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世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
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    タグ:ソビエト連邦

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    ソ連崩壊直前の1989年当時、ロシアの通貨であるルーブルは、360円だった。
    但し、その年にロシアルーブルは一気に下落して、10分の1の価値である、36円
    まで暴落した。 ここからロシアの経済危機とハイパーインフレが始まった。
    90年1月には、モスクワのプーシキン広場に初めてアメリカ資本のマクドナルドが
    進出し、ソ連の歴史が始まって以来、身分の高い店員様が客に対して、
    『ありがとうございました』と言ったことが非常に話題となった。 それまでの
    ソ連の店では、客が店を後にする際に『ありがとう』と言い、店員の言葉と言えば、
    『どういたしまして』が普通だった。
     
    当時、和食レストランは、モスクワでは『サクラ』という一店しか存在していな
    かったのだが、今では、モスクワ市内だけでも、700店を超えるのだとか。 今や、
    ユニクロや丸亀製麺までもが進出を果たしており、この25年間のロシアの変貌振り
    には驚きを隠せない。 恐らく、この25年間でここまで変貌を遂げた国は、ロシア
    以外にはないであろう。 中国も大変貌を遂げてはいるものの、社会主義から資本
    主義への転換はしていない。 ロシアが最も変わったところは、やはり、社会主義
    から資本主義へと転換し、地獄の底を這いながらも、ここまで経済発展したところに
    尽きる。 現在のモスクワ・シティーは、新宿と何ら遜色がないばかりか、むしろ、
    発展している。 これが、経済危機で何年も完成が遅れた建物群かと見まごうばかり
    である。

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    ソ連当時、バスのチケットは、運転手から買うものだった。 よって、車内で隣の
    人にお金を渡せば、めぐりめぐって、自分のところへチケットとおつりが返って
    来るという、非常にのどかなものだった。 その後、ソ連が崩壊してしまったため、
    このような風習はすっかりと消え去った。 ソ連時代の最大の特徴は、民族友好で、
    ソ連国内に約180も居る多民族は、皆平等なソ連人だった。 基本的に国民全員が
    公用語であるロシア語を操り、社会主義の時代は、国をあげて教育にも熱心に力を
    入れたため、あれだけ広大な国であるのにも関わらず、ロシア語には方言という
    ものがほぼない。

    社会主義とは、アメリカ的なイデオロギーから見ると、悪らしいが、国家が計画的に
    経済を建設する社会であったため、国民全てに、マンションと別荘も与えられる
    という、強欲資本主義では到底あり得ない特典もあった。 よって、贅沢さえしな
    ければ、皆が幸福で居られる社会でもあった。 それゆえに、逆に発展性がなく
    なり、働いても働かなくとも、給与は同じという生温い社会が70年間も続いたため、
    ソ連は崩壊したとも言える。


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    世界の2大超大国であったソビエト社会主義共和国連邦(CCCP)は、1991年12月
    25日に崩壊した。 1991年の夏にモスクワで軍事クーデーターが起こり、当時
    ソ連大統領であったゴルバチョフ氏が軟禁され、それを助け出した元ロシア大統領の
    エリツィン氏への権力の移行が鮮明となった。 この時点では、まだソ連は崩壊
    などしないだろうと思われていたものの、その後、バルト3国で始まった独立運動に
    より、バルト3国はソ連からの独立を勝ち取った。

    そこから遅れて、今度は、エリツィン氏が率いるロシアが独立を主張し始め、同じ
    スラブ民族の国である、ウクライナとベロロシア(独立後にベラルーシへと改名)
    を誘い、スラブ3国はソ連から独立すると明言し、その後、その他のソ連加盟国が
    次々と独立を宣言したため、ソ連は崩壊した。

    ソ連消滅s

    そもそも、ソ連とはどういう国だったのか? ソ連は、世界で初めて、社会主義
    革命によって誕生した社会主義の国であった。 社会主義とは、一言で分かり
    やすく言うと、国民全員が国家公務員ということ。 貧富の差もなく、福祉が
    充実し、理論上は楽園だったが、スターリンの時代から、恐怖支配が横行し、
    個人の自由を許さない全体主義へと変貌した。 極端な例では、ドイツ語の辞書を
    所持していただけで、スパイ容疑を掛けられて、シベリアへ追放された例もある。
     
    社会主義では、資本主義とは異なり、国が一括して生産管理を行うため、物不足が
    頻繁に起きた。 私がソ連時代のモスクワに留学をしていたのは、89年~90年に
    掛けてだったため、正にソ連時代の末期であった。 当時は、深刻な物不足であった
    ため、お金だけでは物資を購入することが出来ず、お金の他にクーポン券が必要
    だった。

    外国人の場合、当時は外貨ショップがあったため、多少値段が高くとも、そこである
    程度の品物は購入出来たが、当時、一般市民が外貨を所持することは、不法投棄と
    みなされ、逮捕の対象となった。 売春はソ連には存在しないことになっていた
    ため、それを取り締まる法律がなく、野放しであった。
     
    ソ連末期の時代は、厳格な言語統制を敷いていたため、ソ連の政治批判はタブーで、
    壁にマイクが仕掛けてあるので、ロシア語でソ連の批判はしないようにと常々
    言われた。 それを改革したのが、当時の大統領であった、ゴルバチョフ氏だった
    のだが、余りにも急激に色々な改革を進めてしまったために、一気に箍が外れ、
    歯止めが掛からなくなった。 それまでは、モスクワでも女性が夜に1人で歩いて
    いても大丈夫だったのだが、ゴルバチョフ以降は、一気に治安が悪化し、殺人、
    犯罪が一気に明るみに出るようになった。

    ソ連末期は、至るところで行列が出来、生活物資を確保するのも大変であった。
    当時、ようやくスーパーマーケット方式の店が登場したばかりだったが、
    それまでは、店員に一々何が欲しいのかを伝え、それを伝票に書いて貰い、更に
    それをレジで清算してから、再度その店員のところへ戻って、品物を受け取る
    という方式であったため、ロシア語が喋れないことは、ほぼ死を意味した。
    店員様が神様の国であったため、店員に気に入られない場合は、当然、物は
    売っては貰えなった。 品物が売れようが売れまいが、店員の給与は一切変わら
    ないため、閉店時間の30分前には客を店内に入れないようにして、掃除を始め、
    定時キッカリには、全員が帰宅するというシステムだった。 これは、今でも
    さほど変わってはいない。
     
    店が繁盛しようがしまいが、一切何も変わらないため、むしろ、客が来ると面倒な
    仕事が増えるという理由から、食堂などでは、わざと髪の毛を入れたり、ハエを
    入れたり、ゴキブリを入れたり、挙句の果てには、国から配給された筈の肉を勝手に
    持ち帰ってしまうために、勝手にネズミの肉を客に出したりと、労働生産性が一切
    報われない社会の悪い面ばかりが目立つようになった。 市民の間では、外の食堂や
    レストランでは絶対に食事をしないようにという噂が広まり、外食をしているのは、
    外国人だけという時期もあった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    1993年のはじめに、チェコスロバキアが分離して、チェコとスロバキアという
    ふたつの国が生まれた。 スロバキアは、歴史上初めて完全な独立国となり、
    長く続いた経済不況と、共産党の一党支配から抜け出す機会に恵まれた。
    しかし、国の将来については、意見がいくつも分かれ、スロバキアの政治は
    まだ安定していない。

    1918年以前のスロバキアは、中央ヨーロッパの王国、ハンガリーの一部であった。
    ハンガリー人は、スロバキアの独立要求を許さなかった。 そこでは、様々な
    権利や特権(例えば、投票権)を持った大地主が農場を経営して、その農場で
    働くスロバキア人農民は、投票権さえ持っていなかった。

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    第一次世界大戦(1914~1918年)の結果、中央ヨーロッパには劇的な変化が
    起こった。 ハンガリーが世界大戦で負けたのを機に、民族的に近いチェコ人と
    スロバキア人が一緒になったチェコスロバキアが建国され、独立した。
    スロバキアは国の東半分近くを占めていた。

    第二次世界大戦(1939~1945年)後、チェコスロバキアは、東ヨーロッパの強大な
    共産主義国であるソビエト連邦と親密な関係を築き、その政治勢力の下に入った。
    チェコスロバキアの共産党指導者は、民営の企業を禁止し、工業、農業、貿易の
    分野で厳しく管理した。 政府は、国家の情報や報道を規制し、全ての野党を
    禁止した。

    1950年に、スロバキアは、急速に工業化された。 共産党政府は、地方に巨大な
    工場を建設し、多数のスロバキア農民は、都市へ移動した。 雇用が増えて、
    政府は国民に医療福祉の恩恵を与え、生活水準は改善に向かった。 それでも、
    スロバキア人は、スロバキア自治を望んだ。 1968年に新しく連邦制となり、
    チェコとスロバキアは、それぞれの地方政府を持つことになった。

    チェコスロバキアでは、1989年まで、厳しい一党支配が続いた。 その年に
    起こった市民革命は、共産党政権を辞任させた。 チェコでは、国家が決める
    計画経済に代わって、需要と供給が賃金と価格を決める自由市場経済の原理を
    取り入れた。 しかし、それまで共産党員であったスロバキアの指導者達は、
    未だに国家管理の計画経済を支持している。 その結果、国営企業の民営化は、
    チェコの方がスロバキアよりも遥かに早く進んだ。

    1990年代の半ばに、スロバキアの企業は、外国からの投資に門戸を開いた。
    スロバキア工業製品の多くは、依然として時代遅れであるため、輸出が難しい。
    結果として、高失業率や物資不足、生活水準の低下に悩まされた。

    その上、共産主義の崩壊の後生まれた諸政党は、まだ混沌といしている。
    スロバキアの指導者達は、急速な経済改革を強く批判している。 そのため、
    政府は、重要な政策決定を下すことが出来ない。 スロバキア人は、ついに手に
    入れた自由と独立を喜ぶ一方で、国の将来に横たわる問題に不安を抱いている。

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    ロシア連邦、中国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、
    カスピ海にも面したカザフスタンは、国土の大部分が砂漠やステップ地帯である。
    人が住める場所は限られていて、人口の大半は、首都のアスタナやアルマトイ
    といった一部の地域に住む。

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    ソビエト連邦が崩壊した後は、カザフスタン共和国として独立したが、ロシアを
    中心とする独立国家共同体(CIS)に加盟、ロシアとは良好な関係を結んでいる。
    国民の6割近くがカザフ人で、残り3割をロシア人が占め、その他にも、
    ウクライナ人やウズベク人も住んでいる。 宗教もイスラム教とロシア正教が
    中心となっている。

    ソビエト連邦を構成していた他の共和国とは異なり、大統領のヌルスタン・
    ナザルバエフはソ連時代から今日までずっと大統領職にあり、強力なリーダー
    シップを発揮している。 一見、安定した国家のように見えるが、アルマトイでは、
    反ナザルバエフ派の市長が殺されたり、2006年には、野党連合の共同議長が射殺
    死体となって発見されるなど、事件が続き、この時は、容疑者として、国家保安
    委員会のメンバー5人が逮捕されている。

    nazarubaev

    日本の7倍もある国土は長大で、全ての国境を警備することは不可能に近い。
    特に、2001年の9.11テロ以降は、テロ組織アルカイダや外国の反政府組織の
    メンバーらが潜伏するのに好都合とばかりに、出入りしている事実もあり、
    中でもウズベキスタンとの国境は、厳重な警備が敷かれている。

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    【16世紀に始まったロシア帝国の侵略】

    ロシア連邦チェチェン共和国は、モスクワの南1500キロの場所にに位置し、
    面積は、日本の四国よりも少し狭い約1万7000平方キロメートルである。
    このあたりの一体は北コーカサス地方と呼ばれ、寒いロシア連邦の中では、
    温暖で豊かな地域である。

    200210

    北コーカサスには、多くの少数民族が住むが、チェチェン人は約6000年前から
    暮らしていたと言われ、チェチェン語はロシア語とは全く異なる言語で、
    現在では住民の殆どがイスラム教徒となっている。

    帝政ロシアは18世紀から、コーカサス地方の征服を始めるが、チェチェン人らは、
    これに抵抗して来た。 エカテリーナ2世の時代に戦争が本格化し、1785年に
    チェチェンで大規模な反乱が起こった。 それ以降戦争が続き、1859年に抵抗の
    指導者シャミーリがロシア帝国に降伏。 その5年後にチェチェンはロシア帝国に
    併合された。

    1917年に起きたロシアの十月革命は、チェチェン人らコーカサスの諸民族が独立を
    勝ち取る希望ととらえられた。 翌1918年には、コーカサス諸民族が集まり
    『山岳共和国』の成立を宣言した。

    しかし、革命政権『ボリシェビキ』、革命に反対する白軍、地元コーカサス
    諸民族が3つ巴の戦争状態となり、1924年には山岳共和国は廃止されて、
    チェチェンやその他の民族は、ソビエト連邦の領土として支配された。 つまり、
    帝政ロシアが革命で倒れた民族独立が達成されるかと期待されたが、新たに
    ソビエト革命政権に組み込まれてしまったのだ。

    第二次世界大戦末期の1944年2月、ソ連政権はチェチェン人がナチスドイツに
    協力をしたとして、チェチェン民族を全員貨車などに押し込めて中央アジアの
    カザフスタンに強制移住させた。 貨車での移動中に大量の人々が死に、
    強制移住先での病気や餓死などで、民族の半分を失った。

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    【独立宣言と2つのチェチェン戦争】

    ソビエト連邦崩壊直前の1991年11月、チェチェン共和国は独立を宣言した。
    ソ連に代わったロシアは、特殊部隊などを派遣して独立運動の弾圧を試みたが
    失敗し、ついに1994年12月にロシア軍が全面侵攻し、第一次チェチェン戦争が
    始まった。

    ロシア軍は非武装の住民をも攻撃し、また、独立派ゲリラを探し出すために大量の
    住民を逮捕して『選別収容所』に送った。 このため、国際的にも非難の声が
    高まった。 1996年8月、8万人以上の犠牲者を出しながら、独立問題は棚上げを
    したまま停戦協定が結ばれて、戦闘は終わった。

    その後、中東などからイスラム急進主義者達がチェチェン領内に流入するように
    なったが、ロシア当局は、それを見逃していた。 1999年8月、チェチェンの
    イスラム武装勢力が隣国のダゲスタン共和国に侵攻する。

    また同月から9月に掛けて、ロシア各地でアパート爆破テロが連続し、合計300人が
    死亡した。 ロシア政府は、チェチェン独立派勢力のテロだと断定し、9月には
    チェチェン攻撃を再開した。 この第二次チェチェン戦争は、2009年4月16日に
    国家対テロ委員会が独立派の掃討が完了したとして、対テロ作戦地域からの除外を
    発表、10年の長きに渡った紛争が終結したものの、連続爆弾テロに関しては、
    多くの謎と疑問が指摘されたままで、未だに解明されていない。

    第二次チェチェン戦争では、前回を上回る激しい攻撃により、2000年春までに
    ロシア軍がチェチェンの主要部分を占領した。 2003年にはチェチェン共和国で
    大統領選挙を行い、ロシアの全面支援を受けたカディーロフ政権が正式に樹立され、
    今もチェチェンを統治している。

    人口100万人の地域で、20万人の犠牲者を出す残虐な戦争だった。 戦闘が終息に
    向かっても、ロシア軍やロシアに援助された傀儡政権による住民連行は後を絶たず、
    人権上大きな問題となっている。 国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチの
    モスクワ支部によると、2000年から2004年までの間だけでも、約1万8000人の
    行方不明者を出しており、未だ解決されていない問題となっている。

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    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】
    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破
    親ロシア派のチェチェン共和国大統領アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】
    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモジェドヴォ空港爆破事件

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    第二次世界大戦の後、ドイツは、4つに分割され、それぞれが主要な連合国の
    占領下に置かれた。 3つの地域は、まもなく『西ドイツ』として統合されたが、
    ソビエト連邦に占領されていた地域は、分断され、『東ドイツ』となった。

    この2つの国を隔てる国境は、国際社会に新しく誕生した敵対関係の境界線の
    一部となった。 新たな敵対関係とは、西側の資本主義諸国と、ソビエトが率いる
    東側の社会主義諸国との対立である。 この境界線は、しばしば『鉄のカーテン』
    と呼ばれた。

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    西側と東側の対立は、『冷戦』と呼ばれ、ベルリンは、その中心となった。
    ベルリンは、東ドイツ内にあったが、首都として4つの地域に分割占領されていた。
    西ベルリンには、イギリス、フランス、アメリカの占領地域があった。
    東ベルリンは、ソビエトの占領地域であった。 1948年、ソビエトは、
    ベルリンから他の国々の軍隊を撤退させる目的で、東ドイツを通過する補給物資の
    輸送を封鎖した。 これに対して、西側陣営は、食料品と燃料を空輸して対抗した。
    この作戦は、『ベルリン空輸』と呼ばれている。 空輸作戦は、およそ1年間続き、
    東ドイツの中で完全に孤立していた西ベルリン市民に、昼夜を問わず何百万トン
    もの補給物資を空輸した。

    しかし、これは、ベルリンの支配をめぐる長い戦いの始まりに過ぎなかった。
    1961年までに、200万人以上の人々が東側から西側へと亡命した。 東ドイツ
    政府は、西ベルリンの周囲に壁を建設し、東側の市民が西ドイツに逃亡しない
    ようにした。

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    【ドイツ再統一】
    ソビエト連邦は、その後の30年間、東ドイツを支配したが、1970年代に入ると、
    ソビエト、東ドイツ等の東ヨーロッパ諸国からなる東側陣営の経済状態が悪化
    して来た。 1980年代になると、ソビエトの指導者、ミハイル・ゴルバチョフは、
    より民主的な政府を目指して改革を始めた。 同じように東ヨーロッパ諸国でも、
    自由を求める動きが強まった。 いくつかの場所では、国境の監視が緩められた。
    数千人の人々が『鉄のカーテン』を通って、西側へ流出した。

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    1989年11月9日、東ドイツは、国境を開放した。 その夜、喜びに沸く群衆は、
    ハンマーやつるはしを使って壁を打ち壊した。 数日後、東ドイツ政府は倒れ、
    1990年10月、ドイツは再び統一国家となった。 それは、この国にとって、
    新しい試練の始まりでもあった。 東ドイツの破綻した経済と、近代的な西ドイツの
    統合には、当初から数々の困難が予想されたが、再統一から、25年を経た今でも、
    完全な心の東西の統一は果たされてはいない。

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    1918年に、ボリシェビキらによって、モスクワは、首都に返り咲いた。 1924年に
    レーニンが死ぬと、共産党の主導権をめぐる闘争が始まった。 最も有能なトロツキーは、
    戦略家のヨシフ・スターリンに敗れた。 スターリンは、他の2人の指導者と協力して、
    トロツキーの力を奪うと、次に別の人間と手を組んで、この2人をも追い出した。
    トロツキーは、1929年に、国外に追放された。

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    更に、スターリンは、急速な工業化と農業の集団化を進めて、権力を強化して行った。
    1934年、ボリシェビキの最高幹部のひとりだったセルゲイ・キーロフの暗殺を皮切りに、
    大粛清が始まった。 秘密警察NKVD(後のKGB)が全権を握り、悪名高いモスクワの
    本部が大量逮捕の指揮を取った。 そして、ボリシェビキの有名な古参達が皆、裁判に
    掛けられたり、銃殺されたりした。

    ロシア正教は、1917年までは、ロシアの国教とされていた。 ソ連時代には、多くの
    教会が破壊され、司祭たちは、銃殺されたり、投獄されたりした。 教会は、閉鎖された
    ばかりではなく、1920年代の後半には、破壊が始まった。

    スターリンの粛清によって、何百万という無実の人々が処刑され、あるいは、辺境の
    労働収容所に送られた。 この恐怖政治の後に、今度は、第二次世界大戦の悪夢が
    やって来た。 ソ連は侵略され、モスクワはドイツ軍によって陥落寸前まで行き、
    レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)は、長期に渡たる攻囲に苦しんだ。

    第二次世界大戦が終わると、西側同盟国との友好関係が崩れて冷戦が始まった。
    1953年にスターリンが死ぬと、関係は改善され始めたかに見えた。 しかし、フルシチョフ
    による1962年のキューバ・ミサイル危機は、西側との関係を再度悪化させた。

    この関係が大きく改善されるようになるのは、1985年にゴルバチョフが等の指導者と
    なり、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)の政策を取り入れてからのこと
    だった。

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    ユーリー・アレクセーエヴィチ・ガガーリン (Юрий Алексеевич Гагарин 1934年3月9日~
    1968年3月27日)は、ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。 最終階級は大佐。
    1961年、ボストーク1号で、世界初の有人宇宙飛行を成功させた人物である。 日本において
    のみ、ガガーリンを象徴とする言葉として、帰還後に語ったとされる、『地球は青かった』が
    非常に有名であるが、正確な引用ではない。
    Kosmos-web
    両親はコルホーズの労働者であり、『労働者階級出身の英雄』というガガーリン像を強調する
    ため『両親は農民であった』と語られるが、実際のガガーリンの父親は教養のある腕利きの
    大工であり、母親もインテリで読書家であった。



    【ガガーリンの言葉】

    『地球は青かった』は不正確な引用
     
    ガガーリンの言葉として、日本においてのみ有名な『地球は青かった』は、1961年4月13日
    付けのイズベスチヤに掲載されたルポライター記者によるもので、原文では、Небо очень
    и очень темное, а Земля голубоватая. となっており、 日本語では、『空は非常に
    暗かった。 一方、地球は青みがかっていた』

    『地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった』が、英語に翻訳される際、
    『地球は青かった』に変化して広まったという説もあるが、根拠が見当たらない。
    ガガーリンの著書『宇宙への道』にも、地球の描写として、『地球はみずみずしい色調に
    あふれて美しく、薄青色の円光にかこまれていた』のような記述が見られる。

    『神はいなかった』
     
    ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして『ここに神は
    見当たらない』というものがある。 ガガーリンが飛行中に『見回してみても神はいない』と
    言ったとされているが、記録にはその種の発言は一切残されていない。 しかしながら、
    日本以外では、この言葉の方が『地球は青かった』よりも有名である。

    他に『私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった』という表現でもよく引き合いに
    出されている。

    ガガーリンの親友であった宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは著書『アポロとソユーズ』の
    中でガガーリン自身が好んで語った、小話として次の話をあげている。 恐らく、この中の
    言葉が彼自身の言葉として一人歩きしているのではないかと思われる。
     
    宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクセイ
    1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。

    総主教 『宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。』
    ガガーリン 『見えませんでした。』
    総主教 『わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。』

    しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。 総主教との約束を思い出した
    ガガーリンは先ほどとは違う事を答えた。
    ガガーリン 『見えました。』
    フルシチョフ 『同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように。』(レーニン主義は
    宗教を否定している)

    英語で『宇宙飛行士』を表す『Astronaut(アストロノート)』は、実は、ロシア語の
    『Астронавт(アーストラナフト)』から入った外来語。

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    社会主義は、その考え方自体は、間違っていなかったと思うが、その実践方法が間違っていた。
    働いても、働かなくても、給料は同じ。 社会福祉が行き届き過ぎて、極論を言ってしまうと、
    働かなくても、絶対に死なない社会であった。 何もかも『自己責任』とされてしまう資本主義
    よりも、優しい社会であったが、競争性を排除した社会であったため、『停滞』が原因で、ソ連は
    崩壊した。 何も前進しない社会に未来はないということなのであろう。

    この先、日本が、このまま、商業主義的な資本主義を貫く気なのであれば、既に社会全体が
    限界に達している事をハッキリと自覚し、適度な進路変更を施すべき。 金儲け最優先主義は、
    世の習いなれど、歴史は繰り返すので、隣国ソ連の崩壊を人事とはせずに、次は、自分たちの
    番である事を常に意識すべき。
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    ソ連の標章にもなっていた、鎌とハンマーは、農業と工業の融合を表しており、これらを組み
    合わせてることで、農業労働者と工業労働者の団結を表したものとなっている。 

    『全世界の労働者階級たちよ団結せよ!』は、ソ連の紋章にも書かれていた、マルクス・
    レーニン主義の象徴。 今では、その労働者階級も、既に社蓄と化しているこの日本では、
    変革を望む方が無理な話なのか。 『ソビエト社会主義連邦』、それを省略して『ソ連』と呼ばれて
    いたが、『ロシア』の当時の正式名称は、『ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国』。

    25年ほど前までは、『ソ連の言葉は、ソ連語ですか?』と度々言われたものが、日本から最も
    近い隣国は、ロシアなのにも関わらず、この程度の相互理解とは、何ともお粗末な限り。
    北海道からも肉眼でもハッキリと見えるのは、ロシアだけであり、韓国は、日本からは、肉眼
    では見る事は出来ない。

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