多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

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    タグ:ソ連

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    ロシア軍が原発を攻撃?
    2022年3月4日午前2時頃、ウクライナ南東部にある欧州最大のザポリージャ原発
    火災が発生し、「ロシア軍が原発に砲撃を加えた」との衝撃的なニュースが
    世界を駆け巡った。 ウクライナのドミトロ・クレバ外相は、ロシア軍が
    ザポリージャ原発に向けて「全方位から砲撃している」とした。 

    ウクライナ当局によると、その日の午後には同原発はロシア軍によって制圧されたと
    なっているが、その後、この原発からの危機的な情報は一切入っていない。 一方、
    イギリスのロイター紙は、「ウクライナ軍による攻撃」とし、ウクライナを
    全面的に非難した。



    ソ連時代の原発
    この原発は元々、ソ連時代の1980年ごろから建設が開始され、1985年~1996年に
    掛けて、順次稼働が始まった原発であるため、1号機~5号機までは、ロシアの
    援助により建設されたことになるのだが、実は、この原発への攻撃は、ウクライナの
    工作員がロシア軍の服を着て火を放ったことが、その後の調査で明らかになって
    いるが、日本の偏向報道は、その事実を一切報道しなかったばかりか、訂正すら
    しなかった。

    ロシア軍はチェルノブイリ原発も既に鎮圧
    ロシア軍は、ザポリージャ原発の他にも、1986年4月に大規模事故を引き起こした
    チェルノブイリ原発も既に制圧しているが、そちらでも特に何の問題も起きていない
    どころか、慢性的な財政難により、全く何もしていないウクライナ政府がこのまま
    大規模原発を管理出来るとも思えないため、元々の建設者であるロシア軍がこれらの
    原発を守ってくれた方が、より安全と言える。

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    虚偽の報道を行った場合の刑罰
    ロシア議会では、「虚偽の報道を行った場合は禁錮刑」という法案が可決され
    たため、これまでは、数々のロシアに対する偏向報道を行って来たロイターも
    いよいよ本当のことを言わざるを得なくなった模様。

    世界中のメディアが、虚偽の報道が出来なくなれば、ロシア軍やプーチン大統領が
    行っているウクライナの極右勢力のネオナチを狙い撃ちした「特別軍事作戦」が
    正しく世界へ報道される日がやって来るかも知れない。

    いずれにしても、一切何も考えない「脳死」の状態でウクライナを一方的に
    支持すべきではない。

    ウクライナ反戦デモにはためく「ネオナチ」の旗
    971094981

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    ウクライナはソ連の優等生
    ウクライナは、ソ連時代までは、温暖な気候を利用した工業化と農業が盛んな
    地方(ロシア語で「地方はクライと言う」)で、ソ連国内では、ロシア、
    ベラルーシと並び、「スラブの3大国」「ソ連の優等生」と呼ばれる程非常に
    発展した国であったが、1991年12月にソ連が崩壊、その後は度重なる経済危機、
    政治クーデター等により、国内はすっかりと荒廃した。 旧ソ連邦構成国家の
    中でも、ソ連時代と比較して発展どころか、後退した国は、このウクライナと
    グルジア(ジョージア)のみ。

    ウクライナ言語地図
    赤がロシア語、オレンジがロシア語とウクライナ語併用、黄色がウクライナ語

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    ウクライナ系アメリカ人とは?
    ソ連邦崩壊後のロシアも状況は同じどころか、ソ連からの独立時に旧ソ連邦が残した
    天文学的な負債をほぼ1国だけで背負ったため、状況的には、ウクライナなどよりも
    遥かに酷かった。 ウクライナは、国内政治の腐敗を長年放置し、そこをアメリカに
    よって国ごと乗っ取られた格好だが、北米へのウクライナからの移民は、1600年代
    初頭から開始されたものの、大規模な移住は、1880年代に入ってからであった。
    ソ連邦崩壊の後、1990年代初頭にもユダヤ人やプロテスタントを中心に、大挙して
    アメリカへと渡って行ったが、大都市に移住するケースが多く、アメリカやカナダ
    国内では、ウクライナ系の少数民族集団を形成しているが、特にウクライナ系住民が
    多いカナダを経由してアメリカへと入国したウクライナ系アメリカ人が非常に多い。

    2000年にアメリカ合衆国が行った国勢調査によると、ウクライナ系アメリカ人が
    最も多い都市圏はニューヨーク(16万人)、フィラデルフィア(6万人)、
    シカゴ(4万6000人)、ロサンゼルス(3万4000人)、デトロイト(3万3000人)、
    クリーブランド(2万6000人)、インディアナポリス(1万9000人)となっている。
    これらのウクライナ系アメリカ人は、元々ウクライナ人であるため、ウクライナ人と
    顔が全く同じであり、当然、ウクライナ語も喋れるため、今回のウクライナ危機でも
    大いに利用された可能性がある。 尚、これらのウクライナ系アメリカ人は、既に
    3世や4世の世代になっているが、その間に「過去の恨み」が増大しており、ロシアに
    対する怨念は並々ならぬものがある。 尚、ウクライナ議会では、これらの
    ウクライナ系アメリカ人がウクライナ国籍取得後にかなり起用されており、さながら
    アメリカの傀儡政権と言ったところ。

    ウクライナ分裂予想図
    ●東部と南部(クリミア、ドンバス、スラビツカ・ウクライナ)がロシア
    ●南部(ブコビナ)がルーマニア
    ●西部(ガリツィア)がポーランド
    ●南西部(カルパチア)がスロヴァキア
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    ウクライナは、ウクライナ人の意思には関係なく、ロシア革命時に重要な役割を
    果たしたボリシェヴィキによって造られた人工国家であるが、第二次世界大戦の
    結果、欧州の国境は大きく様変わりし、ポーランド、スロバキア、ルーマニア等、
    様々な地域が統合された結果生じた人工国家である。 そもそも、ウクライナは、
    西部、中部、南東部と大きく文化的にも分かれており、東部ではロシア語が
    圧倒的に優勢であるものの、西部ではポーランド時代の影響が色濃いため、
    ウクライナ語が普及している。 経済的に見ても、東部では主に工業、西部では
    主に農業が盛んとなっている。

    現在のキエフ政権は、中部と西部が中心となっており、特に、元々ポーランド領で
    あった西部(ガリツィア)がウクライナの唯一のイデオロギーとされている。
    住民らの基本的な物の考え方も親欧的とされている中部&西部、並びに、親露的な
    東部とでは全く折り合わず、1つの国家とされながらも、実際は全くの別国家で
    ある。

    ウクライナでは近年、10代~30代前半を中心とした「ネオナチ」と呼ばれる
    若年層による国粋主義者が台頭しているが、ウクライナのファシストに若年層が
    大幅に多いのは、ソ連邦崩壊から30年しか経過しておらず、ソ連時代の教育とは
    全く異なる教育を受けた世代が台頭して来たためである。 但し、この教育は、
    ソ連時代のファシストであるステパン・バンデラを担ぎ出した洗脳教育となって
    おり、ウクライナにおける若い世代の大幅な劣化が叫ばれている。

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    ベラルーシでは、2020年8月9日の大統領選で現職であるアレクサンドル・
    ルカシェンコ(67)氏の得票率80%での圧勝が発表されたが、民衆は選挙結果が
    操作されたとし、その後、抗議デモがベラルーシ全土に広がった。 同国の人口は
    約950万、200万弱の首都ミンスクで、日曜日ごとに数万から十数万人のデモが
    数カ月間も続いた。

    ミンスクでのデモの様子


    【反政府デモの経緯】出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)
    2020年
    大統領選挙が行われた翌8月10日、6選を決めたルカシェンコに対して抗議する
    市民と治安維持部隊が衝突し、1人が死亡、多数の市民が拘束された。
    反政府デモは全国的に広がり、10月26日には大規模なゼネストが行われた。

    11月28日には、ルカシェンコは即時辞任を否定した上で、代替案として、改憲を
    提案し、新憲法が成立したあかつきには退任して権限を移譲することを表明した。

    12月17日には対立候補であったスヴャトラーナ・チハノスカヤに人権活動を讃える
    サハロフ賞が授与され、国外に向けてベラルーシの民主化への支援を求めたが、
    2021年2月11日、ルカシェンコが指導する国民会議が開かれ、反体制派が求める
    民主化に応じない姿勢を見せた。

    実は結構温和な性格のルカシェンコ氏
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    2021年
    3月25日、チハノフスカヤが、自由の日にルカシェンコへの退陣を求める抗議
    活動を改めて行うことを呼びかけた。 当日、ミンスクの街頭を少数の集団が
    行進したが、200人以上の市民が逮捕された。 ベラルーシ当局はこれらの抗議
    活動を何とか抑え込み、2021年現在ベラルーシ国内においては大規模な不服従
    行動は起きていない。

    5月23日、ベラルーシ領空を飛行していた旅客機をミンスクの空港に着陸させ、
    搭乗していた反体制派メディア「ネフタ」の共同創設者であるロマン・
    プラタセヴィチが拘束された。 翌24日、ルカシェンコはデモに対する報道を
    禁止する法律に署名した。

    8月1日、東京オリンピックでベラルーシ代表として出場していたクリスチーナ・
    ツィマノフスカヤが、ベラルーシのSNS「テレグラム」で自国のコーチ陣を
    批判したとして帰国命令が出たことから、オーストリアへの亡命を希望し、
    最終的に4日、人道ビザを発給したポーランドへと亡命した。

    8月3日、隣国ウクライナでベラルーシからの脱出を支援してきたヴィタリー・
    シショフが首吊り状態で発見された。

    11月8日、EUの経済制裁に対抗する形でベラルーシの隣国であるポーランドとの
    国境に中近東系の移民を送り込む問題が発生した。

    12月14日、ベラルーシの裁判所は、シャルヘイ・チハノフスキーを含む
    反政府指導者6人に対し10年以上の禁固刑を言い渡した。

    政府支持派と反政府派が盛んにデモを行なった

    【西側による情報操作】
    同国史上、過去に類を見ない異例の事態となり、政権のデモ弾圧も激しさを増し、
    11月には治安部隊による全国の日曜デモで拘束者が1日千人を超える日が続いた。
    西側メディアは盛んにルカシェンコ大統領を「ヨーロッパ最後の独裁者」として
    非難し、デモを取材するジャーナリストも標的にされ、多数拘束された。

    「英雄の行進」と名付けられたデモには数万人が参加したが、実は、このデモは、
    反政府派によるデモだけではなく、政府支持派のデモも頻繁に行なわれたのだが、
    その様子を西側のメディアは一切報道しなかった。 政府支持派と反政府派の
    行進は、すぐ隣りでのすれ違いも多々あったが、特に暴動は起きなかった。

    政府支持派と反政府派の見分け方は非常に簡単で、それぞれ支持する側の国旗を
    手に、政府支持派は口々に「За Беларусь!(ベラルーシ賛成)」「За Батьку!
    バーチカ賛成)」と叫び、また、手にはベラルーシ国旗を持ち、行進した。

    一方の反政府派は、口々に「Уходи!(出て行け)」と叫び、白赤白の旧ベラルーシ
    人民共和国の国旗を手に行進した。 赤と白は、伝統的にリトアニア大公国と
    ポーランド・リトアニア共和国の国家の紋章に使われた色である。

    日本では、ルカシェンコ大統領は、反政府派を認めないと報道されたが、現地の
    ベラルーシのロシア語放送を見る限り、ルカシェンコ大統領は、反政府派の
    デモを禁止などはしておらず、むしろ、容認したため、その後、デモは鎮静化した。

    ※「バーチカ」は元々は「父親」と言う意味だが、ここでは「ルカシェンコ」の意味

    現在のベラルーシの国旗         旧ベラルーシ人民共和国の国旗
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    【ヨーロッパ最後の独裁者】
    日本をはじめ、西側メディアがこぞって使用した「ヨーロッパ最後の独裁者」と言う
    言葉だが、これは、アメリカ43代目大統領のジョージ・ブッシュJrが、当時用いた
    表現と全く同じであり、かつ、1度しか口にしなかったものだが、日本では
    ベラルーシ大統領を報じる際には、必ずと言って良いぐらいに「枕詞」として
    必ず用いられているが、アメリカは、敵対する国、または、従わない国に対して、
    常に介入、制裁、戦争を仕掛けているため、本当の独裁者はどちらなのかと
    言いたくなる。

    最近のニュースは、アメリカのバイアスが必ず入っているため、しっかりと歴史を
    学び、何でも鵜呑みにせずに、自分の頭で考え、ウソと真実を見極める知識を
    持つべし。

    ミンスクでの大規模デモの様子
    2020FF8001

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    旧ソ連邦を構成していたモルドバ共和国で2020年11月15日、任期満了に伴う
    大統領選の決選投票が行われ、親欧州派の野党「行動と連帯」のマイア・サンドゥ
    党首(48)が暫定結果で57・75%の票を獲得し、初当選した。

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    親露派の現職ドドン氏(45)の得票率は42・25%で、投票率は52・78%。
    同国で女性が大統領に就任するのは初めて。 ドドン氏は選挙で不正があった
    として、抗議運動を呼びかける可能性がある。

    11月1日の大統領選では、どの候補も過半数の票を獲得できず、1位のサンドゥ氏と
    2位のドドン氏が決選投票に進んだ。 モルドバは首相権限が強く、大統領の
    決定には議会などの承認が必要。 議会はドドン氏の与党・社会党が第1党だが、
    単独過半数を得ておらず、解散総選挙の可能性も指摘されている。

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    タス通信によると、サンドゥ氏は「経済を立て直すために国を団結させる」と
    勝利宣言した。 サンドゥ氏は教育相などを経て、2019年6月に社会党との
    連立内閣で首相に就任したが、首相権限の強化案を巡り議会と対立して同11月に
    退任し、ドドン政権の腐敗などを批判していた。 欧州連合(EU)との
    関係強化を訴えており、対露関係が悪化する可能性がある。

    【沿ドニエストル共和国】
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    モルドバ共和国内のドニエストル川沿いには、ロシア寄りの未承認国家である
    沿ドニエストル共和国があり、実質モルドバの支配を受けていないため、
    ロシアとの関係が悪化すると、地政学的な危険性が増す可能性がある。

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    ソ連崩壊と新生ロシア
    ロシアの歌謡会は、過去に2回、大きな革命的な変革を経て、現在の形になった
    のだが、ロシアの現代ポップスをまともに語れる人間など日本ではほぼ皆無で
    あるため、この辺でその簡単な歴史をまとめておきませう。



    1986年のロック解禁とソビエト・ロック
    それ以前のソ連では、ロックは完全に禁止で、演奏どころか、聞くのも当然禁止。
    当時、国民は、ビートルズのカセットテープを勝手にダビングして、皆で回し
    聴きをしていた。 その後、ロックが解禁になって、一番最初にロックを
    歌ったのは、確か、ソフィア・ロタルやウラジーミル・クジミンの辺りだったと
    思う。 ソ連の音楽が本当の意味で始まったのは、この時からで、それ以前は、
    歌謡曲しかなかった。

    ウラジーミル・クジミン (Владимир Кузьмин)


    ソフィア・ロタル(София Ротару)


    キノー/ヴィクトル・ツォイ(КИНО - Виктор ЦОЙ)


    ソ連時代、特に、スターリンの時代は、粛清とかも普通に行われており、80年代は、
    流石にそこまでは酷くはなかったが、ソ連末期時代は、壁の中にマイクが仕掛けて
    あったりもしたため、ロックを聞いていることが周囲にバレると、秘密裏に処理
    (強制労働、シベリア送り等)されてしまうこともあったものの、ロシア人は
    仲間意識が非常に強いため、皆見てみぬ振りをしていた。 その昔聞いた話では、
    スターリンの時代は、ドイツ語の辞書を所持していただけで、シベリア送りと
    なって処刑されたお方とかもいたとか。 1991年12月末のソ連崩壊後、ロシアは
    長期に渡り経済的にどん底の時代が長く続いたため、音楽にも大きな変化が
    現れたのは、もう少し先のお話。 尚、ソ連は、国民100%が国家公務員であった
    ため、歌手やミュージシャンも全員国家公務員であった。

     【1999年から人気歌手が続々とデビュー】
    この時代にデビューをしたか歌手の中で、最も代表的なのがt.A.T.uで、この
    頃からロシアの音楽は革命的な大変化を遂げた。 それ以前のロシアの音楽は、
    聞いていてダサい音楽しかなく、ハッキリ言って、耳障りな音楽ばかりだった
    のだが、1997年の経済危機を乗り越えた辺りから、国内の経済が上向き始めた
    ため、音楽にも余裕が出て来た模様。 現在、ロシアの歌謡界で活躍をしている
    若手~中堅どころの歌手は、この前後にデビューを果たしている。

    t.A.T.u


    ヂアナ / イリーナ・ネルソン(Диана / Ирина Нельсон)


    ソ連邦内では、「メロージヤ(Мелодия)」と言う唯一の国営レコード会社が
    存在しており、ソ連国内で販売されるレコードは全て「メロージヤ」から
    発売されていた。 尚、ソ連崩壊直後、新生ロシアでは、一応CDは、発売
    されていたが、当時の平均的な月給が日本円に換算して3,000~6,000円程度で
    あったのに対して、CDは贅沢品として扱われていたため、1枚約3,500円程度も
    していた時代が長かった。

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    ビシケク(フルンゼ)
    ビシケク散策は続きます。 中心部にはソ連時代の建築物が数多く残っているため、
    ソ連を感じたいのであれば、ビシケクはうってつけ。 大型で大げさなデザインは、
    ソ連式共産主義の象徴。 記念碑が妙に多いのもソ連の特徴で、街の至るところに、
    この様な記念碑が建っています。
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    ビシケク中心部を歩いていたところ、大学があったため、中を見に入りました。
    最近は、ロシアの大学とかでも、入り口にゲートが据え付けられており、なかなか
    中まで入るのは難しいものの、この大学には特に何もなかったため、すんなり中へ
    入れました。 地球の歩き方を持たずに適当に散策をしたため、恐らく、キルギス
    国立大学ではないかと思われます。

    ビシケクは緑の多い街で、市中心部でもこんなに緑があります。 晴れているので、
    暖かいように見えますが、この日の気温は5月の初めなのに、何と7度。 ビシケクは
    結構標高が高いため、涼しいを通り越して結構寒い。 よって、ゲストハウスの
    オーナーから、ジャージと傘を借りて出掛けました。

    【ビシケク】
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    楽しかったビシケクともこれでお別れ。 市内から約30キロ離れたビシケク空港に
    向かいます。 キルギスにもYandexタクシーがあるため、オーナーにタクシーを
    呼んで貰いましたが、このゲストハウスでは、色々と話し込んだため、非常に
    お名残り惜しい。 ビシケクに行ったら、またこのゲストハウスに絶対に
    泊まります。

    こちらは、ビシケク空港にあったキルギス土産の数々。 このモンゴルのゲルの様な
    物は、ロシア語では「ユールタ」と言うのだが、学生時代に覚えた単語なのに、
    意外と忘れていませんでした。

    【ビシケク】
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    ビシケク・マナス国際空港から、カザフスタンのエア・アスタナでアルマ・アタへと
    向かいます。 キルギス人に言わせると、カザフスタンは歴史を勝手に書き換えて
    いるそうで、元々は、どちらもキルギスだったとか。 中央アジアの歴史は、
    スターリンによって、かなりの資料を処分されてしまったため、明らかになって
    いない部分が多いものの、中央アジアの第一人者は日本には存在しないため、
    これから中央アジアを研究すれば、誰でも第一人者になれなくもないw マナス
    国際空港の空港コードは、旧名のFRUのまま残っております。

    【ビシケク・マナス国際空港】
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    首都 ビシケク
    ビシケク空港に到着後、そのままタクシーで約30キロ離れたホステル
    Mukarama-Apa へと向かった。 キルギスはカザフスタン程では
    ないものの、国民全員がロシア語を話せるため、旅行が非常に楽♪
    こちらのホステルでは、ロシア在住のキルギス人と2日合わせて合計で
    6時間も延々とお話をしておりました。 ビシケクは、意外と高地に
    位置しているため、外に出ると結構寒いため、ゲストハウスのオーナーから
    トレーナーと傘を借りてビシケクの中心部へと出掛けました。

    ゲストハウス Mukarama-Apa
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    ロシア語圏では、お茶を飲みながら、延々とお話をするのが普通なので、
    ロシア語を話せると非常に便利。 尚、こちらのホステルでは、度々日本人も
    泊まりに来るとのことで、そのお手紙を見せてもらいました。 かなり親日家の
    オーナーで、日本人にもっときて欲しいと申しておりました。

    料理を作って貰ったり、お世話をして貰ったのは、こちらの娘さんかと思いきや、
    翌日オーナーから聞いた話では、ロシアからやって来たお客さまで、体調が
    悪いので、手伝ってもらっただけと申しておりました。 旧ソ連邦内では、
    これまで生活が非常に厳しかったため、皆助け合いの精神だけは、絶対に
    忘れていないのである。

    【ビシケク】
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    ビシケクのゲストハウスから歩くこと30分。 市中心部の政府施設が集中している
    場所までやって来た。 キルギス人は人種的に元々はコーカソイドだったのだが、
    現在のロシア領のトゥヴァ付近から大量の移住者がやって来て、完全に
    モンゴロイド化した民族であるため、見た目的に非常に日本人に似ています。
    一説によれば、「肉が好きな者はこの地に残りキルギス人となり、魚が好きな者は
    東に移動して日本人になった」とまで言われている程、キルギス人は、日本に
    対しては親日意識を持っている。

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    ビシケクの中心地では、巨大なキルギスの国旗を守るため、衛兵がその麓で番を
    していた。 恐らく、定時になると、ロシアの衛兵交代と同じく、衛兵が交代する
    のだと思う。 この付近が政府機関が集中している地域で、キルギスの心臓部と
    言える。

    【ビシケク中心部】
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    トルキスタン (Turkestan / Turkistan) とは、チュルク系民族が居住する中央アジアの
    地域を指す歴史的な地域名称であり、現在のカザフスタン、ウズベキスタン、
    キルギス、タジキスタン、トゥルクメニスタンと中国にまたがっている地域を指す。
    人口順では、ウズベキスタン、中国、カザフスタン、タジキスタン、キルギス、
    トゥルクメニスタンの順にトルキスタン人の人口の割合が多くなっており、中国の
    新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」と呼ぶこともある。

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    ビシケクのソ連時代までの旧名は「フルンゼ」であるため、今でもところどころに、
    このフルンゼの文字が残っている。 ミハイル・フルンゼとは、ソビエト連邦の
    政治家で、ロシア革命前後におけるボリシェヴィキの指導者の一人。 ソ連陸海軍
    人民委員および共和国革命軍事会議議長を務めた人物。 旧ソ連では、革命家の
    名前を採った都市名が多かったのだが、ビシケクもその1つ。 ビシケクという
    都市名は、キルギスの国民酒である馬乳酒を作る時の撹拌器の名前に由来する。

    ビシケク中心部にある遊園地でお腹が空いたため、このハンバーガーを食べたが、
    店員が余りロシア語が上手ではなく、60ソムのことを「600ソムです」と言って
    来たため、「60でしょ?」と返したところ、「ああそうだ」と言って来ましたw
    挙句の果てに、おつりが間違っていたので、突っ込みを入れておきましたww

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    タシケントは、旧ソ連邦内でも第4の都市であったのだが、現在のタシケントは
    旧ソ連時代に拡大したエリアが多く、歴史的建築物は多くは残っていない。
    このため、市内には、余り見る物がないため、とりあえず、地下鉄に乗って街の
    北西部にある昔のタシケントの雰囲気が残るエリアにあるバザールを見に行く
    ことにした。 空港そばにあるホステルからタシケント駅までは、約2キロ、
    徒歩30分の距離。 その前に、無料のホステルの朝食堪能♪ カロリー高めの
    日本の食事と比較しても、ウズベキスタンの食事は素朴なのが良く分かる。

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    とりあえず、タシケント鉄道駅に到着。 1年前の地球の歩き方を持って来て
    しまったため、「地下鉄内では撮影禁止」との記載があったのだが、気軽に
    写真をバシャバシャ撮っても特に何も言われないため、おかしいと思っていた
    ところ、撮影禁止は昨年解除されたとか。 例え何か言われたとしても、
    こちらは、ロシア語で色々と言い返してやるので、特に問題はないのだがw

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    【タシケントの地下鉄】
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    地下鉄ウズベキスタン線のチョルスー駅で降りて、旧市街最大のバザールである
    チョルスー・バザールへと向かいます。 このバザールは、中央アジアでも
    最大規模で、バザール内はとにかく広大。 日用品からお土産、家具まで何でも
    揃うのが特徴、バザールが最も賑わうのは午前中なので、なるべく早めに訪れるのが
    おすすめ。 バザール内は、2年ほど前までは撮影禁止であったが、禁止が解除
    された。

    チョルスー・バザール
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    【チョルスー・バザール】
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    再度、タシケント鉄道駅からタシケント空港そばにあるホステルまで徒歩で移動し、
    荷物を持って、再度徒歩でタシケント空港まで移動しました。 タクシーで
    移動してもさほど料金は高くはないのだが、ホステルのおばさんに空港までは
    歩いても15分程度であるため、タクシーを呼ぶよりも、歩いた方が早いと言われた
    ため、景色を楽しみながら、歩いて行くことにした。 ホステル内では、全員
    ロシア語が通じたが、1名だけ、なぜか英語で話したがる従業員がいたため、
    その人とだけは英語で話した。

    次の目的地は、カザフスタンのアルマトイ経由でキルギスのビシケクを目指します。

    【タシケント空港】

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    首都ドゥシャンベ
    地球の歩き方にドゥシャンベは、「歩いて回れるコンパクトな街」との
    記載があったため、街を歩いて見ることにした。 ドシャンベのメイン
    ストリートは、個人商店が中心であるため、それなりに活気がある。
    タジキスタンの首都と言っても、人口は68万人程度しかないため、
    歩いて街を全て見て回ることが出来る。

    ドゥシャンベ駅
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    【ドゥシャンベ】
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    タジキスタンでは、持参したWiFiルーターの対応国だったのだが、電波が全く
    入らず、しかも、SNSは全てブロックされているため、日本であらかじめ
    インストールしていたVPNを初めて使うこととなった。

    ドゥシャンベは、実はスーツを着た人が多いため、非常にビジネスチックな
    街であった。 海外からのビジネス客も、中国人ばかりで、日本人は1人たり
    とも見掛けなかった。 緑の多いドゥシャンベの街並みは、この場所で
    内戦があったことなど一切感じさせない程穏やかであった。

    ソ連の面影
    旧ソ連内では、自動販売機「ガゾィローフカ」が当たり前の様にあったのだが、
    この自販機は、コップを洗って使い回すというスタイルであるため、通常は、
    マイコップを持ち歩いて使うのだが、ロシアでは、既に完全に姿を消した
    この自販機がタジキスタンでは、まだ現役である事自体、驚きであった。
    タジキスタンでは、この他にも、アイスクリームの「スタカンチク」も普通に
    販売している。

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    ドゥシャンベの街は、想像していたよりも暗い感じはなく、かなり開放的。
    但し、中央アジアは、どこも独裁色が強く、タジキスタンでも、至るところに
    大統領の肖像画が飾られてた。 中心街は、重厚なソ連式の建物が連なって
    いるため、旧ソ連邦内で最もソ連を感じさせる国かも知れない。

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    海南航空で北京からアルマアタへと向かいます。 北京ーアルマアタの
    フライト時間は、約5時間半で、3時間の時差があります。

    カザフスタンのアルマアタは、現在は遷都され、カザフ語のアルマトイへと
    改名されましたが、ロシア語では、今でもアルマアタと呼ばれています。
    アルマアタの意味は「りんごの父親」で、要約すると、「りんごの里」と言う
    意味になります。

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    【アルマアタ】
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    カザフスタン共和国は、旧ソ連邦加盟国で、独立国家共同体にも加盟しており、
    ロシアとは、最も友好的な同盟国として、様々な経済協力や関税協定を結んで
    います。 中央アジア諸国は、2018度から、タジキスタンとトゥルクメニスタンを
    除き、ビザが免除となりました。 独立国家共同体内でも、ベラルーシと
    並んで、最もロシア寄りの国であるため、カザフ人の人口の約60%強がロシア語
    ネイティブです。 ロシア語しか喋れない、ロシア語も喋れる、カザフ語でも
    喋れる、カザフ語しか喋れないの合計4パターンがおりますが、ロシア語理解率は
    100%であるため、カザフでは、ロシア語で話し掛けて何ら問題はありません。

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    尚、この日は、アルマアタ空港に到着したのが午後11時半過ぎで、そのまま宿の方に
    向かったところ、既に施設自体が閉まっていたため、急遽、Booking.comで他の
    施設を予約しました。 アルマアタ中心部にあるこのホステルは24時間営業で、
    1泊600円程度でした。 受付のおねえさんはロシア語ネイティブだったので、
    最後に、記念撮影をお願いしますと言われたため、とりあえず、写真に
    おさまりましたw

    【アルマアタ】
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    アルマアタでホステルに到着したのは午前0時30分過ぎであったものの、日本とは
    4時間の時差があるため、現地時間午前6時にはもう目が覚めました。 よって、
    早朝からデニス・テン選手の殺害現場へと向かいます。 元々、予約を入れていた
    ホステルの方が、その現場には近かったものの、到着時に既に夜中であったため、
    閉鎖されており、約1.5km離れた別の施設に泊まりました。 よって、その施設に
    泊まっていなければ、これらの景色は見れなかった事になります。

    ソ連からの独立後は、路上の表示も、カザフ語にみになった場所が多く、パッと見
    では、何を書いてあるのかが分かりません。。 ロシア語も併記してくれないと、
    ロシア語しか分からない人も多いため、困ると思います。。

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    モスクワの歩行者天国
    モスクワで唯一の歩行者天国、アルバート通り。 ここを訪れた時は、ロシアの
    クリスマスの時期であったため、様々なデコレーションが飾られていました。
    尚、現在モスクワには、現在、約700店舗の和食レストランがあると言われて
    いますが、そのうち、最も和食レストランが集中している場所が、このアルバート
    通りです。

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    アルバート通りから、モスクワの中心地である赤の広場までは、さほど遠く
    ないため、歩いて行く事にしました。 この日はマイナス13度でしたが、
    クリスマスのため、街が非常に華やいでいました。 ソ連の崩壊、経済危機、
    物不足を乗り越えたモスクワは、ソ連時代とは全く異なる街へと大変貌を
    遂げました。 社会体制を完全に覆してここまで経済発展を遂げたのは、
    世界でもモスクワだけでしょう。

    【アルバート通り】
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    赤の広場
    ここからがモスクワ観光のハイライト、赤の広場です。 赤の広場は、政治の
    中心地であるばかりではなく、商業の中心地でもあります。 クレムリン宮殿
    すぐ横にある「無名戦士の墓」には、永遠の炎と共にロシア語で「君の名は
    無名だが、君の志は永久に消えない」と記されています。

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    クリスマスの赤の広場は、至るところでイルミネーションが輝いていましたが、
    ソ連時代には、こんな風景を見れる様になるなど、夢にも思いませんでした。
    ソ連時代と比べると、建物は完全に同じままなのだが、社会主義から資本主義へと
    転換を図ったため、街の風景が一変しました。 社会主義時代は、イルミネーション
    などなかったため、夜になると真っ暗になっていた赤の広場も、時の流れと共に、
    今では、こんなに活気付いています。 尚、「赤の広場」の名前の由来は、
    スラブ語で「美しい」を表す形容詞が、ロシア語では「赤い」と意味するものへと
    変化したため、こうなりました。

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    赤の広場は、冬の間は、市民のためのスケートリンクになります。 荷物さえ
    なければ、このスケートリンクで滑りたかったものの、気温がマイナス13度で
    あったのにも関わらず、こんなにも大勢の人々でごった返していました。
    簡易遊園地も設置され、クリスマス気分を盛り上げていました。

    【赤の広場】
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    聖ワシリー大聖堂
    赤の広場にある聖ワシリー大聖堂(ポルコフルキー大聖堂)とその前にある像は、
    1612 年にポーランド軍に勝利したことを記念して、建てられたミーニンと
    ポジャーススキーの像。 王子であったポジャルスキーと肉屋のミーニンは、
    攻め入るポーランドとの戦いにおいて、ロシアの勝利に尽力しました。

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    1986年4月26日1時23分に発生したチェルノブイリ原発事故により、
    プルトニウム(半減期約2万4000年)、ヨウ素131(半減期約8日)、
    セシウム134(半減期約2 年)、セシウム137(半減期約30年)、
    ストロンチウム90(半減期約28年)等の大量の放射性物質が大気中に
    放出された。  大気放出された放射線は、数時間後にスウェーデンや
    フィンランドまで到達し、翌日の朝までにはイタリア北部や
    アイルランドまで到達した。

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    最も広範囲に汚染された国々は、原発が立地するウクライナ(41,750平方
    キロメートル)、ベラルーシ(46,600平方キロメートル)、ヨーロッパ・
    ロシアの一部(57,100平方キロメートル)となっており、約9万人の労働者の
    力を借りて『石棺』が建設されたのは、1986年6月から11月までの206日間
    であった。

    1986年11月30日、国家委員会の決定により、チェルノブイリ原子力発電所
    4号炉の核燃料が抜き取られた。 現在、この強制避難区域内の特殊企業で
    働いている従業員は約6,500名おり、更に、約2,500名がチェルノブイリ原発で
    直接働いている。 原発事故後の11日間で、述べ10万人以上が避難をし、
    1986年度中には、原発付近から合計約115,000人が避難、1986年以降、
    ベラルーシ、ロシア、ウクライナからは合計で約22万人が移住をした。
    チェルノブイリ原発から大気中に放出された放射性物質は、北半球全体で
    測定された。

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    放射線による人体への影響は、予想されたものとは異なっており、被災地
    からの強制移住によって、家族が崩壊したり、失を失ったり、うつ病および
    ストレス関連疾患が激増した。 放射線による汚染地域に住む住民らのうち、
    国際的に認められた白血病の発生率が増加したという証拠はまだない。
    成長過程におけるガンの発生率に関しても、統計的に確かな根拠はなく、
    奇形児の誕生もなかった。 ウクライナ西部の慈善団体が寄付を集めるために
    使用していた先天的に障害を持った乳児のほとんどの写真は、チェルノブイリとは
    何の関係もない病気の写真であった。

    原発事故後は、今後奇形児が生まれるという噂により、ウクライナや
    ベラルーシでは中絶が激増した。 放射線の影響により数千人が死亡した、
    あるいは、深刻な病気を抱えている人が350万人もいるとも言われたが、
    実際に原発事故で死亡したのは134名であり、その死亡理由は急性放射線症
    であった。 このうち、事故直後の2ヶ月間で28名が死亡した。

    最大の放射能汚染を受けたのは、事故当時の天候から、チェルノブイリ原子力
    発電所のすぐ北に位置するベラルーシであり、放射性希ガスを除く全放出量の
    およそ70%が同国に落下・沈着したと推定されている。 セシウム137の
    濃度が1平方メートル当り3万7000ベクレル(旧単位で1平方キロメートル当り
    1キュリー)以上の汚染地域がベラルーシでは全国土面積の23%に達した。
    これに対しウクライナでは5%、ロシアでは0.6%であった。 ベラルーシの
    汚染地域に居住する人口は220万人で、同国人口のおよそ5分の1に達した。

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    1989年に公式に発表された汚染地図は、三つの共和国の約2万5000平方キロ
    メートル(日本の四国の面積が約1万8000平方キロメートル)2,225居住地区が、
    1平方メートル当り18万5,000ベクレルを超えるセシウム137の地表汚染のある
    ことを示している。  これらの地域では外部照射に基づく被曝線量だけでも
    年間4.38ミリシーベルトに達し、そこに住み続けた場合は、医学的検診が必要な
    レベルに達することになる。

    2005年までのデーターによると、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ国内では、
    事故により被爆したとされる小児や青少年のうち、6,000件以上が甲状腺ガン
    として登録されており、今後も数値の増加が予想される。 これらのガン
    発症例の多くは、事故直後の放射線被爆によって引き起こされた可能性が高いが、
    発症例の増加や事故20年後の人体への影響に関する医学的な根拠は今のところ
    解明されていない。 よって、放射線によるガンの発生率、死亡率、良性腫瘍等の
    増加率に関しては、科学的根拠がない。 白血病に関しては、発生率は増加して
    おらず、高濃度汚染地域に住んでいる国民は、放射線の影響により、日々被曝の
    可能性には直面しているが、国民の多くが重大な健康被害を被る可能性は低い。
    原発事故とは全く関係がない他の健康被害もチェルノブイリ原発事故の中には
    多数混在している。


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    【放射性物質の放出】
    チェルノブイリ原発事故は、定期メンテナンスのために原子炉を停止する際に、
    電源システムの実験を行っていた最中に発生した。 安全基準を無視して、
    監視システムの電源を切り、元々、設計ミスであった原子炉が不安定となった。
    急激に電力が増加したことにより、水蒸気爆発が発生し、原子炉本体に亀裂が
    発生し、炉心が破壊され、原子炉建屋が大規模損傷した。 その後、炉心から
    発生した火災により、10日間火災が続いた。 このような条件の下、大量の
    放射性物質が大気中に放出された。

    事故直後に建設された石棺の建設費は3億ドルとなっており、1992年から1998年
    までの間は、ロシアだけが連邦予算から30億ドルを支払っていた。 米国と
    西ヨーロッパ諸国は、これまでにウクライナにおける事故を処理するために
    8億ドル以上を費やした。 予測によると、ベラルーシでは、チェルノブイリ
    被災者に対する補償として、820億ドルを2015年までに費やす予定となっている。
    欧州復興開発銀行(ECB)は、チェルノブイリの影響を解消するために23億
    ユーロを費やす計画となっている。 過去10年間で、ウクライナはチェルノブイリ
    原発に対して、60億ドルを費やした。 キエフ政府によると、今後20年間で、
    更に50億を要するという。

    最も被害を最小に見積もった調査によれば、チェルノブイリ原発の事故処理を
    完了するためには、全世界で更に10億から12億ドルのコストが掛かると
    言われている。 

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    チェルノブイリ原発強制移住区域における事故と人命への影響
    チェルノブイリ原発事故の結果、総面積207.5千平方キロメートル、合計
    17カ国に渡る広大な土地が1Ci/km2(37 kBq/m2)以上のレベルでセシウム137に
    よって汚染された。 セシウム137による汚染は、ウクライナで37.63千平方
    キロメートル、ベラルーシで43.5千平方キロメートル、ロシアで59.3千平方
    キロメートルとなっている。 ロシアでは、19名がセシウム137により被爆した。
    最も汚染された地域は、ブリャンスク州(汚染地域11.8千平方キロメートル)、
    カルーガ州(4.9千平方キロメートル)、トゥーラ州(11.6万平方キロメートル)、
    オリョール州(8.9千平方キロメートル)となっている。

    1Ci/km2以上のレベルでのセシウム137により汚染された地域は、約6万平方
    キロメートルとなっており、この中には、旧ソ連邦以外のオーストリア、ドイツ、
    イタリア、英国、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー他が含まれており、
    西ヨーロッパ諸国全域が広域に渡って汚染された。 ロシア科学アカデミーに
    よると、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの国土の広範囲が5Ci/km2(185m2)
    以上の水準で汚染され、約52,000平方キロメートルの農地がセシウム137と
    ストロンチウム90に汚染されたが、それぞれの半減期は30年と28年となっている。

    事故直後に31名が死亡し、消火活動に参加した60万人が高線量の放射線により
    被爆した。 約840万人のベラルーシ、ウクライナ、ロシア国民が被爆し、
    そのうち約404,000人が移住した。 事故後は、放射線量が非常に高いため、
    原子力発電所の運転が停止された。 汚染された地域の除染と石棺建設の後、
    1986年10月1日には第1電源回路が、11月5日には第2電源回路が、そして、
    1987年12月4日には、第3第一電源回路が遮断された。 チェルノブイリ原子力
    発電所は、最終的には、2065年に完全に廃止される予定となっている。

    チェルノブイリ原発作業員とその家族が住む街、プリピャチ市民の避難は、
    4月27日14:00から始まった。 市民には「3日間」だけ街を離れると告げられたが、
    その後、この地に再び戻って来ることはなく、街は土で埋められた。 キエフと
    その他の地域から1,225台のバスが到着し、2台のディーゼル車が鉄道の駅に
    送られた。 この他にも、自宅に車を持っていた市民らは自力で避難をし、
    人口約5万人全員が3時間以内に避難を完了した。 5月上旬には、キエフ市内の
    全ての児童がピオネールキャンプ場へと連れて行かれたため、キエフ市内からは
    子供の姿が完全に消えた。

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    【健康に対する影響】
    チェルノブイリ原発事故の直後、放射線の影響により急性放射線障害が発生した。
    1986年4月26日早朝からの作業を行っていた600人の作業員のうち、134名は、
    高濃度の放射線(0.8-16グレイ)を浴びて急性放射線障害になった。 これらの
    うち、28名は事故発生直後の3ヶ月間に死亡し、残りの19名は、必ずしも放射線
    被ばくとは関連しておらず、様々な理由により、1987年から2004年の間に
    死亡した。 また、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の
    2008年度の報告書によると、事故後の作業員53万人の大部分は、1986年から
    1990年までの期間に、0.02 - 0.5 グレイの被曝をした。 これら作業員は、ガンや
    他の病気の発症等の可能性があるため、長期的に厳格な健康管理を行っている。

    放射線にさらされた青少年の間では甲状腺ガンの発生率が急激に増加したが、
    原発事故が原因でガンや白血病を発症したという明確な証拠はなく、放射線量は
    高かったものの、他にも時間を掛けた調査が必要で、これらの病気は、事故前
    にも被災地で観察されていたことにも留意すべきである。
    【現場責任者のその後】
    尚、原発の現場責任者であったブリュハーノフ所長、フォーミン技師長、
    ディアトロフ副技師長は、1986年8月に全ての役職を剥奪されて失脚し、安全
    規則違反で刑事裁判に掛けられ禁固10年を宣告、労働収容所に収監された。
    ブリュハーノフはこれに加えて、権力濫用の廉で更に5年の刑期を追加されている。

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