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    タグ:ソフィア

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    過去のある時期、ブルガリアの人々はとるこの支配を逃れて、山間の僻地で
    暮らしていた。 1878年に一部の地域が独立を回復すると、渓谷や低地の
    住民たちは、更に肥沃な土地を求めて移動し、人口は増加した。 第二次
    世界大戦後、各都市に新しい工業が出来、都市部の人口は増加した。

    1990年代初期には人口阿900万人を超え、68%は都市に住むようになった。
    人口110万人の首都ソフィアは、西武の高い山岳地帯にある。 交通の要衝
    として重要な位置を占め、西には隣国セルビア、北にはドナウ台地、東は
    トラキア平野に通じる街道がここから出発する。 この都市には、繊維、
    薬品、機械、靴、衣類、車両などの工場がある。

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    ソフィアは、ブルガリアの文化の中心地でもあり、大学、技術専門学校、
    博物館、オペラハウスなどがある。 イスラム教の寺院とユダヤ教の協会堂が
    あり、それぞれの教徒の集会に使われている。 古代のキリスト教の教会も
    数多く復元されている。 ソフィア市立庭園には噴水、並木、芝生などがあって、
    市民たちの憩いの場となっている。

    古代のトラキア人が、現在のソフィアの地に定住したのは、紀元前1000年である。
    紀元前29年にローマ人がこのトラキア人定住地を占領して、セルディカと名付けた。
    ブルガール人がこの地域に到達したのは、紀元前809年で、その後オスマン・
    トルコ帝国の支配下に入った。 14世紀になって、地元の教会の名を取って、
    ソフィアと名付けられた。 1897年に首府となった後は、第二次世界大戦中に
    激しい爆撃を受けたが、戦後に復興された。

    第二の都市であるプロブディフは、人口35万人で、マリツァ川のほとりにある
    重要な商業都市である。 古代ギリシャ人はここに、エウモルピアスという
    都市を建設した。 紀元前341年にマケドニア人がこの都市を征服し、その後
    この都市は、ローマの1州であったトラキアの首府となった。

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    プロブディフは食品加工業が盛んで、米、果実、タバコ、ワインなどの包装と
    梱包が行われている。 他には、靴や繊維、金属製品などが製造されている。
    この町では毎年1回見本市が開かれて、ブルガリアの工業製品が多く展示される。
    観光名所としては、全体が大理石でつくられた古代の劇場がある。 また、
    この都市から遠くないところに、13世紀につくられた威圧的な要塞がある。

    人口30万人のヴァルナは、黒海沿岸の主要港だが、ここも古代ギリシャ人の
    建設した都市で、当時はオデッソスと呼ばれた。 現代のヴァルナには繊維、
    家具、陶器、ディーゼル・エンジンなどの製造工場があり、また、軍事基地と
    海員学校もある。

    南部にある人口14万5,000のブルガスは、幅が広くて奥行きも深いブルがス湾に
    面していて、港の近くには、魚肉缶詰工場や精油工場、巨大な化学工場がある。

    ブルガリア政府は、ブルガス近くの沿岸沿いに近代的なリゾート地をいくつか
    建設して、観光客の誘致をはかっている。

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    アレクセイの息子で、大胆にロシアの近代化を推し進めたのは、ピョートル1世
    である。 再婚した妻から生まれたので、父が亡くなった時は、4歳の幼児に
    過ぎなかった。 異母兄弟であるフョードルが跡を継いだが、その兄の治世は、
    6年しか続かなかった。 10歳のフョードルは、やはり異母兄弟のイワン5世と
    共に、共同統治者として帝位に就くが、政治の実権を握ったのは、摂政の地位に
    就いた1番上の姉であるソフィアだった。 ソフィアは、男勝りの野心家だった。

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    ピョートルは、母と共にモスクワの東北の郊外にあるプレオブラジェンスコエ村
    に住み、外交上の葬式の時だけ、クレムリンに顔を出していた。 ピョートルが
    夢中になっていたのは、戦争ごっこである。 隣にセミョーノフスコエ村があり、
    ピョートルは、両村の少年達を誘って、『遊戯軍隊』を組織し、実戦さながらの
    訓練に明け暮れた。 プレオブラジェンスキー連隊とセミョーノフスキー連隊は、
    後に近衛隊として、ロシア帝国常備軍の中核となる。

    1689年にソフィアがクーデターを計画しているという急報を受けて、ピョートル
    親子は、モスクワから70キロ離れたトロツェ・セルギエフ修道院に避難した。
    その知らせは、誤報と判明すると、それを機会に、ソフィアは摂政の位を失い、
    ノボデビッチ女子修道院に幽閉された。

    プレオブラジェンスコエ村から市内に出る途中にドイツ村と呼ばれる外国人
    居留地があったが、ピョートルは、足繁くここを訪れ、ヨーロッパの進んだ
    技術に親しみ、側近の貴族達をドイツ村に住まわせた。 特に、スイス人
    レフォールトを重く用いて、旅行や遠征に伴い、1697年からの西欧諸国への
    大使節団の団長に任命した程である。

    300人の使節団の中には、ピョートル自身が加わっていた。 自分の目で先進国の
    文物に接すると共に、軍艦建造の技術等を習得したのである。 彼の外国滞在中に、
    モスクワでは、保守派のソフィアにそそのかれて、銃兵隊の反乱が発生した。
    ピョートルは、直ちに帰国し、1,000人を越す反乱参加者を処刑した。 赤の広場で
    首を切られたり絞首刑に処せられたした死骸が、5ヶ月も放置されたため、
    モスクワ中に悪臭が立ち込めた。 蜂起の首謀者は、特に、ノボデビッチ女子
    修道院の中のソフィアが閉じ込められた部屋の窓際に吊るされた。

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    それと同時に、ピョートルは、あらゆる面での改革に着手する。 ビザンチン
    様式だった暦をユリウス暦に改め、貴族には、ヒゲを切り落とさせ、西欧風の
    衣服を身に纏わさせた。 歴法を切り替えたばかりの1700年にスウェーデンと
    戦争を始めたのは、バルト海への出口を確保するためだった。 この戦争の過程で、
    ネバ川の河口にサンクト・ペテルブルグを建設した。 そこに遷都するのは、
    1712年~13年に掛けてである。

    もっとも、モスクワは、首都の資格を失った訳ではなく、ロシア帝国には、
    2つの首都があるとされた。 例えば、歴代の皇帝の戴冠式は、クレムリンの
    ウスペンスキー大聖堂で行われる習慣があった。 しかし、新都の出現によって、
    モスクワの性格が大きく変化した事は否めない。

    【お勧めの一冊】


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