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    タグ:セルビア

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    テロリストからコソボの英雄へ
    ハシム・サチ(アルバニア語:Hashim Thaçi)、あるいは、ハシム・タチ
    (セルビア語:Хашим Тачи / Hašim Tači)は、コソボの政治家であり、
    同国大統領、国際連合コソボ暫定行政ミッション下における同国の
    第5代首相などを務めた。 コソボ民主党(PDK)党首、コソボ解放軍
    (KLA)の政治的指導者であった。

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    2001年ヒューマン・ライツ・ウォッチによる報告
    このコソボ解放軍には、複数の虐待行為の責任がある。 その中には、
    セルビア人や、セルビア人の国家に協力していると見られたアルバニア人に
    対する殺害も含まれる。 コソボ解放軍はまた、紛争終結後のセルビア人、
    ロマ人、その他の非アルバニア人の少数民族、そしてアルバニア人の政敵に
    対する攻撃の責任がある。 広域的、かつ、組織的なセルビア人、ロマ人、
    その他少数民族の家屋への放火、正教会の聖堂や修道院への破壊行為、
    人々を家、故郷から立ち退かせることを目的とした迫害や脅迫、コソボ解放軍の
    構成者らは明らかにこれらの多くの犯罪に対して責任がある。

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    現職大統領から戦争犯罪者への道
    サチは大規模な犯罪活動の疑いを持たれている。 サチがコソボ解放軍の
    首班を務めている間、組織の資金集めのためにヘロインやコカインを
    西ヨーロッパへ密輸していたとワシントン・タイムズは伝えている。
    コソボ解放軍は1999年の紛争終結によって公的には解体されているが、
    新設されたコソボ保護軍の人員の多くは、コソボ解放軍の構成員であり、
    コソボ民主党は、コソボ解放軍の政治部門である。 コソボ解放軍が、
    ほぼそのままコソボ保護軍に再編されたことによって、コソボ民主党は
    自治体レベルでの地方行政をほぼ完全に支配するようになった。

    コソボ民主党は地方行政を支配するために政敵に対する暴力や脅迫を用い、
    地方当局と友好・協力関係にある犯罪組織を庇護した。 サチは、
    コソボ保護軍による犯罪活動の中核を担っていたと見られているが、
    サチは自身が作った『政府』に対する『税金』の名目で現金を取り立てていた。
    コソボ民主党の腐敗と犯罪体質は、2001年に初めて行われたコソボの
    自由選挙での同党の敗北につながった。

    BBCは、「元コソボ解放軍による組織犯罪とコソボ民主党の政治が
    同質であると見られたことによって、コソボ解放軍の代議士たちは敗北し、
    コソボ民主党に壊滅的な影響をもたらした」と伝えた。

    セルビア大統領のコソボ訪問の行く手を塞ぐコソボ人
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    コソボ臓器摘出密輸出について
    カルラ・デル・ポンテが暴露したコソボ解放軍によるセルビア人捕虜たちの
    臓器摘出、輸出していた件は、黒幕であるハシム・サチの側近たちが
    セルビア人を殺害し、臓器を国外に密輸したことを認めた。

    現職大統領の逮捕→裁判のため身柄拘束
    上記1990年代のコソボ紛争における戦争犯罪で起訴されている同国の
    ハシム・サチ大統領が2020年11月5日、辞任した。オランダ・ハーグでの
    裁判に臨むためと説明した。 サチ被告は、コソボの首都プリシュティナで
    開いた記者会見で「私はいかなる条件下でも、コソボ共和国の大統領として
    出廷するつもりはない。よって大統領府と国の高潔、市民の尊厳を守るため、
    大統領職から退く」と表明した。

    例え、現職の大統領であっても、戦争犯罪は国際法では許されないため、
    サチ被告は、現在でもオランダ・ハーグでの裁判中のため、身柄を拘束
    されたままである。

    コソボ解放軍の行進

    出典:AFPニュース

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    世界には、「領土・国民・主権」といった条件を満たしているにも関わらず、
    独立を果たすことが出来ていない「未承認国家」がいくつが存在するが、
    今回は、そのうちの1つ、旧ユーゴスラビア連邦を構成していたボスニア・
    ヘルツェゴビナ内に存在するスルプスカ共和国を紹介します。

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    スルプスカ共和国
    スルプスカ共和国とは、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する自治体の
    1つで、旧ユーゴスラビアに住んでいたセルビア人、クロアチア人、
    ムスリム人の主要3民族のうち、セルビア人を主体とした共和国となっている。
    「スルプスカ」の意味は、「セルビア人」を現しているため、
    「セルビア人共和国」と呼んでも良いのだが、隣国の「セルビア共和国」と
    明確に区別するため、主に「スルプスカ共和国」と呼ばれることが多い。

    スルプスカ共和国の領土(赤い部分)
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    【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争】
    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエボ包囲は、現代の戦争の中で
    最も長期に渡る都市包囲であったが、丘の上に陣取り、街を包囲していたのは、
    セルビア人勢力であるスルプスカ共和国軍と、ユーゴスラビア人民軍で、
    1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた。 その後、セルビア人勢力は、
    新たに独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ連邦への参加を拒否し、
    セルビア人による国家、「スルプスカ共和国」の樹立を宣言した。

    スルプスカ共和国は、ボスニア連邦政府とは異なる独自の大統領、政府、
    立法府を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%を占めるが、
    隣国との境界線は、1995年11月にデイトン合意が交わされ、ボスニア・
    ヘルツェゴビナ紛争が終結した時点での軍事上の前線に概ね基づいているため、
    その境界線には古くからの歴史的な由来はなく、1990年代の紛争の結果に
    よるものとなっている。

    このため、スルプスカ共和国の領域はボスニア・ヘルツェゴビナの歴史的な
    地域区分をまたいだものとなっており、その境界線は歴史的な地域区分や
    かつての行政上の区分を分断しており、旧ユーゴスラビア連邦における泥沼の
    内戦の結果、誕生した新たな未承認国家となっている。

    スルプスカ共和国の国旗(セルビアと同じ)
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    【事実上の首都】
    スルプスカ共和国の法律上の首都は、サラエボのすぐ隣りにあるイストチノ・
    サラエボとなっているが、内戦後は、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の
    完全な住み分けが進み、サラエボにはセルビア人はほぼ住んでいないため、
    事実上の首都は、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦第2の都市、バニャ・ルカと
    なっている。 紛争中には、およそ4万人のセルビア人がクロアチアから逃れて
    来ており、同時期、バニャ・ルカからは、ほとんどのクロアチア人やムスリム人が
    逃れ、16のモスクが破壊された。

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    ベオグラード最終日は、中心地にあるスカダルスカ通り(Skadarska)で
    代表的なセルビア料理とセルビア(トルコ)コーヒーを頂きました。

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    お隣りのボスニアでは非常に苦いコーヒーしかなかったため、ベオグラードでも
    再度注文してみたものの、やはり、非常に苦い。 付け合せのスウィーツが
    なければ、非常に厳しいほろ苦さw ヨーロッパでは、ウィーン風のコーヒーが
    主流(日本と同じ)だが、セルビアは、オスマン・トルコによる支配が
    長かったため、この様なトルコ風がメインで、粉が沈殿するのを待ってから
    飲みます。

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    【スカダルスカ通り


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    日本でも飲まれているウィーン風のコーヒーの飲み方は、オスマン・トルコ軍の
    ウィーン包囲後にウィーン市民が粉を濾して飲む方法を開発したことにより、
    全世界に広まった飲み方で、ウィーンからコーヒーと共に世界中に広まったのが
    クロワッサン。 クロワッサンは、ハプスブルグ家のマリー・アントワネットが
    嫁入りの際に、お抱えの調理師と共に、フランスのブルボン家に入り、そこから
    世界へと広まったため、フランスの食べ物と勘違いしている人が多い。

    ベオグラードでの最終地、旧ベオグラード中央駅は、新ベオグラード中央駅が2キロ
    ほど先に完成したため、既に閉鎖されているものの、ニコラ・ステラ・ベオグラード
    空港へ行くための空港シャトルバスは、今でもこの旧ベオグラード中央駅の隣
    (非常に分かり辛い)から出ています。

    べオグラードからの帰りの飛行機は、共同運航のエア・セルビアではなく、
    アエロフロート・ロシア航空。 ロシア語で全て言ってくれるため、非常に楽。
    エア・セルビアは、セルビア語と英語のみでの機内放送でした。 ドナウ川を渡り、
    パンノニア平原を超え、ウクライナ、ベラルーシ上空を通過して、ロシアへと
    戻ります。

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    ポドゴリツァから夜行列車に乗り、早朝の7時前にベオグラード中央駅に到着。
    このベオグラード中央駅は、ほんの数ヶ月前に新たに開業したばかりの駅らしく、
    旧ベオグラード中央駅は既に閉鎖されていた。 但し、空港行きのバスは、
    その閉鎖された旧中央駅前から出るという、不条理極まりない状況を知ったのは、
    このベオグラード中央駅に着いて暫く経ってから。

    【ベオグラード中央駅付近】
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    ここから旧中央駅までは、約2キロ弱離れているが、早朝に到着してしまったため、
    折角なので、ここから数時間掛けて、ベオグラードの街を歩き回りました。
    とりあえずは、中央駅からさほど離れていないセルビア正教最大の教会である
    聖サワ大聖堂へと行きました。 朝が明け切らない時間帯に到着したため、
    まだライトアップされていました。 旅先では、基本的に足で歩くことに
    しているため、ベオグラードでもかなり歩き回りました。

    聖サワ教会は、まだ朝の7時過ぎであったため、開いてはおらず、適当に歩いて
    いたところ、更に違うセルビア正教会があったため、中に入って見ました。
    正教会は、基本的に、どこも大体同じですが、セルビア正教会には、何故か
    ろうそくが立っていなかった。 ろうそくの販売はあったものの、何故か
    ろうそくに火をともして立てている人が居なかったのは、参拝者が少ないから
    なのか?

    【セルビア正教会
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    そこから、更に暫く歩き、ベオグラード市最北端のドナウ川沿いにある
    ベオグラード要塞まで行きました。 この対岸からすぐの場所から、ハンガリー
    (マジャール)人の自治共和国、ヴォイヴォディナの領土となる。 セルビアは、
    国内にコソヴォの他に、すぐ目の前にも他民族のヴォイヴォディナがあるため、
    地政学的に非常に不安定となっている。 現在、ロシアと最も友好関係を保って
    いるのが、このセルビアだが、ロシアに頼っているのは、地政学的な理由が
    大きいと思われる。

    ベオグラード要塞には、何故か、恐竜を模した公園があるのだが、有料であったため、
    とりあえずは無視し、セルビア料理を食べにベオグラードで一番の繁華街へと
    向かいます。 セルビアは現在、キリル文字からラテン文字(ローマ字)への
    移行期間となっており、古い看板はキリル文字、新しい看板はラテン文字で記載
    されている。 発音的には全く同じなのだが、元々、セルビア語とクロアチア語は、
    文字が異なるため、別言語とされていたものの、セルビア語もラテン文字になって
    しまった場合は、その違いは、宗教だけとなる。

    【ベオグラード要塞
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    日本では余り知られていないモンテネグロ。 同じセルビア人同士の国で
    あるため、旧ユーゴスラビィア連邦からの独立当初は、セルビアとの連合国家
    「セルビア・モンテネグロ」という名前でした。 同じ旧ユーゴの国同士とは
    言え、クロアチアはEU、モンテネグロは未だ貧困国家であるため、国境越えは、
    かなり厳しい検査があり、1人づつ全員バスを降りてのパスポートチェックが
    ありました。

    【コトル】
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    「モンテネグロ」とは、イタリア語で「黒い山」という意味で、モンテネグロ
    (セルビア)語では、「ツルナ・ゴーラ」と言うのが正式な国名です。 その名の
    通り、海と山が美しい大自然の国です。 ドゥブロヴニクからは、ティラナ行きの
    直通バスがないため、一旦、古都コトルで乗り換えて、そこから再度ティラナを
    目指します。

    古都コトルでバスターミナルからさほど遠くない場所に古城が見えたものの、
    東欧ではインフォメーションヤアナウンスがないことが殆どであるため、バスの
    出発時間が全く分からず、30分程度、バスターミナル内で時間を潰したものの、
    コトルにも見所が多いため、次回、時間のある時に、再度コトルを目指します。

    ドゥブロヴニクからモンテネグロのコトルを抜けて、無事にティラナへと到着
    しました。 写真は、モンテネグロとアルバニアの国境。 ドゥブロヴニクから
    ティラナまでは、約11時間のバスの旅ですが、途中でトイレが一ヶ所もないため、
    それ相応の準備をしないと大変なことになりますw 国境地帯には、逆方向に
    トイレがあったため、頑張れば、反対側のトイレまで行けるかも知れません。

    【ポドゴリツァ】
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    モンテネグロの首都であるポドゴリツァは、「山下」と言う意味で、旧ユーゴ
    スラビア時代は、指導者に因み、「チトーグラード」と言う名前でした。
    ポドゴリツァという名前の通り、山が真近に見える大自然豊かな国が
    モンテネグロです。 尚、ポドゴリツァ駅では、首都の駅とは思えない程
    小さな駅で、同じセルビア人なのであれば、別にセルビアで良いのでは?と
    思ってしまいました。

    ポドゴリツァには、特に見る物がないため、ものの数時間の滞在でしたが、
    駅前を散策して見たところ、何故かロシアの文豪、プーシキンの銅像がありました。
    シンボルである双頭の鷲は、お隣のアルバニアと同じですが、色が黒ではないため、
    ショッカーの旗には見えませんでしたw

    ポドゴリツァからベオグラードまでの鉄道は、実は、隠れたヨーロッパの
    絶景路線で、山と谷の連続のため、ちょっとしたスイス気分を味わえる
    穴場的な路線。 夜行列車であるため、途中からは暗くなりましたが、元々
    「セルビア・モンテネグロ」という同じセルビア人の国だったのに、国境では、
    やはり、パスポートチェックがありました。

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    スルプスカ(セルビア人)共和国の首都バーニャ・ルーカの中心部。
    スルプスカ共和国は、ボスニア連邦政府の支配は受けていないため、
    ボスニアの国旗はひとつもなく、セルビア国旗しかありません。 中心部は、
    こじんまりとしており、歩行者天国を中心に、商店街が軒を連ねています。

    【セルビア正教会】
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    バーニャ・ルーカ中心部にあるセルビア正教会。 ボスニア・ヘルツェゴビナ
    には、3つの宗教がありますが、そのうちの教会の1つ。 基本的に、正教国家は、
    キリル文字を使用しています。 セルビア正教会には、ろうそく立てがなく、
    この教会には、ろうそく自体もありませんでした。

    歩行者天国を中心としたバーニャ・ルーカの中心部。 『未承認国家』と聞くと、
    暗いイメージがありますが、全く逆で、かなり明るい雰囲気です。 未承認国家
    とは、単にアメリカに認められるか否かの違いだと思います。 ボスニア・
    ヘルツェゴビナでは、旧ユーゴ内での内戦の後、各民族間による住み分けが進み、
    多くのセルビア人がサラエボからこのバーニャ・ルーカへと移り住んだそうです。
    雰囲気的には、同じボスニアでも、ムスリム人とクロアチア人が中心のボスニア側
    とは、全く雰囲気が異なります。

    【市中心部】
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    バーニャ・ルーカの中心部には、恐らく、内戦で死亡したであろう、英雄を祀る
    場所があります。 スルプスカ共和国は、ほぼセルビアと同じであるため、現地で
    最大の銀行は、ロシアのズベルバンクです。 ロシアとセルビアは、非常に仲が良い
    国であるため、この他にも、ガスプロム、ラーダ等のロシア企業もところどころに
    ありました。

    スルプスカ共和国博物館。 過去の歴史を一同に展示していますが、途中からは、
    戦争の展示に変わります。 スラブ人は、大きく分けると、ロシア人等の
    東スラブ人、ポーランド人等の西スラブ人、セルビア人等の南スラブ人に大別
    出来ますが、他のゲルマン民族やラテン民族とは異なり、分化したのが遅かった
    ため、スラブ語は、それぞれの言語で喋っても、大体理解出来る程似ています。

    【スルプスカ共和国博物館】
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    スルプスカ共和国の展示物。 民族衣装の展示ですが、南スラブ人は、オスマン・
    トルコの影響を強く受けているため、かなりアジアっぽい雰囲気が入っています。
    セルビアは、長らくオスマン・トルコの支配を受けていましたが、イスラム化
    せずに、セルビア正教を貫きました。逆に、イスラム化したのが、ムスリム人
    ですが、元々は、セルビア人とクロアチア人がイスラム化した人達。 ヤドランカが
    弾いていたサズの展示もありましたが、元々は、シルクロードを通って、ペルシャ
    から伝来した物。 日本にもシルクロードを通って、ほぼ同じ物が伝来し、琵琶に
    なりました。

    何故かキリル文字とローマ字が混在しているプレートを発見。 どちらも同じ
    アルファベットなので、文字変換は以外に簡単。 ロシア語をローマ字で書くと、
    ほぼチェコ語になりますw 最後の一枚は、バーニャ・ルーカの平均的な家屋。
    内戦後にリフォームされているため、外観的に新しい家が多いです。

    バーニャ・ルーカを後にして、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都サラエボを
    目指します。 バーニャ・ルーカからサラエボまでは、約3時間半の道のり。
    ボスニアは山がちの国であるため、途中はほぼ全て山脈で、厳しい山越えが待ち
    受けていました。 途中でボスニア側に入りますが、国境を越えた途端に雰囲気が
    一気にイスラム化するため、見た目で分かりました。

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    旧ベオグラード中央駅のすぐ隣にあるバスターミナルからバスに乗り、未承認
    国家であるスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカを目指します。
    ベオグラードからバーニャ・ルーカまでは、片道約7時間半の道のり。

    セルビアとボニア・ヘルツェゴビナ(スルプスカ共和国)の国境にはサヴァ川が
    流れていますが、すぐ横を通る鉄道は、何故か廃止されており、橋だけが残って
    いました。 恐らく、内戦時に何者かによって破壊されたのが原因だと思います。
    セルビアでの出国手続きに続き、スルプスカ共和国(名目上はボニア・
    ヘルツェゴビナ)側での入国手続きもバスを降りずに、簡単に終わりました。

    【セルビア ⇒ スルプスカ共和国】
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    実は、セルビアからスルプスカ共和国へは、クロアチアを通って、そのまま
    高速道で行くのが一番早いのだが、戦争の影響で、クロアチアとの国境ぎりぎりの
    場所は何度も通るものの、クロアチアへは一度も入らずに、そのまま首都
    (ボスニア第二の都市)のバーニャ・ルーカを目指します。

    ベオグラードからのバスは、高速バスではないため、途中、様々なバスターミナル
    へと立ち寄りました。 その度に20分程度の休憩を挟むため、かなり時間が
    掛かります。 休憩の際には、運転手が特に何か言う訳でもないため、
    『何分間の休憩?』とその度に、セルビア語で質問しました。 下手をすると、
    置いて行かれる可能性があるため、この手のバスの旅では、一々時間を聞くか、
    じっとバスの中で待っているかの何れかが無難。

    途中、セルビアとの国境に近い、ビイェリナで休憩したため、10分程度、
    付近を散策しました。 7時間半の旅の途中で、最終的には寝てしまったものの、
    運転手に起こされて、目覚めた場所がバーニャ・ルーカでした。

    【バーニャ・ルーカ】
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    スルプスカ共和国では、政治に非常に関心が集まっているため、政治的な
    ポスターを道端のあちらこちらで見掛けました。 セルビアでは、ローマ字への
    切り替えが進んでいましたが、こちら、スルプスカ共和国では、道路標識以外は、
    基本的にローマ字は全くありませんでした。 セルビアよりもセルビアらしいのが、
    未承認国家のスルプスカ共和国と言えます。

    スルプスカ共和国は、同じボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には括られているものの、
    通貨は両方共同じものを使っているものの、ボスニア連邦とスルプスカ共和国側
    とでは、デザインが異なります。

    バーニャ・ルーカは、人口約20万人程度の小さな街で、元々、見るべき物は余り
    ないものの、今回の旅の最大の目的地は、このバーニャ・ルーカでした。
    バーニャ・ルーカに来るために、全ての日程を合わせて、旧ユーゴを周る事にした
    というのが、今回の旅の計画です。

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    モスクワからベオグラードまでは、約3時間半のフライト。 ベラルーシ、
    カルパチア山脈、パンノニア平原を越えて、いよいよ、セルビアの首都である
    ベオグラードに到着です。

    空路でドナウ川を越えると、ベオグラードの街が見えて来ます。ベオグラードは、
    セルビアの中でも、最北端に位置しており、すぐ隣りには、ハンガリー系住民が
    多いヴォイヴォディナ自治州が広がっています。 ニコラ・テルサ空港も、
    そのヴォイヴォディナのすぐそばにあるため、コソヴォのみならず、
    ヴォイヴォディナまでもが独立宣言をすると、セルビアはますます窮地に
    立たされます。

    【モスクワ ⇒ ベオグラード】
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    ベオグラードの町の中心部を流れているのは、サヴァ川で、ドナウ川の支流。
    旧ユーゴ内では、泥沼の内戦後に、各民族ごとに完全に住み分けが進められて
    おり、他の民族の領地に入ると、雰囲気が一変するため、一目で分かります。

    セルビアは、東方正教の国で、文字はロシアと同じキリル文字を使っていましたが、
    近年、ローマ字への完全移行を行っているため、古い看板はキリル文字、新しい
    看板は、全てローマ字で書かれていました。

    アメリカを中心とするNATO軍に空爆された跡が生々しいベオグラード中心部は、
    表面的には、かなり復興が進み、街も明るくなりましたが、前回ベオグラードに
    来たのは、1997年のため、内戦終了間際。 ベオグラードが空爆されたのは
    1999年で、その命令を下したのは、元アメリカ大統領のビル・クリントン。

    【ベオグラード】
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    旧ユーゴの内戦終了から20数年程度既に経過していますが、今でも、その残骸が
    まま残されています。 やった方はすっかりと忘れ去っているのに、やられた方は
    いつまでも覚えているとは、正にこのこと。 数年前のトランプの大統領選の際に、
    クリントンが出馬していましたが、クリントン夫婦は、2人揃って世界各地で殺戮を
    繰り返している人間のクズです。

    数ヶ月前に閉鎖された旧ベオグラード中央駅は、一応中には入れるが、両替屋以外、
    特に何もありません。 但し、空港行きのバスは、今でもここから出ているため、
    閉鎖の意味が分かりません。

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    『ルテニア』は、現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる地域を
    指すが、広い意味ではウクライナ、あるいは、ウクライナとベラルーシを合わせた
    地域を指す。 ルテニアとは『赤ロシア』の意味を持つ。

    この『ルテニア』とは、今日のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の祖先
    であるルーシ人のラテン語による外名で、『ルーシ』のラテン語名『ルテニア』
    (Ruthenia)に由来している。 したがって、元来はルーシ人の同義語であるが、
    特に、西ウクライナのウクライナ人の古称としても用いられる。

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    日本語における研究では、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)を『ルテニア』と呼ぶ
    習慣がないため、その時代のルーシ人をルテニア人と呼ぶのは一般的ではない
    (西欧米の研究では呼ぶ場合がある)。 また、ロシア帝国領内の小ロシア人や
    白ロシア人をルテニア人と呼ぶのも一般的ではない。

    ルテニア人は、ルシン人とも書かれることがあるが、少数民族であるルシン人は、
    本来のルテニア人とは異なっており、この表記の揺れが混乱を招いている。
    ルシン人は、ウクライナ語の方言とされるルシン語を話すスラヴ人の民族集団
    であり、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、ウクライナなど東ヨーロッパ
    各地に広く住んでいる。

    ルーシ人が19世紀から20世紀初めにかけて『ウクライナ人』として民族意識が
    形成されていく中、ルシン人はそれを受け入れてこなかった少数民族を起源に持つ。
    こうした現象は1945年以降のソヴィエト政権下のカルパチアやポーランド政府、
    そして1950年代前半までのチェコスロヴァキア政府が『ルシン人』という名称の
    使用を禁止していたことによる。

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    今ではスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、チェコそしてセルビア政府が
    『ルシン人』と公式に少数民族として認めている。 2007年、ウクライナの
    ザカルパチヤ州で初めて独立した民族であると認められた。 ウクライナ国内の
    ルシン人はウクライナ国籍を持ち、そのほとんどがウクライナ人としての民族意識を
    持っているのに対し、現在ルシン人としての民族意識を有している人々の多くは
    ウクライナ国外に住んでいる。
     
    ルシン人の数は約120万人と見積もられているが、そのうち、自分がルシン人であると
    認識しているのはたった55,000人に過ぎない。 ルシン人という民族分類には
    異論も多く、ルシン人は広義的なルーシ人であり、ロシア人、ウクライナ人、
    ベラルーシ人とは別の独立した東スラヴ人の一派であるとされる一方で、他方では
    ウクライナ人の下位集団に過ぎないとも言われている。

    ベラルーシ人同様に、ロシア人やウクライナ人とは異なり、西進したテュルク系、
    モンゴル系などの異民族との混血が少なく、コーカソイドの遺伝子を濃厚に残して
    いるのが特徴である。

    現在ウクライナ領となっている、ザカルパチア・ルシン人団体大会は、ウクライナ
    政府との対話によって、ルシン民族の承認と、ポトカルパツカ・ルーシの自治権
    承認を求めることを決めた。 タス通信によると、声明には、1991年に
    ザカルパチアで実施された住民投票の結果の承認についても、キエフ当局と話し合う
    意向が記載されている。 尚、住民投票では、約80パーセントの住民が、同地域に
    自立した地位を与えることに賛成票を投じた。

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    独立以後も、ブルガリア人が多数住んでいるトラキアとマケドニアは、トルコの
    領域のままだったので、国民は不満だった。 指導者たちも、、ブルガリア人
    全てを単一の国家に統合したいと望んだ。 また、貿易の促進と経済の拡大には、
    エーゲ海に港を持つ必要があった。

    1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャの3国は、同盟を結んでトルコに宣戦し、
    第一次バルカン戦争が始まった。 1913年、3国側が勝利をおさめたが、トルコ
    から得たマケドニアの分割について3国の意見が一致せずに紛争となり、第二次
    バルカン戦争が始まった。 この戦争では、セルビアとギリシャが、ブルガリア
    だけを敵に回して戦った。

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    ブルガリアは敗れて、同年、講和条約が結ばれた。 その結果、ブルガリアは、
    一部の領土をトルコに返還し、マケドニアの極一部だけがブルガリア領となった。

    この頃、貿易と領土をめぐる敵対関係から、ヨーロッパ諸国はふたつの陣営に
    分かれていた。 ひとつは、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコの3国
    からなる陣営で、『連合諸国』と呼ばれた。 それとは別に、バルカン半島の
    いくつかの国々は、オーストリア・ハンガリーの支配からの自由を求めていた。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、それが切っ掛けで
    オーストリア・ハンガリーは、セルビアに宣戦を布告した。 セルビアと同盟
    関係にあったロシアは、この紛争に介入、やがて『中央同盟』と『連合諸国』の
    戦争に広がり、第一次世界大戦が始まった。

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    第二次バルカン戦争で失った領土を取り戻す好機と考えたブルガリアは政府は、
    同盟国側に付く事を決め、1915年、マケドニアの返還を条件に、連合国側に
    宣戦を布告した。 セルビアやブルガリアとの国境でも戦闘が始まった。

    しかし、ブルガリアの政治家たちの間では政策について意見が対立し、国内は、
    不安定な状況となった。 社会民主党と農民連合党は、ブルガリア政府の戦争
    関与を激しく非難した。

    1918年秋、同盟国側は、連合国側に降伏し、ブルガリアもトラキアとマケドニアを
    ギリシャに割譲する条約に調印せざるを得なくなった。 その上、セルビアを
    中心に新しく成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(後のユーゴ
    スラビア)は、ブルガリアの領土の割譲を要求した。 ブルガリアの軍隊は、
    反乱を起こして政権を握り、フェルディナントは退位して、息子のボリス3世に
    王位を譲った。

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    1991年6月になると、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を
    宣言した。 それに反対するセルビア人中心のユーゴスラビア連邦軍は、
    スロベニアに介入。 だが、綿密な計画と戦略、それに国民の9割がスロベニア人
    だったこともあって、10日間でスロベニアは独立を果たす。 しかし、クロアチア
    紛争は違った。 ユーゴスラビア王国当時からの懸案とされていた、セルビア人と
    クロアチア人の激しい民族対立が再燃したのだ。

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    6月25日の独立宣言以降、クロアチアでの戦闘は、クロアチア国内に残留した
    セルビア人との間で続いた。 しかし、9月になってユーゴスラビア連邦軍
    (実質的にはセルビア人中心の軍隊)が、クロアチアの首都ザグレブを襲撃
    するにおよび、大規模な戦闘に発展、民族紛争は、本格化した。 特に、
    クロアチア人とセルビア人が混住するスラボニア地区での戦闘では、死者
    3000人を数えたが、元々は仲良く暮らしていた隣り同士だった。

    アメリカ、ロシア、EU、国連などが調停を試みたが、双方の憎しみは深く、
    クロアチア軍は何度もセルビア人自治区に攻勢を掛け、略奪、暴行、虐殺の
    限りをつくした。 この結果、セルビア人自治区は全て制圧され、1995年に
    内戦は終結した。

    クロアチア紛争を契機に、1992年に独立したボスニア・ヘルツェゴビナでも
    紛争が起きた。 430万人の人口のうち、33%を占めるセルビア人の反発を無視し、
    人口比17%のクロアチア人と44%のボシュニャク人(イスラム教徒)が、独立を
    問う住民投票を独断で進めた結果の宣言だった。 不満を抱いたセルビアは、
    大規模な軍事行動を開始。 内戦は3年以上にもおよんだ。

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    【民族浄化】
    この内戦では、民族浄化と呼ばれる異民族排除の政策がとられた。 民族浄化
    とは、ある地域を民族的に単一なものにすることを目的に、嫌がらせや差別的な
    待遇、資産の強制接収や略奪など、異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる
    方法がとられたり、戦闘能力があると見なされた男は、各地で集団殺害や強制
    収容の対象とされたりした。 また、家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・
    ヘルツェゴビナの農村部では、強制収用された異民族の女性らを組織的に強姦し、
    妊娠後しばらくしてから解放することによって、出産せざるを得ない状況に
    追い込んだ。 女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、更に多くの異民族の
    自発的な避難を促すことが出来るからだ。

    このような民族浄化を含め、全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、
    難民、避難民200万人が発生、第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争となった。

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    セルビア共和国の自治州であったコソボは、住民の約8割以上がアルバニア系で、
    セルビア人は1割ほどしか居ない。 元々、旧ユーゴスラビア連邦の時代から、
    他の6つの共和国に準じる自治権を与えられていた。

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    しかし、1988年にセルビアの大統領に就任したミロシェビッチは、コソボの
    自治権を奪って政府機能を中央に集中し、アルバニア語による放送や教育を禁じ、
    アルバニア系住民を官庁から追放するなどの弾圧政策をとった。

    コソボ住民は、これに反発。 初めは非暴力・不服従で対抗していたが、後に
    独立を求めてコソボ開放軍が結成され、武力闘争を始めた。 ユーゴスラビア
    連邦軍やセルビア治安部隊との間に激しい戦闘が続き、多くの死者や難民が
    出たり、家が破壊されたりした。

    1999年に北大西洋条約機構(NATO)が介入して、セルビアを空爆し、セルビア
    国民の生活が圧迫され、やがてミロシェビッチ大統領は失脚した。
    ユーゴスラビア連邦政府は、和平案を受諾し、武力紛争は終わりを告げた。

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    しかし、その後、アルバニア系住民によるセルビア人などへの報復攻撃により、
    多くのセルビア人難民が出るなど、対立は解消していない。

    アルバニア系の人達は、おだやかなイスラム教徒が多い。 しかし、歴史的には、
    ローマ帝国の影響を受けて、キリスト教徒(カトリック)が多かった。 後に、
    オスマン・トルコの侵略にあってから、イスラム教徒が増えた。 セルビア人の
    影響もあり、東方正教会の人も居る。

    コソボの殆どが、こうしたアルバニア系の人たちとなっており、ロマ人は、
    セルビア人よりももっと少ない。

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