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    タグ:スラブ語

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    【スラブ祖語】
    スラブ語は、西は中央ヨーロッパのエルベ川中流域から、南はバルカン半島の
    大部分に渡り、東はウラル山脈を越えて、シベリアの太平洋岸まで、北は
    ユーラシア大陸の北極圏の西側の一部を除く、大部分を占める広大な地域に住む
    住民の間で話されている言語であり、方言を含むスラブ語の主要言語の数は、
    古い時代に書かれた資料でのみ伝わるものを含めると、20以上にも及ぶ。

    スラブ語は、語彙、発音、文法的な特徴が非常に良く似通っており、その共通点は、
    古い時代になるほど大きくなることから、全てのスラブ語は1つの共通の祖語から
    派生し、時代と共に分化、発達して今日に及んだものと考えられている。 この分化
    前までの共通言語を「スラブ祖語」と呼び、そこから分化、発達したと考えられる
    系統上の親縁言語を「スラブ諸語」と呼ぶ。 スラブ諸語は、その相互間の親縁
    関係により、「東スラブ諸語」、「西スラブ諸語」、および、「南スラブ諸語」の
    3つに大きく分類される。

    スラブ語は、同じインド・ヨーロッパ語族に属するロマンス語やゲルマン語と
    比較すると、文字の出現が遅かったため、実際には文字で表記されることが
    なかった「スラブ祖語」は、不明な部分が多いものの、記録に残るスラブ諸語に
    共通の主な特徴から、具体的な言語体系として全体的に把捉することは難しい
    ものの、個々の音韻や語の形態に関しては、かなりの確立で予測出来る場合が多い。

    スラブ語共通の特徴の一部は、バルト語、ゲルマン語、インド、イラン語などを
    含むインド・ヨーロッパ語族の古い特徴と著しい対応や一致を示している。 また、
    現代語と比較しても、ロシア語とドイツ語、英語、フランス語などの間には、
    文法や基礎語彙の面においても、偶然の一致では説明出来ないほどの体系的な一致や
    並行関係が見られる。 これは、スラブ語がこれら各言語と祖先を共有している
    ことを表しており、スラブ祖語は、かつて極めて古い時代に「インド・
    ヨーロッパ祖語」から分離したと考えられている。

    まず、紀元前3000年頃までに、インド・ヨーロッパ祖語が形成され、そこから、
    各々の言語の祖語の分離形成が始まったが、スラブ祖語はその一つとして比較的
    遅い紀元前1000年頃になって分離したと考えられている。 そして、そのスラブ
    祖語から、各スラブ語が分化する過程の中で、遅くとも5世紀頃までには、
    東スラブ祖語が分離し、東スラブ語の独自の分化が始まり、10世紀末には、現在の
    ロシア語の基礎となる東スラブ標準語の形成過程に入ったと考えられている。

    【スラブ語発祥の地】
    スラブ語発祥の地に関しては、カルパチア山脈の北東山麓(ポーランド、または、
    ウクライナ)とする説や、更に西にあるチェコ、ドイツ、ポーランド国境地域で
    あるズデーテン地方とする説など、これまでに様々な見解が発表されたが、
    いずれもはっきりとはしてない。 19世紀前半には、農耕系のスキタイ人を
    スラブ人の祖先と見なすスラブ人の起源説が現れたが、紀元前1000年頃に黒海
    北岸からカルバナア山脈に至るステップ地帯に分布したスキタイ人の言語は、
    実はイラン語系であったことが証明されている。

    紀元前7~8世紀頃に滅びた先住民のキンメリア人の言語は、スキタイ人をはじめ
    とするこの周辺地域の民族に受け継がれたと考えられているが、その後、民族
    大移動が起こり、現在の中欧と東欧地域の広範囲に進出して来たスラブ人もその
    影響を強く受けたとする考え方が最も有力となっている。 スラブ人の祖先の
    事が記された古文書が現れるのは、ヨーロッパの民族集団の分布を一変させた
    民族大移動の時代以後であったため、スラブ祖語に関する確実な資料や証拠は
    何一つ存在していない。

    century

    【スラブ諸族の形成と民族大移動】
    4世紀後半に現在のロシアのペルミ付近から黒海北岸へと侵入して来たフン族に
    よって土地を奪われたゲルマン族の一派である東ゴート族は、376年にドナウ
    流域のローマ帝国領内へと移動したが、このことに端を発する民族大移動は、
    東西ローマ帝国の分裂と、ゲルマン族の攻撃によって476年に西ローマ帝国が
    滅亡するという、ヨーロッパ史上における大変動をもたらしたが、東西ゴート族の
    勢力圏や東西ローマ帝国領内、あるいは、その隣接地に住んでいたスラブ人が、
    現在の居住分布に近い居住分布へと変化を遂げたのは、この時期であったと
    考えられている。

    350年、ゴ一卜人司教であるウルフィラがキリスト教布教のために考案した
    ゴート文字により、新約聖書のゴート語翻訳が行われたが、この頃には、ドナウ
    河口、ヴィスワ川上流域、並びに、ドニェプル川下流域の3地域に分かれて住む
    スラブ3部族が、現在の南、西、東の各スラブ人集団へと発展して行ったと考え
    られている。 民族大移動後の6世紀半ばには、スラブ人は既にこの3集団へと
    分化を遂げていたが、これ以降、スラブ人のバルカン半島全域への進州の勢いが
    強まり、いくつかの地域でスラブ人による国家形成の過程が進行した。 7世紀
    には、短命であったが、チェコ、スロバキアの大部分とクロアチア、スロベニアの
    一部に渡る広い地域を支配したスラブ人初の部族連合国家であるサモ王国
    (631年~658年)、ドナウ河口から黒海西岸とドナウの南岸一帯を広く支配した
    アジア系ブルガール人によるドナウ・ブルガール汗国(?~700年頃)、その後、
    その土地の南スラブ人と同盟して681年には、東ローマ帝国から独立を獲得した
    ことに始まる第1次ブルガリア帝国(681年~1018年)へと発展して行った。

    9世紀には、サモ王国をも大幅に上回る大モラヴイア公国(833年~907年)や、
    ポーランドを最初に統一したピャスト王朝(960年頃~1370年)、更に、
    東スラブ人の最初の統一国家となったキエフ・ルーシ(862年~1240年)など、
    現代のスラブ諸国に深い関わりを持つ国々が誕生している。

    尚、セルビア人がブルガリアから自立したのは9世紀後半であり、925年には、
    クロアチア王国が建国されたとされているものの、スロベニア人は、古代には
    フランク王国、中世から近代に掛けては神聖ローマ帝国、その後、
    ハプスブルグ家のオーストリア帝国の支配下にあり、同じ南スラブ人である
    セルビア人、クロアチア人と共に国家を形成したのは、第1次世界大戦後のこと
    であった。

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    【ブルガール人とブルガリア帝国】
    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していた
    チュルク系遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い
    地域に分散していた一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に
    侵入し、ブルガリア帝国を建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民
    である南スラブ人に同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。 そのため
    プロト・ブルガリア人とも呼ばれている。

    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部
    からヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で
    遊牧生活をおくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、
    東ヨーロッパに移動した。 フン人の西進後、ブルガール人の一派は、5世紀
    頃から、アヴァール人の一派と共に度々東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ
    方面に侵入するようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原
    地帯において部族連合国家である大ブルガリアを形成した。 しかし、
    ブルガール部族連合は分裂し、北方のヴォルガ・ブルガール、西方のドナウ・
    ブルガールへと分かれて移住して行った。 原住地に残ったブルガール人たちは、
    アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールや
    ドナウ・ブルガールとの対比から、大ブルガリアと呼ばれた。 大ブルガリアの
    本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
     
    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス
    北麓のチュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、
    ハザール可汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀の
    ハザールの滅亡と共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を
    遡ってカマ川との合流地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタールスタン
    共和国周辺)に定住、農業と交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、後にアッバース朝と通商を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・
    ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住む
    チュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であると
    されている。 特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でも
    ブルガール人の話していた言語の特徴を保持しているという。 一部の部族
    集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住したが、
    この集団をドナウ・ブルガールと言う。

    彼らは南隣する東ローマ帝国と戦い現地のスラブ人を支配する国家を形成し、
    680年に第一次ブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。ブルガール・
    ハン国のブルガール人達は、9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第に
    コーカソイドに属するスラブ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して行った。

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、
    ヴォルガ川中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語である。
    チュルク諸語の中での位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られ
    ている。 ブルガール語の話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを
    構成する民族集団に含まれていたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、
    他のチュルク諸語とブルガール語との間で見られる音韻上の対立が規則的に
    現れる事から、現在存在する言語の中では、ブルガール語に近縁の唯一の言語で
    あるとみなされている。 尚、現在のヴォルガ・タタール語は、ブルガール語の
    要素を一部含むものの、キプチャク系チュルク言語とブルガール語の混交言語と
    考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラブ化に伴い、バルカンでの話者は
    途絶したと見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部の
    プリスカや、ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文は
    ギリシア文字や突厥文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、
    内容は祈祷文や讃辞の他、法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる
    例があり、スラブ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を
    公用語として使用していた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者
    であった南スラブ人の言葉であり、支配者の言語が被支配者の言語に吸収された
    と言う意味では、世界的に見ても、かなり珍しい言語となっているが、その
    被支配者であった言語が、共通スラブである古代教会スラブ語の基となった
    のは、非常に興味深い歴史的な事実である。 

    ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、
    モンゴルによるヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。
    ヴォルガ川流域では、アラビア文字や古チュルク文字を使ったヴォルガ・
    ブルガール語の碑文が多数発見されている。 ブルガリア語は、元々アジア人
    であったブルガール人が、モンゴル・タタールの大軍に押し出されて、遥々
    ヨーロッパの地まで民族大移動してきた際に、そこに住んでいたスラブ人と
    同化し、スラブ語化された言語であり、支配者の言語が、被支配者の言語に
    吸収されたという、世界でも非常に稀な言語となっている。 この逆パターンが、
    ハンガリー語とフィンランド語で、アジアから押し出された、マジャール人と
    フィン人のアジア系言語は、そのまま、ヨーロッパに根付いた。

    【ブルガリア語の形成】
    ブルガリア語は、古くから、スラブ人の間では、宗教・学問の言語として
    使用されていた「古代教会スラブ語」であり、その元となった言語であるため、
    非常に古い文語の歴史を持っているものの、約500年間にも及ぶオスマントルコ
    支配の時代に、新たに教会用語となったギリシャ語に押されて、かなり衰退
    したが、18世紀後半に入って、ブルガリア人聖職者の間から、ブルガリア語
    復興の機運が生まれ、現代ブルガリア語の元となる新ブルガリア語が形成され、
    民族意識が高まり、ブルガリア語は、オスマン帝国からの独立運動を支える
    重要な役割を果たした。

    スラブ祖語は、元々、古代のブルガリア語でるため、ブルガリア語に似ている
    言語ほど、昔の文法体型を維持している事になるが、ブルガリア語自体が、
    オスマントルコ支配の時代に、かなり崩れてしまったため、文法的には、英語に
    かなり近い。 文法が崩れ去った言語は、どの言語も、ほとんど、英語のように
    なるという共通点がある。

    スラブ語の「私」は、ブルガリア語以外、全て「ja」だが、古代教会スラブ語では、
    「私」の事を「az」と言うのと、スラブ語では、「アルファベット」の事を
    「Azbuka」と言うため、スラブ人は、「az」が「私」という意味である事を
    皆知っている。 ロシア語とブルガリア語は、そのまま喋ってもほぼ内容が理解
    出来るぐらい似ている言語だが、スラブ語は、ゲルマン語他の言語と比較して、
    それぞれの言語に分かれたのがかなり遅かったため、ブルガリア語以外も全言語が
    かなり似通っている。 よって、スラブ語のうちの何れかの言語をある程度理解
    出来ていれば、その他の言語でも何を言っているのか、ほぼ理解可能である。

    【ブルガリア語とマケドニア語】
    ブルガリア語とマケドニア語は、方言程度の違いしかない、非常に似通った
    言語であるため、ブルガリア人は、皆マケドニア語の事を、ブルガリア語の
    方言だと考えている場合が多い。 スラブ語は屈折語であり、名詞類は6つ、
    あるいは、7つに格変化するが、ブルガリア語、マケドニア語では、この特徴が
    殆んど失われ、代名詞に格変化が残るのみである。 この格変化の消失に
    示されるように、ブルガリア語とマケドニア語は、その他のスラブ語とは異なる
    特徴を持ち、その異なる部分は、むしろ、系統関係を異にする近隣の
    ルーマニア語やアルバニア語等と共通する特徴を持っている。

    一般的に、地理的に隣接した複数の言語が、長期間の言語接触の結果、文法や
    語彙構造等、類型論的に相似した言語的な特徴を持つようになることが知られ
    ているが、系統関係に関わりなく、その様に類似した共有する言語的領域を
    「言語圏」と呼ぶ。 バルカン半島では、こうした「言語圏」の存在が早く
    から知られており、ブルガリア語とマケドニア語は、このバルカン言語圏に
    含まれるスラブ語である。

    バルカン言語圏の特徴としては、後置冠詞がある。 スラブ語には、語類
    としての冠詞はなく、必要に応じて、指示代名詞がその機能を果たしているが、
    通常、これらは形容詞と同様、名詞の前に置かれ、名詞の性、数、格に一致する。
    これに対して、ブルガリア語は、後置冠詞を用いて、「その」という指示代名詞を
    意味する。

    ブルガリア語とマケドニア語は、この他にも、共通スラブ語の持っていた時制
    体系を受け継ぎ、これを更に発展させたため、他のスラブ語と比較すると、
    時制に関する形態が豊富にあるという特徴を持っている。 時制形式が単純化
    されたロシア語では、現在形、過去形、未来形の3つの形式を区別するのみだが、
    ブルガリア語では、過去、未来の時制に複数の迂回形がある。

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    スラブ語は、それぞれの地理的な分布により、東、西、南スラブ語の3語群に
    区分される。

    【東スラブ語群】(地図の赤い部分)
    東スラブ語群に含まれるのは、ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語であり、
    かつてのソ連邦内でも使用されていた言語となっており、現在もロシア、
    ウクライナ、ベラルーシにおけるそれぞれの公用語となっている。 東スラブ語は、
    類似性が比較的高く、ロシア帝国時代のウクライナ語とベラルーシ語は、ロシア語の
    方言とみなされていた。 ウクライナ語とベラルーシ語には、ポーランド語に類した
    特徴が多く、かつて、ポーランドの支配下にあったという歴史的な関係を示して
    いる。 また、ウクライナとスロバキアの国境付近には、ルシン語という少数
    言語がある。

    【西スラブ語群】(地図の青い部分)
    西スラブ語群に含まれるのは、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語、ドイツ
    国内の少数言語であるソルブ語、またポーランド北部にあるカシュブ語である。
    このうち、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語は、それぞれの国家の公用語、
    並びに、欧州連合の公用語にもなっている。 ソルブ語は、ソルブ人が住むドイツの
    歴史的、地理的な影響を強く受けたため、ザクセン州の上ソルブ語とブランデン
    ブルク州の下ソルブ語に分かれて形成された。 現在、ソルブ語は、この両州では、
    地域的な公用語として学校教育にも取り入れられている。

    カシュブ語は、長くポーランド語の方言とされて来たが、系統的に、また歴史的に
    見て、ポーランド語と非常に近い関係ではあるものの、21世紀に入ってようやく、
    ポーランド国内の地域言語の地位を獲得した。 西スラブ諸語は、文法体系の
    基本こそ共通しているものの、音韻や語形の面で差異が目立ち、共通スラブ語から
    分岐して行く早い課程で、それぞれの言語が独自の特徴を持って形成された
    ことが予想出来る。

    【南スラブ語群】(地図の赤と紫の部分)
    南スラブ語群は、東・西スラブ語群から見て地理的に、ルーマニア、ハンガリー、
    オーストリアという異言語を使っている国家により隔てられ、バルカン半島に
    広く分布している。 南スラブ語群には、ブルガリア語、マケドニア語、
    スロベニア語、そして、ユーゴスラビア時代には、セルビア・クロアチア語と
    呼ばれていたセルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語が含まれる。
    それぞれの言語を文法的な特徴から見ると、ブルガリア語とマケドニア語が、
    「バルカン言語圏」に含まれ、他のスラブ語とは異なる特徴を持っている。
    南スラブ語全体としては、このバルカン言語圏の特徴を持つブルガリア語と
    マケドニガ語の南東グループと、この特徴を持たないセルビア語・クロアチア語、
    並びに、スロベニア語の北西グループに2分される。

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    【文字で見るスラブ語】
    大きく3語群に大別されるスラブ語だが、使われている文字で見ると、2つの
    文化圏に大別することが出来る。 1つは、ラテン文字、いわゆる、ローマ字で、
    もう1つはキリル文字である。 ラテン文字は、地理的に見ると、西半分の
    西スラブ語群と、南スラブ語の北西グループで使用され、キリル文字は東半分の
    東スラブ語群と、南スラブ語群の南東グループで使用されている。 セルビア語と
    モンテネグロ語は、伝統的には、キリル文字を使用しており、セルビアの公用
    文字もキリル文字だが、最近では、日常的にラテン文字が使用されている。 また、
    クロアチアやボスニアでも、歴史的にはキリル文字も使用されており、重要な
    文章は、キリル文字でも残されている。

    スラブ語の文字文化は、キリスト教の受容と発展とは切り離すことが出来ない。
    スラブ語圏の西半分のラテン文字の使用は、西方カトリック教会の影響であり、
    また東半分のキリル文字の使用は、東方正教会を受け入れたため、独自に創られた
    ものである。 これらの文字は、聖書や宗教文書の翻訳を行う際に用いられため、
    ラテン文字は「西方教会」、キリル文字は「東方教会」の象徴となり、それぞれの
    スラブ人たちに受け入れられて行った。

    【キリル文字】
    キリル文字は現在、スラブ語圏以外でも使われており、旧ソ連の諸言語、例えば、
    シベリア東部のエヴュンキ語、や中央アジアのタジク語等でも使用され、モンゴル語
    でも使用されている。 キリル文字の使用範囲が広まったのは、ユーラシア大陸の
    広い範囲に政治的、文化的影響力を及ぼしたロシア、つまり、ロシア語で使用されて
    いる文字であったからである。 ロシア語のキリル文字は、33文字から成っており、
    Ь, Ъは、それぞれ「硬音記号」と「軟音記号」と呼ばれ、子音の硬軟を表すために
    使われるため、現代ロシア語では、これらの文字に音はない。

    【東スラブ語の文字の表記方法】
    ロシア語とベラルーシ語のアルファベットは、殆んど同じだが、ロシア語にはない
    I と ’ を使用している。 また、ウクライナ語とベラルーシ語では、子音を2つ繋げた
    二重音字を比較的多く用いている。 東スラブ語のキリル文字は、それぞれ少しずつ
    異なるが、特に注意すべきは点は、全く同じ文字の発音が異なることがあるところ。
    特に、ウクライナ語のアルファベットには、ロシア語とは異なる文字が4文字が
    あり、逆に、ロシア語のЭは存在しない。

    【南スラブ語の文字の表記方法】
    南スラブ語群のうち、南東地域はキリル文字圏に含まれる。 ブルガリア語は、
    ロシア語の33文字のアルファベットから3文字を除いたもので構成され、順序も
    ロシア語と同じである。 但し、「Ъ」は、文字は同じだが、機能がロシア語とは
    異なる。 ロシア語では音を持たない補助記号であるが、ブルガリア語では、母音を
    表すため、この文字が語頭に出てくる単語も存在する。

    【セルビア語のキリル文字】
    セルビア語のキリル文字は全30文字だが、東スラブ語圏とは若干文字が異なる。
    セルビア語は近年では、ラテン文字でも表記するが、キリル文字による
    アルファベットの基本的な順序はロシア語と概ね同じだが、Ђ, Ј, Љ, Њ. Ћ, Џの
    6文字は、東スラブ語にはない文字であり、逆に、ロシア語にはある、Ё, Й, Щ, Ъ,
    Ы, Ь, Э, Ю, Яの9文字がない。 これは、言語の特徴に合わせて現代的な
    アルファベットが後から作られたためである。

    言語的にはセルビア語と同じ、モンテネグロ語(ツルナゴーラ語)の場合は、
    最も新しく独立宣言を行ったスラブ語であり、2009年、セルビア語の
    アルファベットを元に、これまでのキリル文字にはない文字としてЗ́, Ćの2文字を
    加えたアルファベットが新たに制定された。 これらの文字は、ラテン文字では、
    Dž, Śとそれぞれと表記される。 これまで、長くセルビア語の一方言として
    扱われて来たモンテネグロ語は、セルビアとは多少発音的に異なる部分が
    あったため、こうした発音上の特徴を、国家独立と共に、異なる文字を用いて
    書き表そうとしたのである。 但し、これらの文字の現時点での導入は余り
    進んではいない。

    マケドニア語は、第二次世界大我の終結と共に、マケドニアという独立国家がした
    ことで正式に言語として認められ、正書法も定められている。 マケドニア語
    キリル文字は、セルビア語のキリル文字をモデルとして作られた。

    【キリル文字の発祥】
    スラブ世界で生まれたキリル文字は、スラブ民族と国家形成の歴史、周辺諸国との
    関係に深く結び付いている。 キリル文字は、ギリシャ文字を元にして作られたが、
    キリル文字の考案者は分かってはいない。 恐らく、10世紀末頃のブルガリアが
    発祥の地だろうと考えられており、ブルガリアは、7世紀頃にバルカン半島に
    移動して来た東方チュルク系ブルガール人と、既にこの地に住んでいたスラブ人が
    融合して形成された国である。 8~9世紀には、国家としての基盤が固められ、
    ビザンツ帝国の西側に台頭した。 864年には時の支配者ボリス(在位852~889年)
    がビザンツ教会からキリスト教を受容、後継者シメオン帝(在位893~927年)の
    時代に中世ブルガリア国は最盛期を迎えた。 当初、ブルガリアの文化は、
    ビザンツの文字と言語、つまり、ギリシャ文字とギリシャ語に依拠していたため、
    スラブ人の独自の文字文化は、ギリシャ文字が元として作られ、これによって、
    スラブ人の言葉が表記されるようになったが、これがキリル文字の始まりである。

    スラブ民族は、ヨーロッパ大陸の東、紀元後の数世紀の間に現れ、9世紀~10世紀に
    至る頃には、およそ、現在のスラブ諸国がある辺りに民族国家を形成した。
    この頃、スラブ人の西には、カール大帝のフランク王国の継承国である東フランク
    王国が、南東にはビザンツ帝国があり、また、キリスト教会は東西に分裂の途上に
    あった。 現在チェコ、スロバキアがある一帯には、スラブ人として初の国家で
    あるモラヴイア王国が建国され、9世紀には、そこに西方教会の一大勢力であった
    フランク教会の影響力が及んで来た。 しかし、モラヴイア王は、このフランク
    教会側からの介入を嫌い、860年代に入って間もない頃に、ビザンツ教会に対して、
    スラブ人のためにスラブ語で神の教えを説く「牧師」を派遣して欲しいと依頼した。

    これに応じて、ビザンツ皇帝ミカエル(在位842~867年)は、側近のギリシャ人
    キュリロスとメゲイオスを派遣したと伝えられている。 モラヴイアの地でこの
    兄弟は、ギリシャ語聖書のスラブ語翻訳に着手したが、その活動はフランク教会に
    妨害され、2人の死後、弟子たちは追放された。 追放が始まったのは885年頃で、
    彼らは、その後、ブルガリアに迎え入れられた。

    モラヴイアからやって来たスラブ人たちが使っていた文字は、キリル文字ではなく、
    それよりも古い文字で、キュリロスが考案した「グラゴル文字」と呼ばれる、異なる
    文字であった。 但し、グラゴル文字は、次第に廃れて行き、最終的には、ギリシャ
    文字がスラブ語を表記するための文字として使われるようになったが、グラゴル
    文字を取り入れた文字体系は、いつしか、かつてグラゴル文字を考案した
    キュリロスの名を冠して、「キリル文字」と呼ばれるようになり、東方正教会の
    キリスト教を受け入れた東スラブ世界へと広まって行ったのである。

    【ラテン文字のスラブ語の世界】
    日本では「ローマ字」とも呼ばれているラテン文字は、歴史をたどれば、
    キリル文字と同く、ギリシャ文字から派生した文字体系である。 ラテン文字は、
    その文字の発祥の地であるローマ帝国が領土を広げ、キリスト教がそれぞれの国で
    国教となったことにより、ヨーロッパ大陸全体へと拡大し、欧州言語を表記する
    ための文字としては、最もメジャーな表記文字となった。 しかし、言語が
    異なると、発音も大幅に異るため、1つの文字では表記出来ない発音上の問題が
    発生し、2つ以上の文字を組み合わせたり、補助的な記号を付けて音を区別したり
    するようになった。

    スラブ語を母音文字で分けた場合、ブルガリア語以外の南スラブ語は、基本的に、
    A, E, I, O. Uの5つの母音があるだけであるが、そもそも、スラブ譜は、印欧祖語
    から分かれて形成される過程において、母音体系を単純化し、古い時代には
    あった二重母音を全て単母音化した。 南スラブ語では、この単純化した母音
    体系のままの状態で残ったため、ほとんどの南スラブ語の標準語では、5つの母音
    文字だけで構成されている。

    但し、西スラブ語の状況は少し異なっており、チェコ語、スロバキア語では母音が
    長短の区別を持つようになったため、Áのように、長母音を表す文字があり、Uは
    長母音を表すÚ, Ůの合計3つが存在するが、Ůは、発音上の異なる起源を文字に
    よって表したものである。 ポーランド語では、古代スラブ語から引き継いだ
    鼻母音を表すためのĄ, Ęの文字が必要となった。

    これら特殊文字の発祥の地は15~16世紀頃のチェコであると言われており、
    現代では、南スラブ語でも導入されている。 これらの特殊文字が定着する前の
    スラブ語は、西欧諸語で用いられているCH, CZ等の2重文字を用いていたが、
    チェコで生まれたスラブ民族による活動が他のスラブ語圏に波及するに従って、
    特殊ラテン文字が西スラブ語の中で定着して行った。 スラブ語の中で最も子音
    文字が多いのはポーランド語であるが、チェコ語とは異なった特殊文字が使用
    されており、子音体系が複雑化したポーランド語では、CH, DZ, Dź, SZ, RZ, CZ,
    Dżの2重子音文字が使用されている。 スラブ語は、基本的な語彙の多くが共通
    しているが、ラテン文字とキリル文字に文字表記の体系が大きく分かれている
    ため、全く異なる言語のように見えるが、発音上は、非常に共通点が多い言語群で
    あると言うことが出来る。

    sec02img01

    【グラゴル文字の発明】
    キリル文字という名称は、スラブ人に布教を行った東方正教会の宣教師、キュリロス
    (キリル)とメトディオス(メフォディ)の兄弟の名前に由来している。 彼らは、
    モラヴィア王国のラスチスラフ王が862年に東ローマ帝国にキリスト教の伝道師
    派遣を要請した際に送られたが、その布教活動のため、スラブ語を表記する
    ための文字を発明した。 しかし、彼らが実際に考案した文字は、グラゴル文字と
    呼ばれるキリル文字とは異なる文字であった。 862年から863年頃に考案された
    グラゴル文字は、スラブ語を表記するための初めての文字であり、スラブ語圏に
    おいて広く使用されるようになったが、彼らの布教活動は、ローマ教会の圧力に
    よって失敗に終わり、885年のメトディオスの死後、弾圧された彼らの弟子たちは、
    全員ブルガリア帝国へと移り、ブルガリア皇帝のボリス1世によって庇護され、
    そこで布教活動を続けた。

    Russianalphabet

    【キリル文字の誕生】
    グラゴル文字はスラブ語の特徴を良く捉えたものであったが、いくつかの問題が
    存在した。 形が複雑過ぎて、使い辛かったことに加えて、当時ブルガリアでは、
    既にギリシャ語を使う層が一定数存在しており、ブルガリア語をギリシャ文字で
    表すことが頻繁に行われていた。 弟子たちは、ブルガリアに移った後に、グラゴル
    文字を改良し、900年前後には、よりギリシャ文字に近い形の新しい文字を開発した。
    キリル文字の開発にあたっては、基本的にはギリシア文字を採用し、ギリシア文字
    では表現出来ないものは、グラゴル文字からの借用や新文字によって表現した。
    しかし、彼らは、キュリロスを偲び、新しい文字をキュリロスの文字「キリル文字」
    と呼んだ。 この名称により、後世では、キリルが創作した文字がキリル文字と
    信じられるようになったが、上記のように弟子たちが弾圧を受けたこともあり、
    キリル文字成立期の資料がほとんど残ってはいないため、19世紀前半までは、
    グラゴル文字とキリル文字のどちらが古いかは謎となっていた。 その後、19世紀
    中頃に古い音韻を残したグラゴル文字による資料がいくつか発見され、グラゴル
    文字の方が早く成立したことが明らかとなった。

    キリル文字の使用が始まった時期は明確ではないが、シメオン1世の統治下(在位
    893年~927年)で使用が始まったと考えられている 。 文字の開発当初、キリル
    文字とグラゴル文字はブルガリア国内で併存しており、首都プレスラフを中心とする
    北東部ではキリル文字が、旧首都オフリドを中心とする西部においては、グラゴル
    文字が使用されていた。

    【文字の広まりと変遷】
    教会での典礼用に開発されたキリル文字は、グラゴル文字と同様、東方正教会内で
    普及して行き、徐々にグラゴル文字に取って変わった。 シメオン時代にブルガリア
    統治下にあったセルビアにもキリル文字が広まり、更に、988年にはキエフ大公の
    ウラジーミル1世が正教会を受け入れたため、ロシア全体にもキリル文字が広まる
    こととなった。

    各国に伝わったキリル文字は、その後各地の実情に応じて修正が加えられて行った。
    ロシアにおいては、18世紀初頭にピョートル大帝が文字改革を行い、いくつかの
    文字を廃止し、あるいは、字体がラテン文字に近付けられた。 更に、20世紀に
    入ると再び文字改革が行われることになり、1912年に改正改革案が発表され、
    1917年には、ロシア臨時政府によって旧文字体系から4つの文字が削除された
    現在のロシア文字体系が施行された。 セルビアにおいても19世紀半ばにヴーク・
    カラジッチによって言文一致を目指した改革が行われ、不要な文字の削除とラテン
    文字のJの導入等が行われ、セルビア語のキリル文字によるアルファベットが
    成立した。 1945年にはブルガリアにおいても文字改革が実施された。

    【キリル文字使用言語】
    古くからキリル文字が使われ、現在も使われている言語は、スラブ語群と正教会の
    重なる範囲にほぼ一致し、東スラブ語群のロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、
    南スラブ語群では、ブルガリア語、マケドニア語、セルビア語、モンテネグロ語
    である。 スラブ語群でも、カトリック圏であるポーランド語、チェコ語、
    スロバキア語、スロベニア語、クロアチア語はラテン文字を使用しており、
    イスラム教に属するボスニア語もラテン文字を使う場合が多い。 また、スラブ語
    とは全く関係がないモンゴル語、ジョージア(グルジア)では、南オセチア自治州の
    オセット語(イラン語群)もキリル文字を使用している。

    また、東方正教会に属するスラブ語群以外の言語は、かつてはキリル文字が使用
    されていた言語が多いものの、現代においては使用されていない。 ルーマニアは
    正教会であるため、以前は、キリル文字を使用していたが、18世紀以降、民族主義の
    高まりにより、ラテン文字化運動が広がり、1859年~1860年に掛けて、正式に
    ラテン文字が採用されることとなった。

    その他、正教会に属する言語では、ギリシャ語はギリシャ文字、ジョージア語は
    ジョージア文字、アルメニア語はアルメニア文字となっている。

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    ソルブ語は、ドイツ東部のザクセン州とブランデンブルク州にまたがるラウジッツ
    地方を中心に居住するソルブ人の言語で、ポーランド語やチェコ語に近い言語で
    あるため、ドイツ国内にありながら、西スラヴ語に属している。



    ラウジッツは、ソルブ語では、ウジツァと呼ばれており、ゲルマン系とは異なる
    スラブ系のソルブ人が住んでいるため、『ソルビア』とも言われている。
    ソルブ人は、ドイツ国内に住んでいるため、発音や文法、語用のさまざまな
    側面において、ドイツ語からの言語干渉が見られるが、通常、ソルブ人は、
    ドイツ語も話せるバイリンガルなのに対して、ドイツ人でソルブ語を話せる人は、
    非常に稀なため、この周辺のドイツ語には、影響が出ていない。

    ラウジッツ地域におけるソルブ人の歴史は、紀元後500~600年頃、東方から
    スラヴ系の諸族が移動して来たところまで遡ることが出来るが、西からゲルマン系
    諸族の植民が始まり、次第に各地でドイツ語への同化が進んだ。 19世紀末には、
    ソルブ語話者は、15万人を超えていたとされているが、20世紀になってからは、
    ナチス時代の政治的な迫害や第二次世界大戦後のドイツ人この地域への大量
    流入によって、急速に衰退し、現在のソルブ語話者は、多く見積もっても4万人
    以下、日常的な使用者は1万人に満たないとされている。
     
    Siedlungsgebiet

    ソルブ語は、色々な方言から成っているが、大きく分けて、南部の上ソルブ語と
    北部の下ソルブ語の2つに大別する事が出来る。 現在のブランデンブルク州の
    一部である下ソルブ地域では、一部を除き、既に言語自体が消滅の危機に瀕して
    いるが、ザクセン州の一部となっている上ソルブ地域では、現在でも、ソルブ語が
    日常生活で使われている地域がある。

    Bautzen_Ortsschild

    ルターの宗教改革の発祥の地でもある現在のドイツ東部では、宗教改革後、
    プロテスタントが優勢になったが、一部、カトリック教徒がまとまって残った
    地域があり、その一つが、上ソルブ地域のカトリック地域となっているため、
    地元の教会の強力な支援に支えられて、ソルブの言語とアイデンティティが今日まで
    強く保持されている。

    【お勧めの一冊】


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    ロシア語をはじめとする、スラブ語で『ドイツ人(男)』の事を『nemets
    (ニェーメツ)(nemetskijは男性名詞の単数形容詞長語尾形)』と言うのは、
    ポーランド人だったかチェコ人の祖先のスラブ人が、ドイツ人と初めて遭遇した
    際に、余りにも『寡黙』であったため、言葉が喋れない『おし』だと勘違いして、
    『nemoj(ニモーイ)』と呼んだのが始まり。

    よって、ロシア語では、この言葉は、差別用語になるため、公式には、『ドイツ』の
    形容詞を『germanskij(ゲルマンスキー)』と言わなければならないのだが、皆
    『nemetskij(ニメーツキー)』と言っています。 本当は、『germanets
    (ゲルマーニィエツ)』という単語もあるのだが、誰も使わない。 『ドイツ人
    (女)』の場合は、『nemka(ニェームカ)。

    但し、国名を言う場合は、上記の理由により、ロシア語の場合は、『Germaniya
    (ゲルマーニヤ)』と言います (^-^)b よって、ロシア語の場合は、国名と形容詞と
    人種名がドイツだけ、大幅にズレます。

    40694599284

    ロシア語では、『ドイツ連邦共和国』の事を省略して『フェー・エル・ゲー』と
    言うのだが、最後の『ゲー』が『ゲルマーニヤ』の生格省略形。 ポーランドか
    チェコの場合は、国名も『ニェーミア』ですが、その意味は、『おしの国』w
     
    尚、日本の場合は、国名が『Yaponiya(イポーニヤ)』、人種名が『Yaponets
    (イポーニィェツ)(男)』と『Yaponka(イポーンカ)』ですが、この法則で
    中国人と韓国人もこうなるのかと思いきや、女性のところが、不規則変化になり、
    以下のようになります。

    【中国】
    『Kitaj(キターイ)』、『Kitaets(キターィェツ)(男)』『Kitayanka
    (キタヤーンカ)(女)』

    【韓国/朝鮮】
    『Koreya(カレーヤ)』、『Koreets(カレーィエツ)』、『Koreyanka
    (カレヤーンカ)(女)』。

    ロシア語って難しいですね (^-^)b

    【お勧めの一冊】


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