下の4つのカテゴリに分けられる。

    9hkgodfor

    【カテゴリー1】
    チェルノブイリ原発事故により、障害者、犠牲者、あるいは、病気を発症した者

    補償内容
    - 医師からの処方箋があれば医療費免除。
    - 歯科補綴物は無料。
    - 医療機関、および、薬局における優先的なサービスを受ける事が出来る。
    - 長期療養所での治療券、および、無料旅行クーポン券の発行。
    - 年金を受給する際や転職をした際には、これまで通院していた病院を優先的に
      利用可能。
    - 専門家による診断を伴う健康診断、専門医療機関での治療費免除。
    - 企業、団体における従業員の解雇や再編等による労働環境の変化、並びに、
      雇用に関する再雇用のための継続的な優先権が与えられる。
    - 勤続年数に関係なく、平均賃金と同額の一時障害補償金が支給される。
    - 現在就労中の障害者に関しては、一時的な補償金として最大で給与5ヶ月分が
      付与される。
    - 住宅環境の改善が必要な者に対しては住居を特別に提供する。
    - 居住費(家賃、修繕費)、光熱費(ガス、電気、水道、その他サービス)の
      50%割引、燃料費50%払い戻される。
    - 対象者が事業主、あるいは、その家族であっても、国営、あるいは、公営住宅
      アパート基金が所有する住宅が私有財産として無償で提供される。
    - カテゴリー1に属する障害者は、医学的な観点、あるいは、カテゴリー2に
      属する障害の有無に関係なく、自動車の運転が禁止されているため、無償で
      自動車が提供される。
    - 公共交通機関の利用は無料となる。
    - 国からの社会補償金の支払い金額に応じて、療養所、専門医療機関等の全専門
      機関における病気治療、並びに、病気療養が必要な際には優先的に施設への
      受け入れが行われる。
    - 学区区分に関係なく、就学前教育に関しては、特別義務教育規定が適用される。
    - ウクライナ国内を移動する際には、1年に1度に限り、陸路、空路、鉄道、
      水上交通の切符の優先購入を行うことが出来る。
    - 不動産協議会による農業用地の強制転換、生活条件改善のための強制移住、
      引っ越し、並びに、農園、ガーデニング、ガレージ、別荘建設他、土地を
      転換する際(申請書提出後1年以内)には、不動産が無条件で割り当てられる。
    - 休暇取得時に年間14日間の追加有給休暇が付与される。
    - 住居を持たない者が国立高等教育機関、職業専門技術学校に入学する際には、
      学習期間中に限り、その付随施設への入寮が認められ、奨学金が与えられる。
    - 社会保険事務所で特別機器の貸し出しを行っているが、自宅でこのサービスを
      受ける場合は、近親者が同居していない者に限られる。

    【カテゴリー2】
    チェルノブイリ原子力発電所の事故区域外で労働に従事していた者

    - 労働日数に関わらず、事故発生時から1986年7月1日までの間、事故区域外で
      労働に従事していた者。
    - 1986年7月1日から12月31日までの間で5日以上事故区域外で労働に従事
      していた者。
    - 1986年のチェルノブイリ事故により、14日以上何らかの被害を被った者、
      または、原発事故による被害者。
    - 1986年度に事故区域外へ避難した者(避難時は胎児で後に成人した者を含む)。
    - 事故発生後、定住先が決まるまでの間、災害住宅や避難先に長期的に住む者。

    補償内容
    - 医師からの処方箋があれば医療費免除。
    - 歯科補綴物は無料。
    - 医療機関、および、薬局における優先的なサービスを受ける事が出来る。
    - 年金を受給する際や転職をした際には、これまで通院していた病院を優先的に
      利用可能。
    - 専門家による診断を伴う健康診断、専門医療機関での治療費免除。
    - 勤続年数に関係なく、平均賃金と同額の一時補償金が支給される。
    - 対象者が雇用主、あるいは、その家族であっても、国営、あるいは、公営住宅
      アパート基金が所有する住宅を私有財産として無償で提供される。
    - 学区区分には関係なく、就学前教育に関しては、特別義務教育規定が適用される。
    - 不動産協議会による農業用地の強制転換、生活条件改善のための強制移住、
      引っ越し、並びに、農園、ガーデニング、ガレージ、別荘建設他、土地を
      転換する際(申請書提出後1年以内)には、不動産が無条件で割り当てられる。
    - 休暇取得時に年間14日間の追加有給休暇が付与される。
    - 住居を持たない者が国立高等教育機関、職業専門技術学校に入学する際には、
      学習期間中に限り、その付随施設への入寮が認められ、奨学金が与えられる。
    - 社会保険事務所で特別機器の貸し出しを行っているが、自宅でこのサービスを
      受ける場合は、近親者が同居していない者に限られる。
    - 住宅環境の改善が必要な者に対しては住居を特別に提供する。
    - 企業、機関、団体等における従業員の解雇や組織再編等の労働環境の変化等、
      再雇用に関する継続的な優先権が与えられる。
    - ウクライナ国内を移動する際には、1年に1度に限り、陸路、空路、鉄道、
      水上交通の切符の優先購入を行うことが出来る。
    - チェルノブイリ原発事故が原因で生じた疾病、または、傷害により職業能力が
      永続的に損なわれた場合は、 健康障害を被る以前の能力に応じて、法的な
      補償金が支払われる。
    - 国内各都市への公共交通機関が無償となる。

    【カテゴリー3】
    チェルノブイリ原発事故後に被害を被った者

    - 1986年7月1日から1986年12月31日までの期間で、事故対象外地域に1日から
      5日間滞在した者。
    - 1987年に事故対象外地域に1日から14日間滞在した者。
    - 1988年から1990年までの間、事故対象外地域に30日以上滞在した者。
    - 1986年度に公共衛生処理場、除染作業現場、建設現場で14日間以上労働に
      従事した者。
    - 第2カテゴリーには分類されないチェルノブイリ原発事故で被害を被った者。
    - 1993年1月1日現在、強制移住区域内で2年以上居住、通学、あるいは、労働に
      従事しており、自発的に移住を行なった転居先で3年以上経過している者。

    補償内容
    - 医師からの処方箋があれば医療費免除。
    - 歯科補綴物は無料。
    - 医療機関、および、薬局における優先的なサービスを受ける事が出来る。
    - 専門家による診断を伴う健康診断、専門医療機関での治療費免除。
    - 企業、機関、団体等における従業員の解雇や組織再編等の労働環境の変化等、
      再雇用に関する継続的な優先権が与えられる。
    - 勤続年数に関係なく、平均賃金と同額の一時補償金の支払いが行われる。
    - 学区区分に関係なく、就学前教育に関する特別義務教育規定が適用される。
    - 不動産協議会による農業用地の強制転換、生活条件を改善するための強制移住、
      引っ越し、並びに、農園、ガーデニング、ガレージ、別荘の建設他、土地を
      転換する際(申請書提出後1年以内)には、別の不動産が再度割り振られる。
    - 社会保険事務所で特別機器の手配を行う事が出来るが、自宅でこのサービスを
      受ける場合には、近親者が同居していない者に限定される。
    - 放射性物質による汚染地域に住んでいる未成年の児童を持つ両親の何れか
      一方に対して、最高で14日間の年次休暇が与えられる。
    - 住居面積を問わず、共同住宅に入居するための市民としての権利を有する。
    - 市民が独立して移住可能な場合は、国営、または、公営居住の所有権を譲渡する。

    【カテゴリー4】
    1993年1月1日時点で強制移住地域内で4年以上就労、通学、あるいは、居住する者。

    1986年4月26日の事故発生後から7月1日まで少なくとも14日間、あるいは、
    1986年から1987年の間に強制退去区域内で政府の指示により作業を行なった者は、
    法律で定められた補償(放射線による被害)の対象となる。

    カテゴリー4に分類されていた補償は、2014年12月28日に廃止された。

    osentizu

    【チェルノブイリ原発被災者に対する特別年金】
    全カテゴリで既に退職したチェルノブイリ原発被災者に対して、基本年金に
    加算して、特別年金が支給される。 汚染地域で労働に従事していた者、あるいは、
    住んでいた者は、年金支給年齢が引き下げられる。

    【チェルノブイリ原発事故対応委員会加入者】
    - 労働日数に関わらず、事故後から1986年7月1日までの期間、避難区域で労働に
      従事していた者、または、1986年7月1日から1986年12月31日まで期間、5日
      以上この区域で労働に従事していた者は、年金受給年齢が10年引き下げられる。

    - 1987年に避難区域内で少なくとも14日以上労働に従事していた者は、
      年金受給年齢が8年引き下げられる。
    - 1986年7月1日から1986年12月31日までの期間、避難区域内で1日から5日間
      同区域の衛生処理場での作業、あるいは、除染作業を14日間以上行っていた者は、
      年金受給年齢が5年引き下げられる。

    【チェルノブイリ原発事故で被害を受けた児童の保護】
    チェルノブイリ原発事故発生時に妊娠期間中であった児童を含む、原発事故の
    被害により、避難区域から避難した者が対象となる。

    - 事故発生後に強制避難区域内で少なくとも1年間継続して居住、通学していた者。
    - 事故発生後の1986年4月26日以降に誕生し、自主避難区域で少なくとも2年
      継続して居住、通学していた者。
    - 事故発生時に原発事故に関するカテゴリー分けの1から3に属する父、または、
      母を持ち、1986年4月26日以降に誕生した者で、放射線管理強化区域内で
      少なくとも3年間以上継続して通学していた者。
    - 放射線量に関わらず、甲状腺がんの患者と放射線病患者。

    【補償と給付金】
    - 14歳未満の病気を発症した児童を持つ親に対する一時的な補償金として、
      平均賃金の100%の金額が支払われる。
    - 医師の処方箋に基づいた医薬品が無料となり、急を要する歯科補綴物も
      無料となる。
    - チェルノブイリ事故で被災した女性に対しては、出産前には90日間の妊娠休暇、
      更に、出産後は90日間の休暇が付与される。
    - 放射線汚染地域内にある中等学校、専門学校、大学、それぞれの児童の学費は
      無料となり、強制避難区域から避難した者、事故の影響で障害を負った者は、
      移住先での定住に関わる費用が無条件で無料となり、上記の教育機関で学校給食を
      受けていない者や、これらの機関に通えなかった者に対しては、補償金が
      支払われる。
    - 12歳未満の事故で被害を被った児童を持つ両親のうちの何れか一方に対して、]
      児童をケアする時間が労働時間に参入される。

    - 障害児童を持つ両親の何れか一方、あるいは、その代理人が年次休暇を取得する
      際には、年間最大で14日間の特別有給休暇が付与される。
    - チェルノブイリ原発事故で障害者となり、特別なケアを必要とする児童に
      対しては、  居住スペースが特別に提供される。
    - 障害児を持つ何れか一方の親、または、それに代わる代理人に対しては、2ヶ月間
      有効の年次無料旅行クーポン券が発行される。
    -  2016年1月1日に第4カテゴリーに属するチェルノブイリ原発事故被災者に対する
      法律上の優遇処置が廃止され、特別年金受給者に対する補償金が廃止された。
      政府からの予算削減により、特別年金受給者に対しては、満額の特別年金が
      支払われると記載されているものの、チェルノブイリ原発事故に関する他の
      カテゴリーの補償の権利を有する者には関しては、選択肢としてこの権利を使う
     ことが出来るのみである。

    チェルノブイリ原発事故被災者に対する主な補償金は、過去6ヶ月間において、
    1人当たりの平均月額家計収入が社会保証協定によって定められている所得額を
    上回らないことを条件として支給される。 2017年度の予算額は、「ウクライナの
    社会補償(2017年度版)」にて参照のこと。 法改定以前は、法律によって
    チェルノブイリ被災者に対する全ての給付金額と追加補償金額が決定されていたが、
    新政権発足後に法改正がなされ、現在、補償金の金額は、社会保証協定により定め
    られている。 今後は、更に予算が縮小される可能性がある。

    現在の新政府は、各カテゴリーごとの補償金額を減らすことは出来ないとする
    ウクライナ憲法に反する法律を採択した。
    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カウナスは、第二次世界大戦、すなわち、ソ連邦への併合以前までは、
    リトアニアの首都であったため、『杉原千畝記念館』は、元々は、
    日本大使館であった。 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、
    多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込んだが、ソ連によるリトアニア
    併合が確実となり、彼らには日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという
    方法しか残されていなかった。

    >>杉原千畝 ~六千人の命のビザ~

    杉原は、苦悩の末、外務省の訓命に反し、『人道上、どうしても拒否出来ない』
    という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を
    発給した。 それは、人道、博愛精神第一という大きな決断であった。 その後、
    戦況が悪化したため、日本大使館は閉鎖、カウナス市内を転々としながら、更に
    ビザの発給を続けた。 合計で約2,000枚のビザを発給したものの、本国からの
    命令に逆らったとして、その後は、ルーマニアヘと送られ、後に、外務省をも
    追われる事となる。

    IMG_1094
    IMG_1111
    IMG_1102
    IMG_1106
    IMG_1097
    IMG_1099
    IMG_1100
    IMG_1105
    IMG_1101

    カウナス駅に今でも杉原千畝のプレート残されている。 日本大使館が閉鎖され、
    最後の最後までビザを書き続けたのがカウナス駅。 千畝は、その後、汽車で
    ベルリンへと向かった。 ユダヤ人たちが日本の通過ビザを欲しがったのは、日本へ
    行きたかったからではなく、日本を経由して、第三国へ脱出しかたったためで、
    当時は、シベリア鉄道に乗って、日本を経由して、オランダ領のキュラソーに
    行くしか残された道はなかったのである。

    その後、杉原は、ユダヤ人たちからは非常に感謝されたが、日本での扱いは、
    外務省に無断で勝手にビザを発給したとして、名誉剥奪のまま無念の死を遂げた。
    2000年に日本政府から正式に名誉回復がなされたのは、杉原の没後14年目、
    そして生誕100年という節目のことであった。

    【お勧めの一枚】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    モスクワから1時間半のフライトで、ベラルーシの首都ミンスクに到着。
    このミンスク第2空港は、中国の資本で建設されたとかで、あちこちに漢字
    表記があるため、日本人には非常に便利。 空港到着後は、ベラルーシの
    厳しい入国審査があるのかと思いきや、一切何もなく、そのまま外に出て
    しまったため、拍子抜けした。 夜中の11時半にミンスクに到着したため、
    タクシーが一切捕まらず、色々と交渉した結果、恐らく、ミンスク市が
    運営している予約制のタクシーを1時間後にようやく予約出来たため、
    夜中の1時過ぎに本日のお宿である健康センターへとたどり着いた。

    【ミンスク】
    IMG_0908
    IMG_0909
    IMG_0911
    IMG_0912
    IMG_0913
    IMG_0914
    IMG_0915
    IMG_0916
    IMG_0917

    空港から宿までの道には、街灯がひとつもなく、正に漆黒の闇の中を林の
    中へとずんずん突き進んだ場所にこの健康センターがあるのだが、一夜明けて、
    朝になると、素敵な森の中にある施設である事が判明。 日本円にして1,200円
    程度でスウィートルームを予約したため、朝から気分は大金持ちのおぜう様w
    健康センターだけあって、マイナスイオンたっぷりの朝の散歩が気持ち良い。
    敷地内には、サウナやらレストランやら、色々な施設があった。

    ミンスク市内は、ロシア語とベラルーシ語のちゃんぽん表記が多く、周囲は
    皆ロシア語だけで話しているのに、地下鉄の放送は、ベラルーシ語と英語のみ。
    元々、ベラルーシ語は「死語」と呼ばれる程すたれた言語だったが、近年になって、
    徐々に復活をしている模様。 旧ソ連邦の国々では、ロシア語のみが公用語で
    あったため、ベラルーシ語やウクライナ語が激しく規制されていた時代もあった
    影響で、各民族語がすたれたのだが、ソ連から独立の後は、各民族語の復活に
    力を入れている国々もあるものの、ウクライナのように、余りにも強引な
    やり方をして、ロシア語話者の人権を無視している国もあるため、ベラルーシ語の
    復活にも、慎重な体制で臨んで欲しいところ。

    【ミンスク】
    IMG_0931
    IMG_0929
    IMG_0930
    IMG_0932
    IMG_0933
    IMG_0934
    IMG_0935
    IMG_0936
    IMG_0937

    基本的に、ベラルーシ語はロシア語に非常に似ているため、特にロシア語の
    アナウンスをしなくとも理解出来るのだが、周囲で喋っている言語と、公共
    放送とのズレがあるのには違和感を感じた。 大阪で標準語の放送等、この逆
    パターンは、幾らでもあると思うのだが、道路表記は、話し言葉が追いついて
    来てから変更した方が良いと思った。

    ミンスク駅構内のキオスクでは、溢れるばかりの商品が並べられていた。
    一部の旅行雑誌には、「ベラルーシは、旧ソ連邦の中でも最もソ連時代の面影を
    残している国」との記載があったため、どれほど古めかしい国なのかと思いきや、
    こんな程度のレーニンやらモニュメント的な遺物は、ロシアこくないにもまだまだ
    残っているため、ロシアとベラルーシの決定的な違いは見出せなかった。
    ベラルーシでは、チェルノブイリ原発事故の影響で、国内を旅行するという
    習慣がないそうなのだが、その現実を後で何気ない場所で見る事となった。

    【ミンスク】
    IMG_0918
    IMG_0919
    IMG_0920
    IMG_0923
    IMG_0924
    IMG_0925
    IMG_0927
    IMG_0928
    IMG_0938

    ミンスク駅前には、重々しい重厚な雰囲気の建造物があり、社会主義建設の
    象徴となっている。 この日は、このまま夜にこの駅からビリニュスへ向けて
    旅立つため、まずは、駅の下見から。 行き先とホームの番号が記載されている
    ものの、ビリニュス行きの電車は、1番線の最先端部分にある21番線からの出発と
    なっており、非常に分かり辛い。 ミンスク空港から入国し、5日間のビザなし
    訪問でベラルーシへやって来た人達の場合は、鉄道での国境越えは絶対に出来ず、
    今回は、わざわざベラルーシのビザを取得して来ているため、この超難ルート
    での国境越えに挑みます。 ミンスク空港からのビザなし訪問でベラルーシへ
    入国した場合は、絶対にミンスク空港から以外は出国出来ないため、ご注意
    くだされ(出発前にベラルーシ大使館に確認済み)
    。 

    >>トップページに戻る



    【お勧めの一冊】


    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を
    貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを
    突き合わせ、明らかにした。 米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供
    だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の
    背景にあったことが浮かび上がった。

    68FB4E58AA9

    振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、
    ソ連の対日参戦が決まった1945年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった
    米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。

    米国は1945年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の
    艦船をソ連に無償貸与。 4~8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州
    コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。
    コールドベイには常時1,500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たった
    という。

    訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島の作戦に投入された。 8月
    28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦には、米の貸与艦船10隻を含む
    17隻が参加。 ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、四島の占領は9月5日
    までに完了した。

    20161075097

    こうした歴史的史実が判明したのは、根室振興局が2015年度から取り組む
    北方領土遺産発掘・継承事業が切っ掛け。 各国の資料を集める中で、ソ連が
    樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べ上げたイーゴリ・サマリン氏
    (現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の論文「1945年8月のサハリンと
    クリル諸島上陸作戦に参加した軍艦と補助船舶の注釈付きリスト」(2011年3月)を
    入手した。

    リストに米艦船が含まれていることが分かり、経緯を探るうち、米ソの極秘
    プロジェクトの内実を書いた元米軍人リチャード・ラッセル氏の著書
    「プロジェクト・フラ」(2003年)の存在を知り、米国から取り寄せた。
    国後島の地元紙「国境にて」の過去記事など各種資料と照らし合わせ、四島占領
    作戦での米艦船の使用を突き止めた。

    調査を取りまとめた国後島元島民2世の谷内紀夫・根室振興局副局長は
    「米国が徹底した対ソ支援を行っていたことが分かり、北方領土問題への両大国の
    関与が浮き彫りになった」と話す。

    調査資料は来年1月19日~2月2日に根室市内の道立北方四島交流センターで開く
    企画展で公開。 初日の1月19日に谷内副局長が講演する。

    5017

    ■ソ連の独断ではなかった 北方領土問題の経緯に詳しい和田春樹東大名誉教授の話
    北方四島占領を含む旧ソ連軍の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、
    日本国内ではほとんど知られておらず、発見と言える。 四島占領はソ連が勝手に
    行ったのではなく、米ソをリーダーとする連合国の作戦として行われたという
    ことを示している。

    【お勧めの一冊】

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    エストニアとラトビアは、中世を通じて、数世紀に渡ってドイツ騎士団やその他の
    勢力の支配下にあった。 それに対してリトアニアは、14世紀の半ばリトアニア
    大公の下に大公国を形成し、その公国は、バルト海からモスクワ、そして、一時は、
    黒海沿岸にまで広がっていた。

    lithuania

    1386年に行われた大公の孫ヨガイラとポーランド女王ヘドヴィクの結婚は、大きな
    影響をもたらした。 大公家と共にリトアニア国民もカトリック教徒となり、この時
    成立したリトアニアとポーランドの連合は、その後400年以上も続いた。 数世紀に
    渡り、リトアニア地方は、ポーランドの一州となり、そのして、1795年に第三次
    ポーランド分割の後、ロシアの支配を受けることとなった。

    第一次世界大戦中、リトアニアは、ドイツ軍に占領されたが、1918年に共和国
    として独立した。 その後、ベラルーシとリトアニアの地域に社会主義ソビエト
    共和国が成立したが、ピルスドスキ率いるポーランド軍が、赤軍をリトアニアの
    首都であるビリニュスとその周辺から駆逐した。 この歴史的な街は、その後、
    数々の戦いが繰り返されつつも、1939年までポーランドの支配下に留まった。

    1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいて、ソ連軍は、リトアニアに
    駐屯し、リトアニア政府の組織を手助けした。 そして、1940年、リトアニアは
    連邦構成共和国となった。

    pict1fdgj

    【大衆の力で勝ち取ったソ連からの解放】
     ペレストロイカ政策時代、民族自立への歩みを進めるにあたって、この国は、
    非常に好条件に恵まれていた。 それには、多数民族の割合が高いことも
    大きく起因している。 1988年10月、リトアニアの人民戦線『サユジス』
    (ペレストロイカを支持する運動)が創設された。 彼らは当初、ソ連からの
    分離独立を目指していた訳ではなかった。 むしろ、その目標は、リトアニア
    文化とロシア文化を対等なものとして取り扱い、2ヶ国語の使用を認めることと、
    経済的な自立を促進することであった。

    サユジスは、それによって多くの国民の支持を得た。 1987年8月23日に起きた、
    ヒトラー・スターリン協定に抗議するデモは、非常に小さな一群によって行われた
    のであったが、それがその後1年程の期間を経るうちに、20万人から30万人もの
    人々が参加する大衆デモへと成長して行った。 独立への気運はますます高まり、
    1990年3月リトアニアは独立宣言を行った。

    リトアニアの連邦離脱宣言に対し、ゴルバチョフは、初め戸惑いを見せていたが、
    その後、資源輸出の停止という対抗処置を取った。 1990年7月、モスクワ政府との
    交渉の間、リトアニアは独立宣言を一旦引き下げ、それによって経済制裁は停止
    された。 モスクワにおけるクーデターの失敗後の1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、リトアニアの独立は遂に承認された。

    【お勧めの一枚】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    13世紀の初め以来、ドイツ騎士団がラトビアを植民地化し、彼らはポーランドと
    手を組んでロシアに対抗した。 リボニアは、ポーランド・リトアニア連合国家、
    後のスウェーデンの手に渡ったが、一方ドビナ川南側の地域は、クールランド
    (クルリャンド)公国とゼムガレ公国として領土が保障された。

    peedzX0q8

    ピョートル大帝の時代にロシアは、リボニア騎士団の征服に成功し、エカテリーナ
    2世がポーランドを分割によってその支配権を確実にした。 1772年の第一次
    ポーランド分割によって、ラトガレ地方がロシアの手に落ち、間もなくラトビア
    全土がロシアの支配下に置かれた。

    しかし、度重なる支配者の交代にも関わらず、ラトビアの人たちは、19世紀に
    入っても尚、ドイツ・バルト騎士領の領主の下で農奴として生活していた。
    そのため、都市にもドイツの影響が色濃く残っている。 19世紀末に工業化が
    始まると、ラトビアの都市住民の存在が大きな意味を持つようになった。

    ラトビア人は、ロシア皇帝政権によって、抑圧を受け、また、ドイツ・バルトの
    大地主たちからも社会的に冷遇されて来た。 そのため、1905年にロシアに
    革命が起きた時には、革命派の側に付く者もいた。

    ロシア皇帝政権の崩壊後、ラトビア人は、民族の独立を目指して新たに戦いを
    始めた。 1920年、長い闘争の末、ようやく独立を勝ち得たが、それも長くは
    続かなかった。 1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書によって、
    ラトビアはソ連に編入された。

    10635637

    【毟り散られる自国の富】
    1945年以来、ラトビアの経済構造は大きく変化し、以前は農業を主体とした
    地域であったのが、ソ連の近代的な工業地帯へと様変わりした。 例えば、
    工業化や交通整備の度合い、経済発展の速度や経済効率は、ソ連の平均的な
    水準を遥かに超えている。

    しかしながら、ラトビアは、自国の富の恩恵を受けていなかった。 と言うのは、
    ソ連の計画経済に沿って、製品の大部分を他の連邦共和国に輸出しなければ
    ならなかったからである。

    【民族独立への突破口】
     1980年代末、ゴルバチョフ政権のペレストロイカの下で、ラトビアの民族運動の
    再開がようやく可能となった。 1989年以来、独立への闘争が強まるに連れて、
    モスクワとあつれきが生じることになった。 モスクワで保守派のクーデターが
    失敗した直後、1991年8月21日に独立を宣言し、同1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、承認された。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

    estoni

    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

    1915445

    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    キルギスの人口は440万人で、そのうち、キルギス人がそのおよそ半分を
    占めている。 キルギス人は、ウズベク人(人口のおよそ12%)やタタール人と
    同様、トルコ系民族で、イスラム教スンニ派を信仰している。

    それに対して、ロシア人(約25%)やウクライナ人(2.5%)はスラブ系民族
    である。 彼らは、異なる文化を持ち、キルギスの中ではますます異質な
    存在となり、両者の間の対立が今日、強まりつつある。

    kyrgyzstan

    現在のキルギス人の祖先は、トルコ系民族とモンゴル系民族であった。
    キルギス人が一民族としての意識を持つようになったのは、早くとも、18世紀
    以降のことと考えられている。 キルギス人が遊牧してた地域は、19世紀以来、
    コーカンド・ハン国の支配下に置かれていた。 1830年頃には、ロシア人の
    入植が始まり、1876年には、コーカンド・ハン国がロシアに併合され、
    キルギス人は、完全にロシア皇帝政権の支配を受けることになった。

    もっとも、それ以前にも、既に、自身の意思によってロシア皇帝に従っていた
    キルギス人も居た。 それにより、更に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、
    キルギス人の牧草地は、彼らのものとなった。 その結果、キルギス人は、
    牧畜のかたわら、耕作も余儀なくされた。

    12044391be

    【反ロシア抵抗運動から独立へ】
    1916年に起こった反ロシア抵抗運動は、全トルキスタンに広がり、キルギスも
    それに加わった。 1917年の革命後、キルギスは、『トルキスタン自治ソビエト
    社会主義共和国』の一部となり、この共和国は、長い抗争の末、最終的には、
    ボリシェビキが治めることとなった。

    トルキスタンの行政区分は、何度も変えられた。 1926年『キルギス自治共和国』が
    ロシア共和国内に設立され、1936年には、『キルギス・ソビエト社会主義共和国』
    として連邦構成国となった。 その後、住民たちの激しい抵抗にも関わらず、
    農業の集団化が強行された。

    キルギス語は、この時代まで、文字を持っていなかったが、初めにラテン文字、
    そして、1940年からは、キリル文字が取り入れられた。 ロシア以外の全ての
    共和国にとって、ロシアの党幹部は、独裁者以外の何者でもなかった。 1980年代
    後半、ようやく民族運動が実を結び始め、1990年12月15日、キルギスタンとして
    主権を宣言、翌年8月31日には独立を果たした。 そして、同年12月21日には、
    独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

    afdgfg

    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

    dfjsksifja1

    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ