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    タグ:スロベニア

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    1991年6月になると、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を
    宣言した。 それに反対するセルビア人中心のユーゴスラビア連邦軍は、
    スロベニアに介入。 だが、綿密な計画と戦略、それに国民の9割がスロベニア人
    だったこともあって、10日間でスロベニアは独立を果たす。 しかし、クロアチア
    紛争は違った。 ユーゴスラビア王国当時からの懸案とされていた、セルビア人と
    クロアチア人の激しい民族対立が再燃したのだ。

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    6月25日の独立宣言以降、クロアチアでの戦闘は、クロアチア国内に残留した
    セルビア人との間で続いた。 しかし、9月になってユーゴスラビア連邦軍
    (実質的にはセルビア人中心の軍隊)が、クロアチアの首都ザグレブを襲撃
    するにおよび、大規模な戦闘に発展、民族紛争は、本格化した。 特に、
    クロアチア人とセルビア人が混住するスラボニア地区での戦闘では、死者
    3000人を数えたが、元々は仲良く暮らしていた隣り同士だった。

    アメリカ、ロシア、EU、国連などが調停を試みたが、双方の憎しみは深く、
    クロアチア軍は何度もセルビア人自治区に攻勢を掛け、略奪、暴行、虐殺の
    限りをつくした。 この結果、セルビア人自治区は全て制圧され、1995年に
    内戦は終結した。

    クロアチア紛争を契機に、1992年に独立したボスニア・ヘルツェゴビナでも
    紛争が起きた。 430万人の人口のうち、33%を占めるセルビア人の反発を無視し、
    人口比17%のクロアチア人と44%のボシュニャク人(イスラム教徒)が、独立を
    問う住民投票を独断で進めた結果の宣言だった。 不満を抱いたセルビアは、
    大規模な軍事行動を開始。 内戦は3年以上にもおよんだ。

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    【民族浄化】
    この内戦では、民族浄化と呼ばれる異民族排除の政策がとられた。 民族浄化
    とは、ある地域を民族的に単一なものにすることを目的に、嫌がらせや差別的な
    待遇、資産の強制接収や略奪など、異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる
    方法がとられたり、戦闘能力があると見なされた男は、各地で集団殺害や強制
    収容の対象とされたりした。 また、家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・
    ヘルツェゴビナの農村部では、強制収用された異民族の女性らを組織的に強姦し、
    妊娠後しばらくしてから解放することによって、出産せざるを得ない状況に
    追い込んだ。 女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、更に多くの異民族の
    自発的な避難を促すことが出来るからだ。

    このような民族浄化を含め、全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、
    難民、避難民200万人が発生、第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争となった。

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    旧ユーゴスラビアは、第2次世界大戦後、チトー大統領の強力なリーダーシップの
    元で発展した連邦国家だった。 スロベニア、クロアチア、セルビア、
    モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの共和国から成り、
    セルビア人、クロアチア人、ストベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人、
    そして、ムスリム人達が、連邦の中で共存していた。

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    主にセルビア共和国に住んでいて、旧ユーゴスラビア連邦の人口の約4割を
    占めていたセルビア人は、、旧ユーゴスラビアの中心的な存在だった。
    1980年に、チトー大統領が死去し、1980年代末から冷戦が終わりに近づくと、
    それぞれの民族の中で独立を求める運動が出て来た。

    1991年には、スロベニア、クロアチア、マケドニア、1992年には、ボスニア・
    ヘルツェゴビナが次々に独立宣言をした。 そのうち、無血で独立出来たのは、
    マケドニアのみで、他の地域では、紛争が起きてしまった。

    ■ スロベニアの独立
    スロベニア人が多数派のスロベニアでは、1991年6月に連邦からの独立を宣言
    したが、スロベニア領内に攻め入ったユーゴスラビア連邦軍と内戦状態となった。
    ところが、10日間で停戦となり、独立に成功した。

    ■ クロアチアの独立に関わる争い
    クロアチアも、1991年6月に独立を宣言し、スロベニアと共に1992年1月、EC
    (欧州共同体)によって、独立を承認された。 このことにより、ユーゴ
    スラビアは解体した事になるが、その前後にクロアチアでは、クロアチア人と
    セルビア人による争いが起きていた。 クロアチアでは、クロアチア人が
    多数を占めていたが、クライナ地方は、セルビア人が集中して住んでおり、
    多数派となっていた。 この地方のセルビア人達は、クロアチアが
    ユーゴスラビアから独立をしてしまうと、少数派になってしまうという危機感を
    持っていた。 そこで、1991年5月、住民投票を行い、クライナ地方を
    セルビア共和国に編入する事を決めた。 その結果、クロアチア人と
    セルビア人の対立が始まった。

    この争いに、セルビア人が主導権を握るユーゴスラビア軍が介入し、クロアチア
    領土の3分の1を制圧した。 1991年12月、セルビア人はクライナ・セルビア
    共和国の樹立を宣言した。 しかし、1995年5月、クロアチア人は、セルビア人の
    支配地域を攻撃し、制圧した。 11月には、クロアチア人とセルビア人の間で、
    和平条約が結ばれ、1998年には、全ての領土が、クロアチア人の統治下に
    置かれた。

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    ■ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
    旧ユーゴスラビアだった周りの国々が独立するのを見て、ボスニア・
    ヘルツェゴビナでも、1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。
    ボスニアには、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人が住んでいるが、
    セルビア人は、独立に反対して、国民投票を放棄した。 こうした中、1992年
    4月に共和国の首都サラエボで始まった戦闘は、3民族が入り乱れての紛争に
    発展した。

    この時、旧ユーゴスラビア連邦解体後に、セルビアとモンテネグロによって
    作られた、(新)ユーゴスラビア連邦共和国が、ボスニアに住むセルビア人を
    支援したため、セルビア人は、クロアチア人、ムスリム人に対して、軍事的に
    優位に立った。 紛争開始3ヶ月で、セルビア人勢力は、ボスニアの約7割を支配し、
    クロアチア人とムスリム人とが、残りの領土で争った。 ボスニア紛争では、
    『民族浄化』が行われたため、国際的な関心を集め、国連の場でも、民族浄化に
    対する非難が行われた。

    旧ユーゴスラビアで起きている民族浄化を防ぐために国連は、1992年7月、
    UNPROFOR(国連保護軍)と呼ばれる平和維持部軍を紛争地域に送り込んだ。
    しかし、この試みは、上手くは行かず、国連の部隊が市民を守っている地域でも
    虐殺が起きた。 1995年には、セルビア人勢力によるムスリム人への攻撃が
    非常に激しくなり、国連等の人道支援物資も、上手く目的地に届かないような
    状況が続いていた。 1995年7月、2,000人のセルビア人の兵士が、ムスリム人が
    多く暮らすスレブレニツァに攻め入り、街は陥落。 街から逃げ出した
    ムスリム人は、兵士に追いかけられて殺された。 この事件では、7,000人
    以上の命が失われたと言われている。

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    ■ NATOによる空爆から、ディトン合意へ
    国際社会は、(新)ユーゴスラビア連邦共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ
    紛争への介入を強く避難した。 1992年5月、国連安保保障理事会は、
    ユーゴスラビア連邦共和国に対して、貿易禁止等の経済制裁を行う事を決定した。
    そうしたなか、1994年3月、ボスニアのムスリム人とクロアチア人が、連邦国家を
    樹立する事で合意。 しかし、7月、セルビア人勢力は、アメリカ、イギリス等が
    提案した和平案を拒否した。 セルビア人に対する国際社会の批判が高まるなか、
    1994年4月、国連の決議に基づいて、NATO(北大西洋条約機構)が、セルビア人に
    対する空爆を初めて行った。

    1995年、大規模な空爆が、8月30日未明から9月14日に掛けて行われた。 この
    空爆の間、クロアチア人とムスリム人は、セルビア人に反撃し、セルビア人が
    支配していた地域を奪って行った。 このような圧力下に置かれたセルビア人は、
    和平交渉に応じるしかなかった。 こうして、1995年10月に停戦、アメリカが
    間に入って、クロアチア、セルビア、ボスニアの指導者が和平交渉を開始し、
    11月には、クロアチア和平、ボスニア和平の枠組みが決まった。 このうち、
    ボスニアに関する和平合意を『ディトン合意』と言う。

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    ユーゴスラビアは、南東ヨーロッパのバルカン半島地域にかつて存在した、
    南スラブ人を主体とした国家。 かつては、東欧で最も進んだ開放路線を
    歩んでいた筈のユーゴスラビアは、かつての支配国である、オーストリアと
    トルコの2大帝国の置き土産とも言うべき、宗教、並びに、民族間の対立へと
    発展し、その後、各民族間で、血で血を洗う泥沼の内戦へと突入。 進み
    過ぎていたがために、他の東欧諸国とは一切歩調を合わせる事無く、連邦は
    あえなく崩壊した。 『ユーゴスラビア』の国名の由来は、南スラヴ人の
    独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来しており、『南スラブ国』
    という意味。



    かつて、ユーゴスラビア連邦をひとつにまとめるためのスローガンが実は
    存在していたが、それは、『7つの国境』『6つの共和国』『5つの民族』
    『4つの言葉』『3つの宗教』『2つの文字』『1つの国家』というものであった。
    現在は、その6つの構成共和国が全て独立し、スロベニア、クロアチア、
    ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアとなって
    おり、それぞれが独立国家となっている。 また、セルビアの自治州で
    あったコソボは、2008年に独立を宣言したものの、コソボを承認している
    国は少数に留まっており、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認して
    いない国々からは、依然、コソボはセルビアの自治州とされている。

    5つの民族の定義も現在では曖昧で、まず、イスラム教徒のムスリム人を
    別民族とし、かつ、アルバニア系のコソボ人、ハンガリー系のボイボディナ人が
    セルビア内に混在しているため、かつての連邦内での民族の数の定義は、
    あくまでも、プロパガンダ用に過ぎなかった。

    4つの言葉も、言語学的に、セルビア語とクロアチア語は、同一言語とされ
    ていた共産党時代とは打って変わって、以前までは、同一言語であった、
    セルボ・クロアチア語は、政治的、民族的な対立によって、現在では、
    セルビア語、クロアチア語、ボスニア語がそれぞれ別言語として独立しており、
    更に、セルビア内には、アルバニア語話者、並びに、ハンガリー語話者も
    多いため、こちらもかなり懐疑的。 

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    3つの宗教に関しては、現在でも、正教、カトリック、イスラム教で変わらず。
    2つの文字に関しては、以前までは、セルビア、並びに、ボスニアでは、
    ロシア語と同じキリル文字が主に使用されていたものの、2000年以降は、
    順次ローマ字への移行が進められて、現在では、セルビアやボスニアでも、
    キリル文字ではなく、ローマ字が主に使われるようになったため、2つの
    文字の定義も完全に崩壊した。

    国名として『ユーゴスラビア』を名乗っていたのは、1929年から2003年
    までの間で、実質的な枠組みとしては、1918年に建国されたセルビア人・
    クロアチア人・スロベニア人王国が始まり。 その後、1929年に
    『ユーゴスラビア王国』へと改名された。 1945年からは、社会主義体勢が
    確立され、『ユーゴスラビア連邦人民共和国』と改称され、1991年の
    ユーゴスラビア紛争までは、この体制が維持されたが、スロベニアと
    クロアチアを中心とする、工業先進地域が、連邦からの独立を要求し、
    セルビアを中心とする連邦政府と対立、その後、泥沼の内戦へと陥ったものの、
    スロベニアとクロアチアは、内戦も最小限に留める事に成功したため、
    そのまま連邦からは独立。 その後、多少遅れて、ボスニア・ヘルツェゴビナと
    マケドニアも独立を宣言したため、特に、セルビア人とクロアチア人、並びに、
    ムスリム人が混在していたボスニアでは、内戦が激しく、数年間に渡り激しい
    戦いが繰り広げられた。

    その後も連邦に留まったのは、同じセルビア人を中心とするセルビア共和国と
    モンテネグロ共和国のみで、1992年にはこの2国間で『ユーゴスラビア連邦
    共和国』が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合へと移行し、
    国名を『セルビア・モンテネグロ』と改称したため、ユーゴスラビアの名を
    冠する国家は無くなった。 更に、2006年には、モンテネグロが独立したため、
    国家連合自体も解消され、ユーゴスラビアは、完全消滅となった。
     
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    ユーゴスラビアの首都は、終始一貫して、現在のセルビアの首都である
    ベオグラードであった。 よって、ユーゴスラビアは、セルビア人が中心の
    国家であった。 これに反発したクロアチア人とスロベニア人も、同じ
    南スラブ人ではあるものの、宗教の違いは超えられず、それが、怨念へと発展し、
    今でも、ボスニアでは、セルビア人共和国とクロアチア人共和国の激しい
    対立へと繋がっている。

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