コソボ一帯に歴史的に古くから住んでいたのは、アルバニア人の先祖と
いわれるイリリア人で、バルカン半島の他の地域と同様に、長くローマ 帝国→
東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の支配下にあったが、7世紀に南スラブ系の
セルビア人が押し寄せ、キリスト教に改宗すると共に、1168年には、コソボの
プリズレンを首都にして、セルビア王国を建国した。 セルビア王国は、1389年の
『コソボの戦い』でオスマン・トルコに破れ、以後オスマン帝国の支配下に入り、
コソボに居たセルビア人の多くは、クロアチア等、西へ移住して、代わって
イスラム教に改宗したアルバニア人が再びコソボに移住した。
いわれるイリリア人で、バルカン半島の他の地域と同様に、長くローマ 帝国→
東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の支配下にあったが、7世紀に南スラブ系の
セルビア人が押し寄せ、キリスト教に改宗すると共に、1168年には、コソボの
プリズレンを首都にして、セルビア王国を建国した。 セルビア王国は、1389年の
『コソボの戦い』でオスマン・トルコに破れ、以後オスマン帝国の支配下に入り、
コソボに居たセルビア人の多くは、クロアチア等、西へ移住して、代わって
イスラム教に改宗したアルバニア人が再びコソボに移住した。
こうして現在ではコソボの人口の約9割がアルバニア人となったが、セルビア人に
とってコソボは、『セルビア王国の発祥の地』であり、コソボの戦いという
『聖戦の地』であると共に、セルビア正教会の中心地であるペチがあるため、
民族の歴史、文化にとって、掛け替えのない聖地となっているため、コソボが
セルビアから独立する事に関して、セルビア人は、拒否感が根強い。 とりわけ、
セルビアが主導していたユーゴスラビアが解体し、それぞれの共和国が独立して
行った後に、セルビア共和国内にあるコソボまでがセルビアから離れる事は、
到底容認出来ない。
とってコソボは、『セルビア王国の発祥の地』であり、コソボの戦いという
『聖戦の地』であると共に、セルビア正教会の中心地であるペチがあるため、
民族の歴史、文化にとって、掛け替えのない聖地となっているため、コソボが
セルビアから独立する事に関して、セルビア人は、拒否感が根強い。 とりわけ、
セルビアが主導していたユーゴスラビアが解体し、それぞれの共和国が独立して
行った後に、セルビア共和国内にあるコソボまでがセルビアから離れる事は、
到底容認出来ない。
一方で、アルバニア人にとってのコソボも19世紀末から起きた『アルバニア
独立運動』の発祥の地となっており、オスマントルコに支配されていた
アルバニア人は、1878年のベルリン条約でセルビア王国が独立すると、
『イスラム教徒=トル コ人』として扱われ、セルビア領内から追放されることを
危惧し、プリズレンを中心に独立運動を本格化させ、1912年には、現在の
アルバニアとコソボ、マケ ドニア、ギリシャの一部をも加えたアルバニア王国を
建国するが、バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)や
列強国の介入で、たちまち領土をむしり取られてしまう。 その結果、現在は
アルバニアの人口340万人に対して、コソボに約150万人、マケドニアにも約50
独立運動』の発祥の地となっており、オスマントルコに支配されていた
アルバニア人は、1878年のベルリン条約でセルビア王国が独立すると、
『イスラム教徒=トル コ人』として扱われ、セルビア領内から追放されることを
危惧し、プリズレンを中心に独立運動を本格化させ、1912年には、現在の
アルバニアとコソボ、マケ ドニア、ギリシャの一部をも加えたアルバニア王国を
建国するが、バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)や
列強国の介入で、たちまち領土をむしり取られてしまう。 その結果、現在は
アルバニアの人口340万人に対して、コソボに約150万人、マケドニアにも約50
万人のアルバニア人が住んでいる。 『アルバニア人が住む土地は、アルバニア
として統一されるべき』という、大アルバニア主義は、彼らの民族的悲願でもある。
として統一されるべき』という、大アルバニア主義は、彼らの民族的悲願でもある。
セルビア人にとっても、アルバニア人にとっても、コソボの地への思い入れは非常に
強いものとなっているが、コソボ自治州は、セルビア共和国内でも、共和国に
匹敵するような自治権を与えられていたが、1981年、完全な共和国となる事を
求める暴動が起きた。 これに対して、セルビア共和国は、警察と軍によって、
暴動を鎮圧し、その後、アルバニア系住民達は、セルビア共和国の警察と軍に監視
される生活を余儀なくされた。
匹敵するような自治権を与えられていたが、1981年、完全な共和国となる事を
求める暴動が起きた。 これに対して、セルビア共和国は、警察と軍によって、
暴動を鎮圧し、その後、アルバニア系住民達は、セルビア共和国の警察と軍に監視
される生活を余儀なくされた。
1990年、セルビア共和国の大統領となった、ミロシェビッチは、セルビア共和国
内のコソボ自治州に対する自治権を縮小し、コソボの独立要求を弾圧した事に
反発したアルバニア系住民は、1992年には、自分達で大統領を選出する等して、
コソボ共和国独立を求めていた。 しかし、UCK(コソボ解放軍)が結成されて
からは、そのまでの暴力に訴えない独立運動が、武器闘争に変わってしまった。
内のコソボ自治州に対する自治権を縮小し、コソボの独立要求を弾圧した事に
反発したアルバニア系住民は、1992年には、自分達で大統領を選出する等して、
コソボ共和国独立を求めていた。 しかし、UCK(コソボ解放軍)が結成されて
からは、そのまでの暴力に訴えない独立運動が、武器闘争に変わってしまった。
UCKは、結成当初には、秘密裏に活動をしていたが、1997年、一般市民に知られる
ようになり、コソボ自治共和国でセルビア共和国警察や、治安部隊と衝突を
繰り返し、次第に若者等を取り込んで拡大して行った。
ようになり、コソボ自治共和国でセルビア共和国警察や、治安部隊と衝突を
繰り返し、次第に若者等を取り込んで拡大して行った。
これに対して、セルビアの治安部隊は、UCKの活動をテロ活動とみなし、
アルバニア人達の村を焼き払ったり、住民を追い出したりした。 こうして、
治安部隊の活動によって、住む場所を失った人達は、国内避難民となった。
アルバニア人達の村を焼き払ったり、住民を追い出したりした。 こうして、
治安部隊の活動によって、住む場所を失った人達は、国内避難民となった。
【紛争発生からNATOによる空爆へ】
1998年、UCKとセルビア治安部隊の武力衝突が起きると、セルビア人が指導する
(新)ユーゴスラビア連邦軍が介入し、大規模なUCKとの衝突が起こった。 一方、
国連安全保障理事会では、セルビア人とアルバニア人の両方に話し合いを促す
内容の決議がなされた。 1998年10月、NATO(北大西洋条約機構)は、
(新)ユーゴスラビア連邦共和国に対して、セルビアの治安部隊が、コソボ自治州
から撤退しなければ、空爆を行うと圧力を掛けた。
内容の決議がなされた。 1998年10月、NATO(北大西洋条約機構)は、
(新)ユーゴスラビア連邦共和国に対して、セルビアの治安部隊が、コソボ自治州
から撤退しなければ、空爆を行うと圧力を掛けた。
ミロシェビッチ大統領は、NATOの圧力に対して、OSCE(欧州安全保障協力機構)
の停戦監視団を受け入れ、治安部隊要員の数を減らす等の譲歩を行った。 しかし、
の停戦監視団を受け入れ、治安部隊要員の数を減らす等の譲歩を行った。 しかし、
その後もセルビア勢力とUCKとの争いはおさまらなかったため、1999年2月、
フランス等が介入し、フランス北部のランブイエで和平交渉が行われた。
ところが、(新)ユーゴスラビアが、コソボにNATO軍が駐留する事を認めず、
和平案を拒否した結果、交渉は決裂した。
フランス等が介入し、フランス北部のランブイエで和平交渉が行われた。
ところが、(新)ユーゴスラビアが、コソボにNATO軍が駐留する事を認めず、
和平案を拒否した結果、交渉は決裂した。
1999年3月24日、NATO軍は、国連決議なしにセルビアを空爆した。 NATO軍は、
コソボ内の治安部隊や軍事施設だけではなく、セルビア全土の工場、橋、鉄道、
発電所等を狙って激しい空爆を6月10日まで続けた。
発電所等を狙って激しい空爆を6月10日まで続けた。
【NATO軍の人道的介入】
NATO軍は、国際社会に対して、セルビアへの空爆の理由をコソボ自治州で行わ
れている重大な人権侵害を食い止めるためだとして、『人道的介入』という言葉を
使って説明した。 しかし、この空爆で、中国大使館が誤爆にあい、沢山の民間人も
犠牲となったりした。 また、長期間に及んだため、多くのアルバニア人が難民
となった。
れている重大な人権侵害を食い止めるためだとして、『人道的介入』という言葉を
使って説明した。 しかし、この空爆で、中国大使館が誤爆にあい、沢山の民間人も
犠牲となったりした。 また、長期間に及んだため、多くのアルバニア人が難民
となった。
空爆前にも約10万人の難民が出ていたが、空爆開始後に、アルバニア、マケドニア、
モンテネグロ等に逃れた人は、およそ、85万人にのぼったと言われている。 だが、
一連の空爆によって、ミロシェビッチ政権は、停戦に応じざるを得なくなり、
1999年6月、大統領は、和平案を受け入れ、ユーゴ連邦軍と治安部隊の撤退、避難民
となっていたアルバニア人の帰還が行われた。 そして、コソボにおいても、民政や
難民帰還を行うUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)と、NATOが中心となって結成
した、KFOR(国際治安部隊)を受け入れた。
一連の空爆によって、ミロシェビッチ政権は、停戦に応じざるを得なくなり、
1999年6月、大統領は、和平案を受け入れ、ユーゴ連邦軍と治安部隊の撤退、避難民
となっていたアルバニア人の帰還が行われた。 そして、コソボにおいても、民政や
難民帰還を行うUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)と、NATOが中心となって結成
した、KFOR(国際治安部隊)を受け入れた。
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