多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:スロヴァキア

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    『ルテニア』は、現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる地域を
    指すが、広い意味ではウクライナ、あるいは、ウクライナとベラルーシを合わせた
    地域を指す。 ルテニアとは『赤ロシア』の意味を持つ。

    この『ルテニア』とは、今日のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の祖先
    であるルーシ人のラテン語による外名で、『ルーシ』のラテン語名『ルテニア』
    (Ruthenia)に由来している。 したがって、元来はルーシ人の同義語であるが、
    特に、西ウクライナのウクライナ人の古称としても用いられる。

    c11d8d2

    日本語における研究では、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)を『ルテニア』と呼ぶ
    習慣がないため、その時代のルーシ人をルテニア人と呼ぶのは一般的ではない
    (西欧米の研究では呼ぶ場合がある)。 また、ロシア帝国領内の小ロシア人や
    白ロシア人をルテニア人と呼ぶのも一般的ではない。

    ルテニア人は、ルシン人とも書かれることがあるが、少数民族であるルシン人は、
    本来のルテニア人とは異なっており、この表記の揺れが混乱を招いている。
    ルシン人は、ウクライナ語の方言とされるルシン語を話すスラヴ人の民族集団
    であり、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、ウクライナなど東ヨーロッパ
    各地に広く住んでいる。

    ルーシ人が19世紀から20世紀初めにかけて『ウクライナ人』として民族意識が
    形成されていく中、ルシン人はそれを受け入れてこなかった少数民族を起源に持つ。
    こうした現象は1945年以降のソヴィエト政権下のカルパチアやポーランド政府、
    そして1950年代前半までのチェコスロヴァキア政府が『ルシン人』という名称の
    使用を禁止していたことによる。

    1441803888

    今ではスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、チェコそしてセルビア政府が
    『ルシン人』と公式に少数民族として認めている。 2007年、ウクライナの
    ザカルパッチャ州で初めて独立した民族であると認められた。 ウクライナ国内の
    ルシン人がウクライナ国籍を持ち、そのほとんどがウクライナ人としての民族意識を
    持っているのに対し、現在ルシン人としての民族意識を有している人々の多くは
    ウクライナ国外に住んでいる。
     
    ルシン人の数は約120万人と見積もられているが、そのうち自分がルシン人であると
    認識しているのはたった55,000人に過ぎない。 ルシン人という民族分類には
    異論も多く、ルシン人は広義的なルーシ人であり、ロシア人、ウクライナ人、
    ベラルーシ人とは別の独立した東スラヴ人の一派であるとされる一方で、他方では
    ウクライナ人の下位集団に過ぎないとも言われる。

    ベラルーシ人同様に、ロシア人とウクライナ人と異なり、西進したテュルク系、
    モンゴル系などの異民族との混血は少なく、コーカソイドの遺伝子を濃厚に残して
    いる特徴がある。

    現在ウクライナ領となっている、ザカルパチア・ルシン人団体大会は、ウクライナ
    政府との対話によって、ルシン民族の承認と、ポトカルパツカ・ルーシの自治権
    承認を求めることを決めた。 タス通信によると、声明には、1991年に
    ザカルパチアで実施された住民投票の結果の承認についても、キエフ当局と話し合う
    意向が記載されている。 尚、住民投票では、約80パーセントの住民が、同地域に
    自立した地位を与えることに賛成票を投じた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1960年代に入って、チェコスロヴァキア経済は急速に衰退し始めた。 政府が
    機械に投資しなかったので、工場施設は古くなるばかりだった。 国営と共同組合
    農場の生産は上がらず、食料不足も生じた。 生活水準が低下するに連れて、
    チェコスロヴァキア政府関係者は政治、経済の方向転換の必要性を感じた。

    それに答えて、アントニン・ノヴォトニ大統領は、企業によっては賃金と価格を
    自主的に設定する自由を与えた。 しかし、ノヴォトニ政権は、政府の管理下に
    ある計画経済制度の破棄、報道規制の緩和、複数野党の合法化などを拒否した。
    1960年代中ごろ、経済情勢が悪化するに連れて、大統領は共産党内部からの強い
    批判にさらされた。

    スロヴァキア共産党の指導者アレクサンダー・ドプチェクは、自由改革の加速と、
    スロヴァキアの自主性を求めてノヴォトニに挑戦した。 ドプチェクは報道の
    自由を許可して、改革を更に進めた。

    1968年1月、ドプチェクはチェコスロヴァキア共産党の第一書記(指導者)に
    選出された。 2ヵ月後、ノヴォトニは辞任し、ルートウィック・スヴォボダが
    大統領に就任した。 党は検閲制度を廃止し、宗教と新聞の自由を保障した。
    産業は農場に対する政府の統制を緩和した。 スロヴァキアの独立促進も約束
    した。

    2149880

    これらの動きはソ連指導者と、ワルシャワ条約機構加盟国の指導者をあわて
    させた。 共産主義の改革は、自身の政治体制を脅かすと見たからである。
    1968年8月20日、ワルシャワ条約機構国軍は、チェコスロヴァキアに侵入し、
    占領した。 ソ連政府指導者は、ドプチェクの逮捕を命じ、モスクワに連行した。
    それから2年後、党はドプチェクの改革を放棄して検閲制度を復活し、経済の
    統制を始めた。

    ソ連は、チェコスロヴァキアを懐柔するために、連邦制度を認めて、チェコと
    スロヴァキアにそれぞれ社会主義共和国が設立された。 ソ連はチェコ
    スロヴァキアに軍隊を駐留させ、ソ連と親しいフサクが、チェコスロヴァキアの
    共産党第一書記となった。

    ソ連の侵入によって挫折した一連の改革事件は、毎年開かれる国際音楽祭にから
    名を取って『プラハの春』自由化運動と呼ばれた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ