多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
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    タグ:セルビア

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    ベオグラード最終日は、中心地にあるスカダルスカ通り(Skadarska)で
    代表的なセルビア料理とセルビア(トルコ)コーヒーを頂きました。

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    お隣りのボスニアでは非常に苦いコーヒーしかなかったため、ベオグラードでも
    再度注文してみたものの、やはり、非常に苦い。 付け合せのスウィーツが
    なければ、非常に厳しいほろ苦さw ヨーロッパでは、ウィーン風のコーヒーが
    主流(日本と同じ)だが、セルビアは、オスマン・トルコによる支配が
    長かったため、この様なトルコ風がメインで、粉が沈殿するのを待ってから
    飲みます。

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    【スカダルスカ通り


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    日本でも飲まれているウィーン風のコーヒーの飲み方は、オスマン・トルコ軍の
    ウィーン包囲後にウィーン市民が粉を濾して飲む方法を開発したことにより、
    全世界に広まった飲み方で、ウィーンからコーヒーと共に世界中に広まったのが
    クロワッサン。 クロワッサンは、ハプスブルグ家のマリー・アントワネットが
    嫁入りの際に、お抱えの調理師と共に、フランスのブルボン家に入り、そこから
    世界へと広まったため、フランスの食べ物と勘違いしている人が多い。

    ベオグラードでの最終地、旧ベオグラード中央駅は、新ベオグラード中央駅が2キロ
    ほど先に完成したため、既に閉鎖されているものの、ニコラ・ステラ・ベオグラード
    空港へ行くための空港シャトルバスは、今でもこの旧ベオグラード中央駅の隣
    (非常に分かり辛い)から出ています。

    べオグラードからの帰りの飛行機は、共同運航のエア・セルビアではなく、
    アエロフロート・ロシア航空。 ロシア語で全て言ってくれるため、非常に楽。
    エア・セルビアは、セルビア語と英語のみでの機内放送でした。 ドナウ川を渡り、
    パンノニア平原を超え、ウクライナ、ベラルーシ上空を通過して、ロシアへと
    戻ります。

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    ポドゴリツァから夜行列車に乗り、早朝の7時前にベオグラード中央駅に到着。
    このベオグラード中央駅は、ほんの数ヶ月前に新たに開業したばかりの駅らしく、
    旧ベオグラード中央駅は既に閉鎖されていた。 但し、空港行きのバスは、
    その閉鎖された旧中央駅前から出るという、不条理極まりない状況を知ったのは、
    このベオグラード中央駅に着いて暫く経ってから。

    【ベオグラード中央駅付近】
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    ここから旧中央駅までは、約2キロ弱離れているが、早朝に到着してしまったため、
    折角なので、ここから数時間掛けて、ベオグラードの街を歩き回りました。
    とりあえずは、中央駅からさほど離れていないセルビア正教最大の教会である
    聖サワ大聖堂へと行きました。 朝が明け切らない時間帯に到着したため、
    まだライトアップされていました。 旅先では、基本的に足で歩くことに
    しているため、ベオグラードでもかなり歩き回りました。

    聖サワ教会は、まだ朝の7時過ぎであったため、開いてはおらず、適当に歩いて
    いたところ、更に違うセルビア正教会があったため、中に入って見ました。
    正教会は、基本的に、どこも大体同じですが、セルビア正教会には、何故か
    ろうそくが立っていなかった。 ろうそくの販売はあったものの、何故か
    ろうそくに火をともして立てている人が居なかったのは、参拝者が少ないから
    なのか?

    【セルビア正教会
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    そこから、更に暫く歩き、ベオグラード市最北端のドナウ川沿いにある
    ベオグラード要塞まで行きました。 この対岸からすぐの場所から、ハンガリー
    (マジャール)人の自治共和国、ヴォイヴォディナの領土となる。 セルビアは、
    国内にコソヴォの他に、すぐ目の前にも他民族のヴォイヴォディナがあるため、
    地政学的に非常に不安定となっている。 現在、ロシアと最も友好関係を保って
    いるのが、このセルビアだが、ロシアに頼っているのは、地政学的な理由が
    大きいと思われる。

    ベオグラード要塞には、何故か、恐竜を模した公園があるのだが、有料であったため、
    とりあえずは無視し、セルビア料理を食べにベオグラードで一番の繁華街へと
    向かいます。 セルビアは現在、キリル文字からラテン文字(ローマ字)への
    移行期間となっており、古い看板はキリル文字、新しい看板はラテン文字で記載
    されている。 発音的には全く同じなのだが、元々、セルビア語とクロアチア語は、
    文字が異なるため、別言語とされていたものの、セルビア語もラテン文字になって
    しまった場合は、その違いは、宗教だけとなる。

    【ベオグラード要塞
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    日本では余り知られていないモンテネグロ。 同じセルビア人同士の国で
    あるため、旧ユーゴスラビィア連邦からの独立当初は、セルビアとの連合国家
    「セルビア・モンテネグロ」という名前でした。 同じ旧ユーゴの国同士とは
    言え、クロアチアはEU、モンテネグロは未だ貧困国家であるため、国境越えは、
    かなり厳しい検査があり、1人づつ全員バスを降りてのパスポートチェックが
    ありました。

    【コトル】
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    「モンテネグロ」とは、イタリア語で「黒い山」という意味で、モンテネグロ
    (セルビア)語では、「ツルナ・ゴーラ」と言うのが正式な国名です。 その名の
    通り、海と山が美しい大自然の国です。 ドゥブロヴニクからは、ティラナ行きの
    直通バスがないため、一旦、古都コトルで乗り換えて、そこから再度ティラナを
    目指します。

    古都コトルでバスターミナルからさほど遠くない場所に古城が見えたものの、
    東欧ではインフォメーションヤアナウンスがないことが殆どであるため、バスの
    出発時間が全く分からず、30分程度、バスターミナル内で時間を潰したものの、
    コトルにも見所が多いため、次回、時間のある時に、再度コトルを目指します。

    ドゥブロヴニクからモンテネグロのコトルを抜けて、無事にティラナへと到着
    しました。 写真は、モンテネグロとアルバニアの国境。 ドゥブロヴニクから
    ティラナまでは、約11時間のバスの旅ですが、途中でトイレが一ヶ所もないため、
    それ相応の準備をしないと大変なことになりますw 国境地帯には、逆方向に
    トイレがあったため、頑張れば、反対側のトイレまで行けるかも知れません。

    【ポドゴリツァ】
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    モンテネグロの首都であるポドゴリツァは、「山下」と言う意味で、旧ユーゴ
    スラビア時代は、指導者に因み、「チトーグラード」と言う名前でした。
    ポドゴリツァという名前の通り、山が真近に見える大自然豊かな国が
    モンテネグロです。 尚、ポドゴリツァ駅では、首都の駅とは思えない程
    小さな駅で、同じセルビア人なのであれば、別にセルビアで良いのでは?と
    思ってしまいました。

    ポドゴリツァには、特に見る物がないため、ものの数時間の滞在でしたが、
    駅前を散策して見たところ、何故かロシアの文豪、プーシキンの銅像がありました。
    シンボルである双頭の鷲は、お隣のアルバニアと同じですが、色が黒ではないため、
    ショッカーの旗には見えませんでしたw

    ポドゴリツァからベオグラードまでの鉄道は、実は、隠れたヨーロッパの
    絶景路線で、山と谷の連続のため、ちょっとしたスイス気分を味わえる
    穴場的な路線。 夜行列車であるため、途中からは暗くなりましたが、元々
    「セルビア・モンテネグロ」という同じセルビア人の国だったのに、国境では、
    やはり、パスポートチェックがありました。

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    スルプスカ(セルビア人)共和国の首都バーニャ・ルーカの中心部。
    スルプスカ共和国は、ボスニア連邦政府の支配は受けていないため、
    ボスニアの国旗はひとつもなく、セルビア国旗しかありません。 中心部は、
    こじんまりとしており、歩行者天国を中心に、商店街が軒を連ねています。

    【セルビア正教会】
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    バーニャ・ルーカ中心部にあるセルビア正教会。 ボスニア・ヘルツェゴビナ
    には、3つの宗教がありますが、そのうちの教会の1つ。 基本的に、正教国家は、
    キリル文字を使用しています。 セルビア正教会には、ろうそく立てがなく、
    この教会には、ろうそく自体もありませんでした。

    歩行者天国を中心としたバーニャ・ルーカの中心部。 『未承認国家』と聞くと、
    暗いイメージがありますが、全く逆で、かなり明るい雰囲気です。 未承認国家
    とは、単にアメリカに認められるか否かの違いだと思います。 ボスニア・
    ヘルツェゴビナでは、旧ユーゴ内での内戦の後、各民族間による住み分けが進み、
    多くのセルビア人がサラエボからこのバーニャ・ルーカへと移り住んだそうです。
    雰囲気的には、同じボスニアでも、ムスリム人とクロアチア人が中心のボスニア側
    とは、全く雰囲気が異なります。

    【市中心部】
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    バーニャ・ルーカの中心部には、恐らく、内戦で死亡したであろう、英雄を祀る
    場所があります。 スルプスカ共和国は、ほぼセルビアと同じであるため、現地で
    最大の銀行は、ロシアのズベルバンクです。 ロシアとセルビアは、非常に仲が良い
    国であるため、この他にも、ガスプロム、ラーダ等のロシア企業もところどころに
    ありました。

    スルプスカ共和国博物館。 過去の歴史を一同に展示していますが、途中からは、
    戦争の展示に変わります。 スラブ人は、大きく分けると、ロシア人等の
    東スラブ人、ポーランド人等の西スラブ人、セルビア人等の南スラブ人に大別
    出来ますが、他のゲルマン民族やラテン民族とは異なり、分化したのが遅かった
    ため、スラブ語は、それぞれの言語で喋っても、大体理解出来る程似ています。

    【スルプスカ共和国博物館】
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    スルプスカ共和国の展示物。 民族衣装の展示ですが、南スラブ人は、オスマン・
    トルコの影響を強く受けているため、かなりアジアっぽい雰囲気が入っています。
    セルビアは、長らくオスマン・トルコの支配を受けていましたが、イスラム化
    せずに、セルビア正教を貫きました。逆に、イスラム化したのが、ムスリム人
    ですが、元々は、セルビア人とクロアチア人がイスラム化した人達。 ヤドランカが
    弾いていたサズの展示もありましたが、元々は、シルクロードを通って、ペルシャ
    から伝来した物。 日本にもシルクロードを通って、ほぼ同じ物が伝来し、琵琶に
    なりました。

    何故かキリル文字とローマ字が混在しているプレートを発見。 どちらも同じ
    アルファベットなので、文字変換は以外に簡単。 ロシア語をローマ字で書くと、
    ほぼチェコ語になりますw 最後の一枚は、バーニャ・ルーカの平均的な家屋。
    内戦後にリフォームされているため、外観的に新しい家が多いです。

    バーニャ・ルーカを後にして、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都サラエボを
    目指します。 バーニャ・ルーカからサラエボまでは、約3時間半の道のり。
    ボスニアは山がちの国であるため、途中はほぼ全て山脈で、厳しい山越えが待ち
    受けていました。 途中でボスニア側に入りますが、国境を越えた途端に雰囲気が
    一気にイスラム化するため、見た目で分かりました。

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    旧ベオグラード中央駅のすぐ隣にあるバスターミナルからバスに乗り、未承認
    国家であるスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカを目指します。
    ベオグラードからバーニャ・ルーカまでは、片道約7時間半の道のり。

    セルビアとボニア・ヘルツェゴビナ(スルプスカ共和国)の国境にはサヴァ川が
    流れていますが、すぐ横を通る鉄道は、何故か廃止されており、橋だけが残って
    いました。 恐らく、内戦時に何者かによって破壊されたのが原因だと思います。
    セルビアでの出国手続きに続き、スルプスカ共和国(名目上はボニア・
    ヘルツェゴビナ)側での入国手続きもバスを降りずに、簡単に終わりました。

    【セルビア ⇒ スルプスカ共和国】
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    実は、セルビアからスルプスカ共和国へは、クロアチアを通って、そのまま
    高速道で行くのが一番早いのだが、戦争の影響で、クロアチアとの国境ぎりぎりの
    場所は何度も通るものの、クロアチアへは一度も入らずに、そのまま首都
    (ボスニア第二の都市)のバーニャ・ルーカを目指します。

    ベオグラードからのバスは、高速バスではないため、途中、様々なバスターミナル
    へと立ち寄りました。 その度に20分程度の休憩を挟むため、かなり時間が
    掛かります。 休憩の際には、運転手が特に何か言う訳でもないため、
    『何分間の休憩?』とその度に、セルビア語で質問しました。 下手をすると、
    置いて行かれる可能性があるため、この手のバスの旅では、一々時間を聞くか、
    じっとバスの中で待っているかの何れかが無難。

    途中、セルビアとの国境に近い、ビイェリナで休憩したため、10分程度、
    付近を散策しました。 7時間半の旅の途中で、最終的には寝てしまったものの、
    運転手に起こされて、目覚めた場所がバーニャ・ルーカでした。

    【バーニャ・ルーカ】
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    スルプスカ共和国では、政治に非常に関心が集まっているため、政治的な
    ポスターを道端のあちらこちらで見掛けました。 セルビアでは、ローマ字への
    切り替えが進んでいましたが、こちら、スルプスカ共和国では、道路標識以外は、
    基本的にローマ字は全くありませんでした。 セルビアよりもセルビアらしいのが、
    未承認国家のスルプスカ共和国と言えます。

    スルプスカ共和国は、同じボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には括られているものの、
    通貨は両方共同じものを使っているものの、ボスニア連邦とスルプスカ共和国側
    とでは、デザインが異なります。

    バーニャ・ルーカは、人口約20万人程度の小さな街で、元々、見るべき物は余り
    ないものの、今回の旅の最大の目的地は、このバーニャ・ルーカでした。
    バーニャ・ルーカに来るために、全ての日程を合わせて、旧ユーゴを周る事にした
    というのが、今回の旅の計画です。

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    モスクワからベオグラードまでは、約3時間半のフライト。 ベラルーシ、
    カルパチア山脈、パンノニア平原を越えて、いよいよ、セルビアの首都である
    ベオグラードに到着です。

    空路でドナウ川を越えると、ベオグラードの街が見えて来ます。ベオグラードは、
    セルビアの中でも、最北端に位置しており、すぐ隣りには、ハンガリー系住民が
    多いヴォイヴォディナ自治州が広がっています。 ニコラ・テルサ空港も、
    そのヴォイヴォディナのすぐそばにあるため、コソヴォのみならず、
    ヴォイヴォディナまでもが独立宣言をすると、セルビアはますます窮地に
    立たされます。

    【モスクワ ⇒ ベオグラード】
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    ベオグラードの町の中心部を流れているのは、サヴァ川で、ドナウ川の支流。
    旧ユーゴ内では、泥沼の内戦後に、各民族ごとに完全に住み分けが進められて
    おり、他の民族の領地に入ると、雰囲気が一変するため、一目で分かります。

    セルビアは、東方正教の国で、文字はロシアと同じキリル文字を使っていましたが、
    近年、ローマ字への完全移行を行っているため、古い看板はキリル文字、新しい
    看板は、全てローマ字で書かれていました。

    アメリカを中心とするNATO軍に空爆された跡が生々しいベオグラード中心部は、
    表面的には、かなり復興が進み、街も明るくなりましたが、前回ベオグラードに
    来たのは、1997年のため、内戦終了間際。 ベオグラードが空爆されたのは
    1999年で、その命令を下したのは、元アメリカ大統領のビル・クリントン。

    【ベオグラード】
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    旧ユーゴの内戦終了から20数年程度既に経過していますが、今でも、その残骸が
    まま残されています。 やった方はすっかりと忘れ去っているのに、やられた方は
    いつまでも覚えているとは、正にこのこと。 数年前のトランプの大統領選の際に、
    クリントンが出馬していましたが、クリントン夫婦は、2人揃って世界各地で殺戮を
    繰り返している人間のクズです。

    数ヶ月前に閉鎖された旧ベオグラード中央駅は、一応中には入れるが、両替屋以外、
    特に何もありません。 但し、空港行きのバスは、今でもここから出ているため、
    閉鎖の意味が分かりません。

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    『ルテニア』は、現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる地域を
    指すが、広い意味ではウクライナ、あるいは、ウクライナとベラルーシを合わせた
    地域を指す。 ルテニアとは『赤ロシア』の意味を持つ。

    この『ルテニア』とは、今日のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の祖先
    であるルーシ人のラテン語による外名で、『ルーシ』のラテン語名『ルテニア』
    (Ruthenia)に由来している。 したがって、元来はルーシ人の同義語であるが、
    特に、西ウクライナのウクライナ人の古称としても用いられる。

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    日本語における研究では、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)を『ルテニア』と呼ぶ
    習慣がないため、その時代のルーシ人をルテニア人と呼ぶのは一般的ではない
    (西欧米の研究では呼ぶ場合がある)。 また、ロシア帝国領内の小ロシア人や
    白ロシア人をルテニア人と呼ぶのも一般的ではない。

    ルテニア人は、ルシン人とも書かれることがあるが、少数民族であるルシン人は、
    本来のルテニア人とは異なっており、この表記の揺れが混乱を招いている。
    ルシン人は、ウクライナ語の方言とされるルシン語を話すスラヴ人の民族集団
    であり、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、ウクライナなど東ヨーロッパ
    各地に広く住んでいる。

    ルーシ人が19世紀から20世紀初めにかけて『ウクライナ人』として民族意識が
    形成されていく中、ルシン人はそれを受け入れてこなかった少数民族を起源に持つ。
    こうした現象は1945年以降のソヴィエト政権下のカルパチアやポーランド政府、
    そして1950年代前半までのチェコスロヴァキア政府が『ルシン人』という名称の
    使用を禁止していたことによる。

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    今ではスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、チェコそしてセルビア政府が
    『ルシン人』と公式に少数民族として認めている。 2007年、ウクライナの
    ザカルパチヤ州で初めて独立した民族であると認められた。 ウクライナ国内の
    ルシン人はウクライナ国籍を持ち、そのほとんどがウクライナ人としての民族意識を
    持っているのに対し、現在ルシン人としての民族意識を有している人々の多くは
    ウクライナ国外に住んでいる。
     
    ルシン人の数は約120万人と見積もられているが、そのうち、自分がルシン人であると
    認識しているのはたった55,000人に過ぎない。 ルシン人という民族分類には
    異論も多く、ルシン人は広義的なルーシ人であり、ロシア人、ウクライナ人、
    ベラルーシ人とは別の独立した東スラヴ人の一派であるとされる一方で、他方では
    ウクライナ人の下位集団に過ぎないとも言われている。

    ベラルーシ人同様に、ロシア人やウクライナ人とは異なり、西進したテュルク系、
    モンゴル系などの異民族との混血が少なく、コーカソイドの遺伝子を濃厚に残して
    いるのが特徴である。

    現在ウクライナ領となっている、ザカルパチア・ルシン人団体大会は、ウクライナ
    政府との対話によって、ルシン民族の承認と、ポトカルパツカ・ルーシの自治権
    承認を求めることを決めた。 タス通信によると、声明には、1991年に
    ザカルパチアで実施された住民投票の結果の承認についても、キエフ当局と話し合う
    意向が記載されている。 尚、住民投票では、約80パーセントの住民が、同地域に
    自立した地位を与えることに賛成票を投じた。

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    独立以後も、ブルガリア人が多数住んでいるトラキアとマケドニアは、トルコの
    領域のままだったので、国民は不満だった。 指導者たちも、、ブルガリア人
    全てを単一の国家に統合したいと望んだ。 また、貿易の促進と経済の拡大には、
    エーゲ海に港を持つ必要があった。

    1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャの3国は、同盟を結んでトルコに宣戦し、
    第一次バルカン戦争が始まった。 1913年、3国側が勝利をおさめたが、トルコ
    から得たマケドニアの分割について3国の意見が一致せずに紛争となり、第二次
    バルカン戦争が始まった。 この戦争では、セルビアとギリシャが、ブルガリア
    だけを敵に回して戦った。

    daiichiji

    ブルガリアは敗れて、同年、講和条約が結ばれた。 その結果、ブルガリアは、
    一部の領土をトルコに返還し、マケドニアの極一部だけがブルガリア領となった。

    この頃、貿易と領土をめぐる敵対関係から、ヨーロッパ諸国はふたつの陣営に
    分かれていた。 ひとつは、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコの3国
    からなる陣営で、『連合諸国』と呼ばれた。 それとは別に、バルカン半島の
    いくつかの国々は、オーストリア・ハンガリーの支配からの自由を求めていた。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、それが切っ掛けで
    オーストリア・ハンガリーは、セルビアに宣戦を布告した。 セルビアと同盟
    関係にあったロシアは、この紛争に介入、やがて『中央同盟』と『連合諸国』の
    戦争に広がり、第一次世界大戦が始まった。

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    第二次バルカン戦争で失った領土を取り戻す好機と考えたブルガリアは政府は、
    同盟国側に付く事を決め、1915年、マケドニアの返還を条件に、連合国側に
    宣戦を布告した。 セルビアやブルガリアとの国境でも戦闘が始まった。

    しかし、ブルガリアの政治家たちの間では政策について意見が対立し、国内は、
    不安定な状況となった。 社会民主党と農民連合党は、ブルガリア政府の戦争
    関与を激しく非難した。

    1918年秋、同盟国側は、連合国側に降伏し、ブルガリアもトラキアとマケドニアを
    ギリシャに割譲する条約に調印せざるを得なくなった。 その上、セルビアを
    中心に新しく成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(後のユーゴ
    スラビア)は、ブルガリアの領土の割譲を要求した。 ブルガリアの軍隊は、
    反乱を起こして政権を握り、フェルディナントは退位して、息子のボリス3世に
    王位を譲った。

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    1991年6月になると、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を
    宣言した。 それに反対するセルビア人中心のユーゴスラビア連邦軍は、
    スロベニアに介入。 だが、綿密な計画と戦略、それに国民の9割がスロベニア人
    だったこともあって、10日間でスロベニアは独立を果たす。 しかし、クロアチア
    紛争は違った。 ユーゴスラビア王国当時からの懸案とされていた、セルビア人と
    クロアチア人の激しい民族対立が再燃したのだ。

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    6月25日の独立宣言以降、クロアチアでの戦闘は、クロアチア国内に残留した
    セルビア人との間で続いた。 しかし、9月になってユーゴスラビア連邦軍
    (実質的にはセルビア人中心の軍隊)が、クロアチアの首都ザグレブを襲撃
    するにおよび、大規模な戦闘に発展、民族紛争は、本格化した。 特に、
    クロアチア人とセルビア人が混住するスラボニア地区での戦闘では、死者
    3000人を数えたが、元々は仲良く暮らしていた隣り同士だった。

    アメリカ、ロシア、EU、国連などが調停を試みたが、双方の憎しみは深く、
    クロアチア軍は何度もセルビア人自治区に攻勢を掛け、略奪、暴行、虐殺の
    限りをつくした。 この結果、セルビア人自治区は全て制圧され、1995年に
    内戦は終結した。

    クロアチア紛争を契機に、1992年に独立したボスニア・ヘルツェゴビナでも
    紛争が起きた。 430万人の人口のうち、33%を占めるセルビア人の反発を無視し、
    人口比17%のクロアチア人と44%のボシュニャク人(イスラム教徒)が、独立を
    問う住民投票を独断で進めた結果の宣言だった。 不満を抱いたセルビアは、
    大規模な軍事行動を開始。 内戦は3年以上にもおよんだ。

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    【民族浄化】
    この内戦では、民族浄化と呼ばれる異民族排除の政策がとられた。 民族浄化
    とは、ある地域を民族的に単一なものにすることを目的に、嫌がらせや差別的な
    待遇、資産の強制接収や略奪など、異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる
    方法がとられたり、戦闘能力があると見なされた男は、各地で集団殺害や強制
    収容の対象とされたりした。 また、家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・
    ヘルツェゴビナの農村部では、強制収用された異民族の女性らを組織的に強姦し、
    妊娠後しばらくしてから解放することによって、出産せざるを得ない状況に
    追い込んだ。 女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、更に多くの異民族の
    自発的な避難を促すことが出来るからだ。

    このような民族浄化を含め、全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、
    難民、避難民200万人が発生、第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争となった。

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    セルビア共和国の自治州であったコソボは、住民の約8割以上がアルバニア系で、
    セルビア人は1割ほどしか居ない。 元々、旧ユーゴスラビア連邦の時代から、
    他の6つの共和国に準じる自治権を与えられていた。

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    しかし、1988年にセルビアの大統領に就任したミロシェビッチは、コソボの
    自治権を奪って政府機能を中央に集中し、アルバニア語による放送や教育を禁じ、
    アルバニア系住民を官庁から追放するなどの弾圧政策をとった。

    コソボ住民は、これに反発。 初めは非暴力・不服従で対抗していたが、後に
    独立を求めてコソボ開放軍が結成され、武力闘争を始めた。 ユーゴスラビア
    連邦軍やセルビア治安部隊との間に激しい戦闘が続き、多くの死者や難民が
    出たり、家が破壊されたりした。

    1999年に北大西洋条約機構(NATO)が介入して、セルビアを空爆し、セルビア
    国民の生活が圧迫され、やがてミロシェビッチ大統領は失脚した。
    ユーゴスラビア連邦政府は、和平案を受諾し、武力紛争は終わりを告げた。

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    しかし、その後、アルバニア系住民によるセルビア人などへの報復攻撃により、
    多くのセルビア人難民が出るなど、対立は解消していない。

    アルバニア系の人達は、おだやかなイスラム教徒が多い。 しかし、歴史的には、
    ローマ帝国の影響を受けて、キリスト教徒(カトリック)が多かった。 後に、
    オスマン・トルコの侵略にあってから、イスラム教徒が増えた。 セルビア人の
    影響もあり、東方正教会の人も居る。

    コソボの殆どが、こうしたアルバニア系の人たちとなっており、ロマ人は、
    セルビア人よりももっと少ない。

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    コソボ一帯に歴史的に古くから住んでいたのは、アルバニア人の先祖と
    いわれるイリリア人で、バルカン半島の他の地域と同様に、長くローマ 帝国→
    東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の支配下にあったが、7世紀に南スラブ系の
    セルビア人が押し寄せ、キリスト教に改宗すると共に、1168年には、コソボの
    プリズレンを首都にして、セルビア王国を建国した。 セルビア王国は、1389年の
    『コソボの戦い』でオスマン・トルコに破れ、以後オスマン帝国の支配下に入り、
    コソボに居たセルビア人の多くは、クロアチア等、西へ移住して、代わって
    イスラム教に改宗したアルバニア人が再びコソボに移住した。

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    こうして現在ではコソボの人口の約9割がアルバニア人となったが、セルビア人に
    とってコソボは、『セルビア王国の発祥の地』であり、コソボの戦いという
    『聖戦の地』であると共に、セルビア正教会の中心地であるペチがあるため、
    民族の歴史、文化にとって、掛け替えのない聖地となっているため、コソボが
    セルビアから独立する事に関して、セルビア人は、拒否感が根強い。 とりわけ、
    セルビアが主導していたユーゴスラビアが解体し、それぞれの共和国が独立して
    行った後に、セルビア共和国内にあるコソボまでがセルビアから離れる事は、
    到底容認出来ない。

    一方で、アルバニア人にとってのコソボも19世紀末から起きた『アルバニア
    独立運動』の発祥の地となっており、オスマントルコに支配されていた
    アルバニア人は、1878年のベルリン条約でセルビア王国が独立すると、
    『イスラム教徒=トル コ人』として扱われ、セルビア領内から追放されることを
    危惧し、プリズレンを中心に独立運動を本格化させ、1912年には、現在の
    アルバニアとコソボ、マケ ドニア、ギリシャの一部をも加えたアルバニア王国を
    建国するが、バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)や
    列強国の介入で、たちまち領土をむしり取られてしまう。 その結果、現在は
    アルバニアの人口340万人に対して、コソボに約150万人、マケドニアにも約50
    万人のアルバニア人が住んでいる。 『アルバニア人が住む土地は、アルバニア
    として統一されるべき』という、大アルバニア主義は、彼らの民族的悲願でもある。

    セルビア人にとっても、アルバニア人にとっても、コソボの地への思い入れは非常に
    強いものとなっているが、コソボ自治州は、セルビア共和国内でも、共和国に
    匹敵するような自治権を与えられていたが、1981年、完全な共和国となる事を
    求める暴動が起きた。 これに対して、セルビア共和国は、警察と軍によって、
    暴動を鎮圧し、その後、アルバニア系住民達は、セルビア共和国の警察と軍に監視
    される生活を余儀なくされた。

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    1990年、セルビア共和国の大統領となった、ミロシェビッチは、セルビア共和国
    内のコソボ自治州に対する自治権を縮小し、コソボの独立要求を弾圧した事に
    反発したアルバニア系住民は、1992年には、自分達で大統領を選出する等して、
    コソボ共和国独立を求めていた。 しかし、UCK(コソボ解放軍)が結成されて
    からは、そのまでの暴力に訴えない独立運動が、武器闘争に変わってしまった。

    UCKは、結成当初には、秘密裏に活動をしていたが、1997年、一般市民に知られる
    ようになり、コソボ自治共和国でセルビア共和国警察や、治安部隊と衝突を
    繰り返し、次第に若者等を取り込んで拡大して行った。

    これに対して、セルビアの治安部隊は、UCKの活動をテロ活動とみなし、
    アルバニア人達の村を焼き払ったり、住民を追い出したりした。 こうして、
    治安部隊の活動によって、住む場所を失った人達は、国内避難民となった。

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    【紛争発生からNATOによる空爆へ】
    1998年、UCKとセルビア治安部隊の武力衝突が起きると、セルビア人が指導する
    (新)ユーゴスラビア連邦軍が介入し、大規模なUCKとの衝突が起こった。 一方、
    国連安全保障理事会では、セルビア人とアルバニア人の両方に話し合いを促す
    内容の決議がなされた。 1998年10月、NATO(北大西洋条約機構)は、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国に対して、セルビアの治安部隊が、コソボ自治州
    から撤退しなければ、空爆を行うと圧力を掛けた。

    ミロシェビッチ大統領は、NATOの圧力に対して、OSCE(欧州安全保障協力機構)
    の停戦監視団を受け入れ、治安部隊要員の数を減らす等の譲歩を行った。 しかし、
    その後もセルビア勢力とUCKとの争いはおさまらなかったため、1999年2月、
    フランス等が介入し、フランス北部のランブイエで和平交渉が行われた。
    ところが、(新)ユーゴスラビアが、コソボにNATO軍が駐留する事を認めず、
    和平案を拒否した結果、交渉は決裂した。

    1999年3月24日、NATO軍は、国連決議なしにセルビアを空爆した。 NATO軍は、
    コソボ内の治安部隊や軍事施設だけではなく、セルビア全土の工場、橋、鉄道、
    発電所等を狙って激しい空爆を6月10日まで続けた。

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    【NATO軍の人道的介入】
    NATO軍は、国際社会に対して、セルビアへの空爆の理由をコソボ自治州で行わ
    れている重大な人権侵害を食い止めるためだとして、『人道的介入』という言葉を
    使って説明した。 しかし、この空爆で、中国大使館が誤爆にあい、沢山の民間人も
    犠牲となったりした。 また、長期間に及んだため、多くのアルバニア人が難民
    となった。

    空爆前にも約10万人の難民が出ていたが、空爆開始後に、アルバニア、マケドニア、
    モンテネグロ等に逃れた人は、およそ、85万人にのぼったと言われている。 だが、
    一連の空爆によって、ミロシェビッチ政権は、停戦に応じざるを得なくなり、
    1999年6月、大統領は、和平案を受け入れ、ユーゴ連邦軍と治安部隊の撤退、避難民
    となっていたアルバニア人の帰還が行われた。 そして、コソボにおいても、民政や
    難民帰還を行うUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)と、NATOが中心となって結成
    した、KFOR(国際治安部隊)を受け入れた。

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    旧ユーゴスラビアは、第2次世界大戦後、チトー大統領の強力なリーダーシップの元で
    発展した連邦国家だった。 スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、
    モンテネグロ、マケドニアの共和国から成り、セルビア人、クロアチア人、ストベニア人、
    マケドニア人、モンテネグロ人、そして、ムスリム人達が、連邦の中で共存していた。

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    主にセルビア共和国に住んでいて、旧ユーゴスラビア連邦の人口の約4割を占めていた
    セルビア人は、、旧ユーゴスラビアの中心的な存在だった。 1980年に、チトー大統領が
    死去し、1980年代末から冷戦が終わりに近づくと、それぞれの民族の中で独立を求める
    運動が出て来た。

    1991年には、スロベニア、クロアチア、マケドニア、1992年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ
    が次々に独立宣言をした。 そのうち、無血で独立出来たのは、マケドニアのみで、他の
    地域では、紛争が起きてしまった。

    ■ スロベニアの独立
    スロベニア人が多数派のスロベニアでは、1991年6月に連邦からの独立を宣言したが、
    スロベニア領内に攻め入ったユーゴスラビア連邦軍と内戦状態となった。 ところが、
    10日間で停戦となり、独立に成功した。

    ■ クロアチアの独立に関わる争い
    クロアチアも、1991年6月に独立を宣言し、スロベニアと共に1992年1月、EC(欧州共同体)
    によって、独立を承認された。 このことにより、ユーゴスラビアは解体した事になるが、
    その前後にクロアチアでは、クロアチア人とセルビア人による争いが起きていた。
    クロアチアでは、クロアチア人が多数を占めていたが、クライナ地方は、セルビア人が
    集中して住んでおり、多数派となっていた。 この地方のセルビア人達は、クロアチアが
    ユーゴスラビアから独立をしてしまうと、少数派になってしまうという危機感を持っていた。
    そこで、1991年5月、住民投票を行い、クライナ地方をセルビア共和国に編入する事を
    決めた。 その結果、クロアチア人とセルビア人の対立が始まった。

    この争いに、セルビア人が主導権を握るユーゴスラビア軍が介入し、クロアチア領土の
    3分の1を制圧した。 1991年12月、セルビア人はクライナ・セルビア共和国の樹立を
    宣言した。 しかし、1995年5月、クロアチア人は、セルビア人の支配地域を攻撃し、
    制圧した。 11月には、クロアチア人とセルビア人の間で、和平条約が結ばれ、1998年
    には、全ての領土が、クロアチア人の統治下に置かれた。

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    ■ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
    旧ユーゴスラビアだった周りの国々が独立するのを見て、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、
    1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。 ボスニアには、セルビア人、
    クロアチア人、ムスリム人が住んでいるが、セルビア人は、独立に反対して、国民投票を
    放棄した。 こうした中、1992年4月に共和国の首都サラエボで始まった戦闘は、3民族が
    入り乱れての紛争に発展した。

    この時、旧ユーゴスラビア連邦解体後に、セルビアとモンテネグロによって作られた、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国が、ボスニアに住むセルビア人を支援したため、セルビア人
    は、クロアチア人、ムスリム人に対して、軍事的に優位に立った。 紛争開始3ヶ月で、
    セルビア人勢力は、ボスニアの約7割を支配し、クロアチア人とムスリム人とが、残りの
    領土で争った。 ボスニア紛争では、『民族浄化』が行われたため、国際的な関心を集め、
    国連の場でも、民族浄化に対する非難が行われた。

    旧ユーゴスラビアで起きている民族浄化を防ぐために国連は、1992年7月、UNPROFOR
    (国連保護軍)と呼ばれる平和維持部軍を紛争地域に送り込んだ。 しかし、この試みは、
    上手くは行かず、国連の部隊が市民を守っている地域でも虐殺が起きた。 1995年には、
    セルビア人勢力によるムスリム人への攻撃が激非常に激しくなり、国連等の人道支援
    物資も、上手く目的地に届かないような状況が続いていた。 1995年7月、2,000人の
    セルビア人の兵士が、ムスリム人が多く暮らすスレブレニツァに攻め入り、街は陥落。
    街から逃げ出したムスリム人は、兵士に追いかけられて殺された。 この事件では、
    7,000人以上の命が失われたと言われている。

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    ■ NATOによる空爆から、ディトン合意へ
    国際社会は、(新)ユーゴスラビア連邦共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争への介入を
    強く避難した。 1992年5月、国連安保保障理事会は、ユーゴスラビア連邦共和国に
    対して、貿易禁止等の経済制裁を行う事を決定した。 そうしたなか、1994年3月、
    ボスニアのムスリム人とクロアチア人が、連邦国家を樹立する事で合意。 しかし、7月、
    セルビア人勢力は、アメリカ、イギリス等が提案した和平案を拒否した。 セルビア人に
    対する国際社会の批判が高まるなか、1994年4月、国連の決議に基づいて、NATO
    (北大西洋条約機構)が、セルビア人に対する空爆を初めて行った。

    1995年、大規模な空爆が、8月30日未明から9月14日に掛けて行われた。 この
    空爆の間、クロアチア人とムスリム人は、セルビア人に反撃し、セルビア人が支配して
    いた地域を奪って行った。 このような圧力下に置かれたセルビア人は、和平交渉に
    応じるしかなかった。 こうして、1995年10月に停戦、アメリカが間に入って、クロアチア、
    セルビア、ボスニアの指導者が和平交渉を開始し、11月には、クロアチア和平、
    ボスニア和平の枠組みが決まった。 このうち、ボスニアに関する和平合意を
    『ディトン合意』と言う。

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