日露戦争のおける敗北で、ロシアの専制権力の時代錯誤と無能ぶりが明らかになり、
1905年、革命が起こった。 ニコライ2世は、10月詔書を出して、政治的自由を
認め、国会の開設を約束した。 1906年に憲法が発布され、立憲専制体制とでも
言うべき体制が始まった。 しかし、この体制は、うまく機能せず、ロシア帝国は
生まれ変わることが出来なかった。

1914年に始まった第一次世界大戦は、体制の解体を進め、ついに1917年3月、二月
革命が起こって帝政は打倒された。 この革命は、ペテルブルグの労働者と兵士の
革命であったが、別の面から見れば、モスクワのブルジョワジーがペテルブルグの
皇帝権力を倒した革命であるとも言える。 革命で生まれた臨時政府のバック
ボーンは、モスクワのブルジョワジーであった。 最初の臨時政府の商工相は、
モスクワの綿企業主コノヴァーロフであり、彼は最初のケレンスキー内閣でも、
副首相を務めた。

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ロシアの民衆は、戦争に反対していたが、臨時政府は戦争を続けなければなら
なかった。 対立の強まるところ、11月には、レーニン、トローツキーらのボ
リシェビキが臨時政府を打倒し、ソヴィエト権力を誕生させた。 ペテルブルグで
この革命が起こると、モスクワがその革命に反対の立場を取ったのは当然であった。
十月革命反対派の牙城は、赤の広場から目と鼻の先のモスクワ市会だった。

モスクワ軍管区司令官がクレムリンの十月革命派にクレムリンの明け渡しを求め、
武力衝突の末、十月革命反対派の部隊と士官学校生がクレムリンを占領した。
クレムリン、ホテル・メトロポーリ、モスクワ市会、軍管区司令部、ニキーツキエ
門等を拠点として、十月革命反対の軍が中心部を制圧した。 11月の第一週が
過ぎる頃、ペテルブルグから革命派の応援部隊が到着し、攻撃を加えた。 市会や
ホテル・メトロポーリが砲撃された。

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革命派が今度は最終通達を突き付け、クレムリンを明け渡さないと砲撃すると
通告した。 クレムリン砲撃の噂は、首都でも問題となり、教育人民委員会
ルナチャルスキーは、このような文化の破壊に耐えられないとして、人民委員会を
辞任した。 実際には、ホテル・メトロポーリは損害が大きかったが、クレムリンは
門の辺りに着弾し、聖堂に数発弾丸が当たった程度であった。

革命反対派がクレムリンでの戦闘を回避して、11月15日中にクレムリンから立ち
去ったのである。 これによって、十月革命はモスクワでも認知されるように
なった。 ただちに赤の広場のクレムリンの壁の際にモスクワの武力衝突で死んだ
革命派の遺体240体が埋葬された。

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